妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

実相寺御書

全集 第5巻 2段 定本: #20271(定本の該当ページへ)

書下し

実相寺御書じつそうじごしよ


[1]新春の御札の中に云く、駿河の国実相寺*じつそうじの住侶尾張阿闍梨と申す者、玄義げんぎ四の巻に〔涅槃経*ねはんぎようを引て、小乗を以て大乗を破し、大乗を以て小乗を破するは盲目の因なり〕と〔釈せらるるの由〕、申し候なるはまことにて候やらん。〔反詰して云く、小乗を以て大乗を破し、大乗を以て小乗を破するは〕盲目ならば、弘法大師*こうぼうだいし慈覚大師*じかくだいし智証*ちしよう等は、されば盲目となり給ひたりけるか。善無畏ぜんむい金剛智こんごうち不空ふくう等は盲目と成り給ふと殿はの給ふかとつめよ。
[2]〔玄義の四に云く、「問う、法華にを開して皆妙に入る。涅槃何の意ぞ、更に次第の五行を明すや。答う、法華は仏世の人のために権を破して実に入れ、またあることなく教意整足せり。涅槃は末代の凡夫の見思の病重く、一実に定執じようしゆうして方便を誹謗し、甘呂(露)を服すといえども、事に即して真なることあたわず、命を傷けて早夭そうようするがための故に、戒定慧かいじようえたすけて大涅槃を顕わす。法華の意を得れば、涅槃に於て次第の行を用いざるなり」。せんの四に云く。「次に料簡の中、扶戒定慧と言うは、事戒・事定・前三教の慧、並に事法を扶くるがための故なり。つぶさには止観の対治助開の中に説くがごとし。今時の行者或は一向に理をたつとぶときは、則ちおのれ聖に均しといい、及び実に執して権を謗す。或は一向に事を尚ぶときは、則ち功を高位にゆづり、及び実を謗して権を許す。既に末代に処して聖旨を思わず、それ誰かこの二の失に堕せざらん。法華の意を得れば、則ち初後とんなり。請う心をはかむねを撫で、自ら浮沈をさとらんと」等云云。この釈に迷惑する者か。
[3]この釈は所、「或は一向に理を尚ぶ」とは達磨宗に等しきなり。「及び実に執して権を謗す」とは華厳宗*けごんしゆう真言宗*しんごんしゆうなり。「或は一向事を尚ぶ」とは浄土宗・律宗*りつしゆうなり。「及び実を謗じ権を許す」とは法相宗*ほつそうしゆうなり。それ法華経の妙の一字に二義あり。一は相待妙そうだいみようを破して妙を顕わす。二は絶対妙ぜつたいみようを開して妙を顕わす。爾前の諸経並に法華已後の諸経は破顕妙の一分、これを説くといえども、開顕妙は全分これなし。しかるに諸経に依憑えひようする人師、彼々の経々において破顕の二妙を存し、或は天台の智慧を盗み、或は民家に天下を行なうのみ。たとい開を存すといえども、破の義免れがたきか。いかにいわんや、上に挙ぐる所の一向執権いつこうしゆうごん、或は一向執実いつこうしゆうじつ等の者をや。
[4]しかるに彼の阿闍梨等は、自科を顧みざる者にして嫉妬するの間、自がんを回転して大山をめぐると観るか。まず実を以て権を破し、権執を絶して実に入るは、釈・多宝・十方の諸仏の常儀なり。実を以て権を破する者を盲目となせば、釈尊は盲目の人か。乃至天台・伝教は盲目の人師なるか。如何、笑うべし、返す返す〕。
[5]四十九院*しじゆうくいん等の事、彼の別当等は無智の者たる間、日蓮に向てこれを恐る小田一房等怨をなすか。いよいよ、彼等が邪法滅すべき先兆なり。根露るれば枝枯れ、源つくれば流れ尽ると云える本文むなしからざるか。弘法・慈覚・智証三大師の法華経誹謗の大科、四百余年の間隠せる根露われ枝枯る。今日蓮これを糺明せり。拘留外道くるげどうが石となつて数百年、じんなに責められ、石即ち水となる。にけんが立てし塔は馬鳴めみようこれをくずす。せる師子に手を触れば瞋りをなす等これなり〕。
[6]建治四年<日>正月十六日
[7]<人>日 蓮<花押>花押
[8]<先>駿河国実相寺豊前公*ぶぜんこう御房御返事
現代語訳

実相寺御書


建治四年(一二七八)正月一六日、五七歳、於身延、駿河国実相寺豊前公宛、和漢混交文、定一四三三—一四三五頁。

[1]貴僧の新春の賀状によれば、駿河国岩本実相寺の住僧である尾張阿闍梨という者が、法華玄義第四巻には、涅槃経を引用して、小乗教をもって大乗教を破し、大乗教をもって小乗教を破すのは、経意を理解してないことがその原因であると説かれていると主張しているが、事実であるかとの問い合わせでありますが、尾張阿闍梨が小乗をもって大乗を破し、大乗をもって小乗を破すのは何も理解してない人であると主張しているならば、日本の弘法大師空海・慈覚大師円仁・智証大師円珍は何も理解してない人なのか。また、中国の善無畏・金剛智・不空なども何も理解してない人といわれるのかと反論しなさい。
[2]尾張阿闍梨がこのように主張するのは、おそらく法華玄義第四巻の次の文章によるものでしょう。すなわち、「問う。法華経に爾前の諸経で説いた諸行を開会かいえして、絶対の一行に帰入せしめたのに、なぜその後の涅槃経で再び爾前で説いた次第の五行を説いたのか。答う。法華経は仏の在世に爾前の教をへてきた人のために、その爾前の権教に対する執着を破して、実教の理を説いたのである。ゆえに法華経に至れば権とか実の考えが消え、仏の化導が完成するのである。いっぽう、末法の凡夫は迷いが深く、ただ法華の実教にのみ執着して、方便の教をないがしろにする。したがって法華の甘露を服しながら、事に即する真を悟ることができず成仏できないのである。そこで仏は、こうした悟ることのできない末法の衆生を救うために、再び爾前で説いた戒定慧の三学を説いて、大涅槃の悟りに入るように教えたのである。したがって、法華経の権即実の意に達するならば、涅槃経の次第の五行を用いる必要はないのである」という文、およびこの文章を釈した法華玄義釈籤しやくせん第四巻の「次に玄義の文の考察の中に、戒・定・慧とあるのは、五戒・二百五十戒などの行儀を規定する戒律、種々の禅定、蔵通別三教の智慧の三学は、ともに円教の仏性常住を顕わすことで、このことは摩訶止観第七巻の対治助開の中でくわしく説かれているところである。ところで、今ごろの行者は、ある者はひたすら円融の理を尊んで、わが身がそのまま仏であると主張したり、実教に執着して権教を謗ったりする。あるいは、ひたすら事相を尊ぶときは、円教の理のごとき修行は上位の人に限るといったり、実教を謗って権教を許したりしている。すでに末法の時代に入り、仏が法華経で三教を開会した意や、涅槃経で次第の五行を再説した真意を理解しなければ、すべての人が一向に理を尊ぶ失と、一向に事相を尊ぶ失に堕ちることになろう。しかし、法華経の権実不二の意を得れば、理を尊ぶ者も事相を尊ぶ者も仏意にかなうのである。どうか、仏道修行をする者はよく考え、一向に理を尊び、事相を尊ぶ失をおかしていないかよくさとるべきである」とある文を読み違えているのでしょう。
[3]要するに、法華玄義釈籤の中で「あるいは一向に理を重んずる」とあるのは禅宗をさすものです。また「実教に執着して権教を謗る」とあるのは、華厳宗・真言宗のことであり、「一向に事を重んずる」とあるのは浄土宗・律宗をさし、「実教を謗り権教を許す」とあるのは法相宗をさすものです。法華経の妙の字には二つの義があります。一は相対妙で法華経已前の経を法として破し、今経の妙法を顕わすものです。二は絶対妙で法華経已前の法を開会して、それをそのまま妙法であると顕わすものです。法華経が説かれる已前の諸経と已後の諸経には、法を破して妙法を顕わす相対妙の一分を説いていますが、法を開会かいえして妙法を顕わす絶対妙はまったく説いていません。ところが、法華経以外の諸経に依る人師たちは、天台の智慧を盗み、その経々に相対妙、絶対妙の義があると主張しています。これは民の家にいて天下の政治を執るようなものです。たとえ、法を開会する絶対妙の義があると主張しても、法を破す相対妙しかないのです。まして、上述したようにひたすら権教に執着したり、実教に執着して、権即実の義を知らない宗旨にどうして絶対妙の義がありましょうか。
[4]しかるに尾張阿闍梨はこのような義を知らないので、自分の罪を顧みずかえって他人を嫉妬するのです。これはあたかも自分がめまいをしているのを知らず、山が回転していると思っているのと同じです。まず実教をもって権教を破し、権教に対する執着を断ち切って実教に入れるのが、釈・多宝・十方の諸仏が法華経を説くときの常の方法です。今、日蓮が実教をもって権教を破すのを何も理解していない人であるというならば、釈尊も盲目の教主となるのでしょうか。また天台・伝教も何も理解してない人師となるのでしょうか。まことに笑うべき主張といわねばなりません。
[5]四十九院のことについては、別当の厳誉らに学問がないので、この日蓮を恐れその徒党の小田一房らが怨をなすのでしょう。それはかえって、彼らの邪法が滅びる前兆なのです。根が出ると枝は枯れ、源が竭きると流れがなくなるといいますが、まったくその通りです。弘法・慈覚・智証の三大師が法華経を誹謗した大罪が、四百年の間、隠れていたのがいま日蓮に糺明されて根が露われたのです。やがて枝も枯れることでしょう。これはあたかも、拘留外道が石になったのを数百年ののち、陳に責められ石がたちまち水となり、また尼外道が建てた塔を、馬鳴菩の弟子である施檀𧸐叱王せんだんけんにだおうが礼拝したら、たちまち崩れてしまったのと同じではありませんか。また、摩訶止観に臥している獅子に手を触れれば、怒るといわれているのは、今の日蓮と彼らの関係と同じです。
[6]建治四年<日>正月十六日
[7]<人>日 蓮 <花押>花押
[8]<先>駿河国実相寺豊前公御房御返事