妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

身延山御書

全集 第5巻 2段 定本: #20432(定本の該当ページへ)

書下し

身延山御書みのぶさんごしよ


[1]誠に身延山のすみかは、ちはやふる神もめぐみを垂れ、天下あまくだりましますらん。〔心なき〕しづのしづのまでも心を留めぬべし。哀れを催す秋の暮には、草の庵に露深く、のきにすだ(集多)くさゝがに(蜘蛛)の糸玉をつらぬき、紅葉いつしか色ふかうして、たえだえに伝ふかけひの水に影を移せば、名にしおふ龍田河たつたがわ水上みなかみもかくやと疑はれぬ。
[2]又後ろには峨峨ががたる深山そび(聳)へて、こずえに一乗のこのみを結び、下枝しずえに鳴く音滋こえしげく、前には湯湯しようしようたる流水たたえて実相真如の月浮び、無明深重むみようじんじゆうやみ晴て、法性ほつしようの空に雲もなし。かゝるみぎりなれば、庵の内には昼は終日ひねもすに一乗妙典の御法みのりを論談し、夜は竟夜よもすがら要文誦持の声のみす。伝へ聞く釈尊の住み給ひけん鷲峰じゆほうを、我朝このみぎりに移し置きぬ。霧立ち嵐はげしき折折おりおりも、山に入りてたきぎをこり、露深き草をわけ深谷みさわおりて芹をつみ、山河の流もはやき巌瀬いわがせに菜をすゝぎ、たもとしほれてほしわぶる思ひは、昔し人丸ひとまろえいじける、和歌の浦にもしほ(藻汐)たれつゝ世を渡る海士あまもかくやとぞ思ひる。
[3]つくづくと浮身うきみの有様を案ずるに、仏の法を求め給ひしに〔ことならず〕。昔釈尊、楽法梵志ぎようぼうぼんじとしては、皮をはぎて紙とし、の水を取りてすずりの水とし、肉をきて墨とし、骨をくだきて筆として、下方の葉仏かしようぶつに値ひ奉りて、「如法応修行によほうおうしゆぎよう非法不応行ひほうふおうぎよう今世若後世こんせにやくごせ行法者安穏ぎようぼうしやあんのん」云云とこの文を伝へ給ふ。王子さつたおうじとしては、飢えたる虎の為に身を与へ、雪山童子せつせんどうじとしては半偈はんげの為に身をなげ、しびおうとしては鳩の為に肉をはかりにかけ、乞眼婆羅門こつげんばらもんにはまなこをくじりて取らせ給ひき。
[4]又仏、大国の王とおわしませし時は、宿善しゆくぜん内に催し、月雲客のまつりごとをも忘れ、百官万乗に仰がれ給ふ十善のたのしみも風の前のともしび、あだなる春の夜の夢、まがきにつたふ槿樺あさがおの日影をまつ程ぞかし。しかるに過去の戒善いみじきに依りて、今生には大国の王たりと云へども、無常の殺鬼にさそはれて一期いちご空くして後、修するところの善無くんば、阿鼻大城の炎の底に沈み、刹利せつり須陀すだもかはらぬためしにて、三熱の炎にまじはり、鉄縄五体をしばり、三熱のまろかし(弾丸)を口に入れ、阿防羅刹三鈷あぼうらせつさんこのひしほこを手に取り、邪見の音をあららかにして、五体身分を取々とりどりに責むるならば、こえを天に響かし叫ぶとも、地にふしくとも、百官万乗も来つて〔助くることなく〕、親類眷属も来つて〔救うことなからん〕。又錦帳の内にして、よなのねざめのとこにして、天にあらば比翼の鳥、地にすまば連理の枝とならんと、月日を送り年を重ねてちぎりし妻子も来つて訪ふ事はあらじ、なんどと様々ようように思ひつづけ給ひて、自ら蔵を開きて、金銀等の七珍万宝を僧に供養し、象馬ぞうめ妻子を布施し、しかして後大法のかいをふき、大法のつづみを撃つて、四方に法を求め給ふ。その時に阿私あし仙人と申す仙人来つて申しける様は、実に法を求め給ふ志ましませば、我が云はん様に仕へ給へと云ひければ、大に悦んで山に入つてはこのみを拾ひ、薪をこり、菜をつみ、水をくみ、給仕きゆうじし給へる事千歳也。常に御口ずさみには「情存妙法故じようぞんみようほうこ身心無懈惓しんじんむけいけん」とぞ唱へ給ひける。文の心は、常に心に妙法を習はんと存ずる間、身にも心にもつかうれどもものうき事なしと云へり。〔かくのごとくして〕習ひ給ひける法は、即ち妙法蓮華経の五字也。その時の王とは今の釈牟尼仏これ也。仏の仕へ給ひて法を得給ひし事を、我朝に五七五七七の句に結び置きけり。今如法経の時伽陀かだに誦する歌に、法華経を我が得し事は薪こり菜つみ水くみつかへてぞえし。この歌を見るに、今は我身につみしられてあわれに覚えける也。
[5]実に仏になる道は師に仕ふるには〔過ぎず〕。妙楽大師*みようらくだいしの弘決の四に云く、〔「もし弟子ありて師のあやまちあらわさば、もしは実にもあれ、もしは不実にもあれ、その心おのずから法の勝利を壊失えしつす」〕云云。文の心は、もし弟子あて師のあやまちあらわさば、もしは実にもあれ、もしは不実にもあれ、已にその心有るは身自ら法の勝例をやぶり失ふ者也云云。又止観の一に云く、〔「如来慇懃おんごんにこの法を称したまえば、聞く者歓喜す。常啼じようたいは東に請し、善財ぜんざいは南に求め、薬王やくおうは手を焼き、普明ふみようは頭を刎ねらる。一日三度恒河沙ごうがしやの身を捨るとも、なお一句の力を報ずることあたわず。いわんや両肩に荷負し百千万劫すとも、むしろ仏法の恩を報ぜんや」〕云云。文の心は、如来ねんごろにこの法を称し給へば聞く者すなわち歓喜す。常啼菩は東に法を請ひ、善財菩は南に法を求め、薬王菩ひじを焼き、普明王は頭を刎られたり。一日に三度恒河のいさご数程かずほど身をば捨つるとも、尚一句の法恩を報ずる事あたはじ。いわんや二つの肩に荷負になひおうて百千万劫すとも、むしろ仏法の恩を報ずる事あるべからずと云へる心也。止観の五に云く、「香城に骨をくだき、雪嶺に身をなぐとも、また何ぞ以て徳を報ずるにたらんや」と云へり。
[6]弘決の四に云く、「昔摩大国びまだいこくと云ふ国にきつねあり。師子に追はれて逃げけるが、水もなき渇井かれゐに落ち入りぬ。師子は井を飛び越えて行きぬ。彼狐井よりあがらんとすれども、深き井なれば上る事を得ざりき。既に日数ひかずを経るほどに飢死うえしなんとす。其時狐文きつねもんを唱へて云く、わざわひなるかな。〔今日苦にめられて、すなわちまさに命を丘井きゆうせいに没すべし。一切万物皆無常なり。うらむらくは身をもつて師子にわざることを。南無帰命十方仏、我が心の浄くしてやむことなきを表知したまえ〕」文。文の心はわざわひなるかな。今日くるしみにせめられて、即ちまさに命を渇井かれゐに没すべし。一切の万物は皆これ無常也。うらみらくは身を師子にかわざりける事を。南無帰命十方仏、わが心の浄きことを表知し給へとよばわりき。
[7]その時に天の帝釈、狐のもんを唱ふる事を聞き給ひて、自ら下界に下り、井の中の狐を取り上げ給ひて、法を説き給へとの(宣)給ひければ、狐の云く、さかしまなるかな。弟子はかみに師はしもに居たる事を、と云ひければ諸天笑ひ給へり。帝釈誠にことわりとおぼしめして、下に居給ひて法を説き給へとの給ひければ、又狐云く、さかしまなるかな。師も弟子も同座なる事を、と云ひければ、帝釈諸天の上の御衣をぬぎ重ねて高座として、登せて法を説かしむ。狐説て云く、〔「人あり生をねがひ死をにくむ。人あり死を楽ひ生を悪む」〕云云。文の心は、人有りて生くる事をねがつて死せん事をにくみ、又人有りて死せん事を願ひていきん事をにくむと。この文を狐にあうて帝釈習ひ給ひて狐を師としてうやまはせ給ひけり。天台の御釈に云く、雪山せつせんは〔鬼に随つて〕偈を請ひ、天帝は畜を拝して〔師となす〕。ふくろくさきをもてそのこがねを捨る事なかれと釈し給へり。さればいかにいやしき者なりとも、実の法を知りたらん人をいるがせにする事あるべからず。されば法華経の第八に云く、〔「もしは実にもあれ、もしは不実にもあれ、この人は現世に白癩びやくらいの病を得ん」〕云云。文の心は法華経の行者のとがを、もしは実にもあれ、もしは不実にもあれ、云はん者は現世には白癩の病をうけ、後生には無間地獄*むけんじごくに堕つべし、と説かれたり。
[8]此等のことわりを思ひつづくるに、大地の上に針を立てて、大梵天宮より糸をくだして、あやまたず糸の針の穴に入る事は有りとも、我等が人間に生るゝ事は難し。又おく万劫不可思議劫まんごうふかしぎこうをば過るとも、如来の聖教に〔値い奉る〕事難し。しかるに〔受けがたき〕人間に生をうけ、〔値いがたき〕聖教に〔値い奉る〕。たとひ聖教に値ふと云へども、悪知識に値ふならば三悪道に堕ちん事〔疑いあるべからず〕。師堕つれば弟子堕つ。弟子堕つれば檀堕つと云ふ文有り。今幸に一乗の行者に〔値い奉れり〕。皮をはぎ、肉を切り、千歳せんざい仕へざれども、ほしいままに一念三千・十界十如・一実中道いちじつちゆうどう皆成仏道かいじようぶつどうの妙法を学ぶ。実に過去の宿善拙しゆくぜんつたなくして、末法流布の世に〔生れ値はざれば〕未来永々を過ぐとも解脱の道〔かたかるべし〕。又世間の人の有り様を見るに、口には信心深き事を云ふといへども、実にたましひにそむる人は千万人に一人もなし。涅槃経*ねはんぎように云く、〔「仏法を信ぜずして悪道に堕せん者は大地の土のごとく、仏法を信じて仏に成らん者は爪上そうじようの土のごとし」〕と説き給へるもことわり也。
[9]昔仏、摩耶まやの恩を報じ給はんがために、にわかに人にも知られ給はずして、利天とうりてんへ四月十五日に昇らせ給ひておわしけるに、五天竺の国王大臣を始として、あやしのしづのしづのまでも、仏を失ひ奉りて啼き悲みけるき〔限りなく〕、誠に子を失ひ親にをくれたるがごとし。いとをし(愛)き妻を恋ひ、男を恋ふる思のやみすら〔忍びがたし〕。いかにいわんや、大覚世尊の三十二相・八十種好・紫磨金色しまこんじきよそおいつくしくして、かりようびんが御音みこえを以て、一切衆生を皆仏に成し給はんと御経を説かせ給ふ。慈悲深重におわします仏の御余波なごり惜みまいらするき思ひるに、上陽人じようようじんの上陽宮に閉じ籠られてなげききにも勝れ、ぎよう王の娘娥皇がこう女英じよえいの二人、しゆん王に別れ奉りてきしきにも勝れ、蘇武そぶが胡国に流されて十九年、雪中に住けん思にも勝れたり。あまりの御恋しさに木を以て仏の御形みかたを〔作り奉るに〕、三十二相の一相をだにも作り似せ奉らず。その時にうでん大王と申しける王、赤栴檀しやくせんだんと云ふ木を以て、利天より首羯摩天びしゆかつまてんを請じて作り奉りける仏の、利天とうりてんへ本仏の御迎へにまいらせ給ひけるも、優大王の信心深き故也。これこそ一閻浮提えんぶだいに仏を作り奉りける始なれ。
[10]須達長者しゆだつちようじやと云ひける人あり。仏は利天にましますが、七月十五日に天竺へ下り給ふべきよし聞えければ、おんもうけに御堂を作らんとしけるに、御堂〔造るべき〕地を持ざりければ、波斯匿王はしのくおうの太子、陀太子ぎだたいしと云ひける人、陀林ぎだりんと云ふそのを持ち給ひたりけるに、ひろさ四十里有けるこの苑に、人太刀・刀を持て入れば折碎おれくじけける苑也。須達、ぎだ太子に値ひ奉りて、この苑を売らせ給へ、御堂を造らんと云ひければ、太子の給ふよう、この苑四十里にかねあつさ四寸にしき給はば売らんとの給ひけり。須達〔これを買うべき〕由を申しければ、太子の給はく、戯れにこそ云ひつれ、実には叶ふまじとの給ひけり。須達申しける様は、天子に二言なしと云ふ。いかでかかりそめの戯にも虚言そらごとをし給ふべきと申して、波斯匿王はしのくおうにこの由を申しけり。大王の給はく、陀太子は我位を〔継ぐべき〕者也。いかでかかりそめの戯れにも虚言をすべきと仰せられければ、太子力なく売らせ給ひけり。
[11]須達しゆだつ四十里にこがねを四寸にいて買ひ取て、悦んで御堂を造らんとしけるに、舎利弗来りて縄をひき地をわり(画)けるに、舎利弗そらを見上てわらひけり。須達が云く、大聖は威儀を〔乱さざる〕ことわり也。いかにわらはせ給ふぞと怪み申しければ、舎利弗云く、汝この堂を造らんとすれば六欲天にいくさ起る。かかる大善根を修する者なれば、わが天へこそ迎へんずれとて、互ひに諍をなす事のをかしと覚ゆる也。汝は一期百年の後には兜率とそつの内院に〔生るべし〕とぞの給ひける。しかして後この堂を作りおわれり。その名を園精舎ぎおんしようじやと云ふ。
[12]この園精舎へ七月十五日の夜、仏入らせ給ふべき由有りしかば、梵天帝釈は利天より金銀水精の三つの橋をかけたりける。中の橋を仏は入らせ給ふに、仏の左には梵天、右には帝釈、互ひに仏に天蓋をさしかけまいらせ、仏の御あとには四衆八部・かしよう旃延かせんねん目連もくれん須菩提しゆぼだい・千二百の羅漢・万二千の声聞・八万の菩等を引具ひきぐしてくだり給ひけるに、五天竺に有りとあらゆる人、皆たえだえ(分々)に随ひて油をもうけてともしけり。万燈をともす人もあり、千燈をともす人もあり、或は百燈乃至一燈をともす人もありけるに、ここに貧女ひんによと云ふ者ありけり。貧しき事〔譬うべき〕方もなし。身にまとふ物とては、とふ(十府)のすがごも(菅薦)にも〔及ばざる〕藤の衣計ころもばかり也。四方よもに馳走すとも一燈のしろを求むるにあたはず。空くき思ひつもれる涙、油ならましかば百千万燈にともすとも尽きじ。思のあまりに自ら髪を切り、手づからかづら(鬘)にひねりて、油一燈にかへて、わづかにぞともしたりけるに、仏神も三宝も天神も地神も納受をたれ給ひけるにや、藍風らんふう藍風びらんふうと申す大風吹て燈を吹き消しけるに、貧女が一燈ばかりが残りたりける。この光にて仏は園精舎へ入らせ給ひけり。
[13]〔これをもつてこれを思うに〕、たのしくして若干の財を布施すとも、信心よはくば仏に成らん事〔叶いがたし〕。たとひ貧なりとも信心強ふして志深からんは、仏に成らん事〔疑いあるべからず〕。されば無勝徳勝と云ひける者は土のを仏に供養し奉りて、〔この功徳によつて〕閻浮提の主阿育大王と生れて、ついに八万四千の石塔を造り、国々に送り給ひ、後に菩提の素懐をとげ給ふ。
[14]されば法華経にて四十余年が程きらはれし女人も〔仏になり〕、五逆闡提ごぎやくせんだいと云はれし提婆だいばも仏になりけり。されば末代濁世の謗法・闡提・五逆たる僧も俗も尼も女も、この経にて〔仏にならん事疑いなし〕。されば法華経第七に云く、〔「我が滅度の後において、まさにこの経を受持すべし、この人仏道において、決定けつじようして疑いあることなけん」〕云云。この文こそよに憑敷たのもしく候へ。
[15]此等をさまざま思ひつづけて、観念のとこの上に夢を給べば、妻恋鹿のこえに目をさまし、我身の内に三諦即一さんたいそくいつ一心三観いつしんさんがんの月曇り無くすみけるを、無明深重の雲引覆ひきおおいつゝ、昔より今に至るまで、生死の九界に輪する事、このみぎりにしられつつみずからかくぞ思ひつづけける。
[16]たちわたる身のうき雲もはれぬべし、たえぬ御法の鷲の山かぜ
[17]<人>日 蓮<花押>花押
現代語訳

身延山御書


弘安五年(一二八二)八月二一日、六一歳、於身延、和漢混交文、定一九一五—一九二四頁。

[1]身延山の住居は、まことに千早振る神がめぐみを垂れて天下りました所であるかのようです。風情を解する心もない身分賤しい男女までも心ひかれる景勝の地です。四季おりおりの景色、とりわけ物の哀れを感ずる秋の夕暮れなどは草庵に露が深く降りますが、軒にかかる蜘蛛の糸にむすぶその露は、あたかも玉を連ねたように見事です。周囲の山々の紅葉もいつしかその色を深め、とぎれとぎれに伝える懸の水にその影を映す風情は、あの有名な紅葉の名所である龍田川の上流もこのようであろうかと思われます。
[2]草庵のうしろには高く険しい山々がそびえ、木々のには一乗の果実を結び、下の枝にはの鳴く声がやかましいほどです。草庵の前には谷川の水が勢いよく流れ、実相真如の月はその影を浮かべ、深い無明の闇は晴れて法性の空には少しの雲もありません。このようなまことに静かな場所でありますので、草庵では昼は一日中、法華経の法義を論談し、夜は夜どおし法華経要文の読誦にあけくれています。あたかも、釈尊の住まわれたインドの霊鷲山りようじゆせんをこの身延山に移したように思われます。霧が深くたちこめ、嵐の激しいときも山に入っては薪をとり、また露の降りた深い草を踏み分け深谷に下りては芹をつみ、また山から流れ出す流れの早い瀬に菜を洗っては袂を濡らし、その乾くのを待ちわびる思いは、むかし歌人の柿本人麻呂が詠んだ「和歌の浦に藻汐みつつ世を渡る海人」もこのようであったろうかと思うばかりです。
[3]よくよく今までのわが身のことどもを考えてみますと、むかし釈尊が法を求めて薪水しんすいの労をとられたことと何と似ていることでありましょう。むかし、釈尊が過去世に楽法梵士として法を求め菩行を修行していたとき、自分の皮をはいで紙とし、の水を取って硯の水とし、肉をはいで墨とし、骨を摧いて筆とするなどあらゆる苦行を忍んで、ついに本化の菩が住んでいる下方世界の葉仏にあうことができ「正法のごとく修行し、非法を修行してはいけない。今世・後世において法のごとく正しく行ずる者は安穏である」という文を伝えられたのです。また、釈尊が過去世に王子として生まれたときは、七匹の子を産んだ飢えた虎をあわれんで、自分の身を虎のために施されました。また、釈尊が雪山童子として菩道を修行されたときは、寂滅の安楽を得ることができるという半偈を聞くために、その身を鬼神に投げ与えたこともありました。また、釈尊が過去世に尸王であったとき、鷹が鳩を食べようとしたので、鷹の飢を満たすために鳩の分量だけの自分の肉をにかけて、鷹に与えたこともありました。さらに過去世に日月明王であったときは、目の見えない乞食のために、自分の両眼をえぐり取って与えたこともありました。
[4]また、過去の世に釈尊が大国の王であったとき、過去の善業によって天下の政治を忘れ、百官万民に仰がれる帝王の楽しみも、風の前の燈、はかない春の夜の夢、籬に咲くあさがおが日影を待つようなはかないものに感じられることがありました。つまり、過去の世において十善の戒をたもった功徳によって、現世は大国の王に生まれても、世間の無常の殺鬼に誘われて、何の善行も修めず一生を空しく過ごすならば、貴賤上下の区別なく、無間地獄の炎の底に沈まなければなりません。そして、この無間地獄の焼熱・極焼熱・遍極焼熱の三熱苦の炎にかけられ、五体は鉄縄で縛られ、三熱苦の鉄丸を口の中に入れられ、さらに地獄の獄卒たちはインド古代の武器である三つのつめがあるひしほこを手に取り、無慈悲の声を荒々しく張り上げて、思い思いに全身を責めさいなむことでありましょう。そのとき、たとえ天を揺るがすばかりに叫ぼうとも、地に臥してこうとも、多くの役人、君主、親類縁者が来ても救い助けることはできません。また、美しく立派な寝所の中で、夜ごと天に生まれたら常に一体となって飛ぶ鳥となろう、地に生まれたら睦まじく生きようと契って、長い年月を重ねてきた妻子といえども、訪ねてくることはできないであろうと種々考えた末に、蔵を開いては金銀などの七宝やあらゆる宝物を僧に供養し、象や馬はおろか妻子までも人に施し、そして螺を吹き鼓を打って諸国に法を求められたのです。その時、阿私仙人が来てほんとうに大法を求める志があるならば、私がいうように仕えなければならないといわれたので、大王は大変悦んで山に入っては果実を拾い、あるいは薪をとり、菜を摘み、水をんで実に千年の間、給仕されたのです。そして常に、法華経提婆品第十二の「心に妙法を存するが故に、身心懈することがないのだ」という経文を唱えられたのです。この経文の心は、常に心に妙法を求めようと考えているので、いかに辛い給仕をしても、身体も精神も退屈したり疲れたりすることはないという意味です。このようにして修得された法が、すなわち妙法蓮華経の五字なのです。そして、その時の大王とは今の釈牟尼仏なのです。釈尊がこのように給仕して妙法を体得されたことを、日本で和歌に詠まれています。法華経を如法清浄に書写し供養する如法経の式の唄讃ばいさんに「法華経を我が得し事は薪こり、菜つみ水くみつかへてぞえし」と諷誦ふじゆする歌がそれで、この歌を見るにつけても、今は自分の身に思いあてられて感慨深く思われるのです。
[5]ほんとうに仏になるためには、善き師に仕えることが最上の道です。妙楽大師は止観弘決ぐけつの第四巻に「もし弟子が師匠の過失を指摘するならば、それが事実であれ、偽りであれ、みずから勝れた教法の功徳を失うものである」と説かれています。この文の意味するところは、もし弟子が師匠の過失をいいあらわすようなことがあれば、それが事実にせよ事実でないにせよ、自分から勝れた教法の功徳を失うものであるというのです。また、天台大師の摩訶止観の第一巻に「仏がねんごろにこの妙法を讃されたので、それを聞いた者はみな喜んだ。常啼菩は東方に、善財童子は南方に法を求め、薬王菩ひじを焼いて法を求め、普明王は法のために頭を刎ねられた。たとえ一日に三度、恒河の砂の数ほどの身を捨てても、一句の法の恩を報ずることはできない。いわんや、仏を両肩に百千万劫の間にない負うても、仏法の恩を報ずることはできない」と説かれています。この文の意は、仏がねんごろにこの妙法をほめたたえられたので聞く者はみな歓喜し、大品般若経には常啼菩が東方に法を求められたと記され、華厳経には善財童子が南方に法を求められたことを説き、法華経には薬王菩が七万二千歳の間、臂を焼いて法を求め、仁王経には普明王が法のために頭を刎ねられたと説かれている。このような先師の求法のあとを考えてみるに、たとえ一日に三度、恒河の砂の数ほどの身を捨てても、一句の法門の恩を報ずることができない。まして仏を百千万劫の長い間、両肩に荷い負うても、深遠な仏法の恩を報ずることができないというものです。摩訶止観の第五巻にも「常啼菩のように香城に骨を砕いても、あるいは雪山童子のように雪嶺に身を投げても、仏法の功徳を報ずることはできない」と説かれています。
[6]弘決の第四巻には次のように説かれています。「昔、摩大国で一匹の狐が獅子に追われて逃げ、水のない空井戸に落ちてしまいました。幸い、獅子はこの井戸を飛び越えて行ってしまいましたので、狐は井戸から上ろうとしますが、深い井戸のためどうしても上ることができません。やがて日数もたち狐は餓死するばかりです。そのとき狐は、ああ何という災難であろう。今、自分はこのように苦しめられ、この空井戸で餓死しようとしている。思えば一切万物はみな無常である。同じ死ぬなら、この身を獅子の飼食としてささげなかったことこそ残念である。願わくば帰依するところの十方の仏たちよ、わが心の浄きことを知ろしめせ」と唱えたということです。この文の心は、ああ、何という災難か。今、自分はこの井戸で餓死しようとしている。一切みなこれ無常である。同じ死ぬならこの身を獅子の飼食としてささげなかったことこそ残念だ。願わくば十方の仏たちよ、わが心の浄きことを知ろしめせと叫んだということです。
[7]そのとき帝釈天がその声を聞き自ら下界に降り、井戸の中の狐を救い上げ、私たちのために法を説いていただきたいと頼みました。すると狐は、弟子が上座にいて師が下座にいるのは逆であるといったので、諸天はみな笑いました。帝釈天はそれも道理だと考え、自ら下座につき法を説き給えと願いました。しかし、再び狐がいうには、まだ逆である。師と弟子が同座するという法はないといったので、帝釈天は諸天が着ている上の衣を脱がせてそれを重ねて高座とし、その上に狐を登らせて法をお説き下さいと願いました。そこで狐ははじめて「生を楽い死を悪む者があり、また死を楽い生を悪む者がある」と説きました。文の心は、世間の愚人はただ現世のみあると思い後生を思わないから、生まれることを願い死ぬことを避けようとしますし、世間の善人は因果の道理を知っていますから、死ぬことを願って生まれることを避けるという意味です。帝釈天は狐からこの教えを聞き、その後狐を師として敬ったといいます。天台大師はこれを解釈して、雪山童子は「諸行無常、是生滅法」の二句を聞き、さらに鬼神に随って涅槃経に説く「この生と滅とを滅しおわって生なきを寂滅とす、寂滅はすなわち涅槃にしてこれ楽なり」の半偈を願い、帝釈天は畜生にまで頭を下げて師とし、また袋が臭いからといって、その中の黄金を捨ててはいけないといわれています。したがって、いかに身分が賤しい者でありましても、その人が真実の法を知っているならば、これを尊んで決して軽んじてはいけません。されば法華経第八巻の普賢菩勧発品かんぼつぽんに「この経典を受持する者を見て、その過悪をいう者は、それが事実であるにせよ事実でないにせよ、現世に悪い病いにかかるであろう」と説かれています。この文の心は、法華経の行者の罪を非難する者は、それが事実であるにせよないにせよ、現世には悪い病いにかかり、後世には無間地獄に堕ちるということを説いたものです。
[8]これら聖賢のいわれた道理を考えてみますと、大地の上に針を立て、大梵天宮から糸を下げて間違いなくその糸を針の穴に入れることより、われわれが人間として生まれることの方がよりむずかしいし、また億々万劫・不可思議劫という限りない時を過ぎても、如来の聖教にあうことがいかにむずかしいかということがわかります。それにもかかわらず、われわれはその受けがたい人間に生まれ、あいがたい聖教にあうことができたのです。しかし、たとえ聖教にあうことができても、一度でも悪師にあうならば、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちてしまうのです。師が地獄に堕ちれば弟子も堕ち、弟子が堕ちれば信者もまた堕ちると説かれているとおりです。しかるにいま、われわれは幸いにも法華経の行者に値うことができました。おかげで昔の聖賢が法を求めて身の皮をいで紙とし、肉を割いて墨とし、あるいは千年もの長い間給仕しなくとも、自分の思い通りに一念三千・十界十如・一実中道・皆成仏道の妙法を学ぶことができるのです。まことに過去に積んだ善業が少なく、法華経が流布するこの末法の世に生まれることができなかったならば、未来永劫にわたって成仏解脱することは難しかったでありましょう。また、世間の人の有様を見ますと、口には深く信心しているようにいっていますが、ほんとうに心から深く信心している人は一人としておりません。それゆえ、涅槃経に「仏法を信じないで悪道に堕ちる者は、大地の土のように多く、仏法を信じて仏になる者は爪の上の土のように少ない」と説かれているのも理のあることなのです。
[9]昔、釈尊は生母である摩耶夫人ぶにんの恩に報いるため、人に知られないように四月十五日、法を説くべく摩耶夫人のおられる利天へ昇られました。するとインドすべての国王・大臣をはじめ、身分の低い男女までが、釈尊を失って泣き悲しみく有様は、あたかも子を失った親か、親に逝かれた子のき悲しむようでした。愛しい妻に別れた夫が妻を思い、愛しい夫に別れた妻が夫を思う心さえ堪えがたいものです。まして、釈尊は三十二相・八十種好の特別の相をお持ちになり、紫磨金色でおごそかに粧い、伽のような妙なる声で、すべての人びとを仏にすべく教えを説かれた方です。このような慈悲深い方ですから、釈尊との別れを惜しむきは、むかし玄宗皇帝の時代に上陽人という美妃が、楊貴妃に憎まれて四十余年の間、上陽宮に閉じこめられたそのきにも超え、堯王の娘である娥皇・女英の二人が舜王と死別したときのきにも超え、また前漢の武帝に仕えた蘇武が胡国に使者として行き同地にとどめられ、十九年の間、雪中に苦しんだきにも勝っています。釈尊を慕うあまりに木で仏の姿を造りましたが、仏の三十二相のうち、その一相にも似せて造ることはできませんでした。その時、優大王が利天より首羯摩天を請待して、赤栴檀の木で釈尊の像を造りましたが、その木像の釈尊が本当の釈尊を利天へ迎えに参ったということです。それは優大王の信心が深く、その功徳が顕われたもので、これが世界で仏像を造った最初なのです。
[10]また、須達長者という人がありました。利天におられる釈尊が、七月十五日にインドへお帰りになると伝えられましたので、釈尊のために御堂を建てようと計画しましたが、御堂を建てる土地がありません。たまたま波斯匿王の皇子陀太子は、陀林という広さ四十里あまりの広大な苑を持っていました。この苑は太刀や刀を持って入ると、たちまち折れ砕けてしまう清浄な苑であると伝えられていました。そこで、須達長者は陀太子に会い、釈尊のために御堂を建てたいのでこの苑を売ってもらいたいと申し入れたところ、陀太子はこの四十里の苑に厚さ四寸ほどに敷きつめた黄金の代金ならば売りましょうと答えました。これを聞いた須達長者は動ずることなく、ただちにこの苑を買いましょうというと、陀太子は驚いて、それは戯れにいったことで、売ることはできないといわれました。そこで須達太子は、天子に二言はないものである。たとえ軽々しい戯言にせよ、なぜ虚言をいわれたのかと主張して、事のいきさつを父の波斯匿王に申し上げました。すると波斯匿王は、陀太子は自分の跡を継ぐ者である。軽々しい戯言にせよ虚言をいうべきではないと仰せられたので、陀太子はやむなくその苑を須達長者に譲ることになったのです。
[11]須達長者は約束どおり四十里の苑に厚さ四寸の黄金を敷きつめてこの苑を買い取り、悦んでそこに御堂を造営しようとしたとき、地割の縄を引きにきていた舎利弗が空を見上げて笑いました。それを見た須達長者は、聖者は威儀を乱さないものであるのに、何故そのように笑われるのかと尋ねると、舎利弗がいうには、あなたがこの御堂を造営しようとすれば必ず六欲天に戦いが起こりましょう。なぜなら、あなたがこのような良い行ないをするものですから、自分たちの天界へ迎えようとして、互いに諍うだろうと思うとおかしくて笑ったのです。あなたはこの世を終えたなら、来世には必ず兜率天の内院に生まれるでしょうと答えられました。かくてこの御堂は立派に完成し、それは園精舎と呼ばれました。
[12]この園精舎へ七月十五日の夜、釈尊が入られるとの仰せがありましたので、梵天・帝釈天は利天からこの園精舎へ、金・銀・水精の三つの橋をかけました。釈尊はその真中の水精の橋を渡って園精舎へ向かいましたが、釈尊の左には梵天、右には帝釈天が侍し、それぞれ釈尊に天蓋をさしかけ、釈尊のあとには比丘・比丘尼・優婆塞うばそく優婆夷うばいの四衆や天・龍・夜乾闥婆けんだつば阿修羅あしゆら楼羅かるらきんなら羅伽まごらがの八部、そして葉・旃延・目連・須菩提らの千二百人の阿羅漢、一万二千の声聞、八万の菩らがつづいて地上に降りられたのです。そのとき全インドのすべての人びとは、それぞれの身分に応じて燈をささげて路を照らしました。万燈をともす人、千燈を燈す人、あるいは百燈を燈す人、一燈を燈す人などさまざまでしたが、その中に一人の貧女がおりました。その貧しさはたとえようもなく、身につけているものは十筋に編んだ菅ごもにも及ばない藤の皮で作った衣だけです。貧女は諸方を馳けまわり一燈の代金を求めましたが、それを得ることができません。走りまわったかいもなく、き悲しんで流す涙がもし油であったならば、百万燈を燈しても尽きることはないと思われるほどでした。貧女は考えた末、自分の黒髪を切ってかつらに作り、これを売って一燈の油にかえて燈すことができました。この殊勝な貧女の真心を仏・神も、そして仏宝僧の三宝も天神・地神も感じられたのでしょうか、多くの物を吹き壊す藍風・藍風という大風が吹いて、すべての燈を吹き消したにもかかわらず、貧女の一燈だけは消えずに残り、その光によって釈尊は園精舎へ入られたのです。
[13]以上のことから考えてみますと、自分の満足のためにいかに多くの財宝を布施したとしても、その人の信心が弱ければ仏になることはできないということです。たとえ貧しくとも信心が強く、志の強い人は仏になることは間違いありません。それゆえ、むかし無勝・徳勝という童子は、王舎城下で釈尊に土のを供養しましたが、その功徳によって仏の滅後百年ののち、この世界の主阿育王と生まれ、八万四千の石塔を造立しては諸国に送って仏教を弘め、のちに念願であった成仏をとげることができたのです。
[14]されば、法華経が説かれる以前の四十余年間に説かれた諸経では、成仏できないとされた女性も、この法華経では仏となり、また殺父・殺母・殺阿羅漢・破和合僧・出仏身血の五逆罪を犯し、仏法を信じなかった提婆達多すらも仏となることができたのです。それゆえ、末代濁世に生まれて謗法罪を犯し、正法不信の一闡提いつせんだいや五逆罪を犯した僧侶・俗人・尼僧・女性も、すべてこの法華経を受持する功徳によって成仏することができるのです。法華経第七巻の神力品第二十一に「私の滅度ののちにこの法華経を受持すれば、その人は必ず成仏するであろう」と説かれていますが、誠に信頼できる経文というべきです。
[15]これらのことどもをいろいろと思いながら、この身延山に静かに夢を結ぶとき、妻恋う鹿の鳴き声に目をさませば、たちまちに迷いや疑いが消え、我が身の内には本来、三諦即一、一心三観の月が雲もなく澄んでいたにもかかわらず、無明深重の雲におおわれて、昔から今に至るまで生死の九界に輪していたということを、いま悟ることができました。その喜びを歌にあらわせば次のとおりです。
[16]立わたる身のうき雲も晴ぬべしたえぬ御法の鷲の山嵐
[17]<人>日 蓮 <花押>花押