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富城入道殿御返事

全集 第6巻 2段 定本: #20413(定本の該当ページへ)

書下し

富城入道殿御返事ときにゆうどうどのごへんじ


[1]〔今月十四日の御札ぎよさつ、同じき十七日到来す。また、ぬるのちの七月十五日の御消息、同じき二十日ごろ到来せり。そのほか、度々の貴札を賜うといえども、老病たるの上、また不食気ふしよくげに候間、いまだ返報を奉らず候条、その恐れ少なからず候〕。
[2]何よりも、去ぬるのちの七月御状の内に云く、「鎮西ちんぜいには大風吹き候て、浦々島々に破損の船充満の間、乃至、京都には思円しえん上人」。又云く、〔「理、あにしからんや」〕等云云。此の事、別して此の一門の大事也。惣じて日本国の凶事也。つて病を忍んで、一端是ひとはしこれを申し候はん。是れひとえに〔日蓮を失はんとして〕、無かろう事を造りいださん事、兼て知る。〔その故は、日本国の真言宗等の七宗八宗の人々の大科、今に始めざる事なり。しかりといえども、しばらく一を挙げて万を知らしめ奉らん〕。
[3]ぬる承久じようきゆう年中に隠岐おきの法皇、〔義時よしときを失わしめんがための〕調伏じようぶくを、〔山の座主ざす東寺とうじ御室おむろ・七寺・園城おんじように仰せ付けらる。よつて同じき三年の五月十五日、鎌倉殿の御代官伊賀太郎判官光末みつすえ六波羅ろくはらにおいて失わしめ畢んぬ〕。然る間、同じき十九日・二十日鎌倉中に騒ぎて、同じき二十一日、山道・海道・北陸道の三道より十九万騎の兵者つわものを指し登らす。同じき六月十三日、その夜の戌亥いぬいの時より、青天にわかにくもりて震動雷電して、武士共こうべの上に鳴り懸りし上、〔車軸のごとき雨は篠を立つるがごとし〕。ここに十九万騎の兵者等、遠き道は登りたり、兵乱ひようらんに米は尽きぬ。馬は疲れたり。在家の人は皆隠れ失せぬ。かぶとは雨に〔打たれて綿のごとし〕。武士ども宇治うじ勢田せたに打ち寄せて見ければ、常には三丁四丁の河なれども〔既に六丁七丁十丁に及ぶ〕。然る間の一丈二丈の大石は〔枯葉のごとく浮び、五丈六丈の大木流れふさがる事、ひまなし〕。昔、利綱としつな高綱たかつな等がわたせし時には〔似るべくもなし〕。武士これを見て皆おくしてこそ見えたりしが、〔しかりといえども今日を過ごさば、皆心を翻し堕ちぬべし。去る故に馬筏うまいかだを作りてこれをわたす処、或いは百騎、或いは千万騎、かくのごとく皆我も我もと度るといえども、或いは一丁、或いは二丁三丁わたる様なりといえども、彼岸に付く者は一人もなし〕。しかる間、緋綴ひおどし赤綴あかおどし等のよろい、其の外、兵杖きゆうせんひようじよう白星しらほしかぶと等の河中に流れ浮ぶ事は、〔なお長月ながつき無神月かみなづき紅葉もみじの吉野立田たつたの河に浮ぶがごとくなり〕。
[4]〔ここに叡山・東寺・七寺・園城等の高僧等、これを聞くことを得て〕真言の秘法、大法のしるしとこそ悦び給ひける。内裏だいり紫宸殿ししんでんには山の座主・東寺・御室、五壇五壇の法をいよいよ盛んに行はれければ、法皇の御叡感きわまりなく、玉のかざりを地に付け、大法師等の御足みあし御手みてにてなで給ひしかば、〔大臣公等は庭の上へ走り落ちて、五体を地に付けて高僧等を敬い奉る〕。
[5]又宇治・勢田にむかへたる殿上人くぎようてんじようびとは、かぶとを震ひ挙げて大音声を放つて云く、義時よしとき所従の毛人もうじん等、たしかに承はれ。〔昔より今に至るまで、王法に敵をなし奉る者は何者か安穏なるや。狗犬くけんが師子をえてその腹やぶれざることなく、修羅が日月を射るにその還つてその眼にあたらざることなし。遠き例しはしばらくこれを置く〕。近くは我朝に始まつて人王八十余代の間、大山の皇子・大石の小丸を始めとして二十余人に、王法に〔敵をなし奉れども〕一人として素懐を遂げたる者なし。皆くびを獄門に懸けられ、かばねを〔山野にさらす〕。関東の武士等、或いは源平、或いは高家こうけ等、〔先祖相伝の君を捨て奉り〕、伊豆の国の民たる義時が下知げちに随ふ故に、かかる災難は出来せる也。〔王法に背き奉り、民の下知に随う者は、師子王が野狐に乗せられて東西南北へ馳走するがごとし〕。今生の恥、〔これをいかん〕。急ぎ急ぎかぶとを脱ぎ、弓弦ゆつるをはづして、参々まいれと招きける程に、いかに有りけん。申酉さるとりの時にも成りしかば、関東の武士等、河を馳せわたり、勝ちかかりて責めし間、京方の武者共〔一人もなく山林に逃げ隠るるの間〕、よつの王をば四の島へ放ちまいらせ、又高僧・御師おんし御房達ごぼうたちは、〔或いは住房を追われ、或いは恥辱に値い〕給ひて、〔今に六十年の間〕、いまだそのはぢ(恥)をすすがずとこそ見え候に。
[6]今また彼の僧侶の御弟子達、御祈うけたまはられて候げに候あひだ、いつもの事なれば、秋風にわずかの水に敵船賊船なんどの破損つかまつりて候を、大将軍生取いけどりたりなんど申し、祈り成就の由を申し候げに候也。又蒙古の大王の頸の参りて候かと問ひ給ふべし。其のほかはいかに申し候とも御返事あるべからず。御存知のためにあらあら申し候ひし也。乃至、此の一門の人々にも相触れ給ふべし。
[7]又必ず、しいぢ(椎地)の四郎が事は承はり候ひ畢んぬ。予、既に〔六十に及び〕候へば、天台大師の御恩報じ奉らんとつかまつり候あひだ、みぐるしげに候房をひきつくろい候ときに、さくれう(作料)におろ(下)して候なり。ぜに四貫をもちて、一閻浮提いちえんぶだい第一の法華堂造りたりと、霊山りようぜん浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給ふべし。恐々謹言。
[8]<日>十月二十二日
[9]<人>日 蓮<花押>花押
[10]<先>進上 城入道殿御返事
現代語訳

富城入道殿御返事


弘安四年(一二八一)一〇月、六〇歳、於身延、和漢混淆文、定一八八六—一八八九頁。(但し門下代筆)

[1]今月十四日付のお手紙、同月十七日に到着しました。また去るうるう七月十五日付のお手紙、同月二十日頃到着しました。そのほか度々貴殿からお手紙を賜りましたが、私自身老病の上に食も進みませんので、今日まで返書を差し上げることができず、恐縮いたしております。
[2]さて、数度のお手紙の中でも、重要な事がらは、去る閏七月のお手紙に、「九州では大風が吹いて、浜辺や島のあちこちに破損した船が充満している。あるいは、京都では思円上人(叡尊)が蒙古調伏の祈をおこなった」と。また、「思円の祈で蒙古が降伏したことなど、どうしてありえようか」等と記しておられた。このことは、とくにわが一門にとって重大事項である。じては日本国全体に関わる凶事である。そこで病いを忍んで、この事件に関する一端を申し述べたい。思円の祈によって蒙古が退散したというようなは、結局この日蓮を亡きものにせんとする策謀であることは、あらかじめ承知している。なぜならば、日本国の真言宗をはじめとする七宗八宗の人々の大きな過失は、今に始まったことではないからだ。しかし今はその一例を挙げることとし、全体についてはご推察いただきたい。
[3]今を去ること承久三年、後鳥羽ごとば上皇が鎌倉の北条義時を屈伏させるための祈を比叡山・東寺・御室仁和寺・奈良七大寺・園城寺に命じられた。そして同三年の五月十五日には、鎌倉幕府の御代官の伊賀太郎判官光末を京都の六波羅において殺害してしまった。そうする間に同月十九日・二十日には、このことが鎌倉に知れ渡って大騒ぎとなり、翌二十一日には、鎌倉方は東山道・東海道・北陸道の三方面から十九万の騎兵を動員して京都へ攻め上ることとなった。ところが、同年六月十三日の夜、戌亥の時刻(午後九時前後)から、青天にわかにき曇って天地をゆるがすほどの雷電が起こり、関東武士どもの頭上で次々と鳴り響いた上に、車軸のような大雨が篠を立てるように降りしきった。ここに十九万騎の兵者どもは、遠路の行軍のために兵糧は尽き、馬も疲弊してしまった。沿道の人々はみな避難しているから、援助をうこともできない。鎧は大雨に打たれて綿のようになってしまった。関東武士どもは、ようやく京都南東の地、宇治・勢多にたどり着いて見ると、普段は三丁か四丁の川幅の宇治川が、大雨のために六丁七丁十丁にもなっている。それがために、一丈二丈もある大石が枯葉のように浮かび、五丈六丈もある大木が流れて、流れをふさぐこと、ひまもないほど猛烈である。その昔、源頼政が以仁王もちひとおうを奉じて挙兵した時に、宇治川にこれを攻めた足利利綱や、あるいは木曾義仲追討における宇治川合戦の先陣争いで有名になった佐々木高綱等がこの川を渡ったのとは比較にならないほどの惨憺たるありさまであった。さしもの関東武士もこの激流を見て、みな怖気おじけづいているように見えた。しかるに今日の機会を外したなら、みな心変わりして京都方に降伏してしまうに違いない。それゆえに、馬筏を作って川を渡そうとしたところ、あるいは百騎、あるいは千万騎と、同じように皆、我も我もと渡ろうとしたが、せいぜい一丁、あるいは二三丁ぐらいで、向こう岸に到達する者は一人もいない。そうして緋綴・赤綴等のよろいや、弓矢などの武器、白星のかぶとなどが川の中に浮いたり沈んだりして流れていくさまは、九月、十月に秋の紅葉が吉野川や立田川の川瀬に浮かぶようであった。
[4]ここに、祈を修している比叡山・東寺・奈良七大寺・三井園城寺等の高僧等は、このことを聞いて、これは自分等のおこなった真言の秘法、大法の効験であると悦んだ。朝廷の紫宸殿では、比叡山の座主をはじめ、東寺・御室の真言宗の高僧が五壇十五壇の秘法をいよいよ盛んにおこなったので、後鳥羽上皇のお悦びはこの上もなく、玉の御飾りを地につけられ、大法師等の御足を御手で撫でられた。これを見た大臣や等は庭の上に走り落ちて、五体を地に投げ出して高僧等を拝み奉った。
[5]また宇治・勢多に向かって出陣したや殿上人は、関東軍に対して胄を震い挙げて大音声を放って言うには、義時が家来の野蛮人ども、たしかに承われ。昔から今日に至るまで、王法に敵対した者でただの一人でも安穏な者があったか。あたかも犬が獅子に吼えて却ってその身を亡ぼし、修羅が日月に弓をひいて却ってその矢で自分の眼をつぶすようなものだ。遠い国の例はさておき、近くは我が国が始まって以来、人王八十余代の間、王法に敵対した者は大山の皇子、大石の小丸を始めとして二十余人もあったが、ただの一人も目的をとげた者はない。いずれも頸を獄門に懸けられ、亡骸なきがらを山野にさらした。いまや関東の武士等は、源氏にしろ平氏にしろ、武家の名門の者どもが先祖代々お仕えした主君を捨てたてまつり、伊豆の国の土民である北条義時の命令に随うから、こういう災難が起こったのだ。国王の仰せに背きたてまつり、民の指揮に随う者は、ちょうど師子王が野狐に乗せられて東西南北に走り回るようなものだ。人間一生の恥をどうするのか。急ぎ急ぎかぶとを脱ぎ、弓弦をはずして降参せよと招いたところが、いったいどうしたわけか。申酉の時刻(午後五時ごろ)になったころ、関東軍は宇治川を乗り切って渡り、優勢となって逆襲してきたから、京都方の武士どもは一人も残らず山林へ逃げ隠れてしまい、宮城を守る者がいなくなって、攻められてしまった。そこで後鳥羽ごとば院は隠岐、土御門つちみかど院は土佐、順徳院は佐渡へそれぞれ流され、仲恭ちゆうきよう天皇は廃され、関東軍調伏の祈を修した諸山の高僧、皇室の御師や上位の御房達は、住寺を追い出されたり、生き恥をさらしたりして、今に及んで六十年、いまだにその恥辱はすすがれていないと見えているのに。
[6](このように承久の乱で京都方は、真言宗の高僧に祈を依頼して敗北した。それにもかかわらず、)今また彼の高僧等の弟子達が、蒙古退治の祈を引き受けたらしいが、どうせいつものことで、秋風が吹いてわずかの波で敵の船が破損したのを、敵の大将でも生取にしたように言い触らして、これは真言秘密の御祈の力であると言っているようである。それならば蒙古の大王の頸は来たのかとお尋ねになるがよい。それ以上は誰が何と申しても一切御返事なさらぬがよい。御参考までにおおよそ申し述べた。貴下一門の人々にもこの由をお伝えいただきたい。
[7]また、かならず椎地しいじ四郎の一身上のことは承知しました。日蓮はすでに六十歳になりましたから、天台大師の御恩に報いたいと思いまして、見苦しくなりました庵室を修繕いたしますので、かねて御供養の銭四貫はその建築費とさせていただきます。霊山浄土へ参られたなら、銭四貫をもって一閻浮提第一の法華堂を建てましたと、教主釈尊に言上ごんじようなさるがよろしい。以上、つつしんで申し述べました。
[8]<日>十月二十二日
[9]<人>日 蓮 <花押>花押
[10]<先>進上 富城入道殿御返事