地引御書
書下し
地引御書
[1]坊は十間四面に、またひさしさしてつくりあげ、二十四日に大師講並に延年、心のごとくつかまつりて、二十四日の戌亥の時、御所にすゑ(集会)して、三十余人をもつて一日経かき(書)まいらせ、並に申酉の刻に御供養すこしも事ゆへなし。坊は地ひき、山づくりし候しに、山に二十四日、一日もかた時も雨ふる事なし。十一月ついたちの日、せうばう(小坊)つくり、馬やつくる。八日は大坊のはしら(柱)だて、九月十日ふき(葺)候了んぬ。しかるに七日は大雨、八日九日十日はくもりて、しかもあたゝかなる事、春の終りのごとし。十一日より十四日までは大雨ふり、大雪下て、今に里にきへず。山は一丈二丈雪こほりて、かたき事かねのごとし。二十三日四日は又そらはれ(晴)て、さむからず。人のまいる事、洛中かまくらのまち(町)の申酉の時のごとし。さだめて子細あるべきか。
[2]次郎殿等の御きうだち(公達)、をや(親)のをほせと申し、我心にいれてをはします事なれば、われと地をひき、はしら(柱)をたて、とうひやうえ(藤兵衛)・むま(右馬)の入道・三郎兵衛の尉等已下の人々、一人もそらく(疎略)のぎ(義)なし。坊はかまくらにては一千貫にても大事とこそ申し候へ。
[3]ただし一日経は供養しさして候。其故は御所念の叶はせ給ひて候ならば、供養しはて候はん。なにと申して候とも、御きねん(祈念)かなはずば、言のみ有りて実なく、華さいてこのみ(果)なからんか。いまも御らんぜよ。此事叶はずば、今度法華経にては仏になるまじきかと存じ候はん。叶ひて候はば、二人よりあひまいらせて、供養しはてまいらせ候はん。神ならは(習)すはねぎ(禰宜)からと申す。此事叶はずば法華経信じてなにかせん。事々又々申すべく候。恐々。
[4]<日>十一月廿五日日>
[5]<人>日 蓮<花押>花押花押>人>
[6]<先>南部六郎殿先>
現代語訳
地引御書
弘安四年(一二八一)一一月二五日、六〇歳、於身延、南部六郎宛、和文、定一八九四—一八九五頁。
[1]このたび新築しました坊の広さは十間四面で、その上に庇を造りたして完成しました。落成供養は昨十一月二十四日で、その日はちょうど天台大師の御命日でしたので、大師講と延年の舞いを行ない、心ゆくばかり執行しました。また、当日の午後九時から御本尊の前に弟子三十余人が集まり、法華経の一日頓写を修行し、その前の午後五時には堂供養も無事終了しました。堂完成までの経過は、十月に山を切り崩し、地ならしから始めましたが、それから二十四日の間は一日も雨が降りませんでした。おかげで十一月一日には小坊や馬屋が完成し、同八日には大坊の柱建て、九日・十日には屋根葺きを完了することができました。七日は大雨でしたが、八日・九日・十日は曇天で、春の終わりごろのようなあたたかな気候で工事もはかどりました。ところが工事が終わった十一日から十四日までは大雨が降りつづき、その雨が大雪となり今でも里に雪が残っています。山には一丈二丈と積もった雪が凍って鉄のようです。ところが、落成供養を行ないました二十三日・二十四日はまたすばらしい晴天で、寒さもやわらぎ多くの参詣者で、鎌倉の夕方のような賑やかさでした。これは明らかに仏天の御はからいであると思われます。
[2]御子息の次郎殿等の方々には、親である貴殿の仰せ付けもあったと思いますが、真心を尽くして進んで地ならしや柱建てまでしていただき、また藤兵衛・右馬の入道、三郎兵衛尉等以下の人びとも大いに尽力してくれました。このような大坊の普請は、鎌倉では銭一千貫を費してもできない大事業だといっています。
[3]ただし、一日経の供養は途中でとりやめました。それは、貴殿の祈念が叶えられるなら全部の供養をはたそうと思いましたが、祈念が叶わないようでは、言葉ばかりで成果がなく、花が咲いて果実が実らないのと同じだからです。このことが叶わないようでは、法華経で最も大事な成仏ができないだろうと考えるからです。もし、その祈念が叶いましたならば、日蓮と貴殿と二人で、残りの一日経の供養を成満したいと思います。諺にも「神習わずば禰宜から」といいますように、低い祈りが叶わないようでは、高い成仏も叶うはずがなく、法華経を信仰しても何の役にもたたないと思うからです。詳しいことどもは他日申し上げることにします。
[4]<日>十一月二十五日日>
[5]<人>日 蓮 <花押>花押花押>人>
[6]<先>南部六郎殿先>