妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

富木殿御返事

全集 第6巻 2段 定本: #162(定本の該当ページへ)

書下し

富木殿御返事ときどのごへんじ


[1]「<先>木殿 御返事     <人>日蓮
[2]かたびら一領、び候ひおわんぬ。
[3]れ、仏弟子の中、比丘一人はんべり。飢饉ききんの世に、仏の御時おんときことかけて候ひければ、比丘、袈裟けさをう(売)て其のあたいを仏に奉る。仏、其の由来を問ひ給ひければ、「しか」とありのままに申しけり。仏云く、「袈裟はこれ三世さんぜ諸仏解脱しよぶつげだつ法衣ほうえなり。このあたひ(価)をば我れほうじがたし」と辞退しましかば、此の比丘申す、「さてこの袈裟あたひをばいかんがせん」と申しければ、仏の云く、「なんじ、悲母ありやいなや」。答て云く、「あり」。仏の云く、「この袈裟をば汝が母に供養すべし」。此の比丘、仏にもうさく、「仏はこの三界の中、第一の特尊どくそんなり。一切衆生いつさいしゆじようの眼目にてをはす。たとひ十方じつぽう世界をおおころもなりとも、大地にしく袈裟なりとも、よく報じ給ふべし。我が母は無智なる事、牛のごとし。羊よりもはかなし。いかでか袈裟の信施しんせをほうぜん」と云云。仏返吉へんきつ(詰)して云く、「汝が身をば誰が生みしぞや。汝が母これを生む。この袈裟の恩報じぬべし」等云云。
[4]これはまた、齢九旬よわいくじゆんにいたれる悲母の、愛子にこれをまいらせさせ給ふ。しかも我れと老眼をしぼり、身命しんみようを尽くせり。我れ子の身としてこのかたびらの恩かたしとをぼしてつかわせるか。日蓮またほうじがたし。しかれどもまたかえすべきにもあらず。この帷をきて日天につてん御前みまえにして、この子細を申し上げば、定めて釈梵しやくぼん諸天しろしめすべし。帷一つなれども十方の諸天これをしり給ふべし。つゆを大海によせ、つちを大地に加ふるがごとし。生々しようじようせじ、世々せせにくちざらむかし。恐恐謹言。
[5]<日>二月七日
[6]<人>日 蓮<花押>花押
現代語訳

富木殿御返事


文永一二年(一二七五)二月七日、五四歳、於身延、和文、定八六〇—八六一頁。

[1]「<先>富木殿 御返事     <人>日蓮」(書状の上封に書かれた宛書)
[2]帷子かたびら一領、ありがたく頂戴いたしました。
[3]さて、昔、仏弟子の中に一人の比丘がおりました。飢饉の世で、仏さまのお食事にこと欠きましたので、比丘は自分の袈裟を売ってその代価を仏に差し上げました。そこで仏さまが、そのいきさつをお尋ねになられましたので、「これこれしかじかです」と、ありのままにお答えしました。すると仏さまの仰せられるのには、「袈裟というのは三世の諸仏の解脱の法衣である。その法衣を売って得られた価のご恩に自分は報いることができない」とて、ご辞退なされました。そこでこの比丘の言うのには、「ではこの袈裟の代価をどういたしましょうか」と問いましたので、仏は、「そなたには母があるか」と問われました。すると「おります」と答えました。さらに仏は、「ではこの袈裟の価は、そなたの母に差し上げるがよかろう」と仰せられた。そこで比丘は仏に対して申し上げました。「仏さまはこの三界の中で、第一に特別な尊いお方であります。生きとし生けるもののまなこでいらっしゃいます。たとえ十方の世界を覆うほどの衣であろうとも、大地に敷きつめるほどの袈裟であろうとも、仏さまはそのご恩によく報じられるでありましょう。私の母は無智なることは牛のようであり、羊よりもはかない人間であります。どうして袈裟の布施に対して報いることができましょう」と。すると仏は返って詰問なさいました。「そなたの身体は、いったい誰が生んだのかな。そなたの母が生んでくれたのではないか。この袈裟の恩を報ずることができるに相違ない」と、述べられたのであります。
[4]さて、このたびの帷子もまた、御歳九十にもなられる母上が、愛しい我が子である貴殿のために仕立てられたものです。しかも自ら老いの眼をしばたたかせながら、身命の限りを尽くされたものです。貴殿は、ご自分は子として、この帷子の恩に報いることはできぬと思われて、私に遣わされたものでしょうか。とすれば日蓮も御母の深い恩に報いることはできません。しかしながら、貴殿と御母のお気持を汲みますと、これはお返しすべきではありません。ありがたくこの帷子を着て、日天子の御前で、このいきさつを申し上げますならば、かならずや梵天・帝釈・四天等もご承知下さることでありましょう。帷子は一枚でありますけれども、十方の諸天もこのことをお知りになるでありましょう。そういたしますと、この帷子の功徳は、わずかに一滴の露を大海に集め、ひとかけらの土を大地に加えるようなものではありますが、生々に失せることなく、世々に朽ちることもない、大きな功徳となるでありましょう。つつしんで申し述べました。
[5]<日>二月七日
[6]<人>日 蓮 <花押>花押