妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

妙一尼御前御消息

全集 第7巻 2段 定本: #20180(定本の該当ページへ)

書下し

妙一尼御前御消息みよういちあまごぜんごしようそく


[1]<先>妙一尼御前御返事
[2]それ天に月なく日なくば、草木いかでか生ずべき。人に父母あり、一人もかけば子息こども等そだちがたし。その上、過去の聖霊*しようりようは或は病子あり。或は女子あり。とどめをく母もかいがいしからず。だれにいゐあつけてか、冥途にをもむき給ひけん。
[3]大覚世尊、御涅槃の時なげいてのたまわく、「我涅槃すべし。ただ心にかかる事は阿闍世王*あじやせおうのみ。」葉童子菩かしようどうじぼさつ、仏に申さく、「仏は平等の慈悲なり。一切衆生のためにいのちを惜しみ給ふべし。いかにかきわけて、阿闍世王一人とをほせあるやらん」と問いまいらせしかば、その御返事に云はく、「〔譬えば一人にして七子有り、この七子の中に一子病に遇へり。父母の心平等ならざるにはあらず、しかれども病子においては心すなはちひとえに多きがごとし〕」等云云。台、訶止観にこの経文を釈して云はく「〔譬えば七子、父母平等ならざるにあらず、しかれども病者においては、心すなはちひとへに重し〕」等云云とこそ仏は答へさせ給ひしか。文の心は、『人にはあまたの子あれども、父母の心は病する子にあり』」となり。
[4]仏の御ためには一切衆生は皆子なり。その中罪ふかくして世間の父母をころし、仏経のかたきとなる者は病子のごとし。しかるに「阿闍世王は摩竭提国*まかだこくの主なり。我大檀那たりし婆舎羅王*びんばしやらおうをころし、我がてきとなりしかば、天もすてて日月にへんいで、地もいただかじとふるひ、万民みな仏法にそむき、他国より摩竭提国をせむ。これ等はひとへに悪人提婆達多*だいばだつたを師とせるゆへなり。結局は今日より悪瘡身に出て、三月の七日無間地獄に堕つべし。これがかなしければ、我涅槃せんこと心にかかる」というなり。「我阿闍世生をすくひなば、一切の罪人阿闍世王のごとし」となげかせ給ひき。
[5]しかるに聖霊は或は病子あり。或は女子あり。「われすてて冥途にゆきなば、かれたる朽木のやうなるとしより尼が一人とどまりて、この子どもをいかに心ぐるしかるらん」となげかれぬらんとおぼゆ。
[6]かの心のかたがたには、また日蓮が事、心にかからせ給ひけん。仏語むなしからざれば、法華経ひろまらせ給ふべし。それについては、この御房は「いかなる事もありて、いみじくならせ給ふべし」と、おぼしつらんに、いうかいなくながし失せしかば、「いかにやいかにや法華経・十羅刹*じゆうらせつは」とこそをもはれけんに、いままでだにも、ながらえ給ひたりしかば、日蓮がゆりて候ひし時、いかに悦ばせ給はん。またいゐし事むなしからずして、大蒙古国もよせて、国土もあやをしげになりて候へば、いかに悦び給はん。これは凡夫の心なり。
[7]法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかず、みず、冬の秋とかへれる事を。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となる事を。経文には、「〔もし法を聞く者有れば、一として成仏せざるは無し〕」ととかれて候ふ。
[8]故聖霊は法華経に命をすててをはしき。わづかの身命をささえしところを、法華経のゆへにめされしは命をすつるにあらずや。かの雪山童子*せつせんどうじ半偈はんげのために身をすて、王菩の臂をやき給ひしは、彼は聖人なり、火に水を入るるがごとし。これは凡夫なり、紙を火に入るるがごとし。
[9]これをもつて案ずるに、聖霊はこの功徳あり。大月輪の中か、大日輪の中か、天鏡をもつて妻子の身を浮かべて、十二時に御らんあるらん。たとひ妻子は凡夫なればこれをみずきかず。譬へば耳しゐたる者の雷の声をきかず、目つぶれたる者の日輪を見ざるがごとし。御疑ひあるべからず。定めて御まほりとならせ給ふらん。その上さこそ御わたりあるらめ。
[10]力あらばとひまいらせんとをもうところに、ころもは一つぶでう、存外の次第なり。法華経はいみじき御経にてをはすれば、もし今生にいきある身ともなり候ひなば、あまごぜんの生きてもをわしませ、もしは草のかげにても御らんあれ。をさなききんだち(達)等をば、かへりみたてまつるべし。
[11]さどの国と申し、これと申し、下人一人つけられて候ふは、いつの世にかわすれ候ふべき。この恩はかへりてつかへ(仕)たてまつり候ふべし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。恐恐謹言。
[12]<日>五月  日
[13]<人>日 蓮<花押>花押
[14]<先>妙一尼御前
現代語訳

妙一尼御前御消息


建治元年(一二七五)五月、五四歳、於身延、和文、定九九九—一〇〇二頁。

[1]<先>妙一尼御前御返事
[2]およそ、天に月がなく日がなかったならば、草木はどうして生長できるでしょうか、生長することができません。そのように、人には父と母とがいますが、その一人でも欠けると子どもは育ちにくいものです。ただでさえそうであるのに、亡きご夫君には、病の男児もいれば女児もあり、おまけに、年老いて残る母も壮健ではないのですから、それらの心配の種を誰に托して冥途へ旅立ちなされたことでしょうか。
[3]大覚世尊はご入滅の時にきながら「私は息を引き取るであろう。それにつけても心にかかるのは阿闍世王のことだけだ」とおっしゃいました。それを聞いた葉童子菩が「仏の慈悲は平等であるはずです。生きとし生けるもののために全生命をかけてくださらなければ困ります。なぜ取り分けて阿闍世王一人だけが気がかりだとおっしゃるのでしょうか」とご質問申し上げると、仏は「『たとえば一人の親に七人の子がいる。この七人の子の中の一やまいが病になった。父母の心は平等でないわけではない。しかし、病の子に対しては、心が一番多くそそがれる』と経文にある通りなのだよ」とご返事なさいました。天台大師は摩訶止観の中で、仏のお言葉を解釈して「『たとえば七人の子がいたとする。父母が子を愛する心は平等でないわけではない。しかし、病気の子に対しては、とりわけ多くの心配こころくばりをするものだ』と仏はお答えになりましたが、この経文の内容は、『人にはたくさんの子がいても、父母の心は病をわずらっている子に特にそそがれる』というのです」といっています。
[4]仏にとって、生きとし生けるものは、みんな子どもです。その多くの子どもの中の、罪の深い性質に生まれついて、父母を殺したり仏経の敵となったりする者は、病の子に類するものです。ところで臨終を前にして仏がおきになったのは、「阿闍世王は摩竭提国の主である。私の有力な後援者であった婆娑羅王を殺し、私の敵となったので、日月に異変が起こり、地神も怒って震動し、人民はみな仏法に背き、外国が摩竭提国を攻めようとしている。こんなことになるのは、ひとえに悪人である提婆達多を師と仰いでいるからなのだ。結局のところ王は、悪瘡が体に出て、三月七日には無間地獄に落ちるであろう。それが悲しいので私は入滅することが心にかかるのだ」ということなのです。そして、「私が阿闍世王を救ってしまえば、すべての罪人たちが阿闍世王と同じように救われることになるのだと、しみじみとおっしゃったのでした。
[5]ところで亡きご夫君は、病気の男児がいますし、また女児もいます。「その子たちを残して冥途へ行ったならば、枯れた木のように衰えている母の老尼が、一人ぼっちになって、この子供たちのことをどれほど心配することだろうか」とおきではないかと思われます。
[6]また、亡きご夫君は、心の一方では、私のことが気になっていらっしゃったと思います。仏のお言葉にはがないので、法華経は必ずお弘まりになるでしょう。それにつけても、亡きご夫君は「日蓮が迫害されているような事態も好転して、法華経が隆盛になられるであろう」と思っていらっしゃったでしょうに、なかなかそうはいかず、幕府が理不尽にも私を配流したので、その時点では「これはどうしたことか。法華経よ。十羅刹女らせつによの守護はないのか」と私も思ったものですが、結局はこうして健在でいられる身になったのですから、もしご夫君が今まで生き長らえていらっしゃったならば、私が佐渡流罪をゆるされた時に、どれほどお喜びくださったことでしょう。また、私が前々から警告を発していたことが的中して、大蒙古国からの攻勢もあって、日本国の安否が気づかわれるようになっていますので、この件もどれほどお喜びか知れません。もう帰らない人に対してこのような繰り言をいうのは凡夫の浅はかさですね。
[7]今法華経を信じている人は寒い冬のようなものです。冬は必ず花の咲く春になります。まだ昔から聞いたことも見たことがないでしょう、冬が秋に逆戻りしたなどということを。そのように、まだ聞いたことがありませんよ、法華経を信奉する人が成仏をしないで凡夫のままでいるということを。だから法華経の方便品には「もし、法華経を聞くことがあろう者は、一人として成仏しないことがない」と説かれているのです。
[8]亡きご夫君は、法華経のために命をお捨てになりました。細々と命を支えるだけの所領を、法華経のために召し上げられたのですから、法華経に殉死したことになりましょう。経典の中には、あの涅槃経の雪山童子が「諸行は無常である。これは生じたり滅したりする万象の法則なのだ」という半偈を教わり、後の半偈を知るために鬼神の前に身を投げたり、法華経の薬王菩が、過去の世で千二百年もの長いあいだ自分の身を燃やして仏と法華経に供養したということが見えますが、それは聖人の話であって、火に水をかければたきぎが燃えなくなるように命は後まで残りました。しかし、ご夫君の場合は凡夫ですから、火に紙を入れると燃え尽きるように命が失せてしまいました。
[9]あれこれと考え合わせてみると、亡きご夫君はたいへん大きな功徳を積んでいらっしゃいます。だから今は、大月輪の中か、大日輪の中かにいらっしゃって、何でも明らかに映す天の鏡にあなたがた親子の身を浮き出させて、二十四時間中お守りなさっていることでしょう。たとえあなたがたは、凡夫の常としてご夫君を見ることも聞くこともできなくても、それはたとえば、耳の不自由な人が雷の大音響を聞かず、目の不自由な人が太陽の輝きを見ないようなものです。お疑いになってはいけません。ご夫君は必ずや守護神におなりのことでしょう。いやそればかりでなく、いずれあなたがたの所をご訪問くださると思いますよ。
[10]私も、体力が許すものならばそちらへお尋ねしようと思っていたところなのですが、かえって衣を一着お送りいただきましたこと、思いがけずありがたいことです。法華経はことさらにすぐれたお経ですから、そのご利益りやくによって、この世に生き長らえる身となりましたら、あなたがご健在であっても、あるいは万一のことがおありになったとしても、どうぞご覧になってください。幼いお子さまたちのお世話は必ずいたしますから。
[11]佐渡の国といい、ここ身延といい、召使いを一人遣わしてくださったことは、いつの世にも忘れられないほどありがたく思っています。このご恩は、生まれ変わってからお返しいたしましょう。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。恐恐謹言。
[12]<日>五月  日
[13]<人>日 蓮 <花押>花押
[14]<先>妙一尼御前