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大夫志殿御返事

全集 第6巻 2段 定本: #20396(定本の該当ページへ)

書下し

大夫志殿御返事たゆうさかんどのごへんじ


[1]小袖一・直垂ひたたれ三具・同じく腰三具等云云。小袖は七貫、直垂並に腰は十貫、已上十七貫文に当れり。
[2]おもんみれば、天台大師の御位を、章安大師顕はして云く、止観の第一に序文を引いて云く、「安禅として化す、位五品くらいごほんしたまえり。故に経に云く、『四百万億由佗なゆたの国の人に一一に皆七宝を与え、また化して六通を得せしむるすら、初随喜しよずいきの人にかざること百千万倍せり。いわんや五品をや』。文に云く、『すなわち如来の使つかいなり。如来の所遣として如来の事を行ず』等と」云云。伝教大師、天台大師を釈して云く、「今、が天台大師は、法華経を説き、法華経を釈し、群に特秀し、唐に独歩す」云云。また云く、「明かに知んぬ、如来の使なり。むる者は福を安明に積み、そしる者は罪を無間むけんに開く」と云云〕。
[3]如来は且らくこれを置く。滅後の一日より正像末二千二百余年が間、仏の御使二十四人なり。〔所謂第一は*だいかしよう・第二は阿難*あなん・第三は末田地までんだい・第四は和修しようなわしゆう・第五はきくた・第六は提多だいたか・第七はみしやか・第八は仏駄難提ぶつだなんだい・第九は仏駄密多ぶつだみつた・第十は脇比丘きようびく・第十一はふなしや・第十二は馬鳴めみよう・第十三は毘羅びら・第十四は竜樹りゆうじゆ・第十五は提婆だいば・第十六はらご・第十七は難提そうぎやなんだい・第十八は耶奢そうぎややしや・第十九は鳩摩羅駄くまらだ・第二十は闍夜しややな・第二十一は盤駄ばんだ・第二十二は摩奴羅まぬら・第二十三は鶴勒夜奢かくろくやしや・第二十四は師子尊者。この二十四人は金口きんくの記す所の付法蔵経ふほうぞうきようす。ただし小乗権大乗経の御使也〕。いまだ法華経の御使にはあらず。
[4]三論宗の云く、道朗どうろう吉蔵きちぞうは仏の使也。法相宗の云く、玄奘*げんじよう慈恩じおんは仏の使也。華厳宗の云く、法蔵ほうぞう澄観ちようかんは仏の使也。真言宗の云く、善無畏ぜんむい金剛智こんごうち不空ふくうけいか・弘法等は仏の使也。〔日蓮これを勘えて云く、全く仏の使にあらず、全く大小乗の使にもあらず。これを供養せばわざわいを招き、これを謗ぜば福をいたさん〕。
[5]〔問う、汝の自義か。答て云く、たとい自義たりといえども〕、有文有義ならば何のとがあらん。〔しかりといえども釈あり、伝教大師の云く、「なんぞ福を捨て罪を慕う者あらんや」と云云。福を捨つるとは、天台大師を捨つる人なり。罪を慕うとは、上に挙ぐる所の法相・三論・華厳・真言の元祖等なり。彼の諸師を捨て、一向に天台大師を供養する〕人の、其の福を今申すべし。
[6]三千大千世界と申すは、東西南北、一須弥山*しゆみせん、六欲梵天を一四天下いつしてんげとなづく。百億の須弥山、四州等を小千と云ふ。小千の千を中千と云ふ。中千の千を大千と申す。此の三千大千世界をひとつにして、四百万億由佗国の六道の衆生を八十年やしなひ、法華経より外の已今当の一切経を一々の衆生に読誦せさせて、三明六通の阿羅漢・辟支仏・等覚の菩となせる一人の檀と、世間出世のたからを一分も施さぬ人の法華経計りを一字一句一偈たもつ人と、相対して功徳を論ずるに、法華経の行者の功徳勝れたる事、百千万億倍なり。天台大師此れに勝れたる事五倍也。かゝる人を供養すれば、福を須弥山につみ給ふ也と、伝教大師ことはらせ給ひて候。此の由を女房には申させ給へ。恐々謹言。
[7]<人><花押>花押
[8]<先>大夫志殿御返事
現代語訳

大夫志殿御返事


弘安三年(一二八〇)、五九歳、於身延、池上大夫志宛、和漢混淆文、定一八五〇—一八五二頁。

[1]小袖一着、直垂三着、同じく袴三着を拝受しました。小袖は七貫文、直垂と袴は十貫文ですから、あわせて十七貫文に相当します。
[2]さて、よく考えてみますと、天台大師の階位について章安大師は、摩訶止観第一の序文に、天台大師の列伝を引いて、「安禅として禅定に入って遷化された、その位は分別功徳品に説かれてある観行即の五品である。その故は、分別功徳品に『四百万億由佗の国の一人一人に七宝を施し、またその人々を教化して六神通を得させる功徳よりも、五品中第一の初随喜品の功徳のほうが百千万倍も勝れている。まして第五品の功徳はなおさらである』と説かれている。また法師品には『すなわち如来の使である。如来から遣わされて如来の事を行ずるのである』と説かれている」。また伝教大師も依憑天台集に天台大師のことを讃嘆して、「わが天台大師が法華経を解釈されたことは、すべての人に秀で、唐代に並ぶ者がない」と言い、また「天台大師は明らかに如来の使である。これを讃めれば須弥山ほどの福を積むことになるし、これを謗れば無間地獄に堕ちる罪を得る」と言われている。
[3]釈尊のことはともかくとして、釈尊の滅後の第一日からこのかた、正法・像法・末法二千二百年あまりの期間に、仏の御使は二十四人ある。すなわち第一は大葉、第二は阿難、第三は末田地、第四は商和修、第五は多、第六は提多、第七は弥、第八は仏駄難提、第九は仏駄密多、第十は脇比丘、第十一は富奢、第十二は馬鳴、第十三は毘羅、第十四は竜樹、第十五は提婆、第十六は羅、第十七は僧難提、第十八は僧耶奢、第十九は鳩摩羅駄、第二十は闍夜、第二十一は盤駄、第二十二は摩奴羅、第二十三は鶴勒夜奢、第二十四は師子尊者であって、この二十四人のことは釈尊みずから付法蔵経に説かれている。しかしこれらの人々は小乗経と権大乗経を弘める仏の御使いであって、いまだ実大乗の法華経を弘める御使いではない。
[4]三論宗ではその祖道朗・吉蔵などが仏の使いであると言い、法相宗ではその祖玄奘・慈恩などが仏の使いであると言い、華厳宗ではその祖法蔵・澄観などが仏の使いであると言い、真言宗では善無畏・金剛智・不空・果・弘法等が仏の使いであると主張している。しかしながら日蓮が検証するところでは、それらの人々は全く仏の使いでなく、大乗小乗の使いでもない。したがってこうした人々を供養すれば災いを招き、これを非難すればかえって福を得るのである。
[5]問う、それはあなた独自の見解か。答う、たとえそうであったとしても、それを証拠立てる経文や道理があるならば、何の誤りがあろうか。しかし、すでに先師の解釈がある。伝教大師の依憑天台集に「誰が福を捨てて罪を慕う者があろうか」とある。この福を捨てるとは天台大師を捨てる人のことをいい、罪を慕うとは前に列挙した法相・三論・華厳・真言の元祖等を慕う人のことである。そこで、これらの諸師を捨てて一向に天台大師を供養する人の受ける福についてこれから申し上げよう。
[6]三千大千世界というのは、東西南北の四方と、一つの須弥山と、六欲天、梵天等を合わせて一四天下と称する。この一四天下を百億集めたものを小千世界という。この小千世界を千集めたものを中千世界という。さらにこの中千世界を千集めたものを大千世界というのである。こうしてできた三千大千世界を一つと数えて、それが四百万億由佗もある国土の六道の衆生を八十年のあいだ養ったとする。その一々の衆生に法華経以外の已に説き、今説き、まさに説かんとする一切経を読誦させて、三明六通の阿羅漢や辟支仏や等覚の菩となさしめた一人の檀の功徳と、これに対して、世間出世間にわたって一分の財をも施さず、ただ法華経の一字一句一偈ばかりを受持する人の功徳とを比較するならば、法華経の行者の功徳のほうが、百千万億倍も勝れている。まして天台大師は第五品の位の人であるから、これを供養することはさらに五倍も勝れていることになる。このような天台大師を供養することは、須弥山の高さにまで福を積むことになると、伝教大師は依憑天台集の中で説かれているのである。このことを女房殿にもお話し下さい。つつしんで申し上げました。
[7]<人><花押>花押
[8]<先>大夫志殿御返事