妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

兵衛志殿御返事

全集 第6巻 2段 定本: #20318(定本の該当ページへ)

書下し

兵衛志殿御返事ひようえさかんどのごへんじ


[1]銭六貫文の内〈一貫は次郎よりの分〉白厚綿小袖しろあつわたこそで一領。四季にわたりて財を三宝に供養し給ふ。いづれもいづれも功徳にならざるはなし。但し時に随ひて勝劣浅深わかれて候。うへたる人には衣をあたへたるよりも、食をあたへて候はいますこし功徳まさる。こゞへたるひとには食をあたへて候よりも、衣は又まさる。春夏に小袖をあたへて候よりも、秋冬にあたへぬれば、又功徳一倍なり。これをもつて一切はしりぬべし。たゞし此の事にをいては四季を論ぜず、日月をたゞさず、ぜに・こめ・かたびら・きぬこそで、日々、月々にひまなし。例せば、びんばしらわうの教主釈尊に日々に五百輌の車ををくり、阿育大王の十億の沙金を頭摩寺けいずまじにせゝしがごとし。大小ことなれども志はかれにもすぐれたり。
[2]其の上、今年は子細候。ふゆと申すふゆ、いづれのふゆかさむからざる。なつと申すなつ、又いづれのなつかあつからざる。たゞし今年は余国はいかんが候らめ。このはきゐは法にすぎてかんじ候。ふるきをきなどもにとひ候へば、八十・九十・一百になる者の物語り候は、すべていにしへこれほどさむき事候はず。此のあんじちより四方の山の外、十丁・二十丁は人かよう事候はねば、しり候はず。きんぺん一丁・二丁のほどは、ゆき一丈・二丈・五尺等なり。このうるう十月三十日、ゆきすこしふりて候しが、やがてきへ候ぬ。この月の十一日たつの時より十四日まで大雪ふりて候しに、両三日へだてゝすこし雨ふりて、ゆきかたくなる事、金剛のごとし。いまにきゆる事なし。
[3]ひるもよるもさむくつめたく候事、法にすぎて候。さけはこをりて石のごとし。あぶらは金ににたり。なべ・かまに小水あればこをりてわれ、かんいよかさなり候へば、きものうすく食ともしくして、さしいづるものもなし。坊ははんさくにて、かぜゆきたまらず。しきものはなし。木はさしいづるものもなければ火もたかず。ふるきあかづきなんどして候こそでひとつなんどきたるものは、其の身のいろ紅蓮大紅蓮ぐれんだいぐれんのごとし。こへははゝ(波々)大ばゝ地獄にことならず。手足かんじてきれさけ、人死ぬことかぎりなし。俗のひげをみれば、やうらくをかけたり。僧のはなをみれば、すゞをつらぬきかけて候。
[4]かゝるふしぎ候はず候に、去年の十二月の三十日よりはらのけの候しが、春夏やむことなし。あきすぎて十月のころ大事になりて候しが、すこしく平つかまつりて候へども、やゝもすればをこり候に、兄弟二人のふたつの小袖、わた四十両をきて候が、なつのかたびらのやうにかろく候ぞ。ましてわたうすく、たゞぬのものばかりのもの、をもひやらせ給へ。此のふたつのこそでなくば、今年はこゞへしに候なん。其の上、兄弟と申し、右近尉うこんのじようの事と申し、食もあいついて候。
[5]人はなき時は四十人、ある時は六十人、いかにせき候へども、これにある人々のあにとて出来し、舎弟とてさしいで、しきゐ候ぬれば、かゝはやさに、いかにとも申しへず。心にはしづかにあじちむすびて、小法師こほつしと我身計り御経よみまいらせんとこそ存じて候に、かゝるわづらわしき事候はず。又としあけ候わば、いづくへもにげんと存じ候ぞ。かゝるわづらわしき事候はず。又々申すべく候。なによりももんの大夫志ととのとの御事、ちゝの御中と申し、上のをぼへと申し、面にあらずば申しつくしがたし。恐々謹言。
[6]<日>十一月二十九日
[7]<人>日 蓮<花押>花押
[8]<先>衛志殿御返事
現代語訳

兵衛志殿御返事


弘安元年(一二七八)一一月二九日、五七歳、於身延、池上兵衛志宛、和文、定一六〇四—一六〇七頁。

[1]銭六貫文(そのうち一貫文は次郎殿からのご供養として)と、白の厚綿の小袖一領、たしかに拝受いたしました。このように四季にわたっていろいろの財を三宝にご供養なさること、どれもこれも功徳にならぬものはございません。ただ、時と場合によって、多少の勝劣浅深の区別はあるものです。たとえば、飢えている人には衣類を与えるよりも食物を与えた方が功徳は勝っており、凍えている人には食物を与えるよりも衣類の方がより勝っておりましょう。春夏の暖かい時に小袖を与えるよりも、秋冬の寒い時のほうが功徳は一段と勝っております。これで一切のことはご承知になれましょう。ただし貴殿の場合は、四季を論ぜず、月日を問わず、銭・米・帷子・絹小袖など、日々、月々ひまもなくお贈り下さいます。たとえば、婆娑羅王が毎日五百輌の車に食糧を積んで教主釈尊に贈り、阿育大王が十億の沙金を頭摩寺に布施したようなものです。大小の相違はあっても、志からいえば、貴殿の功徳は彼らよりも勝れております。
[2]その上、今年は理由があるのです。いったい冬は寒いもので夏は暑いものと定まっておりますが、今年は特に、他の地方はどうか存じませんが、この波木井は法外の寒さです。土地の古老たちに訊いてみますと、八十・九十・百歳などになる者の話では、大昔からこんなに寒いことはなかったということです。この庵室から四方にある山の外、十丁(約一キロ)・二十丁は人が通うことがないからわかりません。近辺一丁(約百メートル)・二丁あたりは、雪一丈(約三メートル)・二丈・五尺と積もっております。この閏十月三十日、雪が少し降りましたが、やがて消えました。今月の十一日、辰の時から十四日まで大雪が降ったところ、二、三日経って雨が少し降ったので、雪が金剛石のように堅く凍ってしまい、いまだに消えません。
[3]昼も夜も寒く冷たいことは法外です。酒は凍って石のようですし、油は金のようです。鍋・釜に少しでも水があれば凍って割れるほどで、寒気いよいよ厳しくなってきました。着物は薄く、食糧も乏しく、差し入れてくれる者もおりません。庵室の建物は不完全で風雪をしのぐことができず、敷物はなく、薪を入れてくれるものがないので、火も焚けません。古い垢じみたような小袖一枚着ている者の皮膚は、まるで紅蓮か大紅蓮のような色をしています。わめく声は八寒地獄のようで、手も足もあかぎれとなり、死ぬ者も限りなくおります。ひげを生やした俗人の顔は、息が凍って瓔珞を懸けたようですし、僧の鼻は、鈴をつらねているようであります。
[4]こんな不思議なことはないところに、去年の十二月三十日から腹の具合が悪くなり、春夏になっても下痢が止まりませんでした。秋も過ぎて十月のころ、一時ひどくなり、ようやく良くなってきたものの、とかく起こりがちという状態です。そんなところへ、兄弟お二人からの贈物の二つの小袖、綿は四十両(千五百グラム)もあるのを着ましたが、まるで夏の帷子のように軽く感じます。ふだん着ている綿の薄い布物ばかりの着物とは、とても比較になりません。この二つの小袖がなかったならば、今年は凍え死にをしたかもしれません。その上、貴殿ら兄弟からのといい、右近尉からのといい、食糧も相次いで届きました。
[5]この身延には人の少ない時でも四十人、多い時は六十人もおります。どんなにお断わりしても、ここにおる者の兄だからといってはやって来られ、弟だからといっては入ってこられるので、面と向かって断わることもできません。内心では静かに庵室を結んで、小法師とわたくしだけで御経を読んでいたいと思っているのですが、こんな煩わしいことはございません。年でも明けたら、どこかへ逃げようかと思っておりますよ。こんな煩わしいことはございません。またまた申し上げたいと存じます。何よりも喜ばしいことは、兄衛門大夫志と貴殿の御事、お父上との間が円満に解決したことといい、また主君の覚えもよいということなど、直接お目にかかった上でなければ申し尽くすことができません。つつしんで申し述べました。
[6]<日>十一月二十九日
[7]<人>日 蓮 <花押>花押
[8]<先>兵衛志殿御返事