四條金吾殿御返事(八風等真言破事)
245 四條金吾殿御返事
はるかに申うけ給候はざりつれば、いぶせく候つるにかたがたの物と申、又□御つかいと申、よろこび入て候。又まほりまいらせ候。所領の間の御事は上よりの御文ならびに御消息、引合せて見候畢。此事は御文なきさきにすい(推)して候。上には最大事とをぼしめされて候へども、御きんず(近習)の人人のざんそう(讒奏)にて、あまりに所領をきらい、上をかろしめたてまつり候。ぢうあう(縦横)の人こそをゝく候に、かくまで候へば、且く御恩をばおさへさせ給べくや候らんと申すらんとすい(推)して候なり。それにつけては御心えあるべし、御用意あるべし。我身と申、をや(親)・類親と申、かたがた御内に不便といはれまいらせて候大恩の主なる上、すぎにし日蓮が御かんきの時、日本一同ににくむ事なれば、弟子等も或は所領ををゝかたよりめされしかば、又方々の人々も或は御内々をいだし、或は所領ををい(追)なんどせしに、其御内になに事もなかりしは御身にはゆゆしき大恩と見へ候。このうへはたとひ一分の御恩なくとも、うらみまいらせ給べき主にはあらず。それにかさねたる御恩を申、所領をきらはせ給事、御とがにあらずや。賢人は八風と申て八のかぜにをかされぬを賢人と申なり。利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽也。をゝ心は利あるによろこばず、をとろうるになげかず等の事也。此八風にをかされぬ人をば必天はまほらせ給也。しかるをひり(非理)に主をうらみなんどし候へば、いかに申せども天まほり給事なし。
訴訟を申ど叶ぬべき事もあり、申さぬに叶べきを申せば叶ぬ事も候。夜めぐりの殿原の訴訟は申すは叶ぬべきよしをかんがへて候しに、あながちになげかれし上、日蓮がゆへにめされて候へば、いかでか不便に候はざるべき。ただし訴訟だにも申給はずば、いのりてみ候はんと申せしかば、さうけ給候ぬと約束ありて、又をりかみ(折紙)をしきりにかき、人人訴訟ろんなんどありと申せし時に、此訴訟よも叶じとをもひ候しが、いま(今)までのびて候。だいがくどの(大学殿)ゑもんのたいうどの(右衛門大夫殿)の事どもは申まゝにて候あいだ、いのり叶たるやうにみえて候。はきりどの(波木井殿)の事は法門は御信用あるやうに候へども、此の訴訟は申まゝには御用なかりしかば、いかんがと存て候しほどに、さりとてはと申て候しゆへにや候けん、すこししるし候か。これにをもうほどなかりしゆへに又をもうほどなし。だんな(檀那)と師とをもひあわぬいのりは、水の上に火をたくがごとし。又だんなと師とをもひあひて候へども、大法を小法をもつてをか(犯)してとしひさし(年久)き人人の御いのりは叶候はぬ上、我身もだんなもほろび候也。
天台の座主明雲と申せし人は第五十代の座主也。去安元二年五月に院勘をかほりて伊豆国へ配流。山僧大津よりうばいかへす。しかれども又かへりて座主となりぬ。又すぎにし寿永二年十一月に義仲にからめとられし上、頸うちきられぬ。是はながされ頸きらるるをとが(失)とは申さず。賢人聖人もかゝる事候。但し源氏頼朝と平家清盛との合戦の起し時、清盛が一類二十余人起請をかき連判をして願を立て、平家の氏寺と叡山をたのむべし、三千人は父母のごとし、山のなげきは我等がなげき、山の悦は我等がよろこびと申て、近江国二十四郡を一向によせて候しかば、大衆と座主と一同に、内には真言の大法をつくし、外には悪僧どもをもて源氏をい(射)させしかども、義仲が郎等ひぐち(樋口)と申せしをのこ(男)、義仲とただ五六人計、叡山中堂にはせのぼり、調伏の壇の上にありしを引出てなわ(縄)をつけ、西ざかを大石をまろばすやうに引下て、頸をうち切たりき。かゝる事あれども日本の人々真言をうとむ事なし。又たづぬる事もなし。
去承久三年辛巳五・六・七の三箇月が間、京・夷の合戦ありき。時に日本国第一の秘法どもをつくして、叡山・東寺・七大寺・園城寺等、天照太神・正八幡・山王等に一一に御いのりありき。其中に日本第一の僧四十一人也。所謂前の座主慈円大僧正・東寺・御室・三井寺の常住院の僧正等は度々義時を調伏ありし上、御室は紫宸殿にして六月八日より御調伏ありしに、七日と申せしに同十四日にいくさにまけ、勢多迦が頸きられ、御室をもひ死に死しぬ。かゝる事候へども、真言はいかなるとがともあやしむる人候はず。をよそ真言の大法をつくす事、明雲第一度、慈円第二度に日本国の王法ほろび候畢。今度第三度になり候。当時の蒙古調伏此なり。かゝる事も候ぞ、此は秘事なり。人にいはずして心に存知せさせ給へ。
されば此事御訴訟なくて又うらむる事なく、御内をばいでず、我かまくら(鎌倉)にうちい(打居)て、さきざきよりも出仕とをき(遠)やうにて、ときどきさしいでてをはするならば叶事も候なん。あながちにわるびれてみへさせ給べからず。よく(慾)と名聞瞋との