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南條殿御返事大橋書

第二巻 定本番号 20215 建治2(1276) 分類: 真蹟現存(完存orほぼ完存)

祖寿: 55 著作地: 身延 真蹟: 富士 大石寺 

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    215   南條殿御返事
かたびら一・しを(塩)いちだ・あぶら五そう(升)給候了。ころもはかん(寒)をふせぎ、又ねつをふせぐ。み(身)をかくし、みをかざる。法華経の第七やくわうぼんに云、如裸者得衣等[云云]。心ははだかなるもののころもをえたるがごとし。もんの心うれしき事をとかれて候。ふほうざう(付法蔵)の人のなかに商那和衆と申人あり。衣をきてむまれさせ給。これは先生に仏法にころもをくやうせし人なり。されば法華経云、柔和忍辱衣等[云云]。
こんろん山には石なし。みのぶのたけ(嶽)にはしを(塩)なし。石なきところには、たま(玉)よりもいしすぐれたり。しをなきところには、しをこめ(米)にもすぐれて候。国王のたからは左右の大臣なり。左右の大臣をば塩梅と申。みそ・しをなければ、よ(世)わたりがたし。左右の臣なければ国をさまらず。あぶらと申は涅槃経に云、風のなかにあぶらなし。あぶらのなかにかぜなし。風をぢ(治)する第一のくすりなり。
かたがたのものをくり給て候。御心ざしのあらわれて候事申ばかりなし。せんずるところは、こなんでうどの(故南條殿)の法華経の御しんようのふかかりし事のあらわるゝか。王の心ざしをば臣のべ、をやの心ざしをば子の申のぶるとはこれなり。あわれことの(故殿)のうれしとをぼすらん。
つくし(筑紫)にをゝはしの太郎と申しける大名ありけり。大将どのの御かんきをかほりて、かまくらゆいのはま、つちのろう(土牢)にこめられて十二年。めしはじめられしとき、つくし(筑紫)をうちいでしに、ごぜん(御前)にむかひて申せしは、ゆみや(弓箭)とるみ(身)となりて、きみの御かんきをかほらんことはなげきならず。又ごぜんにをさな(幼)くよりなれ(馴)しが、いまはなれん事いうばかりなし。これはさてをきぬ。なんし(男子)にても、によし(女子)にても、一人なき事なげきなり。ただしくわいにん(懐妊)のよしかたらせ給。をうなご(女子)にてやあらんずらん。をのこご(男子)にてや候はんずらん。ゆくへをみざらん事くちをし。又かれが人となりて、ちゝ(父)というものもなからんなげき、いかがせんとをもへども力及ばず、とていでにき。
かくて月ひ(日)すぐれ、ことゆへなく生にき。をのこごにてありけり。七歳のとしやまでら(山寺)にのぼせてありければ、ともだちなりけるちごども(児共)、をやなしとわらひけり。いへ(家)にかへりてはゝ(母)にちゝをたづねけり。はゝのぶるかたなくしてなく(泣)より外のことなし。此ちご申。天なくしては雨ふらず、地なくしてはくさをいず。たとい母ありとも、ちゝなくばひと(人)となるべからず。いかに父のありどころをばかくし給ぞとせめしかば、母せめられて云、わちご(和児)をさなければ申ぬなり。ありやうはかうなり。此のちごなくなく申やう、さてちゝのかたみはなきかと申せしかば、これありとて、をゝはし(大橋)のせんぞの日記、ならびにはら(腹)の内なる子にゆづれる自筆の状なり。いよいよをやこひしくて、なくより外の事なし。さていかがせんといゐしかば、これより郎従あまたともせしかども、御かんきをかほりければみなちりうせぬ。そののちはいきてや、又しにてや、をとづるる人なし、とかたりければ、ふしころびなきて、いさむるをももちゐざりけり。はゝいわく、をのれをやまでら(山寺)にのぼする事は、をやのけうやうのためなり。仏に花をもまいらせよ。経をも一巻よみて孝養とすべしと申せしかば、いそぎ寺にのぼりていえゝかへる心なし。昼夜に法華経をよみしかば、よみわたりけるのみならず、そらにをぼへてありけり。
さて十二のとし、出家をせずしてかみ(髪)をつゝみ、とかくしてつくしをにげいでて、かまくらと申ところへたづねいりぬ。八幡の御前にまいりてふしをがみ申けるは、八幡大菩薩は日本第十六の王、本地は霊山浄土、法華経をとかせ給し教主釈尊なり。衆生のねがいをみ(満)て給がために神とあらわれさせ給。今わがねがいみてさせ給。をやは生て候か、しにて候かと申て、いぬ(戌)の時より法華経をはじめて、とら(寅)の時までによみければ、なにとなくをさなきこへ(声)ほうでん(宝殿)にひびきわたり、こゝろすご(凄)かりければ、まいりてありける人々も、かへらん事をわすれにき。皆人いち(市)のやうにあつまりてみければ、をさなき人にて法師ともをぼえず、をうなにてもなかりけり。
おりしもきやう(京)のにゐ(二位)どの御さんけいありけり。人めをしのばせ給てまいり給たりけれども、御経のたうとき事つねにもすぐれたりければ、はつるまで御聴聞ありけり。さてかへらせ給てをはしけるが、あまりなごりのをしさに、人をつけてをきて、大将殿へかゝる事ありと申せ給ければ、めして持仏堂にして御経よませまいらせ給けり。
さて次日又御聴聞ありければ、西のみかど(御門)人さわぎけり。いかなる事ぞとききしかば、今日はめしうどのくびきらるゝとのゝしりけり。あわれ、わがをやはいままで有べしとはをもわねども、さすが人のくびをきらるゝと申せば、我身のなげきとをもひてなみだぐみたりけり。大将殿あやしとごらんじて、わちご(和児)はいかなるものぞ、ありのまゝに申せとありしかば、上くだんの事一々に申けり。をさふらひにありける大名小名、みす(翠簾)の内、みなそでをしぼりけり。大将殿かぢわら(梶原)をめしてをほせありけるは、大はしの太郎というめしうどまいらせよとありしかば、只今くびきらんとて、ゆい(由比)のはまへつかわし候ぬ。いまはきりてや候らんと申せしかば、このちご御まへなりけれども、ふしころびなきにけり。をゝせのありけるは、かぢわらわれとはしりて、いまだ切ずばぐ(具)してまいれとありしかば、いそぎいそぎゆいのはまへはせゆく。いまだいたらぬによばわりければ、すでに頸切とて、刀をぬきたりけるときなりけり。
さてかぢわらをゝはしの太郎を、なわつけながらぐ(具)しまいりて、をゝには(大庭)にひきすへたりければ、大将殿このちごにとらせよとありしかば、ちごはしりをりて、なわをときけり。大はしの太郎はわが子ともしらず、いかなる事ゆへにたすかるともしらざりけり。さて大将殿又めして、このちごにやうやうの御ふせたび(給)て、をゝはしの太郎をたぶ(給)のみならず、本領をも安堵ありけり。
大将殿をほせありけるは、法華経の御事は、昔よりさる事とわききつたへたれども、丸は身にあたりて二のゆへあり。一には故親父の御くびを、大上(政)入道に切てあさましともいうばかりなかりしに、いかなる神仏にか申べきとをもいしに、走湯山の妙法尼より法華経をよみつたへ、千部と申せし時、たかを(高雄)のもんがく房、をやのくびをもて来てみせたりし上、かたきを打のみならず、日本国の武士の大将給てあり。これひとへに法華経の御利生なり。二にはこのちごがをやをたすけぬる事不思議なり。大橋の太郎というやつは、頼朝きくわいなりとをもう。たとい勅宣なりともかへ(返)し申て、くびをきりてん。あまりのにくさにこそ、十二年まで土のろうには入てありつるに、かゝる不思議あり。されば法華経申事はありがたき事なり。頼朝は武士の大将にて、多のつみつもりてあれども、法華経を信まいらせて候へば、さりともとこそをもへとなみだぐみ給けり。
今の御心ざしみ候へば、故なんでうどのはただ子なれば、いとをしとわをぼしめしけるらめども、かく法華経をもて我がけうやうをすべしとはよもをぼしたらじ。たとひつみありて、いかなるところにをはすとも、この御けうやうの心ざしをば、えんまほうわう(閻魔法皇)ぼんでん(梵天)たひしやく(帝釈)までもしろしめしぬらん。釈迦仏・法華経も、いかでかすてさせ給べき。かのちごのちゝのなわ(縄)をときしと、この御心ざしかれにたがわず。これはなみだをもちてかきて候なり。
又むくり(蒙古)のをこれるよし、これにはいまだうけ給らず。これを申せば、日蓮房はむくり国のわたるといへばよろこぶと申。これゆわれなき事なり。かゝる事あるべしと申せしかば、あだかたき(仇敵)と人ごとにせめしが、経文かぎりあれば来なり。いかにいうともかなうまじき事なり。失もなくして国をたすけんと申せし者を用こそあらざらめ。又法華経の第五巻をもて日蓮がおもて(面)をうちしなり。梵天帝釈是を御覧ありき。鎌倉の八幡大菩薩も見させ給き。いかにも今は叶まじき世にて候へば、かゝる山中にも入ぬるなり。各々も不便とは思へども、助けがたくやあらんずらん。よるひる(夜昼)法華経に申候なり。御信用の上にも力もをしまず申せ給。あえてこれよりの心ざしのゆわ(弱)きにはあらず。各々の御信心のあつくうすき(厚薄)にて候べし。たいし(大旨)は日本国のよき人々は一定いけどりにぞなり候はんずらん。あらあさましやあさましや。恐々謹言。  後三月二十四日   日蓮  [花押]  南條殿 [御返事]