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四条金吾殿御返事

全集 第6巻 2段 定本: #20340(定本の該当ページへ)

書下し

四条金吾殿御返事しじようきんごどのごへんじ


[1]銭一貫文給ひて、頼基がまいらせ候とて、法華経の御宝前に申し上て候。定めて遠くは教主釈尊並びに多宝十方の諸仏、近くは日月の宮殿にわたらせ給ふも、御照覧候ひぬらん。
[2]さては、人のよにすぐれんとするをば、賢人・聖人とをぼしき人々も皆そねみねたむ事に候。いわうや常の人をや。漢皇の王昭君をば三千のきさき是れをそねみ、帝釈の九十九億由他のきさきはきようしかをねたむ。さきの中書王をばをの(小野)の宮の大臣おとど、是れをねたむ。北野の天神をば時平ときひらのをとど是れをざんそうして流し奉る。
[3]此等をもてをぼしめせ。入道殿の御内は広かりし内なれどもせばくならせ給ひ、きうだち(達)は多くわたらせ給ふ。内のとしごろ(年来)の人々あまたわたらせ給へば、池の水すくなくなれば魚さわがしく、秋風立てば鳥こずえをあらそう様に候事に候へば、いくそばくぞ御内の人々そねみ候らんに、度々の仰せをかへし、よりよりの御心にたがはせ給へば、いくそばくのざんげん(讒言)こそ候らんに、度々の御所領をかへして、今又所領給はらせ給ふと云云。此れ程の不思議は候はず。此れひとえに陰徳あればあらわれたる報ありとは此れ也。我主わがしゆに法華経を信じさせまいらせんとをぼしめす御心のふかき故か。
[4]闍世王は仏の御あだなりしが、耆婆*ぎば大臣の御すゝめによて、法華経を御信じありてを持ち給ふ。妙荘厳王みようしようごんのう二子ふたりのみこの御すゝめによて邪見をひるがへし給ふ。此れ又しかるべし。貴辺の御すゝめによて、今は御心もやわらがせ給ひてや候らん。此れ偏に貴辺の法華経の御信心のふかき故也。
[5]根ふかければ枝さかへ、源遠ければながれ長しと申して、一切の経は根あさく流ちかく、法華経は根ふかく源とをし、末代悪世までもつきず、さかうべしと、天台大師あそばし給へり。此の法門につきし人あまた候ひしかども、をほやけわたくし(私)の大難度々かさなり候ひしかば、一年二年こそつき候ひしが、後々には皆或いはをち、或いはかへり矢をいる。或いは身はをちねども心をち、或いは心はをちねども身はをちぬ。
[6]仏は浄飯王じようぼんのうの嫡子、一閻浮提いちえんぶだい知行ちぎようする事、八万四千二百一十の大王なり。一閻浮提の諸王、頭をかたぶけん上、御内に召しつかいし人、十万億人なりしかども、十九の御年、浄飯王宮を出でさせ給ひて檀特山だんどくせんに入りて十二年。其間御とも(伴)の人五人なり。所謂拘鄰くりんあび跋提ばつたいと十力かしよう拘利くり太子となり。此の五人も六年と申せしに二人は去りぬ。残りの三人も後の六年にすて奉りて去りぬ。但一人残り給ひてこそ仏にはならせ給ひしか。法華経は又此れにもすぎて人信じがたかるべし。難信難解此れ也。又仏の在世よりも末法は大難かさなるべし。此れをこらへん行者は、我が功徳にはすぐれたる事、一劫とこそ説かれて候へ。
[7]仏滅度後二千二百三十余年になり候に、月氏一千余年が間、仏法を弘通せる人、伝記にのせてかくれなし。漢土一千年、日本七百年、又目録にのせて候ひしかども、仏のごとく大難に値へる人々少なし。我も聖人、我も賢人とは申せども、「況滅度後きようめつどご」の記文きもんへる人一人も候はず。竜樹菩・天台・伝教こそ仏法の大難に値へる人々にては候へども、此等も仏説には及ぶ事なし。此れ即ちのあが(上)り、法華経の時に生れ値はせ給はざる故也。今は時すでに後五百歳末法の始也。日には五月十五日、月には八月十五夜に似たり。天台・伝教はさきに生れ給へり。今より後は又のちぐへ(後崩)なり。大陳すでに破れぬ。余党は物のかずならず。今こそ仏のしるしをき給ひし後五百歳ごごひやくさい、末法のはじめ、「況滅度後」の時に当りて候へば、仏語むなしからずば、一閻浮提の内に定めて聖人出現して候らん。聖人の出づるしるしには、一閻浮提第一の合戦をこるべしと説かれて候に、すでに合戦も起りて候に、すでに聖人や一閻浮提の内に出でさせ給ひて候らん。きりん(麒麟)出でしかば孔子を聖人としる。鯉社りしやなつ(鳴)て聖人出で給ふ事疑ひなし。仏には栴檀の木をひ(生)て聖人としる。老子は二五の文をふんで聖人としる。
[8]末代の法華経の聖人をば何をつてかしるべき。経に云く、「能説此経のうせつしきよう 能持此経のうじしきよう」の人、則ち如来の使なり。八巻一巻一品一偈の人、乃至題目を唱ふる人、如来の使ひなり。始中終すてずして大難をとをす人、如来の使なり。日蓮が心は全く如来の使にはあらず、凡夫なる故也。但し三類の大怨敵にあだまれて、二度の流難に値へば、如来の御使に似たり。心は三毒ふかく、一身凡夫にて候へども、口に南無妙法蓮華経と申せば如来の使に似たり。過去を尋ぬれば、軽菩に似たり。現在をとぶらふに「加刀杖瓦石かとうじようがしやく」にたがう事なし。未来は「当詣道場とうけいどうじよう」疑ひなからんか。これをやしなはせ給ふ人々は、〔あに「浄土に同居する」〕の人にあらずや、事多しと申せどもとどめ候。心をもて計らせ給ふべし。
[9]ちごのそらう(所労)よくなりたり。悦び候ぞ。又大進阿闍梨*だいしんあじやりの死去の事、末代のぎば(耆婆)いかでか此にすぐべきと、皆人舌をふり候なり。さにて候ひけるやらん。三位房*さんみぼうが事、さう四郎が事、此の事はあたか符契符契ふけいふけいと申しあひて候。日蓮が死生をばまかせまいらせて候。全く他のくすし(医師)をば用ひまじく候なり。
[10]<日>月  日
[11]<人>日 蓮<花押>花押
[12]<先>条金吾殿
現代語訳

四条金吾殿御返事


弘安二年(一二七九)九月一五日あるいは弘安元年、五八歳あるいは五七歳、於身延、和漢混淆文、定一六六五—一六六八頁。

[1]銭一貫文を頂戴し、これは頼基の供養でありますと法華経の御宝前に言上いたしました。遠くは教主釈尊・多宝如来・十方分身の諸仏、近くは日天子・月天子も、きっと御照覧のことでありましょう。
[2]およそ人が世に勝れんとすれば、賢人・聖人と思われる人々でさえも、嫉妬心を起こすものである。まして凡人は言うまでもない。昔、漢の文帝の后王昭君は、美人であったために三千の宮女にねたまれ、帝釈天の九十九億由他といわれる無数の后たちは、帝釈の夫人であった女を妬んだという。日本では延喜の帝の御子、前の中書王兼明親王かねあきらしんのうを、小野の宮の大臣藤原実頼が妬み、北野の天神(菅原道真)は藤原時平の大臣が讒奏して筑紫の国太宰府に流した。
[3]これらの事実を身に当てて考えるがよい。貴殿の主君江馬入道殿の邸内は広かったが、今では狭くなっている。達は多いし、年来の家来は増えるので、あたかも池の水が少なければ魚が騒ぎ、秋風が立てば鳥がを争うように、邸内の人々同士の嫉妬もさぞかし多いことであろう。特に貴殿はたびたび主君の仰せに背いて御心にも添わず、数々の讒言もあったので、何度か所領を返上したほどであるのに、今また所領を賜ったという。世にこれほどの不思議はないと思われる。陰徳あれば陽報ありというのはこのことであろう。主君に法華経を信じさせようとされた深い真心の報いである。
[4]阿闍世王は釈尊に敵対したが、耆婆大臣の勧めで法華経を信仰して天下を治め、妙荘厳王は二人の王子の勧めによってその邪見を改めた。今回のこともまたその通りで、貴殿の勧めによって今は主君の心も和らいだものと思われる。これはひとえに貴殿の法華経の御信心の深きによるのである。
[5]根が深ければ枝は栄え、源が遠ければ流れが長いといわれるが、一切の経々は根も浅く流れも近い。ただし法華経は根も深く源も遠いから、釈尊在世のみならず、末代悪世にまで伝わって栄えるであろうと、天台大師は言われている。法華経の法門を信じた人も数多くあったけれども、日蓮が身の上に私にわたる大難が繁に起こったので、一年二年は付いてもいたが、のちになるとやがて信仰を退転し、かえって敵となって矢を射た者さえいる。表面は信じているようであっても心では退転していたり、また心には信じていても表面で退転した者もある。
[6]釈尊は浄飯王の嫡子で、一閻浮提の世界全体、すなわち八万四千二百十箇国を治める大王である。一閻浮提の諸王はことごとく服従し、召し使われる者が十万億人といわれる御身であったが、十九歳のとき浄飯王宮を出て出家して檀特山に入り、十二年間修行された。その間お伴したのはわずかに拘鄰・・跋提・十力葉・拘利太子の五人にすぎない。その五人も六年目には二人去り、残りの三人も後の六年の間に去ってしまって、最後にはただ一人修行せられて仏と成られたのである。法華経はそれにもまして信じがたいので、経文にも「難信難解」と説かれている。そして釈尊の在世よりも、末法の今のほうが大難が重なる。それを耐え忍ぶ行者は、仏を一劫という長い間にわたって供養するよりも功徳が勝ると、法師品には説かれているのである。
[7]今は釈尊滅後二千二百三十余年に当たる。インドにおいて一千余年の間仏法を弘通した人々は、いずれも伝記に明らかである。中国へ仏法が渡って一千年、日本へ渡来して七百年である。それらはみな目録に記されているが、釈尊のように大難に値った人は稀である。我も聖人、我も賢人というけれども、「いわんや滅度の後をや」という未来記の通りに大難に値った人はいまだかつて一人もない。竜樹菩・天台大師・伝教大師こそは、仏法の大難に値った人々ではあるが、それでも経文の通りではない。それは時代がいずれも上代であって、法華経の弘まるべき時に生まれあわなかったからである。今は時あたかも後の五百歳に当たり、末法のはじめである。たとえば日ならば五月十五日(夏至のころ)、月ならば八月の十五夜(仲秋の月)のように、正しく法華経の弘まるべき時なのである。天台・伝教の時代はまだ尚早で、今から後に出る人は残党が敗走するようなものである。大陣はすでに破れたのだから、残党はものの数ではない。今こそ仏が予言された「後五百歳」「末法の初」「況滅度後」の時に当たっているのであるから、仏の金言に偽りがなければ、この一閻浮提の内に必ず聖人が出現しているであろう。聖人が出現する前兆には、一閻浮提第一の合戦が起こると経文には説かれていて、合戦はすでに起こっているから、聖人も一閻浮提の内に出現されているに違いない。麒麟が現われたのを見て孔子を聖人と知り、地方の社が鳴るのを聞けば聖人の現われる前兆であると知る。栴檀の木が生えて仏を聖人と知り、生まれながらに足に二五の文を踏み、手に十文を持っていたので、老子を聖人と知ることができたという。
[8]末代における法華経の聖人は、何によって知ることができるのであろうか。法華経には「よく他人のためにこの経を説き、また自らもこの経を持つ人は、仏の使いである」と明かされているから、法華経の八巻あるいは一巻、一品一偈でも読み、もしくは題目を唱える人が仏の使いなのである。そして最後まで法華経の信心を貫き、どんな大難も耐え忍ぶ人こそ真の仏の使いなのである。日蓮の心は凡夫であるから仏の使いには程遠いものがある。しかし三類の怨敵に恨まれて、二度の流罪に値ったのであるから、仏の御使いのようでもある。心には三毒の迷いが深く、身は凡夫であるけれども、口に南無妙法蓮華経と唱えるから、仏の使いにも似ているではないか。過去の世に事例を求めれば、不軽菩に似ている。現在の状況を見ると、経文の予言通りに刀杖瓦石を加えられるという難に値っている。してみると、未来世は霊山浄土に往詣することは疑いないであろう。かかる日蓮を供養なさる人々もまた、同じ浄土に同居されるわけである。まだ申し上げたいことはたくさんありますが、これで止めておきます。心をもってご推量下さい。
[9]子供の病気が良くなったのは悦ばしいことです。また大進阿闍梨の死去については、末代の耆婆ともいうべき貴殿の推察通りであったと誰もが舌を巻いていたとのこと、まったくその通りでありましょう。三位房のことにしても、そう四郎のことにしても、いずれも符契を合わせたように的中したと言い合っております。日蓮の病気については、すべて貴殿にお任せして、他の医者はいっさい用いません。
[10]<日>月  日
[11]<人>日 蓮 <花押>花押
[12]<先>四条金吾殿