富城入道殿御返事
書下し
富城入道殿御返事
[1]〔今月十四日の御札、同じき十七日到来す。また、去ぬる後の七月十五日の御消息、同じき二十日ごろ到来せり。その外、度々の貴札を賜うといえども、老病たるの上、また不食気に候間、いまだ返報を奉らず候条、その恐れ少なからず候〕。
[2]何よりも、去ぬる後の七月御状の内に云く、「鎮西には大風吹き候て、浦々島々に破損の船充満の間、乃至、京都には思円上人」。又云く、〔「理、あにしからんや」〕等云云。此の事、別して此の一門の大事也。惣じて日本国の凶事也。仍つて病を忍んで、一端是を申し候はん。是れ偏に〔日蓮を失はんとして〕、無かろう事を造り出さん事、兼て知る。〔その故は、日本国の真言宗等の七宗八宗の人々の大科、今に始めざる事なり。しかりといえども、しばらく一を挙げて万を知らしめ奉らん〕。
[3]去ぬる承久年中に隠岐の法皇、〔義時を失わしめんがための〕調伏を、〔山の座主・東寺・御室・七寺・園城に仰せ付けらる。よつて同じき三年の五月十五日、鎌倉殿の御代官伊賀太郎判官光末を六波羅において失わしめ畢んぬ〕。然る間、同じき十九日・二十日鎌倉中に騒ぎて、同じき二十一日、山道・海道・北陸道の三道より十九万騎の兵者を指し登らす。同じき六月十三日、その夜の戌亥の時より、青天俄かに陰りて震動雷電して、武士共首の上に鳴り懸り〳〵し上、〔車軸のごとき雨は篠を立つるがごとし〕。爰に十九万騎の兵者等、遠き道は登りたり、兵乱に米は尽きぬ。馬は疲れたり。在家の人は皆隠れ失せぬ。冑は雨に〔打たれて綿のごとし〕。武士共、宇治・勢田に打ち寄せて見ければ、常には三丁四丁の河なれども〔既に六丁七丁十丁に及ぶ〕。然る間の一丈二丈の大石は〔枯葉のごとく浮び、五丈六丈の大木流れ塞がる事、間なし〕。昔、利綱・高綱等が度せし時には〔似るべくもなし〕。武士これを見て皆臆してこそ見えたりしが、〔しかりといえども今日を過ごさば、皆心を翻し堕ちぬべし。去る故に馬筏を作りてこれを度す処、或いは百騎、或いは千万騎、かくのごとく皆我も我もと度るといえども、或いは一丁、或いは二丁三丁度る様なりといえども、彼岸に付く者は一人もなし〕。然る間、緋綴・赤綴等の冑、其の外、弓箭兵杖、白星の甲等の河中に流れ浮ぶ事は、〔なお長月・無神月の紅葉の吉野立田の河に浮ぶがごとくなり〕。
[4]〔ここに叡山・東寺・七寺・園城等の高僧等、これを聞くことを得て〕真言の秘法、大法の験とこそ悦び給ひける。内裏の紫宸殿には山の座主・東寺・御室、五壇十五壇の法をいよいよ盛んに行はれければ、法皇の御叡感極りなく、玉の厳を地に付け、大法師等の御足を御手にて摩給ひしかば、〔大臣公卿等は庭の上へ走り落ちて、五体を地に付けて高僧等を敬い奉る〕。
[5]又宇治・勢田にむかへたる公卿殿上人は、甲を震ひ挙げて大音声を放つて云く、義時所従の毛人等、慥かに承はれ。〔昔より今に至るまで、王法に敵をなし奉る者は何者か安穏なるや。狗犬が師子を吼えてその腹破れざることなく、修羅が日月を射るにその箭還つてその眼に中らざることなし。遠き例しはしばらくこれを置く〕。近くは我朝に代始まつて人王八十余代の間、大山の皇子・大石の小丸を始めとして二十余人に、王法に〔敵をなし奉れども〕一人として素懐を遂げたる者なし。皆頸を獄門に懸けられ、骸を〔山野に曝す〕。関東の武士等、或いは源平、或いは高家等、〔先祖相伝の君を捨て奉り〕、伊豆の国の民たる義時が下知に随ふ故に、かかる災難は出来せる也。〔王法に背き奉り、民の下知に随う者は、師子王が野狐に乗せられて東西南北へ馳走するがごとし〕。今生の恥、〔これをいかん〕。急ぎ急ぎ甲を脱ぎ、弓弦をはづして、参々と招きける程に、いかに有りけん。申酉の時にも成りしかば、関東の武士等、河を馳せ度り、勝ちかかりて責めし間、京方の武者共〔一人もなく山林に逃げ隠るるの間〕、四の王をば四の島へ放ちまいらせ、又高僧・御師・御房達は、〔或いは住房を追われ、或いは恥辱に値い〕給ひて、〔今に六十年の間〕、いまだそのはぢ(恥)をすすがずとこそ見え候に。
[6]今また彼の僧侶の御弟子達、御祈禱承はられて候げに候あひだ、いつもの事なれば、秋風に纔の水に敵船賊船なんどの破損仕りて候を、大将軍生取たりなんど申し、祈り成就の由を申し候げに候也。又蒙古の大王の頸の参りて候かと問ひ給ふべし。其の外はいかに申し候とも御返事あるべからず。御存知のためにあらあら申し候ひし也。乃至、此の一門の人々にも相触れ給ふべし。
[7]又必ず、しいぢ(椎地)の四郎が事は承はり候ひ畢んぬ。予、既に〔六十に及び〕候へば、天台大師の御恩報じ奉らんと仕り候あひだ、みぐるしげに候房をひきつくろい候ときに、さくれう(作料)におろ(下)して候なり。銭四貫をもちて、一閻浮提第一の法華堂造りたりと、霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給ふべし。恐々謹言。
[8]<日>十月二十二日日>
[9]<人>日 蓮<花押>花押花押>人>
[10]<先>進上 富城入道殿御返事先>
現代語訳
富城入道殿御返事
弘安四年(一二八一)一〇月、六〇歳、於身延、和漢混淆文、定一八八六—一八八九頁。(但し門下代筆)
[1]今月十四日付のお手紙、同月十七日に到着しました。また去る閏七月十五日付のお手紙、同月二十日頃到着しました。そのほか度々貴殿からお手紙を賜りましたが、私自身老病の上に食も進みませんので、今日まで返書を差し上げることができず、恐縮いたしております。
[2]さて、数度のお手紙の中でも、重要な事がらは、去る閏七月のお手紙に、「九州では大風が吹いて、浜辺や島のあちこちに破損した船が充満している。あるいは、京都では思円上人(叡尊)が蒙古調伏の祈禱をおこなった」と。また、「思円の祈禱で蒙古が降伏したことなど、どうしてありえようか」等と記しておられた。このことは、とくにわが一門にとって重大事項である。総じては日本国全体に関わる凶事である。そこで病いを忍んで、この事件に関する一端を申し述べたい。思円の祈禱によって蒙古が退散したというような噂は、結局この日蓮を亡きものにせんとする策謀であることは、あらかじめ承知している。なぜならば、日本国の真言宗をはじめとする七宗八宗の人々の大きな過失は、今に始まったことではないからだ。しかし今はその一例を挙げることとし、全体についてはご推察いただきたい。
[3]今を去ること承久三年、後鳥羽上皇が鎌倉の北条義時を屈伏させるための祈禱を比叡山・東寺・御室仁和寺・奈良七大寺・園城寺に命じられた。そして同三年の五月十五日には、鎌倉幕府の御代官の伊賀太郎判官光末を京都の六波羅において殺害してしまった。そうする間に同月十九日・二十日には、このことが鎌倉に知れ渡って大騒ぎとなり、翌二十一日には、鎌倉方は東山道・東海道・北陸道の三方面から十九万の騎兵を動員して京都へ攻め上ることとなった。ところが、同年六月十三日の夜、戌亥の時刻(午後九時前後)から、青天にわかに掻き曇って天地をゆるがすほどの雷電が起こり、関東武士どもの頭上で次々と鳴り響いた上に、車軸のような大雨が篠を立てるように降りしきった。ここに十九万騎の兵者どもは、遠路の行軍のために兵糧は尽き、馬も疲弊してしまった。沿道の人々はみな避難しているから、援助を乞うこともできない。鎧は大雨に打たれて綿のようになってしまった。関東武士どもは、ようやく京都南東の地、宇治・勢多にたどり着いて見ると、普段は三丁か四丁の川幅の宇治川が、大雨のために六丁七丁十丁にもなっている。それがために、一丈二丈もある大石が枯葉のように浮かび、五丈六丈もある大木が流れて、流れをふさぐこと、ひまもないほど猛烈である。その昔、源頼政が以仁王を奉じて挙兵した時に、宇治川にこれを攻めた足利利綱や、あるいは木曾義仲追討における宇治川合戦の先陣争いで有名になった佐々木高綱等がこの川を渡ったのとは比較にならないほどの惨憺たるありさまであった。さしもの関東武士もこの激流を見て、みな怖気づいているように見えた。しかるに今日の機会を外したなら、みな心変わりして京都方に降伏してしまうに違いない。それゆえに、馬筏を作って川を渡そうとしたところ、あるいは百騎、あるいは千万騎と、同じように皆、我も我もと渡ろうとしたが、せいぜい一丁、あるいは二三丁ぐらいで、向こう岸に到達する者は一人もいない。そうして緋綴・赤綴等の鎧や、弓矢などの武器、白星の胄などが川の中に浮いたり沈んだりして流れていくさまは、九月、十月に秋の紅葉が吉野川や立田川の川瀬に浮かぶようであった。
[4]ここに、祈禱を修している比叡山・東寺・奈良七大寺・三井園城寺等の高僧等は、このことを聞いて、これは自分等のおこなった真言の秘法、大法の効験であると悦んだ。朝廷の紫宸殿では、比叡山の座主をはじめ、東寺・御室の真言宗の高僧が五壇十五壇の秘法をいよいよ盛んにおこなったので、後鳥羽上皇のお悦びはこの上もなく、玉の御飾りを地につけられ、大法師等の御足を御手で撫でられた。これを見た大臣や公卿等は庭の上に走り落ちて、五体を地に投げ出して高僧等を拝み奉った。
[5]また宇治・勢多に向かって出陣した公卿や殿上人は、関東軍に対して胄を震い挙げて大音声を放って言うには、義時が家来の野蛮人ども、たしかに承われ。昔から今日に至るまで、王法に敵対した者でただの一人でも安穏な者があったか。あたかも犬が獅子に吼えて却ってその身を亡ぼし、修羅が日月に弓をひいて却ってその矢で自分の眼をつぶすようなものだ。遠い国の例はさておき、近くは我が国が始まって以来、人王八十余代の間、王法に敵対した者は大山の皇子、大石の小丸を始めとして二十余人もあったが、ただの一人も目的をとげた者はない。いずれも頸を獄門に懸けられ、亡骸を山野にさらした。いまや関東の武士等は、源氏にしろ平氏にしろ、武家の名門の者どもが先祖代々お仕えした主君を捨てたてまつり、伊豆の国の土民である北条義時の命令に随うから、こういう災難が起こったのだ。国王の仰せに背きたてまつり、民の指揮に随う者は、ちょうど師子王が野狐に乗せられて東西南北に走り回るようなものだ。人間一生の恥をどうするのか。急ぎ急ぎ胄を脱ぎ、弓弦をはずして降参せよと招いたところが、いったいどうしたわけか。申酉の時刻(午後五時ごろ)になったころ、関東軍は宇治川を乗り切って渡り、優勢となって逆襲してきたから、京都方の武士どもは一人も残らず山林へ逃げ隠れてしまい、宮城を守る者がいなくなって、攻められてしまった。そこで後鳥羽院は隠岐、土御門院は土佐、順徳院は佐渡へそれぞれ流され、仲恭天皇は廃され、関東軍調伏の祈禱を修した諸山の高僧、皇室の御師や上位の御房達は、住寺を追い出されたり、生き恥をさらしたりして、今に及んで六十年、いまだにその恥辱は雪がれていないと見えているのに。
[6](このように承久の乱で京都方は、真言宗の高僧に祈禱を依頼して敗北した。それにもかかわらず、)今また彼の高僧等の弟子達が、蒙古退治の祈禱を引き受けたらしいが、どうせいつものことで、秋風が吹いてわずかの波で敵の船が破損したのを、敵の大将でも生取にしたように言い触らして、これは真言秘密の御祈禱の力であると言っているようである。それならば蒙古の大王の頸は来たのかとお尋ねになるがよい。それ以上は誰が何と申しても一切御返事なさらぬがよい。御参考までにおおよそ申し述べた。貴下一門の人々にもこの由をお伝えいただきたい。
[7]また、かならず椎地四郎の一身上のことは承知しました。日蓮はすでに六十歳になりましたから、天台大師の御恩に報いたいと思いまして、見苦しくなりました庵室を修繕いたしますので、かねて御供養の銭四貫はその建築費とさせていただきます。霊山浄土へ参られたなら、銭四貫をもって一閻浮提第一の法華堂を建てましたと、教主釈尊に言上なさるがよろしい。以上、つつしんで申し述べました。
[8]<日>十月二十二日日>
[9]<人>日 蓮 <花押>花押花押>人>
[10]<先>進上 富城入道殿御返事先>