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兵衛志殿御返事

全集 第6巻 2段 定本: #20254(定本の該当ページへ)

書下し

兵衛志殿御返事ひようえさかんどのごへんじ


[1]鵞目がもく二貫文、武蔵房円日むさしぼうえんにちを使にて給び候ひ了んぬ。
[2]人王三十六代皇極こうぎよく天皇と申せし王は女人にてをはしき。其の時、入鹿臣いるかのおみと申す者あり。あまりのをごりのものぐるわしさに王位をうばはんとふるまいしを、天皇・王子等不思議とはをぼせしかども、いかにも力及ばざりしほどに、大兄王子おおえのおうじ軽王子かるのおうじ等なげかせ給ひて、中臣なかとみ鎌子かまこと申せしおみに申しあわせさせ給ひしかば、臣申さく、いかにも人力はかなうべしとはみへ候はず。馬子うまこが例をひきて、教主釈尊の御力ならずば叶ひがたしと申せしかば、さらばとて釈尊を造り奉りていのりしかば、入鹿ほどなく打たれにき。
[3]此の中臣の鎌子と申す人は、後には姓かへて藤原鎌足ふじわらのかまたりと申し、内大臣ないだいじんになり、大職冠たいしよくかんと申す人、今の一の人の御先祖なり。この釈仏は今の興福寺の本尊なり。されば王の王たるも釈仏、臣の臣たるも釈仏。神国の仏国となりし事も、もんのたいう(衛門大夫)殿の御文と引き合せて心へさせ給へ。今代きんだいは他国にうばわれんとする事、釈尊をいるがせにする故なり。神の力も及ぶべからずと申すはこれなり。
[4]各々二人はすでにとこそ人はみしかども、かくいみじくみへさせ給ふは、ひとへに釈仏・法華経の御力なりとをぼすらむ。又此れにもをもひ候。後生ごしようのたのもしさ申すばかりなし。此れより後もいかなる事ありとも、すこしもたゆむ事なかれ。いよはりあげてせむべし。たとい命に及ぶとも、すこしもひるむ事なかれ。あなかしこ。恐恐謹言。
[5]<日>八月二十一日
[6]<人>日 蓮<花押>花押
[7]<先>衛志殿御返事
現代語訳

兵衛志殿御返事


建治三年(一二七七)あるいは建治元年(一二七五)の八月二一日、五六歳あるいは五四歳、於身延、池上兵衛志宛、和文、定一三七〇—一三七一頁。

[1]銭二貫文、武蔵房円日を使者として送り届けられ、たしかに拝受いたしました。
[2]人皇第三十六代の皇極天皇という王は女帝でいらっしゃいました。その時の大臣に蘇我入鹿という者がおりました。が、あまりに驕慢で、ついには王位をも奪い取ろうといたしましたので、天皇や皇子たちは奇怪なこととお思いになられたけれども、どうすることもできません。そこで大兄王子や軽王子などが憤慨されて、中臣鎌子という大臣に相談なされたところ、鎌子は蘇我馬子の先例を引いて、「それは人間の力ではどうにもなりません。教主釈尊の御力を願わなければなりますまい」と申し上げました。それではというので、さっそく釈尊の像をお造りして祈られたところ、入鹿はほどなくして討伐されてしまったのです。
[3]この中臣鎌子という人は、後には姓を変えて藤原鎌足といい、内大臣となり、さらに大職冠の位を得た人で、今の朝延の最高権力者である藤原氏の御先祖です。そしてこの釈仏は、現在の興福寺の本尊として安置されています。したがって、王が王であり得るのも釈仏のおかげであり、臣下が臣下としてその道を全うできるのも釈仏のおかげなのです。神国であった日本が仏教国に移り変わった歴史上の事柄については、兄上の衛門大夫殿へ宛てた手紙と引き合わせてお心得ください。今の日本国が他国に奪い取られようとしているのは、釈尊をないがしろにしているからです。神の力では及ばないというのは、このことなのです。
[4]おのおのがた兄弟二人は、もはや法華経信仰を捨て去ってしまうであろうと人々はみていたけれども、これほど立派に信仰を堅持されておられるのは、ひとえに「釈仏・法華経」の御力によるとお思いのことでしょう。日蓮もまたそう思っております。後生が頼もしいことは申すまでもありません。今後どのようなことがあっても退いてはなりません。いよいよ声を張り上げて父上の謗法を諫めなければなりません。たとえそれによって命を失うようなことがあったとしても、けっしてひるんではならないのです。けっして、けっして。以上、つつしんで申し上げます。
[5]<日>八月二十一日
[6]<人>日 蓮 <花押>花押
[7]<先>兵衛志殿御返事