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上野殿後家尼御前御書

全集 第7巻 2段 定本: #20379(定本の該当ページへ)

書下し

上野殿後家尼御前御書うえのどのごけあまごぜんごしよ


[1]南條七郎五郎殿の御死去の御事。
[2]人は生まれて死するならいとは、智者も愚者も上下一同に知りて候へば、始めてなげくべしをどろくべしとわをぼへぬよし、我も存じ、人にもをしへ候へども、時にあたりてゆめかまぼろしか、いまだわきまへがたく候ふ。
[3]まして母のいかんがなげかれ候ふらむ。父母にも兄弟にもをくれはてて、いとをしきをとこ(夫)にすぎわかれたりしかども、子どもあまたをはしませば、心なぐさみてこそをはし候ふらむ。いとをしきてこご(子)、しかもをのこご、みめかたちも人にすぐれ、心もかいがいしくみへしかば、よその人々もすずしくこそみ候ひしに、あやなくつぼめる花の風にしぼみ、満月のにわかに失せたるがごとくこそをぼすらめ。
[4]まことともをぼへ候はねば、かきつくるそらもをぼへ候はず。またまた申すべし。恐恐謹言。
[5]<日>九月六日
[6]<人>日 蓮<花押>花押
[7]<先>上野殿御返事
[8]追伸 この六月十五日に見奉り候ひしに、あはれ肝ある者かな、男なり男なりと見候ひしに、また見候はざらん事こそかなしくは候へ。さは候へども釈仏・法華経に身を入れて候ひしかば臨終目出たく候ひけり。心は父君と一所に霊山浄土*りようぜんじようどに参りて、手をとり頭を合わせてこそ悦ばれ候ふらめ。あはれなり、あはれなり。
現代語訳

上野殿後家尼御前御書


弘安三年(一二八〇)九月六日、五九歳、於身延、和文、定一七九三—一七九四頁。

[1]南条七郎五郎殿がお亡くなりになられたということを伺いました。
[2]人は生まれて死ぬものだということは、智者であろうと愚者であろうと、身分の高い低いにかかわらず知っていますから、人が死んだからといって、その時にはじめてくとか驚くとかするには及ばないものだということは、自分も承知しているし、人にも教訓していますが、さて実際に、ご子息のご去に直面してみると、夢ではないか、幻ではないかと、気がてんどうしてしまって分別を失っています。
[3]この私でさえそのような心情なのですから、ましてお母さまのおきはどれほど深いことかとお察しいたします。あなたは、父母にも兄弟にもみな死に別れた上、いとしいご夫君をもおくしになりましたが、子どもがたくさんいらっしゃるので、それを心の慰めとしていらっしゃったことでしょう。ところがこのたび、可愛いお子さん、しかも男の子、容貌も人並みはずれて良く、心も頼りがいがあるように思われたので、周囲の人たち誰もが末の楽しみなことだと見ていましたほどの、そんなすばらしいご子息をお亡くしになって、まだ開きたての花が風に吹かれて無情にもしおれてしまったような、あるいは明るい満月が突然雲にかくれてしまったような、やりきれないお気持ちでいらっしゃることでしょう。
[4]まだ本当のこととは思えませんので、そのことについて何かを申し上げる気持ちがおこりません。いずれ心の整理がついてからお便りします。恐々謹言。
[5]<日>九月六日
[6]<人>日 蓮 <花押>花押
[7]<先>上野殿御返事
[8]追伸 今年の六月十五日に、ご子息とお会いしました折、ああ気力にあふれた子だな、男らしい、立派なものだ、と拝見しましたが、そのまま二度とお目にかかることができなくなってしまったことを悲しく思います。そうは申しましても、釈仏・法華経を信仰していらっしゃったので、最期が安らかだったそうですね。霊魂はお父上のいらっしゃる霊山浄土においでになって、手を取り、顔を寄せ合ってお喜びなさることでしょう。その場面を想像すると、しみじみとした感動が心の底から湧いてきます。