兵衛志殿御返事
書下し
兵衛志殿御返事
[1]御ふみにかゝれて候上、大にのあざりのかたり候は、ぜに十余れん並にやう〳〵の物ども候しかども、たうじはのうどき(農時)にて、□□人もひきたらぬよし□□も及び候はざりけ□□兵衛志殿の御との□□□御夫馬にても□□□□て候よし申し候。
[2]夫れ百済国より日本国に仏法のわたり候しは、大船にのせて此れをわたす。今のよど河よりあをみの水海につけて候。ものは、車にて洛陽へははこび候。それがごとく、たとい、かまくらにいかなる物を人たびて候とも、夫と馬となくば、いかでか日蓮が命はたすかり候べき。昔徳勝童子は、土餅を仏に□□□□阿育大王と□□□□□□□□□□□くやうしまいらせ候しゆへに、阿育大王の第一の大臣羅提吉となりて一閻浮提の御うしろめ、所謂をゝい殿の御時の権大夫殿のごとし。此れは彼等にはにるべくもなき大功徳。此の歩馬はこんでいこまとなり、此の御との人はしやのくとねりとなりて、仏になり給ふべしとをぼしめすべし。
[3]抑もすぎし事なれども、あまりにたうとくうれしき事なれば申す。
[4]昔、波羅捺国に摩訶羅王と申す大王をはしき。彼の大王に二の太子あり。所謂善友太子・悪友太子なり。善友太子の如意宝珠を持ちてをはせしかば、此れをとらむがために、をとの悪友太子は兄の善友太子の眼をぬき給ひき。昔の大王は今の浄飯王、善友太子は今の釈迦仏、悪友太子は今の提婆達多此れ也。兄弟なれども、たからをあらそいて、世々生々にかたきとなりて、一人は仏なり、一人は無間地獄にあり。此れは過去の事、他国の事なり。我朝には一院、さぬきの院は兄弟なりしかども、位をあらそいて、ついにかたきとなり給ひて、今に地獄にやをはすらむ。当世めにあたりて、此の代のあやをきも兄弟のあらそいよりをこる。大将殿と申せし賢人も、九郎判官等の舎弟等をほろぼし給ひて、かへりて我子ども皆所従等に失はれ給ふ。眼前の事ぞかし。
[5]とのばら二人は、上下こそありとも、とのだにもよくふかく、心まがり、道りをだにもしらせ給はずば、ゑもんの大夫志殿は、いかなる事ありとも、をやのかんだうゆるべからず。ゑもんのたいうは法華経を信じて仏になるとも、をやは法華経の行者なる子をかんだうして、地獄に堕つべし。とのはあにとをやとをそんずる人になりて、提婆達多がやうにをはすべかりしが、末代なれども、かしこき上、欲なき身と生れて、三人ともに仏になり給ひ、ちゝかた、はゝかたのるい(類)をもすくい給ふ人となり候ひぬ。
[6]又とのゝ御子息等も、すへの代はさかうべしとをぼしめせ。此の事は、一代聖教をも引きて百千まいにかくとも、つくべしとはをもわねども、やせやまいと申し、身もくるしく候へば、事々申さず。あわれ〳〵いつかけさん(見参)に入つて申し候はん。又むかいまいらせ候ひぬれば、あまりのうれしさに、かたられ候はず候へば、あら〳〵申す。よろづは心にすいしはからせ給へ。女房の御事、同じくよろこぶと申させ給へ。恐々謹言。
現代語訳
兵衛志殿御返事
弘安元年(一二七八)五月頃あるいは秋頃、五七歳、於身延、池上兵衛志宛、和文、定一五〇五—一五〇七頁。
[1]お手紙に書かれてあることと、大弐阿闍梨が語るところによれば、兵衛志殿は農繁期にもかかわらず、家人に馬をひかせて、銭十余連ならびに種々の品物をご供養として送り遣わされた由、承りました。
[2]そもそも百済国から日本国に仏法が伝来した時、仏像や経巻などは大船に載せて渡されました。今の淀川から近江の湖(琵琶湖)に到着いたしました。そしてそれらのものは、さらに車で都まで運ばれました。それと同じように、たとえ鎌倉においていかなる品物をご供養くださる方がいらっしゃったとしても、それを運ぶ人夫と馬がいなければ、どうして日蓮の生命を助けることができましょうか。昔、釈尊が弟子達とともに王舎城に乞食されていた時、徳勝童子と無勝童子は土で作った餅を釈尊に供養し、その功徳によって阿育大王となり、あるいは阿育大王の第一の大臣の羅提吉となって、一閻浮提のうしろだてとなったといわれます。それはたとえば、鎌倉幕府において将軍の後見人として執権となられた北条義時殿のようであります。兵衛志殿のご供養は、それらに比べてもはるかに大きな功徳があるのです。ご供養の品々を載せてきた馬は釈尊が出家の時に乗られた金泥駒となり、それをひいてともをしてきた舎人は釈尊の出家に伴った御者の車匿となって、ついには成仏されるでありましょうと、お思いください。
[3]そもそも過ぎ去ったことではありますが、あまりに尊く思い、うれしく感じましたので、重ねて申し上げる次第です。
[4]昔、インドの波羅捺国に摩訶羅王という大王がおられました。この大王に二人の太子がありました。いわゆる善友太子と悪友太子といわれる二人です。善友太子が如意宝珠を持っておられましたので、これを奪いたいため、弟の悪友太子は兄の善友太子の眼を抜き取ってしまいました。昔の摩訶羅大王というのが今の浄飯王で、善友太子というのは今の釈迦仏、そして悪友太子というのは今の提婆達多なのです。兄弟ではありますが、宝を争って生々世々、敵同士となり、一人は仏となられましたが、一人は無間地獄に堕ちてしまわれたのです。これはいわば過去のこと、そして他国のことです。わが国の朝廷においては、後白河院と崇徳院はご兄弟ですが、位を争ってついに敵となり、今は地獄におられることでしょう。当世も眼前にあることで、世を治める天皇の地位があやういということも兄弟の争いから起こっています。大将頼朝殿という賢い人も、九郎判官義経らの弟を亡ぼしてしまい、かえって自分の子どもも、みな家来に当たる人たちに亡ぼされてしまいました。これはまさに眼前の事実であります。
[5]貴殿方お二人は、上下の区別こそありますが、もし貴殿が欲深く、心が曲がって道理をわきまえなかったなら、兄の衛門大夫殿はどんなことがあろうとも、親の勘当は許されることはなかったはずです。衛門大夫志は法華経を信じて仏に成ったとしても、親は法華経の行者であるわが子を勘当して地獄に堕ちるでしょう。貴殿は兄と親とを損ずる人となってしまって、提婆達多のようなことになるところでしたが、末代の人ながら賢きうえ、欲のない人に生まれて、三人そろって成仏され、父方、母方の人々をもお救いになる人となられました。
[6]また貴殿のご子息たちも、末代まで栄えることとご承知なさいませ。このことについては、釈尊一代のご聖教を引用して、百千枚の手紙に書いたとしても、書き尽くせるとは思いませんが、今は病弱の身でありますから、くどくどと書きません。ああ、ああ!いつかお目にかかって申し上げましょう。しかしまた面と向かっては、あまりのうれしさに語れなくなってしまいますので、あらかた申し上げました。万事はご推量下さい。女房殿の御事についても同じく喜んでいるとお伝え下さい。つつしんで申し上げました。