妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

忘持経事

全集 第6巻 2段 定本: #20212(定本の該当ページへ)

書下し

忘持経事ぼうじきようじ


[1]忘れ給う所の御持経おんじきよう、追つて修行者に持たせこれを遣わす。あいこう云く、「人く忘るる者あり。移宅わたましにすなわちその妻を忘れたり」云云。孔子こうし云く、「また好く忘るること、これより甚しき者あり。桀紂けつちゆうの君はすなわちその身を忘れたり」等云云。それ槃特尊者*はんどくそんじやは名を忘る。これ閻浮えんぶ第一の好く忘るる者なり。今常忍*じようにん上人は持経を忘る。日本第一の好く忘るるのひとか。
[2]大通結縁だいつうけちえんともがら衣珠えじゆを忘れ、三千塵劫*さんぜんじんごうを経てびんろちちゆうし、久遠下種くおんげしゆの人は良薬ろうやくを忘れ、五百塵点*ごひやくじんでんを送りて三途さんず嶮地けんちてんどうせり。今真言宗・念仏宗・禅宗・律宗等の学者等は仏陀ぶつだの本意を忘失もうしつし、未来無数劫むしゆこう経歴きようりやくして阿鼻あび火坑かきよう沈淪ちんりんせん。これより第一の好く忘るる者あり。いわゆる今の世の天台宗の学者等と持経者等との日蓮を誹謗ひほうし、念仏者等を扶助ふじよするこれなり。親に背きて敵に付き、刀を持ちて自らを破る。これらはしばらくこれを置く。
[3]それ常啼菩じようたいぼさつは東に向かつて般若はんにやを求め、善財童子ぜんざいどうじは南に向かつて華厳けごんを得る。雪山せつせん小児しように半偈はんげに身を投げ、楽法梵志ぎようぼうぼんじ一偈いちげに皮をぐ。これらは皆上聖じようしよう大人だいにんなり。そのあとかんがえるに地住じじゆうし、そのもとを尋ぬれば等妙とうみようなるのみ。身は八熱はちねつ火坑三昧かきようざんまいを得、心は八寒はちかんつて清涼三昧しようりようざんまいを証し、身心共に苦なし。譬えば矢を放ち虚空こくう、石を握つて水に投ずるがごとし。
[4]常忍じようにん、貴辺は末代の愚者ぐしやにして見思未断けんじみだん凡夫ぼんぶなり。身は俗にあらず道にあらず、禿居士とくこじ。心は善にあらず悪にあらず、羝羊ていようのみ。しかりといえども一人の悲母ひも、堂にあり。あしたいでて主君にもうで、ゆうべりて私宅に返り、営む所は悲母のため、存する所は孝心のみ。しかるに去月下旬のころ、生死のことわりを示さんがために黄泉こうせんの道におもむく。ここに貴辺といて云く、「よわいすでに九旬くじゆんに及び、子を留めて親の去ること次第たりといえども、倩事つらつらことの心を案ずるに、去りて後は来るべからず、何れの月日をかせん。二母にも国になし、今より後は誰をか拝すべき」。
[5]離別忍りべつしのび難きの間、舎利しやりくびけ、足にまかせて大道にで、下州げしゆうより甲州こうしゆうに至る。その中間往復千里に及ぶ。国々皆飢饉ききんして山野に盗賊とうぞく充満し、宿々粮米乏少ろうまいぼうしようなり。我が身羸弱るいじやく所従亡しよじゆうなきがごとく、牛馬合期ごうごせず。峨々ががたる大山重々として、漫々まんまんたる大河多々なり。高山に登ればこうべを天にさしはさみ、幽谷ゆうこくに下れば足は雲を踏む。鳥にあらざれば渡りがたく、鹿にあらざれば越えがたし。眼眩まなこくるめき足ゆ。羅什三蔵らじゆうさんぞう葱嶺そうれいえん優婆塞うばそく大峰おおみね只今ただいまなりと云云。しかる後、深洞じんどうたずね入りて一庵室いちあんしつを見る。法華読誦ほつけどくじゆこえ、青天に響き、一乗談義いちじようだんぎことば、山中に聞こゆ。
[6]案内あないれて室に入り、教主釈尊の御宝前ごほうぜんに母の骨を安置し、五体を地に投げ合掌して両眼を開き尊容そんようを拝し、歓喜身かんぎみあまり心の苦しみたちまむ。我がこうべは父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。たとえば種子たね菓子このみと、身と影とのごとし。教主釈尊の成道じようどう浄飯じようぼん摩耶まや得道とくどう吉占師子きつせんしし青提女*しようだいによ尊者*もつけんそんじやは同時の成仏なり。かくのごとく観ずる時、無始むし業障忽ごつしようたちまちに消え、心性しんしよう妙蓮みようれん忽ちに開き給うか。しかして後に随分仏事をなし、事故ことゆえなく還り給う云云。恐々謹言。
[7]<先>木入道殿
現代語訳

忘持経事


建治二年(一二七六)三月、五五歳、於身延、富木常忍宛、原漢文、定一一五〇—一一五一頁。

[1]お忘れになられたつねに御所持の法華経の経巻を、修行中の弟子に持たせて追いかけてお届け致した。昔、魯の衰と孔子のやりとりがある。衰のいわく、「もの忘れのひどい人がいて、家を引っ越す際に、自分の妻を忘れてしまった」と。孔子が答えて、「それよりも、もっとひどい忘れ者がいる。夏の桀王、殷の紂王で、これらはともに悪政を布いて自らを忘れてしまった」と。さて仏弟子の中でも、須梨槃特は自分の名を忘れたという。これこそ世界第一の忘れん坊であろう。そしていま常忍上人、貴殿は大切な持経をお忘れになった。日本第一の忘れん坊と言うべきであろうか。
[2]はるか昔の大通智勝如来の時、法華経を聴聞し結縁を受けた人々ではあっても、衣の裏に縫いこめられた宝珠を忘れ、三千塵点劫の長い間、しいをさまよい苦しみ、また久遠の昔に仏種を植えられた人々ではあっても、良薬を与えられたことを忘れて、五百億塵点劫もの間、地獄・餓鬼・畜生の三悪道のけわしい地にさまよい続けている。いま真言宗・念仏宗・禅宗・律宗等の学者たちは、仏陀の本意を忘れ去っている。未来永劫にいたるまで、無間地獄の火坑に堕ち沈むであろう。これよりさらに仏陀の本意を忘れはてた者がいる。すなわち今の時代の天台宗の学者やその弟子・檀越たち、あるいは法華経をたもつ人たちが、法華経の本意を説いている日蓮を誹謗し、かえって念仏の徒を助けている人たちである。これは、まさに親に背いて敵(かたき)に付き、刀を持って自分を斬るようなものである。これらのことは、ご承知のことだからしばらく措くことにする。
[3]さて、常啼菩は身の骨肉を売りながら東に般若経を求め、善財童子は五十三人の指導者を遍歴しながら南に華厳経を得た。雪山童子は羅刹の半偈を聞くために身を投げ、楽法梵志は一偈の文を書き写すために身の皮をいだ。これらの求法者はみな最上の聖者であり、すぐれた菩たちである。これらの方々の垂迹された姿をよく考えてみると、身は十地・十住の菩の修行位階中の初地、初住におられるが、その本地を尋ねれば仏に最も近い等覚の位、あるいは妙覚という仏の位である。したがって身は八熱地獄に入っても火坑三昧という静寂な境地を得、心は八寒地獄に入っても清涼三昧という境地を証得するのであって、身心ともに苦痛はない。たとえば矢を放って虚空を射ても、石を握って水に投げても、何の障りもないようなものである。
[4]いま常忍殿、貴殿は末代の愚者であり、見惑・思惑の煩悩を断ち切れない凡夫である。その身は俗人でもなければ僧でもない、いわば僧形の俗人である。心は善でもなく悪でもなく、因果をわきまえない愚かなおひつじのようなもの。しかしながら、貴殿には一人の悲母がお宅におられた。朝には勤めに出て主君に仕え、夕方になれば私宅に帰る。その毎日の生活はその母上のため、内に持つのは孝心のみであった。しかるに先月下旬のころ、生死無常の道理を示されて、ついに母上は黄泉よみの国へ行ってしまわれた。ここで貴殿とともにきあったことは、「老歳すでに九十を過ぎられた以上、子を残して親が去られること、ものの順序とはいいながら、よくよく母の死を思えば、去の後はふたたび戻ってこられない。いつの日にか再会できる予定などあるはずもない。二人の母がこの世にはいられない。今より後はいったいどなたに孝養の心を尽くしたらよいのであろうか」と。
[5]貴殿は離別の悲しみに耐え難いので、母の遺骨を首にかけ、足にまかせて大路を歩き、下国から甲斐国へお出でになられた。その間の道程は往復千里にも及ぶ。国々はみな飢饉に襲われ、山野には盗賊が充満し、宿場宿場には食糧も乏しい。しかも貴殿は身体が弱く、供の者とて無きに等しく、牛馬でさえもあてにはならない。峨々たる大山は折り重なってそびえ、漫々と水をたたえた大河は次々に横たわる。高山に登れば頭は天にさしはさむようで、幽谷に下れば足は雲を踏むかのようである。鳥でなければ渡りがたく、鹿でなければ越えがたい。眼はまわり足はふるえる。昔、鳩摩羅什三蔵が越えたパミール高原や、役小角(えんのおづぬ)が修行した大峰山も、今越えている山と同じではないかと思われたことであろう。かくして、ようやく深い洞窟のような身延山中に尋ね入ると、一つの庵室にたどり着く。昼は法華経読誦の声が天まで響き、夜は法華経の説法が山中にとどろく。
[6]案内の者に導かれて庵室に入り、教主釈尊の御宝前に母上の遺骨を安置し、五体を地に投げ出してその前にひれ伏し、合掌して両眼を開いて法華経の教主釈尊の尊容を拝すれば、宗教的な悦びが身体にあふれて、心の苦しみもたちまちに消えてしまった。それのみならず、父母への感謝の念が涌きあがり、わが頭は父母の頭、わが足は父母の足、わが十指は父母の十指、わが口は父母の口、自分の肉体はすべて父母から受け継いだものなのだと自覚を持たれている。その関係は、たとえば種子と果実、身と影とのように不可分なもの。教主釈尊の成道は、父の浄飯王と母の摩耶夫人が成道されたことと同じである。また釈尊の弟子の目連尊者の成仏は、同時にその父吉占師子、その母青提女の成仏なのである。このように貴殿が親子同時成仏の世界を観じ取り、体得されたとき、無始の過去から積んできた悪業の障りはたちまちに消え、心の妙法蓮華の仏種はたちまちに花開いたことであろう。このように仏前において父母への思いをめぐらせた後、心ゆくまで亡母の供養の仏事を営まれ、無事にお帰りになられた次第であった。以上つつしんで申し上げた。
[7]<先>富木入道殿