窪尼御前御返事
書下し
窪尼御前御返事
[1]しなじなのものをくり給ひて候ふ。
[2]善根と申すは大なるによらず、またちいさきにもよらず、国により、人により、時により、やうやうにかわりて候ふ。
[3]譬へばくそ(糞)をほしてつきくだき、ふるいて、せんだん(栴檀)の木につくり、また、女人・天女・仏につくりまいらせて候へども、火をつけてやき候へばべちの香なし、くそくさし。そのように、ものをころし、ぬすみをして、そのはつを(初穂)をとりて、功徳善根をして候へども、かへりて悪となる。
[4]須達長者と申せし人は月氏第一の長者、ぎをん(祇園)精舎をつくりて、仏を入れまいらせたりしかども、かの寺焼けてあとなし。この長者、もといを(魚)をころしてあきな(商)へて長者となりしゆへに、この寺つゐにうせにき。
[5]今の人々の善根もまたかくのごとく、大なるやうなれども、あるひはいくさをして所領を給び、或はゆへなく民をわづらはして、たから(財)をまうけて善根をなす。これ等は大なる仏事とみゆれども、仏にもならざる上、その人々あともなくなる事なり。
[6]また、人をもわづらはさず、我心もなをしく、我とはげみて善根をして候ふも、仏にならぬ事もあり。いはく、よきたねをあしき田にうえぬれば、たねだにもなき上、かへりて損となる。まことの心なれども、供養せらるる人だにもあしければ功徳とならず。かへりて悪道におつる事候ふ。
[7]これは日蓮を御くやうは候はず、法華経の御くやうなれば、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏にこの功徳はまかせまいらせ候ふ。
[8]そもそも今年の事は申しふりて候ふ上、当時はとし(歳)のさむき事、生まれて以来いまだおぼへ候はず。ゆきなんどのふりつもりて候ふ事おびただし。心ざしある人もとぶらひがたし。御をとづれをぼろげの御心ざしにあらざるか。恐恐謹言。
[9]<日>十二月二十七日日>
[10]<人>日 蓮<花押>花押花押>人>
[11]<先>くぼの尼御前御返事先>
現代語訳
窪尼御前御返事
弘安四年(一二八一)一二月二七日、六〇歳、於身延、和文、定一八九九—一九〇〇頁。
[1]ご供養の品々をお送り戴きました。お礼申し上げます。
[2]善根というのは、大きいからよいとか、小さいから悪いとか、一概に決められるものではなくて、国により、人により、時により、さまざまに変化するものです。
[3]たとえば、糞を干し固めてから粉砕し、篩にかけて精製した木を栴檀と称し、その木で女人・天女・仏などの御像を彫刻したとしても、火をつけて焼いてみれば、別に香木の匂いがするわけではなく糞臭いだけでしょう。そのように、生きものを殺したり盗みをしたりして得た金品を奉納して、功徳善根を積んだつもりになっても、それはかえって悪業となります。
[4]昔の須達長者という人は、インド第一の富豪で、祇園精舎を造って釈尊をお招きしたのですが、その寺は焼失して跡形もありません。というのは、この長者は、魚を殺す商売で財産家になったものですので、その報いによって寺は滅失してしまったのです。
[5]今の人々が施している善根功徳も右のようなもので、ちょっと見たところでは立派なようであっても、その財源を尋ねてみれば、あるいは戦争で手柄をたてて領地をもらったり、あるいは理由もなく人民を苦しめて蓄えたりしたもので、それによって善根功徳を施しているのです。これらは偉大な仏教の布施行をしているように見えますが、根元が不浄なのですから、本人が成仏しないばかりか、その人々の子孫も絶えてしまうような事になるのです。
[6]また、他人に迷惑をかける事もなく、自分の心も正直で、みずから精進を積んで善根功徳を施しても、成仏しないことがあります。たとえば、良い種を悪い田に植えてしまったら、種が無駄になるばかりでなく、大きな損害を受けるでしょう。そのように、供養をする相手がそれにふさわしくない人であったならば、いくら供養しても自分の功徳とはなりません。かえって悪道に落ちることになるのです。
[7]ところで、あなたは、至らない私を供養していらっしゃるのではありません。あなたのご供養は法華経に対するものなのですから、その功徳は、釈迦牟尼仏や、多宝如来や、その他十方の諸仏がお取り計らいくださいます。そちらにお任せ申し上げればよいのです。
[8]そもそも今年は体調が思わしくないこと、しばしば申し上げた通りですが、おまけにこの冬の寒さは、生まれてからいまだ経験したことがないほどの厳しさです。雪の積もり方も尋常ではありません。いくら私のことを案じてくださる方でも訪れにくいような状況です。それなのに、ご音信をくださったあなたのお志は、並大抵のものではないと感動しています。恐々謹言。
[9]<日>十二月二十七日日>
[10]<人>日 蓮 <花押>花押花押>人>
[11]<先>窪の尼御前御返事先>