妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

南條殿御返事

全集 第7巻 2段 定本: #20215(定本の該当ページへ)

書下し

南條殿御返事なんじようどのごへんじ


[1]かたびら一、しを(塩)いちだ、あぶら五そう(升)給ひ候ひ了んぬ。
[2]ころもはかん(寒)をふせぎ、またねつをふせぐ。み(身)をかくし、みをかざる。法華経の第七やくわうぼんに云はく、「〔裸なる者の衣を得たるがごとし〕」等云云。心ははだかなるもののころもをえたるがごとし。もんの心はうれしき事をとかれて候ふ。ふほうざう(付法蔵)の人のなかに商那和衆*しようなわしゆと申す人あり。ころもをきてむまれさせ給ふ。これは先生せんじように仏法にころもをくやうせし人なり。されば法華経に云はく、「〔柔和忍辱にゆうわにんにく〕」等云云。
[3]こんろん山には石なし。みのぶのたけ(嶽)にはしを(塩)なし。石なきところには、たま(玉)よりもいしすぐれたり。しをなきところには、しをこめ(米)にもすぐれて候ふ。国王のたからは左右の大臣なり。左右の大臣をば塩梅しおみそと申す。みそ・しをなければ、よ(世)わたりがたし。左右の臣なければ国をさまらず。
[4]あぶらと申すは涅槃経*ねはんきように云はく、「風のなかにあぶらなし。あぶらのなかにかぜなし。風をぢ(治)する第一のくすりなり」
[5]かたがたのものをくり給ひて候ふ。御心ざしのあらわれて候ふ事申すばかりなし。せんずるところは、こなんでうどの(故南條殿)の法華経の御しんようのふかかりし事のあらわるるか。「王の心ざしをば臣のべ、をやの心ざしをば子の申しのぶる」とはこれなり。あわれことの(故殿)のうれしとをぼすらん。
[6]——つくし(筑紫)にををはしの太郎と申しける大名ありけり。将どのの御かんきをかほりて、かまくらゆいのはま、つちのろう(土牢)にこめられて十二年。めしはじめられしとき、つくし(筑紫)をうちいでしに、ごぜん(御前)にむかひて申せしは、「ゆみや(弓)とるみ(身)となりて、きみの御かんきをかほらんことはなげきならず。またごぜんにをさな(幼)くよりな(馴)れしが、いまはなれん事いうばかりなし。これはさてをきぬ。なんし(男子)にても、によし(女子)にても、一人なき事なげきなり。ただしくわいにん(懐妊)のよしかたらせ給ふ。をうなご(女子)にてやあらんずらん。をのこご(男子)にてや候はんずらん。ゆくへをみざらん事くちをし。またかれが人となりて、ちち(父)というものもなからんなげき、いかがせんとをもへども力及ばず」とていでにき。
[7]かくて月ひ(日)すぐれ、ことゆへなくまれにき。をのこごにてありけり。七歳のとしやまでら(山寺)にのぼせてありければ、ともだちなりけるちごども(児共)、をやなしとわらひけり。いへ(家)にかへりてはは(母)にちちをたづねけり。ははのぶるかたなくしてな(泣)くよりほかのことなし。このちご申す。「天なくしては雨ふらず、地なくしてはくさをいず。たとい母ありとも、ちちなくはひと(人)となるべからず。いかに父のありどころをばかくし給ふぞ」とせめしかば、母せめられて云ふ、「わちご(和児)をさなければ申さぬなり。ありやうはかうなり」。このちごなくなく申すやう、「さてちちのかたみはなきか」と申せしかば、「これあり」とて、ををはし(大橋)のせんぞの日記、ならびにはら(腹)の内なる子にゆづれる自筆の状なり。いよいよをやこひしくて、なくより外の事なし。「さていかがせん」といゐしかば、「これより郎従あまたともせしかども、御かんきをかほりければみなちりうせぬ。そののちはいきてや、またしにてや、をとづるる人なし」とかたりければ、ふしころびなきて、いさむるをももちゐざりけり。ははいわく、「をのれをやまでら(山寺)にのぼする事は、をやのけうやうのためなり。仏に花をもまいらせよ。経をも一巻よみて孝養とすべし」と申せしかば、いそぎ寺にのぼりていええかへる心なし。昼夜に法華経をよみしかば、よみわたりけるのみならず、そらにをぼへてありけり。
[8]さて十二のとし、出家をせずしてかみ(髪)をつつみ、とかくしてつくしをにげいでて、かまくらと申すところへたづねいりぬ。八幡の御前おんまえにまいりてふしをがみ申しけるは、「八幡大菩は日本第十六の王、本地ほんじ霊山浄土*りようぜんじようど、法華経をとかせ給ひし教主釈尊なり。衆生のねがいをみ(満)て給はんがために神とあらわれさせ給ふ。今わがねがいみてさせ給へ。をやはきて候ふか、しにて候ふか」と申して、いぬ(戌)の時より法華経をはじめて、とら(寅)の時までによみければ、なにとなくをさなきこへ(声)ほうでん(宝殿)にひびきわたり、こころすご(凄)かりければ、まいりてありける人々も、かへらん事をわすれにき。皆人いち(市)のやうにあつまりてみければ、をさなき人にて法師ともをぼえず、をうなにてもなかりけり。
[9]おりしもやう(京)のにゐ(二位)どの御さんけいありけり。人めをしのばせ給ひてまいり給ひたりけれども、御経のたうとき事つねにもすぐれたりければ、はつるまで御聴聞ありけり。さてかへらせ給ひてをはしけるが、あまりなごりのをしさに、人をつけてをきて、大将殿へ「かかる事あり」と申させ給ひければ、めして持仏堂にして御経よませまいらせ給ひけり。
[10]さて次の日また御聴聞ありければ、西のみかど(御門)人さわぎけり。いかなる事ぞとききしかば、「今日はめしうどのくびきらるる」とののしりけり。「あわれ、わがをやはいままで有るべしとはをもわねども、さすが人のくびをきらるると申せば、我身のなげき」とをもひてなみだぐみたりけり。大将殿あやしとごらんじて、「わちご(和児)はいかなるものぞ、ありのままに申せ」とありしかば、上くだんの事一々に申しけり。をさふらひにありける大名小名、みす()の内、みなそでをしぼりけり。大将殿かぢわら(梶原)をめしてをほせありけるは、「大はしの太郎というめしうどまいらせよ」とありしかば、「ただ今くびきらんとて、ゆい(由比)のはまへつかわし候ひぬ。いまはきりてや候ふらん」と申せしかば、このちご御まへなりけれども、ふしころびなきにけり。
[11]ををせのありけるは、「かぢわら、われとはしりて、いまだ切らずばぐ(具)してまいれ」とありしかば、いそぎいそぎゆいのはまへはせゆく。いまだいたらぬによばわりければ、すでに頸切くびきらんとて、たちぬきたりけるときなりけり。さてかぢわら、ををはしの太郎を、なわつけながらぐ(具)しまいりて、ををには(大庭)にひきすへたりければ、大将殿「このちごにとらせよ」とありしかば、ちごはしりをりて、なわをときけり。大はしの太郎はわが子ともしらず、いかなる事ゆへにたすかるともしらざりけり。さて大将殿まためして、このちごにやうやうの御ふせた(結)びて、ををはしの太郎をた(給)ぶのみならず、本領をもあんどありけり。
[12]大将殿をほせありけるは、「法華経の御事は、昔よりさる事とわききつたへたれども、まろは身にあたりて二つのゆへあり。一には故親父こしんふの御くびを、大上だじよう(政)入道に切られてあさましともいうばかりなかりしに、いかなる神仏にか申すべきとをもいしに、走湯いず山の妙法尼より法華経をよみつたへ、千部と申せし時、たかを(高雄)のんがく房、をやのくびをもて来てみせたりし上、かたきを打つのみならず、日本国の武士の大将を給ひてあり。これひとへに法華経の御利生なり。二つにはこのちごがをやをたすけぬる事不思議なり。大橋の太郎というやつは、頼朝きくわいなりとをもう。たとい勅宣なりともかへ(返)し申して、くびをきりてん。あまりのにくさにこそ、十二年まで土のろうには入れてありつるに、かかる不思議あり。されば法華経と申す事はありがたき事なり。頼朝は武士の大将にて、多くのつみつもりてあれども、法華経を信じまいらせて候へば、さりともとこそをもへ」となみだぐみ給ひけり——。
[13]今の御心ざしみ候へば、故なんでうどのはただ子なれば、いとをしとわをぼしめしけるらめども、かく法華経をもて我がけうやうをすべしとはよもをぼしたらじ。たとひつみありて、いかなるところにをはすとも、この御けうやうの心ざしをば、えんまほうわう(閻魔法王)ぼんでん(梵天)たひしやく(帝釈)までもしろしめしぬらん。釈仏・法華経も、いかでかすてさせ給ふべき。かのちごのちちのなわ(縄)をときしと、この御心ざしかれにたがわず。これはなみだをもちてかきて候ふなり。
[14]またむくり(蒙古)のをこれるよし、これにはいまだうけ給はらず。これを申せば、「日蓮房はむくり国のわたるといへばよろこぶ」と申す。これゆわれなき事なり。かかる事あるべしと申せしかば、あだかたき(仇敵)と人ごとにせめしが、経文かぎりあれば来るなり。いかにいうともかなうまじき事なり。
[15]とがもなくして国をたすけんと申せし者を用ひこそあらざらめ。また法華経の第五の巻をもて日蓮がおもて(面)をうちしなり。梵天帝釈これを御覧ありき。鎌倉の八幡大菩も見させ給ひき。
[16]いかにも今は叶ふまじき世にて候へば、かかる山中にも入りぬるなり。各々も不便ふびんとは思へども、助けがたくやあらんずらん。よるひる(夜昼)法華経に申し候ふなり。御信用の上にも力もをしまず申させ給へ。あえてこれよりの心ざしのゆわ(弱)きにはあらず。各々の御信心のあつくうすき(厚薄)にて候ふべし。たいし(大旨)は日本国のよき人々は一定いちじよういけどりにぞなり候はんずらん。あらあさましや、あらあさましや。恐恐謹言。
[17]後<日>三月二十四日
[18]<人>日 蓮<花押>花押
[19]<先>南條殿御返事
現代語訳

南条殿御返事


建治二年(一二七六)閏三月二四日、五五歳、於身延、和文、定一一七〇—一一七七頁。

[1]帷子かたびら一つ、塩一駄、油五升を頂戴いたしました。御礼申し上げます。
[2]衣は寒さから身を守り、また暑さからも身を守ります。そして、体を包み隠したり美しく飾ったりします。法華経第七巻の薬王菩本事品に「裸なる者の衣を得たるが如し」とあります。これは、まる裸でふるえている者が衣を手にすることができたようなものだというたとえで、嬉しい心のことをいっているのです。昔インドで仏からその教えを弘通ぐづうすることを委嘱いしよくされた二十四人の者のうち、第三番目に商那和衆という人がいました。この人は生まれながらに衣を着ていらっしゃいました。これは前世で仏法のために衣を供養した人の姿なのです。ですから法華経の法師品に「如来の衣とは柔和忍辱の心これなり」と説かれているのです。
[3]崑崙こんろん山には宝石はあるが、石ころがないといいます。この身延山には塩がありません。石ころがない所では宝石よりも石ころの方が貴重です。そのように、ここでは塩が米にもまして大切なのです。国王を補佐する貴重な存在は左右の大臣です。左右の大臣のことを塩梅といいます。味と塩がなければ満足な食生活ができないようなもので、左右の大臣がいなければ国王はすぐれた政治をして国を安定させることができません。
[4]油というものも大切なもので、涅槃経には「風邪かぜは油が切れた時にわずらい、油があれば風邪にかからない。油は風邪を治すのに最高の薬である」ということが説かれています。
[5]衣・塩・油と、それぞれに貴重な品品を送っていただきました。お志の深さが現われておりますことのありがたさは筆舌に尽くしがたいものであります。これも所は、亡きお父上南条七郎殿が法華経を深く信仰なさっていらっしゃったことの現われでしょうか。世間のに「王の思っていることは臣が述べ、親の思っていることは子が述べる」というのはこのようなことなのでしょう。ああ、お父上はどれほどお喜びなさっていらっしゃることでしょうか。
[6]——昔、北九州に大橋太郎という大名がいました。右大将源頼朝みなもとのよりとも殿から懲戒処分を受けて、鎌倉の由比の浜の土牢に十二年間も閉じ込められていました。その大橋太郎が、召し捕られて鎌倉へ行くことになった時、故郷を出立するにあたって奥方にむかい、「弓矢を帯して君に仕える武士の身となったことですから、ご主人から懲戒をお受けすることはかわしいことではありません。それに反して、あなたとは幼少のころから馴れ親しんだ間がらですから、今お別れするのはとても辛い思いです。しかしそのことはもういうのはやめましょう。日ごろからかわしく思っていたのは、男子でも女子でも子供が一人もいないことでした。ところが今度、あなたは懐妊したということをお聞かせくださいました。生まれてくるのは女の子でしょうか、それとも男の子なのでしょうか。それを見届けられないのが残念です。また、その子が成長して、父親がいないための苦しみを味わうことがないようにとは思いますが、それは力の及ばないことです」といって旅立ちました。
[7]その後、妻は順調に月日を過ごし、子供は無事に生まれました。男の子であったのです。七歳のときに山寺へ修学のために登らせたところ、仲間の子供たちが「父なし子よ」といってあざけり笑いました。それで、家に帰って母に父親のことを質問しました。母は答えようがなくて、ただただ泣くばかりでした。その子はいいました。「天がなければ雨は降りません。地がなければ草はえません。たとえ母親がいても、父親がいなかったならば子が生まれるはずはありません。どうして父上の消息を教えてくださらないのですか」と。母は責められて「お前が幼いのでいわなかったのです。実はこれこれなのですよ」といって父が鎌倉へ連れて行かれた様子を語りました。この子は泣く泣く「それでは父上のかたみとなるものはありませんか」というので、母は「これがあります」といって、大橋氏の先祖の日記、ならびにまだ胎内にいたその子のために遺した自筆の書状を見せました。子はますます父が恋しくなって、激しく泣くばかりです。子が「何としても父上にお会いしたいのですが、どうしたらよいのでしょう」と尋ねたところ、母は「ここをご出発になった時には家来がたくさん随っていたのですが、罪科をこうむった身のことですから、皆ちりぢりに去っていってしまい、その後は生きているのやら死んでしまったのか、消息を伝えてくれる者もいません」と答えました。子は、ころげまわって泣き悲しみ、いくらなだめてもききませんでした。母が「お前を山寺に登らせたことは、父上への孝養を尽くさせようと思ったからです。仏に花をお捧げなさい。そして法華経の一巻でも読誦して孝養の営みとしなさい」といいましたところ、子は急いで山寺へ登り、二度と家へ帰ろうとしませんでした。そして昼となく夜となく法華経を読み続けましたので、全巻にわたって経文が読めるようになったばかりでなく、すべてを暗誦するにいたりました。
[8]そのようにして十二歳になった時、出家はせず、頭髪を布で包み隠してうまく九州を逃げ出し、父が連れて行かれたという鎌倉とやらいうところへ尋ね入りました。そして鶴ケ岡八幡宮に参詣し、社前にぬかづいて神を伏し拝みながら「八幡大菩は日本国第十六代の国王応神天皇として垂迹なさったお方であり、その本地は霊山浄土で法華経をお説きになった教主釈尊でいらっしゃいます。それが、衆生の願うところを満たしてくださるために神として出現なさいました。今、私の願いをお満たしくださいませ。父親は生きているのでしょうか。それともすでに亡き者となっているのでしょうか。どうぞお教えくださいませ」と祈願しました。午後八時ころから法華経を誦みはじめて午前四時ころにいたりましたが、そこはかとなく澄んだ幼い声が社殿に響きわたり、思わず身ぶるいするほどに緊迫した清爽感がただよったので、参詣していた人々も心を奪われて帰ることを忘れてしまいました。みなが神秘的な声の出所を尋ねて山のように集まって見ると、なんと幼い者で、その子が法師か老女のようにすばらしい声で読経をしているのでした。
[9]ちょうどその時、京の二位殿の八幡宮ご参詣がありました。人目をおしのびになってお参りなさったのですが、御経の声の尊さが尋常ではなかったので、最後までお聞きになっていらっしゃいました。しばらくしてお帰りになったのですが、その子と別れるのがあまりに名残なごり惜しく思われたので、家来を監視につけておいて、ご自分は頼朝殿のもとへいらっしゃって「このような尊いことに会いました」とご報告なさったので、頼朝殿はその子を召し寄せて、持仏堂でお経をお読ませになりました。
[10]さて翌日、頼朝殿がまたお経を読ませてお聞きになっていた時、西の御門で人声がざわざわとしました。何がおこったのだろうかと聞き耳を立ててみると、「今日は囚人が首をきられるのだ」と大声でいっていました。子は、「ああ、私の父上が今日まで命を長らえていらっしゃるとは思わないけれど、人が首を切られると聞けば、父上のことがしのばれて辛いことだ」と涙ぐんでしまいました。それをご覧になった頼朝殿が「お前は何者であるのか。事情がありそうだが隠さずにいってごらんなさい」とお尋ねになると、子は幼少のころからのことを細かく申し上げました。それを聞いて、侍所さむらいどころに伺候していた大名も小名も、またみすの内にはべっていた女房たちも、みな涙に袖をぬらしました。頼朝殿が梶原景時かじわらのかげときを呼んで「大橋太郎という囚人を召し出せ」と命令をくだすと、景時が「その者は、ちょうど今、首を切るために由比の浜へ連れて行かせました。もう切ってしまったかも知れません」といったので、それを聞いた子は頼朝殿の御前であることも忘れて、ころげまわって泣いてしまいました。
[11]頼朝殿からのご命令は、「梶原景時よ、お前自身すぐ刑場へ駈けつけて、大橋太郎がまだ切られていなかったら連れてきなさい」ということであったので、景時は急いで由比の浜へ馬を走らせて行きます。まだ遠く離れた所から大声で頼朝殿のご命令を絶叫したところ、太刀打ちが今まさに首を切ろうとして刀を抜いた時にそれが聞こえて、大橋太郎は一命をとりとめることになりました。そうこうして景時が、大橋太郎を縄で縛ったまま連れてきて大庭に引き据えると、頼朝殿が「その囚人を、この子に渡しなさい」といったので、子は庭に走りおりて父の縄を解きました。大橋太郎は、それがわが子であるとも知らず、またどうして助かることになったかもわかりませんでした。しばらくして頼朝殿はまたその子を近くに召して、いろいろのお布施の品を与え、父親を許し与えたばかりでなく、もと父が治めていた本領までも復帰させました。
[12]頼朝殿がいわれたことには、「法華経が尊いお経だということは昔からその旨を伝え聞いていましたが、私がそれを信じるにいたる二つの体験があります。その第一は、亡き父義朝殿が平清盛のために敗死させられて、何ともいえずくやしく思われ、報復をどの神仏に祈誓しようかと思案していたところ、走湯山の妙法尼から法華経の読誦を習い、一部八巻の法華経を千部読み上げた満願の日に、高尾の文覚房が父上の首を持ってきて見せてくれ、それが契機となって平家を討ち滅ぼしたばかりでなく、日本国の武士の大将軍にまで任ぜられました。これは全く法華経のご利益によるものです。第二は、今、この子が親の命を救ったという不思議な出来事に会ったことです。大橋太郎という奴は、私にとっては許しがたい者です。だからたとえ天皇から助命の勅宣が下ったとしても、それをつき返して首を切ってしまおうとさえ思っていたのです。あまりの憎さに十二年間まで土牢に入れて苦しめ、さていよいよ首を切るという時になってこのような不思議なことが起こりました。これらの事実に照らしてみても、法華経というお経は本当にありがたいものです。私は武士の大将軍として多くの罪を重ねた身ですけれども、法華経をご信仰申し上げていますので、何とかご加護をいただけるのではないかと思っています」と、感涙にむせんでいらっしゃいました。——このような話が伝えられています。
[13]今、貴殿の私に対する厚いお志を、亡き父上がご覧になったならば、どれほどお喜びのことでしょうか。もともと直系の子のことですから可愛いとは思っていらっしゃったでしょうが、まさか、成人の後にこのような法華経によっての追善孝養をするに違いないなどとはお思いにならなかったことでしょう。お父上が、たとえ罪を蒙って悪道に落ちていらっしゃったとしても、このご孝養のお志を、閻魔法王・梵天王・帝釈天までがご存じになって、お救いくださるでしょう。また釈牟尼仏も法華経も、どうしてお見捨てになることがありましょうか。あの大橋太郎の子が父のなわを解いたことと、貴殿が尊いお志によって父上をお救いになることとは違いがないのです。今、私は感涙を流しながらこの手紙を書いているのですよ。
[14]話は変わりますが、蒙古がまた攻めてくるという情報は、この身延山にはまだ届いていません。私は日ごろから法華経の教えに随って、謗法の国には他国から侵攻があると説いているので、「日蓮房は蒙古が攻めてくるのを喜んでいる」という人がいますが、それはたいへんな誤りです。他国が侵攻するという予告に対しては、みなが私を怨敵のように責めたてますけれども、経文に明記されていることですので、いかに忌避しようとしてもかなうものではありせん。
[15]世間は、何の過失もない私、そして、ただ純粋に国の危機を救おうと思って諫言する私を排斥しています。そればかりか、法華経の第五巻で私の顔を殴打しました。この巻には、法華経の行者は刀杖瓦石とうじようがしやくの難に会うということが記されているのでまことに感銘深いことなのですが、この事実を梵天も帝釈天もご覧になりました。また鎌倉の八幡大菩も見ておいでになりました。
[16]とにかく今はどうにもならない濁悪じよくあくの世でありますので、このような深い山中に分け入ってしまったのです。門下の皆さんを本当に気の毒だとは思いますが、お助けできない条件がいっぱいです。しかし私はこの山中で昼夜を分かたず法華経に祈りをこらしています。貴殿も、信心の上にも信心を重ねて力の及ぶ限り祈念なさってください。誓願が成就しないとしたら、それは私の方からの祈りが弱くなって及ばないのではありませんよ。各々のご信心が厚いか薄いかによって決まることです。結局は、日本国の主立おもだった人々はきっと蒙古の生捕りになってしまうのでしょう。ああ、言語道断この上なく悲しいことです。恐々謹言。
[17]閏<日>三月二十四日
[18]<人>日 蓮 <花押>花押
[19]<先>南条殿御返事