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道場神守護事

全集 第6巻 2段 定本: #20232(定本の該当ページへ)

書下し

道場神守護事どうじようじんしゆごじ


[1]鵞目がもく五貫文、たしかに送り給び候いおわんぬ。かつ知食しろしめすがごとく、この所は里中を離れたる深山なり。衣食乏少えじきぼうしようの間、読経どきようの声続きがたく、談義だんぎの勤め廃しつべし。この託宣たくせん十羅刹*じゆうらせつ御計おんはからいにてだんなの功を致さしむるか。
[2]止観しかん第八に云く、「帝釈堂たいしやくどう小鬼しようき敬いくるがごとし。道場のかみ大なればみだりにしんにようすることなし。また城のあるじ剛なれば守る者も強し。城の主おそるれば守る者おそる。心はこれ身の主なり。同名同生どうみようどうしようの天これく人を守護す。心かたければ則ち強し。身の神なおしかなり。いわんや道場の神をや」。弘決ぐけつ第八に云く、「常に人をまもるといえども、必ず心固きにりて神の守りすなわち強し」。また云く、「身の両肩の神すら、なおつねに人を護る。いわんや道場の神をや」云云。人、所生しよしようの時より二神守護す。いわゆる同生天どうしようてん同名天どうみようてん、これを倶生神くしようじんと云う。華厳けごん経の文なり。
[3]文句もんぐの四に云く、「ぞく南無仏なむぶつと称して、なお天頭てんずを得たり。いわんや賢者称せば十方じつぽう尊神そんじんあえて当らざらんや。ただ精進しようじんせよ、懈怠けだいすることなかれ」等云云。釈の意は、月氏がつしに天を崇めて仏を用いざる国あり。しかるに寺を造り、第六天の魔王を主とす。こうべこがねをもつてす。大賊、年来としごろこれを盗まんとして得ず。有時あるとき仏前にもうで物を盗んで法を聴く。仏説きて云く、「南無とは驚覚の義なり」。盗人これを聞いて南無仏と称して天頭を得たり。これを糾明する処、盗人、上のごとくこれを申す。一国、皆天を捨て仏に帰せり云云。彼をもつてこれを推するに、たといとがある者も三宝を信ぜば大難を脱れんか。
[4]しかるに今示し給える託宣の状は兼ねてこれを知る。これを案ずるに、難をつて福来る先兆のみ。妙法蓮華経の妙の一字は竜樹菩の大論に釈して云く、「く毒を変じて薬となすと」云云。天台大師云く、「今経に記を得る、すなわちこれ毒を変じて薬となすなりと」云云。災い来るも変じて幸いとならん。いかにいわんや十羅刹、これを兼ぬるをや。たきぎの火をさかんにし、風の求羅ぐらすとはこれなり。ことばは紙上に尽し難し。心をもつてこれをはかれ。恐々謹言。
[5]<日>十二月十三日
[6]<人>日 蓮<花押>花押
[7]<先>御返事
現代語訳

道場神守護事


建治二年(一二七六)一二月一三日、五五歳、於身延、富木常忍宛、原漢文、定一二七四—一二七五頁。

[1]銭五貫文、たしかにお送りいただき、ありがたく頂戴いたしました。すでにご存知の通り、この身延は人里を離れた深山であります。衣食が乏しくては読経の声も途切れ、法門の談義も怠りがちになりかねません。きっとこれは法華経の守護神である十羅刹女じゆうらせつによが託宣して供養させ、檀をして布施の功徳を積ませているのでありましょう。
[2]摩訶止観まかしかん第八巻に、「帝釈天の御堂では魔鬼が怖れをなして敬い避けるように、道場神が偉大ならば悪鬼がみだりにおかすことはできない。また城主が剛毅ならば守兵も強く、城主がおじければ守兵も臆病になる。心は身体の主であって、同名・同生の二天が常に人を守護している。心が堅固であれば守りも強い。身体の神ですらそうである。まして道場神はなおさらである」とあります。これを解釈して摩訶止観輔行伝弘決ぶぎようでんぐけつ第八巻には、「同名・同生の二天は常に人を護っているが、その人の心が堅固であれば、同時に神の守護も強いのである」といい、また、「人の両肩に住まう神でさえ身体を守るのであるから、まして道場神はなおさらである」とあります。人は生まれた時から同生天・同名天の二神が守護しており、これを倶生神という。これは華厳経の文です。
[3]法華文句ほつけもんぐ第四巻には、「盗賊が南無仏と称えてさえ金の頭を得たのであるから、まして賢者が称えたら十方の尊神が利益りやくしないはずはない。ただ精進せよ、怠けてはならない」と記されております。この釈の意は、昔インドに天の神を崇めて仏法を重んじない国があった。そこへ寺が建立され、第六天の魔王が祭られた。この像の頭が黄金であったので、盗賊が久しくこれを狙っていたが、果たせなかった。ある時、盗賊が寺に忍び込んで仏の説法を聴聞し、「南無」とは驚き覚める義であると聞いた。そこで盗賊は「南無仏」と称えると、日頃盗もうとしていた像の天頭を得た。後に糾明されるに及んで盗賊がこのことを告白したので、その一国はこぞって天の神を捨てて仏に帰したということであります。かの例から推察すれば、たとえ罪のある者でも、仏法を信ずれば大難を脱れるでありましょうか。
[4]ところで今、十羅刹女の託宣を記されたお手紙の趣旨は、かねがね存じております。これを察するに、これは災難を退けて幸福の来る前兆でありましょう。妙法蓮華経の「妙」の一字について、竜樹菩大智度論だいちどろんには「毒を変じて薬となすことができる」と説かれ、天台大師も「二乗が法華経で成仏を許されたのは、毒を変じて薬としたものである」と釈されております。ですから災難が来ても、それが変じて幸福となるに違いありません。ましてや十羅刹女の守護があるのですから、たとえば薪が火を盛んにし、風が吹いて羅求羅からぐらという虫が増えるように、幸福が盛んになることでしょう。くわしいことは手紙には尽くせません。心をもってご推量ください。つつしんで申し述べました。
[5]<日>十二月十三日
[6]<人>日 蓮 <花押>花押
[7]<先>御返事