南條殿御返事
書下し
南條殿御返事
[1]はる(春)のはじめの御つかひ、自他申しこめまいらせ候ふ。
[2]さては給はるところのすずの物の事。——もちゐ(餅)七十まい・さけひとつつ(酒一筒)・いも(芋)いちだ・河のりひとかみぶくろ(一紙袋)・だいこんふたつ・やまのいも七ほん等なり。——ねんごろの御心ざしはしなじなのものにあらはれ候ひぬ。
[3]法華経の第八の巻に云はく「〔所願虚しからず、また現世においてその福報を得ん〕」。また云はく「〔まさに現世において現の果報を得べし〕」等云云。天台大師云はく「〔天子の一言は虚しからず〕」。また云はく「〔法王は虚しからず〕」等云云。賢王となりぬればたとひ身をほろぼすともそら事せず。いわうや釈迦如来は普明王とおはせし時は、はんそく(班足)王のたて(館)へ入らせ給ひき。不妄語戒を持たせ給ひしゆへなり。かり(迦梨)王とおはせし時は、〔実語少なき人は、大妄語により地獄に入る〕とこそおほせありしか。
[4]いわうや法華経と申すは、仏、我と〔必ず、まさに真実を説くべし〕となのらせ給ひし上、多宝仏・十方の諸仏あつまらせ給ひて、日月衆星のならばせ給ふがごとくに候ひしざせき(座席)なり。法華経にそら事あるならば、なに事をか人信ずべき。かかる御経に一華一香をも供養する人は、過去に十万億の仏を供養する人なり。また釈迦如来の末法に世のみだれたらん時、王臣万民心を一にして一人の法華経の行者をあだまん時、この行者かんぱち(旱魃)の少水に魚のすみ、万人にかこ(囲)まれたる鹿のごとくならん時、一人ありてとぶらはん人は生身の教主釈尊を、一却が間、三業相応して供養しまいらせたらんよりなを功徳すぐるべきよし、如来の金言分明なり。日は赫赫たり、月は明明たり。法華経の文字はかくかくめいめいたり。めいめいかくかくたる、あきらかなる鏡にかを(顔)をうかべ、すめる水に月のうかべるがごとし。
[5]しかるにまた〔現世において、その福報を得〕の勅宣。〔まさに今世において現に果報を得べし〕の鳳詔。南條の七郎次郎殿にかぎりてむなしかるべしや。日は西よりいづる世、月は地よりなる時なりとも、仏の言むなしからじとこそ定めさせ給ひしか。これをもておもふに、慈父過去の聖霊は教主釈尊の御前にわたらせ給ひ、だんな(檀那)はまた現世に大果報をまねかん事疑ひあるべからず。かうじん(幸甚)、かうじん。
[6]<日>正月十九日日>
[7]<人>日 蓮<花押>花押花押>人>
[8]<先>南条殿御返事先>
現代語訳
南条殿御返事
建治二年(一二七六)正月一九日、五五歳、於身延、和文、定一一三七—一一三八頁。
[1]新春を祝う御使者をお遣わしくださいましたが、お互いさまおめでたいことです。
[2]さてまた頂戴いたしました種々の贈りもの——餅七十枚、酒一筒、芋一駄、川海苔一紙袋、大根二把、山の芋七本など——懇切にご援助くださるお気持ちは、それらの品々となって現われているのであり、ありがたいことです。
[3]法華経第八巻の普賢菩薩勧発品に、法華経の行者について、「願っていることは必ず成就し、現世において幸せな報いを得るであろう」とか、「確かに現世において眼前の果報を得ることができる」とかあります。一方、天台大師の法華文句に「天子の発することばは一つもうそがない」とか、「仏には虚偽がない」とか記されています。そのように、賢王といわれる人になると、たとえ命を脅かされるようなことがあっても嘘はつかないものです。まして釈迦如来は、過去の世で普明王でいらっしゃったころ、仏道修行中に班足王に逮捕されて殺されることになったのですが、布施の修行が一つ残っていることを訴えて帰国を許され、それを完了してから再び班足王の館にお戻りになりました。これは不妄語戒をお守りになるためだったのです。また迦梨王でいらっしゃったころには「真実のことばの少ない人は大妄語の罪で地獄に落ちる」とおっしゃったものです。
[4]まして法華経という経典は、釈迦如来がご自分で「かならず、まさに真実の法を説く」と宣言なさったうえに、多宝如来がそれを証明し、また十方の浄土から諸仏がお集まりになって、日と月ときら星が並んだような豪華な法座で確認された経典です。だから法華経は、もしそこに少しでも嘘があったならば、もはや世の中には何一つ信じられるものがないというほどに貴い経典なのです。それほど貴い法華経に対して、一本の華でも、あるいはわずかな香でも供養する人は、過去の世の十万億にものぼる仏を供養する人です。また釈迦如来がおっしゃっているように、末法の時代に入って世の中が乱れ、国王も人民もすべてが一丸となってただ一人の法華経の行者を敵視し、そのためにこの行者が、旱魃で少なくなった水に住む魚のような、あるいは多くの狩人に包囲された鹿のような窮状に立たされた時、それを救うために、ただ一人で供養をする人は、生きていらっしゃる釈尊を、一劫という長い間、身・口・意の三業を充足させてご供養申し上げるよりも、なおいっそう功徳がすぐれているのです。これは釈迦如来のおことばとしてはっきり云われていることです。日は赫々と輝き、月は明々と照ります。そのように法華経の文字は赫々明々としていて、くもりのない鏡に顔を写し、澄んだ水に月が映っているように誤りありません。
[5]その上法華経には、「現在の世でその福報を得る」とのお言葉があり、また「必ず今の世で果報を得る」というご託宣もあります。この仏の宣言が、南条七郎次郎殿に限っては適用されないなどということがありましょうか。そんなはずはありますまい。日が西から出る世の中や、月が地から湧く時代がやってきたとしても、仏のおことばに間違いはないことが定められています。以上のことから考えてみれば、慈父のご聖霊は、霊山浄土に行かれて釈尊とご対面なさり、貴殿は、この世ですばらしい果報を招くであろうことは疑いありません。幸甚。幸甚。
[6]<日>正月十九日日>
[7]<人>日 蓮 <花押>花押花押>人>
[8]<先>南条殿御返事先>