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新尼御前御返事与東條新尼書

第一巻 定本番号 164 文永12(1275) 分類: 真蹟曽存

祖寿: 54 著作地: 身延 真蹟: 尾張竜谷 長福寺断片 身延山(曽) 

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    164   新尼御前御返事
あまのり(海苔)一ふくろ送給了。又大尼御前よりあまのり畏こまり入て候。此所をば身延の嶺と申。駿河の国は南にあたりたり。彼国の浮島がはらの海ぎはより、此甲斐国波木井の郷身延の嶽へは百余里に及ぶ。余の道千里よりもわづらはし。富士河と申日本第一のはやき河、北より南へ流たり。此河は東西は高山なり。谷深く、左右は大石にして高き屏風を立並べたるがごとくなり。河水は筒中に強兵が矢を射出したるがごとし。此の河の左右の岸をつたい、或は河を渡り、或時は河はやく石多ければ、舟破て微塵となる。かかる所をすぎゆきて、身延の嶺と申大山あり。
東は天子の嶺、南は鷹取の嶺、西は七面の嶺、北は身延の嶺なり。高き屏風を四ついたて(衝立)たるがごとし。峰に上てみれば草木森森たり。谷に下てたづぬれば大石連連たり。大狼の音山に充満し、猴のなき谷にひびき、鹿のつまをこうる音あはれしく、蝉のひびきかまびすし。春の花は夏にさき、秋の菓は冬なる。たまたま見るものはやまかつ(山人)がたき木をひろうすがた、時時とぶらう人は昔なれし同法(朋)也。彼の商山の四晧が世を脱し心ち、竹林の七賢が跡を隠せし山かくやありけむ。峰に上てわかめやを(生)いたると見候へば、さにてはなくしてわらびのみ並立たり。谷に下てあまのりやをいたると尋れば、あやまりてやみるらん、せり(芹)のみしげりふ(茂伏)したり。古郷の事はるかに思わすれて候つるに、今此のあまのりを見候て、よしなき心をもひいでて、う(憂)くつらし。かたうみ(片海)・いちかわ(市河)・こみなと(小湊)の礒のほとりにて昔見しあまのりなり。色形あぢわひもかはらず。など我父母かはらせ給けんと、かたちがへ(方違)なるうらめ(恨)しさ、なみだをさへがたし。
此はさてとどめ候ぬ。但大尼御前の御本尊の御事おほせつかはされておもひわづらひて候。其故は此の御本尊は天竺より漢土へ渡候しあまたの三蔵、漢土より月氏へ入り候し人人の中にもしるしをかせ給わず。西域等の書ども開見候へば、五天竺の諸国寺寺の本尊皆しるし尽て渡す。又漢土より日本に渡る聖人、日域より漢土へ入賢者等のしるされて候寺寺の御本尊、皆かんがへ尽し、日本国最初の寺元興寺・四天王寺等の無量の寺寺の日記、日本紀と申ふみより始て多の日記にのこりなく註して候へば、其寺寺の御本尊又かくれなし。其中に此本尊はあへてましまさず。
人疑云、経論になきか。なければこそそこばくの賢者等は画像にかき奉、木像にもつくりたてまつらざるらめと[云云]。而ども経文は眼前なり。御不審の人人は経文の有無をこそ尋べけれ。前代につくりかかぬを難ぜんとをもうは僻案なり。例せば釈迦仏は悲母孝養のために利天に隠させ給たりしをば、一閻浮提の一切の諸人しる事なし。但目連尊者一人此をしれり。此又仏の御力也と[云云]。仏法は眼前なれども機なければ顕れず。時いたらざればひろまらざる事、法爾の道理也。例せば大海の潮の時に随て増減し、上天の月の上下にみち(盈)かく(虧)るがごとし。
今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給、世に出現せさせ給ても四十余年、其後又法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し、神力品属累に事極て候しが、金色世界の文殊師利、兜史多天宮の弥勒菩薩、補陀落山の観世音、日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士、我も我もと望み給しかども叶はず。是等は智慧いみじく、才学ある人人とはひびけども、いまだ日あさし、学も始たり、末代の大難忍びがたかるべし。我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり。此にゆづるべしとて、上行菩薩等を涌出品に召出させ給て、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給て、あなかしこあなかしこ、我滅度の後正法一千年、像法一千年に弘通すべからず。末法の始に謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難並をこり、一閻浮提の人人各各甲胄をきて弓杖を手ににぎらむ時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及せ給ざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕こと、雨のごとくしげからん時、此五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん。乃至後生の大火炎を脱べしと仏記しをかせ給ぬ。
而に日蓮上行菩薩にはあらねども、ほぼ兼てこれをしれるは、彼の菩薩の御計かと存て、此二十余年が間此を申。此法門弘通せんには如来現在猶多怨嫉況滅度後一切世間多怨難信と申て、第一のかたきは国主並郡郷等地頭領家万民等也。此又第二第三の僧侶がうつたへについて、行者を或悪口し、或罵詈し、或刀杖等[云云]。
而を安房国東條郷辺国なれども日本国の中心のごとし。其故は天照太神跡を垂れ給へり。昔は伊勢国に跡を垂させ給てこそありしかども、国王は八幡加茂等を御帰依深ありて、天照太神の御帰依浅かりしかば、太神瞋おぼせし時、源右将軍と申せし人、御起請文をもつてあをか(会加)の小大夫に仰つけて頂戴し、伊勢の外宮にしのびをさめしかば、太神の御心に叶はせ給けるかの故に、日本を手ににぎる将軍となり給ぬ。此人東條郡を天照太神の御栖と定めさせ給。されば此太神は伊勢の国にはをはしまさず、安房国東條の郡にすませ給か。例ば八幡大菩薩は昔は西府にをはせしかども、中比は山城国男山に移り給、今は相州鎌倉鶴が岡に栖給。これもかくのごとし。
日蓮一閻浮提の内、日本国安房国東條郡に始て此の正法を弘通し始たり。随て地頭敵となる。彼者すでに半分ほろびて今半分あり。領家はいつわりをろかにて或時は信じ、或時はやぶる不定なりしが、日蓮御勘気を蒙し時すでに法華経をすて給き。日蓮先よりけさんのついでごとに難信難解と申せしはこれなり。日蓮が重恩の人なれば扶たてまつらんために、此の御本尊をわたし奉ならば、十羅刹定て偏頗の法師とをぼしめされなん。又経文のごとく不信の人にわたしまいらせずば、日蓮偏頗はなけれども、尼御前我身のとがをばしらせ給はずしてうらみさせ給はんずらん。此由をば委細に助阿闍梨の文にかきて候ぞ。召て尼御前の見参に入させ給べく候。
御事にをいては御一味なるやうなれども、御信心は色あらわれて候。さどの国と申、此国と申、度度の御志ありて、たゆむけしきはみへさせ給はねば、御本尊はわたしまいらせて候なり。それも終にはいかんがとをそれ思事、薄氷をふみ、太刀に向がごとし。くはしくは又又申べく候。それのみならず、かまくらにも御勘気の時、千が九百九十九人は堕候人人も、いまは世間やわら(和)ぎ候かのゆへに、くゆる人人も候と申に候へども、此はそれには似るべくもなく、いかにもふびんには思まいらせ候へども、骨に肉をばか(替)へぬ事にて候へば、法華経に相違せさせ給候はん事を叶まじき由、いつまでも申候べく候。恐恐謹言。   二月十六日   日蓮[花押]  新尼御前御返事