妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

西山殿後家尼御前御返事

全集 第7巻 2段 定本: #20422(定本の該当ページへ)

書下し

西山殿後家尼御前御返事にしやまどのごけあまごぜんごへんじ


[1]あまざけ一をけ、やまのいも、ころ(野老)せうせうび了んぬ。
[2]梵網経*ぼんもうきようと申す経には「一紙一草」と申して、かみ一枚、くさひとつ。大論*だいろんと申すろん(論)には「つちのもちゐ(土)を仏にくやうせるもの、閻浮提*えんぶだいの王となる」よしをとかれて候ふ。これはそれにはにるべくもなし。
[3]そのうへをとこ(夫)にもすぎわかれ、たのむかたもなきあま(尼)の、するが(駿河)の国西山と申すところより、甲斐の国はきゐ(波木井)の山の中にをくられたり。「人にすてられたるひじり(聖)の寒にせめられて、いかに心ぐるしかるらん」と、をもひやらせ給ひてをくられたるか。父母にをくれしよりこのかた、かかるねんごろの事にあひて候ふ事こそ候はね。せめての御心ざしにび候ふかとおぼえてなみだもかきあへ候はぬぞ。
[4]日蓮はわるき者にて候へども、法華経はいかでかおろかにおはすべき。ふくろはくさけれどもつつめるこがねはきよし。池はきたなけれどもはちすはしやうじやう(清浄)なり。日蓮は日本第一のえせ(僻)ものなり。法華経は一切経にすぐれ給へる経なり。心あらん人金をとらんとおぼさば、ふくろをすつる事なかれ。はちすをあい(愛)せば池をにくむ事なかれ。わるくて仏になりたらば、法華経の力あらはるべし。よつて臨終わるくば法華経の名をりなん。さるにては日蓮はわるくてもわるかるべし、わるかるべし。恐恐謹言。
[5]<日>月  日
[6]<先>御返事
現代語訳

西山殿後家尼御前御返事


弘安四年(一二八一)六〇歳、於身延、和文、定一九〇二—一九〇三頁。

[1]甘酒一桶、山の芋と野老(とろろいも)少々を添えて頂戴いたしました。お礼申し上げます。
[2]梵網経という経典には「一紙一草」とあって、紙の一枚でも、草の一本でも仏に供養する功徳は大きいとされています。竜樹の大智度論という論書には、「むかし土のを仏に供養した者が、この世に生まれて世界を統治する阿育王となった」ということが説かれています。ところが、このたびのいただきものは、一紙一草や土のとは比べものにならないほど貴重なものですから、その功徳の大きさは計り知れないものがあります。
[3]ただでさえ、ご夫君に死に別れてよるべもなく尼となったあなたが、駿河の国の西山というところから、遠く離れた甲斐の国の波木井郷の山奥にまでご供養の品をお送りくださったのですから、これは並たいていのことではありません。「世の人に捨てられた修行者が、寒気に攻められてどんなに辛いことだろうか」とお思いやりいただいてお送りくださったのでしょうか。私は父母に死別して以来、これほど懇切な扱いを受けたことはありません。特別なご厚意によってご供養にあずかったことよと思われて、涙がぬぐいきれないほどこみ上げてきます。
[4]私は劣悪な者ですが、そういう私が信奉するお経だからといって、法華経がどうして疎略なものでおありになるはずがありましょうか。たとえば袋は臭くてもそれに包んである黄金は美しいし、池は汚なくてもそこに咲いている蓮華は清らかであるように、本体とそれを支えているものとの価値は無関係です。そのように、私は日本で一番つまらない者ですが、私が信奉する法華経は、私の価値とは無関係に一切経の中で最高の教えなのです。良識のある人は、黄金を手に入れようと思ったら、包みの袋が臭いからといって捨ててはいけません。蓮華を愛好するならば、生えている池が汚ないからといってってはいけません。私がろくなものではないのに、一転して仏になったならば、それこそ法華経の偉大な力が証明されることになります。したがって、人が成仏したかしないかを判断するための手がかりとなる臨終の姿が良くないと、法華経の名に傷をつけることになるでしょう。もし臨終の行儀が乱れたならば、私は、世の人々から悪者扱いをされるだけではなくて、法華経の名を傷つける大悪人になってしまいます。恐々謹言。
[5]<日>月  日
[6]<先>御返事