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四条金吾殿御返事

全集 第6巻 2段 定本: #20245(定本の該当ページへ)

書下し

四条金吾殿御返事しじようきんごどのごへんじ


[1]はるかに申しうけ給はざりつれば、いぶせく候つるにかたがたの物と申し、又□御つかいと申し、よろこび入つて候。又まほりまいらせ候。所領の間の御事は、かみよりの御文ならびに御消息、引き合せて見候ひおわんぬ。此の事は御文なきさきにすい(推)して候。かみには最大事とをぼしめされて候へども、御きんず(近習)の人人のざんそう(讒奏)にて、あまりに所領をきらい、上をかろしめたてまつり候。ぢうあう(縦横)の人こそをゝく候に、かくまで候へば、且らく御恩をばおさへさせ給ふべくや候らんと申すらんとすい(推)して候なり。
[2]それにつけては御心えあるべし、御用意あるべし。我身と申し、をや(親)・親類と申し、かたがた御内に不便ふびんといはれまいらせて候大恩のしゆなる上、すぎにし日蓮が御かんきの時、日本一同ににくむ事なれば、弟子等も或いは所領ををゝかたよりめされしかば、又方々の人々も、或いは御内々をいだし、或いは所領ををい(追)なんどせしに、其の御内になに事もなかりしは御身にはゆゆしき大恩と見へ候。このうへはたとひ一分の御恩なくとも、うらみまいらせ給ふべき主にはあらず。それにかさねたる御恩を申し、所領をきらはせ給ふ事、御とがにあらずや。
[3]賢人は八風と申してやつのかぜにをかされぬを賢人と申すなり。うるおいおとろいやぶれほまれたたえそしりくるしみたのしみ也。をゝむねは利あるによろこばず、をとろうるになげかず等の事也。此の八風にをかされぬ人をば、必ず天はまほらせ給ふ也。しかるをひり(非理)にしゆをうらみなんどし候へば、いかに申せども天まほり給ふ事なし。
[4]を申せど叶ひぬべき事もあり、申さぬに叶ふべきを、申せば叶はぬ事も候。夜めぐりの殿原の訴は、申すは叶ひぬべきよしをかんがへて候ひしに、あながちになげかれし上、日蓮がゆへにめされて候へば、いかでか不便に候はざるべき。ただし訴だにも申し給はずば、いのりてみ候はんと申せしかば、さうけ給はり候ひぬと約束ありて、又をりがみ(折紙)をしきりにかき、人人訴ろんなんどありと申せし時に、此の訴よも叶はじとをもひ候ひしが、いま(今)までのびて候。だいがくどの(大学殿)・ゑもんのたいうどの(衛門大夫殿)の事どもは申すまゝにて候あいだ、いのり叶ひたるやうにみえて候。はきりどの(波木井殿)の事は法門は御信用あるやうに候へども、此の訴は申すまゝには御用ひなかりしかば、いかんがと存じて候ひしほどに、さりとてはと申して候ひしゆへにや候ひけん、すこししるし候か。これにをもうほどなかりしゆへに、又をもうほどなし。だんな(檀)と師とをもひあわぬいのりは、水の上に火をたくがごとし。又だんなと師とをもひあひて候へども、大法を小法をもつてをか(犯)してとしひさし(年久)き人人の御いのりは叶ひ候はぬ上、我が身もだんなもほろび候なり。
[5]天台の座主ざす明雲*みよううんと申せし人は第五十代の座主也。ぬる安元二年五月に院勘をかほりて伊豆国へ配流はいる。山僧大津おおつよりうばいかへす。しかれども又かへりて座主となりぬ。又すぎにし寿永二年十一月に義仲よしなかにからめとられし上、頸うちきられぬ。是れはながされ頸きらるるをとが(失)とは申さず。賢人・聖人もかゝる事候。但し源氏の頼朝よりともと平家の清盛きよもりとの合戦の起りし時、清盛が一類二十余人、起請きしようをかき連判をして願を立て、平家の氏寺と叡山をたのむべし、三千人は父母のごとし、山のなげきは我等がなげき、山の悦びは我等がよろこびと申して、近江の国二十四郡を一向によせて候ひしかば、大衆と座主と一同に、内には真言の大法をつくし、外には悪僧どもをもて源氏をい(射)させしかども、義仲が郎等ひぐち(口)と申せしをのこ(男)、義仲とただ五六人計り、叡山中堂えいざんちゆうどうにはせのぼり、調伏ちようぶくだんの上にありしを引き出してなわ(縄)をつけ、西ざかを大石をまろばすやうに引きおろして、頸をうち切りたりき。かゝる事あれども日本の人々真言をうとむ事なし。又たずぬる事もなし。
[6]去ぬる承久じようきゆう三年辛巳の五・六・七の三箇月が間、きようの合戦ありき。時に日本国第一の秘法どもをつくして、叡山・東寺とうじ七大寺しちだいじ園城寺おんじようじ等、天照太神てんしようだいじん正八幡しようはちまん山王さんのう等に一一に御いのりありき。其の中に日本第一の僧四十一人也。所謂さき座主ざす慈円*じえん大僧正・東寺・御室おむろ三井寺みいでらの常住院の僧正等は度々義時よしときを調伏ありし上、御室は紫宸殿ししんでんにして六月八日より御調伏ありしに、七日と申せしに同じく十四日にいくさにまけ、勢多せいたかが頸きられ、御室をもひ死に死しぬ。かゝる事候へども、真言はいかなるとがともあやしむる人候はず。
[7]をよそ真言の大法をつくす事、明雲第一度、慈円第二度に、日本国の王法ほろび候ひ畢んぬ。今度第三度になり候。当時の蒙古調伏此れなり。かゝる事も候ぞ、此れは秘事なり。人にいはずして心に存知せさせ給へ。
[8]されば此の事御訴なくて、またうらむる事なく、御内おんうちをばいでず、われかまくら(鎌倉)にうちい(打居)て、さきざきよりも出仕とをき(遠)やうにて、ときどきさしいでてをはするならば叶ふ事も候ひなん。あながちにわるびれてみへさせ給ふべからず。よく(慾)と名聞瞋みようもんいかりとの(以下欠)
現代語訳

四条金吾殿御返事


建治三年(一二七七)、五六歳、於身延、和文、定一三〇一—一三〇五頁。

[1]久しく御消息を承らないので、心もとなく思っているところへ、種々の御供養の品といい、また御使者といい、大変うれしく存じている。また、お申し越しの御守りを差し上げる。所領のことについては、主君からの書面と、貴殿からのお手紙を合わせて拝見して承知した。このことについては、ご書面を受けとる以前より想像していたことである。貴殿の領地替えについては、主君も重大事と思われたに違いないが、側近の人たちが讒奏して、「頼基が所領をっているのは、主君の命を軽んじているものであるから、そのような我儘な者には、しばらく御恩義を中止なされたほうがよろしい」と申したものと推察している。
[2]それにつけてもよくお考えになり、用心されなければならない。貴殿はもとより、御親父も一族も、みな恩恵を受けた主君である。そのうえ先年日蓮が御勘気を蒙った時、日本国一同の者から憎まれていたために、弟子たちはおおむね所領を召し上げられたり、信徒の中にも主君から追放されたり、所領を没収された者が多かった。しかし貴殿の身には主君から何のお咎めもなかったことは、格別の大恩といわなければならない。これ以上はたとえ何ひとつ御恩を受けないとしても、けっして主君を恨んではならない。それなのにせっかく与えられた領地をうというのは、心得違いというものではあるまいか。
[3]賢人は八つの風に犯されぬものと昔から言われている。八風とはすなわち、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽であり、得意の時にも喜ばず、失意の時にも嘆かないなどということである。この八風に犯されぬ人には諸天の守護があるが、道理に違って主君を恨むようでは、いかに祈っても諸天の加護は得られない。
[4]というものは、訴えても叶わぬこともあれば、訴えないでも叶うことを、訴えたために却って叶わなくなることもある。夜警の人たちの訴にしても、訴えれば却って叶うまいと思っていたが、必要以上に嘆く始末で、もともと日蓮のために屋敷を召し上げられた人々のことであるから、けっして不憫に思わないわけではなかった。ただ訴さえ起こさなければ祈ってあげようと申したところ、そう致しましょうと約束したのであったが、その後繁に書面を書いて、訴の準備をしていると人から聞いて、この訴はけっして叶わないと思いつつ、今日に至ったのである。大学三郎殿や池上衛門大夫殿は、日蓮が言った通り訴をされなかったから、祈りが叶ったようである。波木井殿は法門のことは信用されるようであるが、訴については日蓮の申す通りにされなかったので、それはどうかと思いますと注意申し上げたので、多少の効果はあったようである。しかし日蓮が言う通りにはされなかったから、思うほどの効果もなかったのである。信徒と師と心の合致しない祈りは、水の上で火を焚くようなものである。また信徒と師との心が一致しても、長年にわたって小法に固執して大法をないがしろにしてきた人々ならば、祈りが叶わぬばかりでなく、祈る人も信徒もともに亡びてしまうものである。
[5]比叡山第五十代の座主であった明雲は、安元二年五月、後白河法皇の御勘気を蒙って伊豆の国に流されたが、比叡山の山僧たちが大津から奪い返して再び座主となった。その後寿永二年十一月、再び木曾義仲のために捕えられて頸を切られてしまった。流されたり、頸を切られることが悪いというのではない。賢人でも聖人でも、そのようなことはあるものなのである。しかし源平の合戦が起こった時、平清盛はその一族二十余人と共に起請文に連判して、「今後は比叡山を平家の氏寺として尊崇する。叡山の僧侶三千人は我等の父母にも等しい。したがって叡山の嘆きは我等の嘆きであり、叡山の悦びは我等の悦びである」と言って、近江の国二十四郡を寄進したのである。そこで叡山では大衆が一同に挙って座主を導師として真言の大法をもって源氏調伏の祈を行い、悪僧どもに源氏を攻めさせたが、逆に義仲は口兼光をはじめとする五、六人の家来を引き連れて叡山に駆けのぼり、中堂で祈の壇上にあった座主を引きおろして縄をかけた。そして大石を転がすように西坂本に引きおろして、頸を切ってしまったのである。このような事実があっても、日本国の人々は、真言宗を排斥することもなく、また不審に思う者もないのである。
[6]また承久三年の五月から七月までの三カ月間、京都と鎌倉との合戦(承久の乱)の時も、比叡山・東寺・南都七大寺・三井園城寺などでは、日本第一の真言の秘法を尽くして、天照太神・正八幡大菩・山王七社などの神々へ鎌倉調伏の祈を行なった。その中には日本第一の高名な僧が四十一人もいた。すなわち叡山の前の座主慈円大僧正、東寺、御室、三井の常住院の僧正たちが、たびたび義時調伏の祈を行なったばかりでなく、御室の道助法親王は紫宸殿において六月八日から十五壇の法を修して祈されたが、ちょうど七日目の十四日に敗戦となり、法親王の最愛の勢多童子は頸を切られてしまった。法親王も悲嘆のあまり死んでしまった。これほどのことがあっても、真言の法にあやまちがあるのではないかと怪しむ人もいない。
[7]真言の大法をもって調伏の祈を行なったことは、第一回が明雲座主、第二回が慈円大僧正であるが、それがために日本国の王道は亡びてしまった。今度の蒙古調伏は第三回目である。また以前のような結末に終わるであろうが、これは秘事であるから、心に承知して他人に語ってはならない。
[8]そのようであるから、このたびの領地替えについては訴を起こさないほうがよい。また主君を恨むこともなく、主君の御内を出ないで、依然鎌倉にあって、以前よりも出仕を差し控えて、時々出仕するようにしていたならば、いつかは叶うこともあろうというもの。けっして悪びれた態度を示してはならないのである。(以下欠)