妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

上野殿御返事

全集 第7巻 2段 定本: #20394(定本の該当ページへ)

書下し

上野殿御返事うえのどのごへんじ


[1]鵞目*がもく一貫文送り給ひ了んぬ。
[2]御心ざしの候へば申し候ふぞ。よく(欲)ふかき御房とおぼしめす事なかれ。
[3]仏にやすやすとなる事の候ふぞ。をしへまいらせ候はん。人のものををしふると申すは、車のおも(重)けれども油をぬればまわり、ふね(船)を水にうかべてゆきやすきやうにをしへ候ふなり。仏になりやすき事は別のやう候はず。旱魃かんばつにかわ(渇)けるものに水をあたへ、寒氷にこご(凍)へたるものに火をあたふるがごとし。また、二つなき物を人にあたへ、命のたゆるに人のせ(施)にあふがごとし。
[4]金色王*こんじきおうと申せし王はその国に十二年の大旱魃あて、万民飢え死ぬ事かずをしらず。河には死人をはし(橋)とし、くがにはがいこつ(骸骨)をつか()とせり。その時、金色大王、大菩提心ををこしておほきにをほどこし給ひき。せすべき物みなつきて、くらの中にただ米五升ばかりのこれり。「大王の一日の御くご(供御)なり」と、臣下申せしかば、大王五升の米をとり出だして、一切の飢えたるものに、或は一りう(粒)二りう、或は三りう四りうなんど、あまねくあたへさせ給ひてのち、天に向かはせ給ひて、「われは一切衆生のけかちの苦にかはりてうえじに候ふぞ」とこえをあげてよばはらせ給ひしかば、天きこしめして甘露の雨を須臾にふらし給ひき。この雨を手にふれ、かを(顔)にかかりし人、皆食にあきみちて、一国の万民、せちな(刹那)のほどに命よみがへりて候ひけり。
[5]月氏国に(須)達長者だつちようじやと申せし者は、七度になり、七度長者となりて候ひしが、最後のの時は万民皆に(逃)げうせ、死にをはりて、ただめおとこ(夫婦)二人いて候ひし時、五升の米あり。五日のかつて(糧)とあて候ひし時、*かしよう舎利仏*しやりほつ(弗)・阿難*あなん*らごら・釈仏の五人、次第に入らせ給ひて、五升の米こひとらせ給ひき。その日より天竺第一の長者となりて、園精舎ぎおんしようじやをばつくりて候ふぞ。
[6]これをもてよろづを心へ(得)させ給へ。貴辺はすでに法華経の行者に似させ給へる事、さる()の人に似、もちゐ()の月に似たるがごとし。つはら(熱原)のものどものかくをしませ給へる事は、承平の将門まさかど、天喜の貞任さだとうのやうに、この国のものどもはおもひて候ふぞ。これひとへに法華経に命をすつるゆへなり、またく主君にそむく人とは、天御覧あらじ。その上わづかの小郷にをほくのくじせめにあてられて、わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかくべききぬなし。かかる身なれども、法華経の行者の山中の雪にせめられ、食ともしかるらんとおもひやらせ給ひて、ぜに一貫をく(送)らせ給へるは、女がめおとこ二人して一つのきぬをきたりしを乞食にあたへ、だ(利咤)が合子ごうしの中なりしひえ()を辟支仏*びやくしぶつにあたへたりしがごとし。たうとし、たうとし。くはしくはまたまた申すべし。恐恐謹言。
[7]<日>十二月二十七日
[8]<人>日 蓮<花押>花押
[9]<先>上野殿御返事
現代語訳

上野殿御返事


弘安三年(一二八〇)一二月二七日、五九歳、於身延、和文、定一八二八—一八三〇頁。

[1]銭一貫文をお送りいただきました。御礼申し上げます。
[2]貴殿はお志の厚い方なので申し上げる次第です。欲の深い法師とお思いにならないでください。
[3]仏にやすやすとなる方法があります。お教えいたしましょう。人がものを教えるというのは、車が重くて動かない時には油をぬれば回転することを教え、水の彼方へ渡る時には船を浮かべれば容易に行けることを教えるといった具合の、具体的で明瞭な指導のことをいうのです。ですから、その趣旨に添ってずばりというならば、仏に簡単になる方法というのは別にむずかしいことではありません。それは、旱魃かんばつの時に喉の渇いた人に水を与え、寒くて凍えそうな人に火を与えるといった、究極の布施をすることです。いいかえるならば、二つとない大切なものを人に施すことであり、逆からいえば、絶命寸前の人が布施を受けて一命をとりとめるという、そのようなかけがえのないものを施すことなのです。
[4]昔、インドの金色王といった王は、その国が十二年も続く大旱魃に見舞われて、人民の飢え死ぬ者は数えきれないほどになりました。河は死人で橋をかけたように埋まり、陸には骸骨が積まれて小高いができたほどです。その時、金色大王は大菩提心を起こして大いに布施をなさいました。施すものが尽きてしまって、蔵の中にはただ五升の米が残りました。臣下の者が「これは大王の一日のお食事でございます」と申し上げたところ、大王はその五升の米を蔵から取り出し、すべての飢えた人民に、あるいは一粒二粒ずつ、あるいは三粒四粒ずつといった具合に全部配らせたのち、天にお向かいになって「朕は、全人民の飢餓の苦しみをかわりに受けて、飢え死にいたします」と大声で宣言なさいました。そうしたら、天がそれをお聞きになり、たちまちに甘露の雨をお降らしになりました。この雨を手に受けた人も、それが顔にかかった者も、みな食物で腹が一杯となり、その国の全人民が一瞬のうちに活力をとりもどしたのでした。
[5]また同じくインドの須達しゆだつ長者といった長者は、七度乏をし、七度裕福になった人ですが、最後の乏時代には家人も召使いもみな逃げ失せたり死に果てたりして、ただ夫婦二人だけになってしまったのですが、その時に五升の米がありました。須達長者が一日に一升ずつ、五日間の食糧にあてようと思った折しも、葉・舎利弗・阿難・羅羅・釈仏の五人の聖者が次々と入っておいでになったので、長者は乞われるままに五升の米を全部さしあげてしまいました。ところがその日から長者のもとには財宝が集まるようになり、ついにインド第一の富豪となって、仏のために園精舎を造立したのです。
[6]これらの故事によって、しっかりと心がまえを固めてください。貴殿がすでに法華経の行者と呼ばれる一歩手前のところまで信仰生活を深めていらっしゃることは、猿が人とそっくりであったり、が満月のようであったりするくらいに近い関係です。熱原の者たちが権力に抵抗して信仰を貫こうとなさったのを見て、この国の人々は、むほんを起こした承平時代の平将門や、天喜時代の阿倍貞任のように思っています。しかし、こちらは、一途いちずに法華経に命を捧げようとするためのことです。天は決して、将門や貞任のような、主君に背く人の行為と同じようにはご覧にならないでしょう。世間の風当たりが強い上、貴殿は主君にも憎まれて、わずかな領地しかないのに多くの公的出費を負担させられ、自分は乗る馬もなく、妻子は着るものもないというしい状態です。そのような境遇であるのに、法華経の行者日蓮が深山の雪にとざされて食物に不自由していることだろうとご推測なさり、銭一貫をお送りくださいましたことは、しい夫婦が二人でかけていた一枚の衣を乞食修行をしているものに与えたような、また利が食器の中のわずかなを辟支仏に与えたような、究極の布施です。本当に尊いことです。くわしいことはまた申し上げましょう。恐々謹言。
[7]<日>十二月二十七日
[8]<人>日 蓮 <花押>花押
[9]<先>上野殿御返事