滝泉寺申状
書下し
滝泉寺申状
[1]大体この状の様あるべきか。ただし熱原の沙汰の趣にその子細出来せるか。
[2]駿河の国富士下方滝泉寺大衆、越後房日弁・下野房日秀等謹んで弁言す。
[3]当寺院主代平左近入道行智、条々の自科を塞ぎ遮らんがために、不実の濫訴を致すこといわれなき事。
[4]訴状に云く、日秀・日弁、日蓮房の弟子と号し、法華経より外の余経、或は真言の行人は、皆もつて今世後世叶うべからざるの由、これを申す云云。取意。
[5]この条は日弁等の本師日蓮聖人、去ぬる正嘉以来の大仏星・大地動等を観見し、一切経を勘えて云く、当時日本国のていたらく、権小に執着し、実経を失没せるの故に、まさに前代未有の二難を起すべし。いわゆる自界叛逆難・他国侵逼難なり。よつて治国の故を思い、兼日かの大災難を対治せらるべきの由、去ぬる文応年中一巻の書を上表す〈立正安国論と号す〉。勘え申す所皆もつて符合す。既に金口の未来記に同じ、あたかも声と響とのごとし。
[6]外書に云く、「未萠を知るは聖人なり」。内典に云く、「智人は起を知り、蛇は自ら蛇を知る」云云。これをもつてこれを思うに、本師はあに聖人にあらずや。巧匠内に在り、国宝外に求むべからず。外書に云く、「隣国に聖人あるは敵国の憂なり」云云。内経に云く、「国に聖人あれば天必ず守護す」云云。外書に云く、「世必ず聖智の君あり、しかしてまた賢明の臣あり」云云。この本文を見るに、聖人国にあるは日本国の大喜にして、蒙古国の大憂なり。諸龍を駈り催して、敵舟を海に沈め、梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし。君既に賢人にましまさば、あに聖人を用いずして、いたずらに他国の逼を憂えん。
[7]抑も大覚世尊、遙に末法闘諍堅固の時を鑒み、かくのごとき大難を対治すべきの秘術、説き置かせらるるの経文明々たり。しかりといえども、如来の滅後二千二百二十余年が間、身毒・尸那・扶桑等一閻浮提の内にいまだ流布せず。随つて四依の大士内に鑑みて説かず、天台・伝教しかも演べず、時いまだ至らざるが故なり。法華経に云く、「後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布す」云云。天台大師云く、「後五百歳」。妙楽云く、「五々百歳」。伝教大師云く、「代を語れば則ち像の終り末の初め、地を尋ぬれば唐の東羯の西、人を原ぬれば則ち五濁の生闘諍の時」云云。東勝西負の明文なり。法主聖人時を知り、国を知り、法を知り、機を知り、君の為、民の為、神の為、仏の為、災難を対治せらるべき由、勘え申すといえども御信用なきの上、あまつさえ謗法の人等の讒言によつて、聖人頭に疵を負い、左手を打ち折らるるの上、両度まで遠流の責を蒙り、門弟等所々に射殺され、切り殺され、殺害・刃傷・禁獄・流罪・打擲・擯出・罵詈等の大難勝て計うるべからず。これによつて大日本国皆法華経の大怨敵と成り、万民悉く一闡提の人となる故に、天神国を捨て地神所を辞し、天下静かならざるの由、ほぼ伝承するの間、その仁にあらずといえども、愚案を顧みず言上せしむる所なり。
[8]外経に云く、「奸人朝にあれば賢者進まず」云云。内経に云く、「法を壊る者を見て、責めざる者は仏法の中の怨なり」云云。また風聞のごとくんば、高僧等を屈請して蒙古国を調伏すと云云。その状を見聞するに、去る元暦承久の両帝、叡山の座主・東寺・御室・七大寺・園城寺等の検校長吏等の諸の真言師を請い向け、内裏の紫宸殿にして故源右将軍並に故平右虎牙を呪詛し奉る日記なり。この法を修するの仁は弱くしてこれを行えば必ず身を滅し、強てこれを持てば定めて主を失うなり。しかれば則ち安徳天皇は西海に沈没し、叡山の明雲は死流の失に当り、後鳥羽法皇は夷の島に放ち捨てられ、東寺・御室は自ら高山に死し、北嶺の座主は改易の恥辱に値う。現罰眼を遮り、後賢これを畏る。聖人山中の御悲しみはこれなり。
[9]次に阿弥陀経をもつて例事の勤となすべき由の事。
[10]それおもんみれば、花と月と水と火と、時によつてこれを用ゆ。必ずしも先例を追うべからず。仏法もまたかくのごとし、時に随つて用捨す。その上、汝等の執する所の四枚の阿弥陀経は、四十余年未顕真実の少経なり。一閻浮提第一の智者たる舎利弗尊者、多年の間、この経を読誦するも、ついに成仏を遂げず。しかる後、彼の経を抛ち、法華経に来至して華光如来となる。いわんや末代悪世の愚人、南無阿弥陀仏の題目計りを唱えて、順次往生を遂ぐべしや。故に仏これを誡めて言く、法華経に云く、「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説く」と云云。教主釈尊正しく阿弥陀経を抛ちたまう云云。また涅槃経に云く、「如来は虚妄の言なしといえども、もし衆生の虚妄の説によるを知れば」と云云。正しく弥陀念仏をもつて虚妄と称する文なり。法華経に云く、「ただ楽つて大乗経典を受持し、乃至余経の一偈をも受けざれ」云云。妙楽大師云く、「いわんや彼の華厳はただ福をもつて比す。この経の法をもつてこれを化するに同じからず。故に乃至不受余経一偈」と云う云云。
[11]彼の華厳経は寂滅道場の説、法界唯心の法門なり。上本は十三世界微塵品、中本は四十九万八千偈、下本は十万偈四十八品。今現に一切経蔵を観るに、ただ八十・六十・四十等の経なり。その外の方等・般若・大日経・金剛頂経等の諸の顕密の大乗経等を、なお法華経に対当し奉りて、仏自ら或は未顕真実と云い、或は留難多きが故に、或は門を閉じよ、或は抛て等云云。いかにいわんや、阿弥陀経をや。ただ大山と蟻岳との高下、師子王と狐菟との捔力なり。今日秀等、彼等小経を抛て、専ら法華経を読誦し、法界に勧進して南無妙法蓮華経と唱え奉る。あに殊忠にあらずや。此等の子細御不審をあい貽さば、高僧等を召し合せられ、是非を決せらるべきか。仏法の優劣を糺明せらるる事は、月氏・漢土・日本の先例なり。今明時に当て何ぞ三国の旧規に背かんや。
[12]訴状に云く、今月二十一日数多の人勢を催し、弓箭を帯し、院主分の御坊内に打ち入り、下野房は乗馬相具し、熱原の百姓紀の次郎男点札を立て、作毛を苅り取て、日秀の住房に取り入れ畢んぬ云云取意。この条跡形もなき虚誕なり。日秀等行智に損亡せられ、不安堵の上は、誰人か日秀等の点札を叙用せしむべき。はたまた尫弱なる土民の族、日秀等に雇い越されんや。もししかれば、弓箭を帯し悪行を企つるにおいては、行智と云い近隣の人々と云い、いかでか弓箭を奪い取り、その身を召し取りて、子細を申さざるや。矯飾の至りよろしく賢察にたるべし。
[13]日秀・日弁等当寺代々の住侶となり、行法の薫を積むの条、天長地久の御祈禱を致すの処、行智は当寺霊地の院主代に補しながら、寺家の三河房頼円並に少輔房日禅・日秀・日弁等に仰せて、行智法華経においては不信用の法なり。速に法華経の読誦を停止し、一向に阿弥陀経を読み、念仏を申すべきの由、起請文を書けば安堵すべきの旨、下知せしむるの間、頼円は下知に随て起請を書きて安堵せしむといえども、日禅等は起請を書かざるによつて、所職の住房を奪い取るの時、日禅はすなわち離散せしめ畢んぬ。日秀・日弁は無頼の身たるに依て、所縁を相憑み、なお寺中に寄宿せしむるの間、この四ケ年の程日秀等の所職の住房を奪い取り、厳重に御祈禱を打ち止むるの余り、悪行なおもつて飽きたらずして、法華経の行者の跡を削らんがために、謀案を構えて、種々の不実を申し付くるの条、あに在世の調達にあらずや。
[14]およそ行智の所行は、法華三昧の供僧和泉房蓮海をもつて、法華経を柿紙に作りて、紺形に彫る。堂舎の修治のために、日弁に御書を給い下して構え置く所の上に葺榑一万二千寸の内、八千寸をこれを私用せしむ。下方の政所代に勧め、去る四月御神事の最中に、法華経信心の行人四郎男を刃傷せしめ、去る八月弥四郎男の頸を切らしむ(日秀等を刎頭に擬する事をこの中に書き入る)。無知無才の盗人兵部房静印をもつて過料を取り、器量仁と称して、当寺の供僧に補せしめ、或は寺内の百姓等を催し、鶉を取り、狸を狩り、狼落しの鹿を殺し、別当の坊においてこれを食い、或は毒物を仏前の池に入れ、若干の魚類を殺し、村里に出してこれを売る。見聞の人耳目を驚かさざるはなし。仏法破滅の基、悲しみて余りあり。かくのごときの不善悪行日々相積むの間、日秀等愁歎の余り、依つて上聞を驚かさんと欲す。行智条条の自科を塞がんがために、種々の秘計を廻らし、近隣の輩を相語らい、遮つて跡形もなき不実を申し付け、日秀等を損亡せしめんと擬するの条、言語道断の次第なり。
[15]頭に付け頸に付け□戒めの御沙汰なからんや。所詮仏法の権実と云い、沙汰の真偽と云い、淵底を究めて御尋ねあり、かつは誠諦の金言に任せ、かつは式条の明文に准じ、禁遏を加えられば、守護の善神は変を鎖し、擁護の諸天は咲いを含まん。しからばすなわち、不善悪行の院主代行智を改易せられ、はたまた本主この重科を脱れがたからん。何ぞ実相寺に例如せん。誤らざるの道理に任せて、日秀・日弁等安堵の御成敗を蒙り、堂舎を修理せしめ、天長地久の御祈禱の忠勤を抽でんと欲す。仍て状を勒し披陳す。言上件のごとし。
[16]弘安二年<日>十月 日日>
[17]<人>沙門 日秀日弁等上る人>
現代語訳
滝泉寺申状
弘安二年(一二七九)一〇月、五八歳、於身延、原漢文、定一六七七—一六八二頁。
[1]おおよそ、この書状の内容で良いと思います。ただし、熱原法難に対しては、幕府の処理で種々面倒な事件が起こるでありましょう。 (本行は本申状につけられた別紙一行の日蓮聖人の加筆)
[2]駿河国富士郡下方滝泉寺の大衆である越後房日弁・下野房日秀ら、ここに謹んで弁明いたします。
[3]はじめに、滝泉寺院主代の平左近入道行智が、さまざまの自分で犯した罪科を隠すために、みだりに無実の訴訟を起こしたことは正当な理由がないことについてであります。
[4]行智の訴状に、日秀・日弁は日蓮房の弟子と名乗り、法華経以外の諸経や真言の行者の修行は、この現世には何の利益もなく、後世にも成仏することはできないと主張している、ということについてです。
[5]この箇条は、日弁らの本師である日蓮聖人の教えに従って申し上げたもので、聖人は去る正嘉年間(<暦>一二五七—一二五九暦>)以来の大彗星や大地震の起こるのを見て一切経を閲読され、その原因は当時の日本国の人びとが権経や小乗の教えに執着し、実経である法華経を軽んじたために、前代未聞の二つの難、すなわち内乱である自界叛逆難と、蒙古襲来の他国侵逼難が起こるであろうことを予知されたのです。そして日本国の安穏のために、日頃、考えていましたこの大難から守る対策を立正安国論一巻にまとめ、去る文応元年(<暦>一二六〇暦>)七月に前の執権である北条時頼殿に上呈されたのです。日蓮聖人がこの立正安国論で考えられたことは、声が反響するようにことごとく符合しました。それはあたかも釈尊の未来記のようです。
[6]儒教の書物には「ことの現われない前に知る者は聖人である」といい、仏典にも「智者は自ら事件の起こる原因を知り、蛇は自らその道の径路を知る」とありますが、これらの言葉によって考えてみますと、わが師であります日蓮聖人は未来を予知し、それが実現したことからおそらく聖人に該当致しましょう。勝れた人師がすでにこの日本におられるのです。どうして国宝を外に求める必要があるのでしょうか。また、儒教の書物に「隣国に聖人があれば、その敵国にとってはたいへんな憂いとなる」とあり、仏典にも「国に聖人があれば、天が必ずその国を守護する」とあります。また、儒教の書物に「国に智徳の勝れた君主がいれば、そこにはまた賢くて道理に明るい臣がいる」とあります。これらの言葉によれば、日蓮聖人がこの国におられるのは日本国の大きな喜びであり、蒙古国にとっては大きな憂いとなりましょう。日蓮聖人は八大竜王を駆って敵船を海に沈め、また梵天・帝釈天に命じて蒙古王を召し取られるでありましょう。北条時宗殿がすでに賢人であるならば、どうして日蓮聖人を用いないで、むなしく他国から侵略されるのを憂えているのでしょうか。
[7]そもそも釈尊は、遠く末法のいまの闘諍堅固のさかんな時代を考えられ、このような大難を対治する秘術を明らかに経文に説きのこされています。しかしながら、それは釈尊がなくなられたあと二千二百二十余年の間、インド・中国・日本など、この世界にはまだ弘められておりません。したがって、釈尊の滅後にその教えを弘める四依の菩薩も、内心には知っていても口には出さず、また天台大師や伝教大師でさえも述べられませんでした。それはこの教えを弘める時がこなかったからです。法華経の薬王菩薩本事品には「釈尊の滅後、第五の五百歳に世界中に広く弘まるであろう」と説かれ、天台大師もその著、法華文句に「後の五百歳に弘まる」といい、妙楽大師もその著、法華玄義釈籤で「第五の五百歳に弘まる」といい、伝教大師もその著、法華秀句で「この法の弘まる時代は、像法の終わりから末法の始めであり、この法の弘まる国は唐の東、羯の西、人は五濁がさかんで闘諍の激しい時である」といわれています。これらの文章はいずれも東の国が勝り、西の国が負けるという明文です。日蓮聖人は、法華経の弘まるべき時代を知り、国を知り、法華経そのものを知り、人びとの機根を知って、君のため、民のため、神のため、仏のために国難を対治すべき方策を考え、立正安国論を上呈されたのです。しかしながら、幕府はそれを信用しないばかりか、さらに日蓮聖人を誹謗する人たちの讒言を用いて、聖人に迫害を加えたのです。すなわち、聖人の頭に傷を負わせ、左の手を折り、伊豆・佐渡と二度まで流罪にし、弟子や信者たちを諸所で射殺し、切り殺し、そのほか殺害・刃傷・禁獄・流罪・打擲・追放・罵詈などの大難を受けた人は数えることができないほどです。このために日本国はことごとく法華経の大怨敵となり、すべての人びともみな謗法の人となったために、天神も地神もこの日本国を見捨てて去ってしまったのです。このために天下が乱れるのであると、師である日蓮聖人から教えられておりますので、私どもはその身分ではありませんが、自分の考えを申し上げる次第です。
[8]儒教の書物には「心のよこしまな人が政治を行なえば、賢者は用いられない」とあり、涅槃経にも「法を壊る者を見て、これを責めない者はかえって仏法を壊る敵である」と説かれています。ところが、世間のうわさによりますと、幕府は諸宗の高僧を招いて蒙古降伏の祈禱をさせるということですが、去る天暦年間(<暦>一一八四—一一八五暦>)に安徳天皇が、そして承久年間(<暦>一二一九—一二二二暦>)には後鳥羽法皇が、それぞれ比叡山の座主・東寺・御室・奈良の七大寺・園城寺などの検校・長吏などの多くの真言師を招いて、宮中の紫宸殿で源頼朝・北条義時調伏の修法を行なわせました。しかし、この修法は力のない人がこれを行なえば、必ずその身を滅ぼし、強いてその法を持てば、必ず主君を滅ぼす悪法なのです。されば安徳天皇は西海の壇の浦に身を沈め、比叡山の明雲座主は源義仲の襲撃で流れ矢に当たってなくなり、後鳥羽法皇は隠岐の島に配流され、東寺・御室の長者は高野山で自害し、比叡山の座主はその職を追放されるという恥辱を受けています。このような現罰は眼をおおいたくなるほどですので、後世の賢人たちも真言の法を修することを恐れています。わが師日蓮聖人が、身延の山中で心を痛めているのはこのことなのです。
[9]次に院主代行智の訴状に、朝夕の定時におこなう勤行は、阿弥陀経を読むべきであるのに、日秀・日弁は法華経のみを読誦する、ということについてです。
[10]考えてみますと、花を愛でるのも、月を眺めるのも、水を用いるのもその時期に随うべきです。決して先例によってことを行なう必要はありません。仏法もまたそのとおりで、時に随って取捨すべきなのです。その上、行智らが執着する阿弥陀経は、釈尊が法華経を説かれる以前の四十余年の説法で、まだ真実を顕わしていない教えなのです。この世界第一の智者である舎利弗尊者は、長い間、阿弥陀経を読誦しましたが、ついに成仏することができませんでした。そののち、この阿弥陀経を捨て、法華経を聞くことによって華光如来となったのです。智恵第一とされる舎利弗でさえ、そうでありますから、まして末代悪世の愚かな人が、南無阿弥陀仏の名号ばかりを称えたからといって、どうして次の世に往生することができましょう。したがって、釈尊は法華経方便品で、諸経は権経であり、法華経が実経であることを説き「正直に方便を捨てて、ただこの上なき法華経を説き明かす」といわれています。これは教主釈尊がまさしく阿弥陀経などの方便の経を捨てられたことを示す経文です。また、釈尊最後の教えである涅槃経に「仏は偽りの言葉をいったことはないが、もし人びとが偽りの説によって法利を得るならば、よろしきにしたがって方便してこれを説く」とありますが、これはまさしく弥陀念仏を偽りといわれた経文です。また、法華経に「ただ求めて大乗経典を受持し、余経は一偈をも持ってはならない」といい、妙楽大師もその著、五百問論にその経文の意を解釈して「かの華厳経はただ宿世に根熟せる大菩薩を教化したので、諸経に比較して勝れているというのであり、法華経が教法をもって多くの人びとを教化するのとは相違がある。ゆえに法華経にはただ大乗経典を受持して、余経は一偈をも持ってはならない」と説かれています。
[11]かの華厳経は、仏が説かれた最初の教えで、世界のすべてのものはただ自己一心の造ったものであるという法門を説いています。その華厳経には三本あって、上本は十三世界を微塵にしたほどの多量の偈があり、中本は四十九万八千偈、下本は十万偈四十八品です。今、一切経蔵を見ると、新訳は八十巻、旧訳は六十巻・四十巻の三本があるだけです。そのほかの方等経・般若経・大日経・金剛頂経などのもろもろの顕密の大乗経も、法華経と比較しては、釈尊が自らまだ真実を顕わしていない経であるといい、また留難の多い経であるといい、さらに諸経の門を閉じよ、捨てよなどと説かれています。ましてや、法華経と阿弥陀経とは大山と蟻のような山ほどの高下の違いがあり、獅子王が兎と角力をとるようなものです。したがって、いま日秀らが権経である阿弥陀経の読誦をやめて、もっぱら大乗の法華経を読誦し、すべての人びとのために勧めて南無妙法蓮華経と唱えるのは、釈尊に対してこれほどの忠義はないと思います。これらの仏教の権実取捨の理由についてさらに疑問がありますならば、諸宗の高僧たちと召し合わせて正邪を決定すべきではないでしょうか。国主が仏法の正邪勝劣を明らかにされることは、インド・中国・日本に先例があるところです。いま、当代の明君がこうした三国の先例に背かれるようなことはないと存じます。
[12]また訴状に、今月二十一日、日秀らは乗馬で多くの農民を指揮し、しかも弓矢を携えて滝泉寺院主の坊内に乱入し、さらに熱原の農民紀の次郎男に高札を立てさせて、滝泉寺寺領の稲を苅り取って、日秀の住房へ運び入れた、ということについてです。この箇条も何の証拠もない偽りです。日秀らは行智にさまざまな被害を受け不安に暮らしています。その日秀らがどうして人に高札を立てさせることができるでしょうか。また弱い農民たちがどうして日秀らに雇われるでしょうか。もしわれらが弓矢を携え、そのような悪事を計画したとすれば、行智といい、近隣の人びとといい、どうして日秀らの弓矢を奪い取り、われらを召し捕えて訴え出ないことがありましょうか。行智らの訴訟はまったくの偽りです。よろしく御賢察いただきたいと存じます。
[13]日秀・日弁らは当寺代々の住僧として行法を積んできましたので、天地永久の祈禱をいたしてきました。ところが、行智は当寺の院主代でありながら、住僧の三河房頼円や少輔房日禅・日秀・日弁らに対し、自分は法華経を尊んでいないから、その方たちも速やかに法華経を読誦することをやめ、もっぱら阿弥陀経を読誦し、念仏を称えるという起請文を書いて提出せよ、提出すれば今までどおり寺内に居住することを認めようと申し渡されました。三河房頼円は命令に従って、ただちに起請文を提出して身の安全をはかりました。しかし、少輔房日禅らは起請文を書くことを拒否したために所職の住房を奪われましたので、龍泉寺を離れ河合の郷へ移りました。日秀・日弁は頼みとするところもありませんので、縁故の人を頼りこの四年の間、無理に滝泉寺内に留まっていたのです。この間、行智は日秀らの所職の住房を取り上げ、厳しく法華経による祈禱を禁止しましたが、それでも満足せず法華経の行者をこの滝泉寺から一掃すべく、謀略を計画してはさまざまな偽りを人びとにいいつけました。それはあたかも釈尊在世の提婆達多のようです。
[14]およそ行智の行ないは、法華三昧の供僧である和泉房蓮海に申しつけ、わざと法華経をほごしてうすい紙板につくり、紺形を彫り、また堂舎の修理のために日弁が管理していました屋根を葺く葺榑一万二千枚のうち、八千枚を行智が取り上げ、自坊の堂舎の修理分として私に使用したのです。また、富士下方の政所代を誘い、去る四月の浅間神社の祭礼にまぎれて法華経信奉者の四郎を切らせ、八月には弥四郎をも殺害しました(このたびの行智の訴状には、犯人が不明でしたので、二人を切り殺害したのは日秀であるかのように書かれています)。また、無知無学で盗人の兵部房静印から内密に罰金を受け取り、表面には才徳の勝れた人と偽って滝泉寺の供僧に採用しています。また、滝泉寺の寺領内の農民をうながして、鶉や狸をとり、狼をとるための鹿を殺し、かつこれを別当の坊で食しています。また、仏前の池に毒を入れ、多くの魚を捕り、村里に持っていってはこれを売っています。このことを見聞きする人で驚かない人はありません。まさに仏法を破滅させる根元であり、悲しんで余りあるほどです。このような悪事を日々おこなっていますので、日秀らは悲しみのあまり、幕府へ訴えようとしました。しかし、行智は数々の自分の罪科を隠そうとして、さまざまな秘計を用い、近隣の人びとを味方につけ、あるいはそれを途中で押えては証拠のない偽りをいいつけ、この日秀らをなき者にしようとするのは、言語道断の沙汰といわねばなりません。
[15]いずれにいたしましても、行智に対する処罰がなされなくてはなりません。つまりは、仏法の権実や訴訟の真偽につきまして、くわしくお尋ねにあずかりたいと存じます。そして、真実で偽りのない法華経の教えと貞永式目の条文によって、行智の非道を厳しく戒めるならば、国を守護する善神は天変地異をなくし、正法を守護する諸天はさぞ喜ばれるでありましょう。そうであるならば、直ちに不善悪行の院主代行智を罷免さるべきであり、また滝泉寺院主もこの重罪から遁れることは決してできません。行智らの悪行がどうして岩本実相寺の事件と一つに取り扱われるのでありましょうか。公正な道理によって、日秀・日弁らがもとのように滝泉寺の所職に復帰することを認めていただけますならば、堂舎を修繕し、天地永久の安穏の祈禱に励みたいと思います。よって、この状をしたため右弁明する次第です。
[16]弘安二年<日>十月 日日>
[17]<人>沙門日秀・日弁ら上る人>