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破良観等御書

全集 第5巻 2段 定本: #20236(定本の該当ページへ)

書下し

破良観等御書はりようかんとうごしよ


[1](前欠)良観*りようかん道隆*どうりゆう悲願ひがん聖人等が極楽寺*ごくらくじ建長寺*けんちようじ寿福寺*じゆふくじ普門寺ふもんじ等を立てて、叡山*えいざん円頓えんどん大戒をべつじよするがごとし。これは第一には破僧罪也。二には仏の身より血を出だす。今の念仏者等が教主釈尊の御入滅の二月十五日ををさへとり阿弥陀仏の日とさだめ、仏生日ぶつしようにちの八日をば薬師仏の日といゐ、一切の真言師が大日如来をたのみて、教主釈尊は無明に迷へる仏、我等がくつとりにも及ばず、結句は灌頂かんじようして釈仏の頭をふむ。禅宗の法師等は教外別伝*きようげべつでんとのゝしりて、一切経*いつさいきようをばほんぐ(反古)にはをとり、我等は仏に超過せりと云云。これは南印度の大慢ばら門がながれ、出仏身血の一分也。第三に蓮花比丘尼を打ちころす。これ仏の養母にして阿羅漢なり。これは阿闍世王あじやせおう提婆達多だいばだつたをすてて仏につき給ひし時、いかりをなして大火胸をやきしかば、はらをすへかねてこの尼のゆきあひ候たりしを、打ち殺せしなり。今の念仏者等が念仏と禅と律と真言とをせめられて、のぶるかたわなし、結句は檀等をあひかたらひて、日蓮が弟子を殺させ、予が頭等にきずをつけ、ざんそう(讒奏)をなして二度まで流罪、あわせて頸をきらせんとくわだて、弟子等数十人をろう(牢)に申し入るゝのみならず、かまくら(鎌倉)内に火をつけて、日蓮が弟子の所為なりとふれまわして、一人もなくうしなわんとせしが如し。しかるに提婆達多が三逆罪は、仏の御身より血をいだせども尓前にぜんの仏、久遠実成*くおんじつじようの釈にはあらず。殺羅漢しらかんも尓前の羅漢、法華経の行者にはあらず。破和合僧はわごうそうも尓前小乗の戒なり、法華円頓の大戒の僧にもあらず。大地われて無間地獄*むけんじごくに入りしかども、法華経の三逆ならざれば、いたう(甚)も深くあらざりけるかのゆへに、提婆は法華経にして天王如来とならさせ給ふ。
[2]今の真言師・念仏者・禅律等の人人、並にこれを御帰依ある天子並に将軍家、日本国の上下万人は、法華経の強敵となる上、一乗の行者の大怨敵となりぬ。さればたとひ一切経を覚り、十方の仏に帰依し、一国の堂塔を建立し、一切衆生に慈悲ををこすとも、衆流大海しゆるたいかいに入りかんみ(鹹味)となり、衆鳥須弥山しゆみせんに近ずきて同色となるがごとく、一切の大善変じて大悪となり、七福かへりて七難*しちなんをこり、現在眼前には他国のせめきびしく、自身はつわものにやぶられ、妻子はかたきにとられて、後生には無間大城に堕つべし。此をもんてをもうに、故弥四郎*やしろう殿はたとひ大罪なりとも、提婆が逆にはすぐべからず。いかにいわんや小罪なり。法華経を信ぜし人なれば無一不成仏むいちふじようぶつ疑ひなきものなり。
[3]疑て云く、今の真言師等を無間地獄と候は心へられぬ事なり。今の真言は源弘法大師もと*こうぼうだいし伝教大師*でんぎようだいし慈覚大師*じかくだいし智証大師*ちしようだいしこの四大師のながれなり。この人人地獄に堕ち給はずわ、今の真言師いかで堕ち候べき。答て云く、地獄は一百三十六あり。一百三十五の地獄へは堕つる人雨のごとし。其因やすきゆへなり。一の無間大城へは堕つる人かたし。五逆罪*ごぎやくざいを造る人まれなるゆへなり。又仏前には五逆なし。ただ殺父しぶ殺母しもの二逆ばかりあり。又二逆の中にも仏前の殺父・殺母は、決定けつじようとして無間地獄へは堕ちがたし。畜生の二逆のごとし。しかるに今日本国の人人は、又一百三十五の地獄へはゆきがたし。日本国の人人かたちはことなれども同じく法華経誹謗の輩なり。日本国異なれども同じく法華誹謗の者となる事は、と伝教より外の三大師の義より事をこれり。
[4]問て云く、三大師の義如何。答て云く、弘法等の三大師は其義ことなれども、同じく法華経誹謗は一同なり。いわゆる、善無畏ぜんむい三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の法華経誹謗の邪義なり。問て云く、三大師の地獄へ堕つる証拠如何。答て云く、善無畏三蔵は漢土日本国の真言宗の元祖なり。かの人すでに頓死とんしして閻魔のせめにあへり。そのせめに値ふ事は他のとがならず。法華経は大日経に劣ると立てしゆへなり。しかるをこのとがを知らずして、其義をひろめたる慈覚・智証、地獄を脱るべしや。ただし善無畏三蔵の閻魔のせめにあづかりし故をだにもたづねあきらめば、此事自然に顕れぬべし。善無畏三蔵の鉄の縄七すぢつきたる事は、大日経*だいにちきようの疏に我とかかれて候上、日本醍醐の閻魔堂・相州鎌倉の閻魔堂にあらわせり。これをもんて慈覚・智証等の失をば知るべし。
[5]問て云く、法華経と大日の三部経の勝劣は経文如何。答て曰く、法華経には〔「諸経の中に於て最も其の上に在り」〕と説かれて、この法華経は一切経の頂上の法なりと云云。大日経七巻・金剛頂経こんごうちようきよう三巻・蘇悉地経そしつちきよう三巻、已上十三巻の内、法華経に勝ると申す経文は一句一偈もこれなし。ただ蘇悉地経ばかりにぞ〔三部の中に於てこの経を王となす〕と申す文候。これは大日の三部経の中の王なり。全く一代の諸経の中の大王にはあらず。例せば本朝の王を大王といふ。これは日本国の内の大王なり。全く漢土・月支がつしの諸王に勝れたる大王にはあらず。法華経は一代の一切経の中の王たるのみならず、三世十方の一切の諸仏の所説の中の大王なり。例せば大梵天王のごときんば、諸の小王・転輪王・四天王・釈王・魔王等の一切の王に勝れたる大王なり。金剛頂経と申すは真言教の頂王、最勝王経と申すは外道天仙等の経の中の大王、全く一切経の中の頂王にはあらず。法華経は一切経の頂上の宝珠なり。論師人師をすてて専ら経文をくらべばかくのごとし。
[6]しかるを天台宗出来しゆつたいの後、月氏よりわたれる経論並に天竺・漢土にして立てたる宗宗の元祖等、修羅心をさしはさめるかのゆへに、或は経論にわたくしの言をまじへて事を仏説によせ、或は事を月氏の経によせなんどして、私の筆をそへ仏説のよしを称す。善無畏三蔵等は、法華経と大日経との勝劣を定むるに理同事勝と云云。これは仏意にはあらず。仏説のごとくならば大日経等は四十余年の内、四十余年の内にも華厳・般若等には及ぶべくもなし。但阿含小乗経にすこしいさてたる経也。しかるを慈覚大師等は此義を弁へずして、善無畏三蔵を重くをもうゆへに、理同事勝*りどうじしようの義を実義とをもえり。弘法大師は又此等にはにるべくもなき僻人ひがびとなり。いわゆる、法華経は大日経に劣るのみならず、華厳経等にもをとれり等云云。しかるをこの邪義を人に信ぜさせんために、或は大日如来より写瓶しやへいせりといゐ、或は我まのあたり霊山りようぜんにしてきけりといゐ、或は師の慧果けいか和尚の我をほめし、或は三をなげたりなんど申す種種の誑言おうごんをかまへたり。おろかな者は今信をとる。又天台の真言師は慈覚大師を本とせり。叡山*えいざんの三千人もこれを信ずる上、随て代代の賢王の御世に勅宣を下だす。その勅宣のせん()は法華経と大日経とは同醍醐、譬へば鳥の両翼、人の左右のまなこ等云云。今の世の一切の真言師はこの義をすぎず。此等は螢火を日月に越ゆとをもひ、蚯蚓きゆういんを花山より高しという義なり。
[7]其上、一切の真言師は灌頂となづけて、釈仏を直ちにかきてしきまんだら(敷曼荼羅)となづけて、弟子の足にふませ、或は法華経の仏は無明に迷へる仏、人の中のえぞ(夷)のごとし。真言師がくつとりにも及ばず、なんどふみ(文)につくれり。今の真言師はこの文を本疏となづけて、日日夜夜に談義して、公家武家のいのりとがうして、ををくの所領を知行し、檀をたぼらかす。事の心を案ずるに、彼の大慢ばら門がごとく、無垢論師にことならず。此等は現身に阿鼻の大火を招くべき人人なれども、強敵のなければさてすぐるか。しかりといへども、そのしるし眼前にみへたり。慈覚と智証との門家等闘諍ひまなく、弘法と聖覚しようがくが末孫が本寺と伝法院、叡山と薗城との相論は修羅と修羅と猿と犬とのごとし。此等は慈覚の夢想に日をいる(射)とみ、弘法の現身妄語のすへか。仏、末代を記して云く、「謗法の者は大地微塵よりも多く、正法の者は爪上の土よりすくなかるべし」。仏語まことなるかなや、今日本国かの記にあたれり。
[8]予はかつしろしめされて候がごとく、幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩*だいこくうぞうぼさつの御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給へ。十二のとしよりこの願を立つ。その所願に子細あり。今くはしくのせがたし。其後、先ず浄土宗・禅宗をきく。其後、叡山・薗城・高野・京中・田舎等処処に修行して自他宗の法門をならひしかども、我身の不審はれがたき上、本よりの願に、諸宗何れの宗なりとも偏党執心あるべからず。いづれも仏説に証拠分明に道理現前ならんを用ふべし。論師・訳者・人師等にはよるべからず。もつぱら経文をとせん。又法門によりては、たとひ王のせめなりともはばかるべからず。いかにいわんや其已下の人をや。父母師兄等の教訓なりとも用ふべからず。人の信不信はしらず。ありのまゝに申すべしと誓状を立てしゆへに、三論宗の嘉祥*かじよう・華厳宗の澄観*ちようかん・法相宗の慈恩等をば、天台・妙楽・伝教等は無間地獄とせめたれども、真言宗の善無畏三蔵・弘法大師・慈覚・智証等の僻見はいまだせむる人なし。善無畏・不空等の真言宗をすてて天台による事は、妙楽大師*みようらくだいしの記の十の後序、並に伝教大師の依憑集えびようしゆうにのせられたれども、いまだくはしからざればにや、慈覚・智証の誤は出来せるかと強盛にせむるなり。
[9]かく申す程に、年卅二、建長五年の春のころより念仏宗と禅宗等とをせめはじめて、後に真言宗等をせむるほどに、念仏者等始にはあなづる。日蓮いかにかしこくとも、明円房・公胤こういん僧上・顕真座主けんしんざす等にはすぐべからず。彼の人人だにもはじめは法然*ほうねん上人をなん(難)ぜしが、後にみな堕ちて、或は上人の弟子となり、或は門家となる。日蓮はかれがごとし。我つめん、我つめんとはやりし程に、いにしへの人人はただ法然をなんじて、善導*ぜんどう道綽*どうしやく等をせめず。又経の権実ごんじつをいわざりしかばこそ、念仏者はをごりけれ。今日蓮は善導・法然等をば無間地獄*むけんじごくにつきをとして、もつぱら浄土の三部経を法華経にをしあはせてせむるゆへに、螢火に日月、江河に大海のやうなる上、念仏は仏のしばらくの戯論けろんの法、実にこれをもんて生死をはなれんとをもわば、大石を船に造り大海をわたり、大山をにな(荷)て難を越ゆるがごとしと難ぜしかば、おもてをむかうる念仏者なし。後には天台宗の人人をかたらひて、どしうち(同志打)にせんとせしかども、それもかなはず。天台宗の人人もせめられしかば、在家出家の心ある人人少少念仏と禅宗とをすつ。
[10]念仏者・禅宗・律僧等、我智力叶わざるゆへに、諸宗に入りあるきて種種の讒奏ざんそうをなす。在家の人人は不審あるゆへに、各各の持僧等、或は真言師、或は念仏者、或はふるき天台宗、或は禅宗、或は律僧等をわきにはさみて、或は日蓮が住処に向ひ、或はかしこへよぶ。しかれども一言二言にはすぎず。旃延かせんねん外道げどうをせめしがごとく、徳慧菩摩沓婆まとうばをつめ(詰)しがごとく、せめしゆへにその力及ばず。人は智かしこき者すくなきかのゆへに、結句は念仏者等をばつめさせて、かなはぬところには、大名してものをぼへぬさむらいども、たのしくて先後もわきまへぬ在家の徳人等、こぞつて日蓮をあだするほどに、或は私に狼藉をいたして日蓮がかたの者を打ち、或は所ををひ、或は地をたて、或はかんだう(勘当)をなす事かずをしらず。上に奏すれども、人の主となる人はさすが戒力といゐ、福田と申し、子細あるべきかとをもひて、左右さうなくとがにもなされざりしかば、きりもの(権臣)どもよりあひて、まちうど(町人)等をかたらひて、数万人の者をもんて、夜中にをしよせ失わんとせしほどに、十羅刹じゆうらせつの御計らひにてやありけん、日蓮その難を脱れしかば、両国の吏心をあわせたる事なれば、殺されぬをとがにして伊豆の国へながされぬ。最明寺殿ばかりこそ、子細あるかとをもわれて、いそぎゆるされぬ。さりし程に、最明寺入道*さいみようじにゆうどう殿隠れさせ給ひしかば、いかにも此事あしくなりなんず。いそぎかくるべき世なりとはをもひしかども、これにつけても法華経のかたうどつよくせば、一定事いで来るならば身命をすつるにてこそあらめと思ひ切りしかば、讒奏ざんそうの人人いよいよかずをしらず。上下万人皆父母のかたき、とわり(遊女)をみるがごとし。不軽菩威音王仏いおんのうぶつのすへ(末)にすこしもたがう事なし。(後欠)
現代語訳

破良観等御書


建治二年(一二七六)、五五歳、於身延、光日房宛、和文、定一二七八—一二八六頁。

三逆罪と堕獄


[1](前欠)三逆罪は破和合僧、出仏身血、殺阿羅漢の重罪をいいますが、律宗の良観が北条重時の帰依によって極楽寺を建て、道隆が北条時頼の帰依によって建長寺を建て、また栄西が源政子の帰依で寿福寺を建て、悲願聖人が普門寺を建てて延暦寺の法華円頓大戒をないがしろにしたことは、僧団の平和を乱した第一の破和合僧罪にあたります。第二は出仏身血の罪で、仏の身体を傷つけ血を出すことです。今の念仏者が教主釈尊の入滅された二月十五日を奪い取って阿弥陀仏の日と定め、また釈尊が誕生された四月八日を薬師仏の日と定めたり、またすべての真言師が大日如来を本尊として尊び、釈尊は煩悩に迷う仏で我らが崇める大日如来の履とりにも及ばないとさげすみ、ついには灌頂の式のときに、曼陀羅に画かれた釈尊の頭を足で踏ましめています。また、禅宗の法師たちは真実の教えは一切経の外にありとののしり、一切経は反古ほごにも劣るものだといい、さらには自分たちは仏性ぶつしようを具えているから、釈尊にも超過するものだと主張するものもいます。これは南インドの大慢婆羅門の流れをくむ一派ですが、このような主張は肉体的ではありませんが、思想的に釈尊を傷つける出仏身血の罪の一分にあたるものです。第三は殺阿羅漢で、提婆達多が阿羅漢である蓮華比丘尼を殺したようなものです。これは阿闍世王が提婆達多を捨てて釈尊に帰依しましたので、提婆達多は胸を焼かれるほど怒り、腹をすえかねていたとき、蓮華比丘尼と行き会い殺してしまったのです。今の念仏者が日蓮に念仏と禅と律と真言とを責められて返答することができず、信者たちを説得して味方に入れ、日蓮の弟子を殺させたり、日蓮の頭などを傷つけたり、幕府に讒訴して二度まで流罪にさせたり、その上に首を切らせようとしたり、弟子たち数十人を牢に入れさせ、それだけでなく鎌倉の街々に放火しては、それを日蓮の弟子の行為であると触れまわり、日蓮の信奉者を一人残らずなくそうとしたごときは、まさに現在における殺阿羅漢といえましょう。提婆達多は三逆罪を犯して釈尊の身体から血を出させましたが、その仏は法華経が説かれる以前の仏で久遠実成の釈尊ではありません。また、阿羅漢を殺しましたが、それは法華経以前の阿羅漢で法華経の行者ではありません。さらに僧団の平和を破りましたが、それは法華経以前の小乗戒をたもつ僧で、法華円頓の大戒を持つ僧ではありません。したがって、提婆達多はこのような三逆罪を犯し、大地が割れて無間地獄に堕ちましたが、犯したのが法華経の三逆罪ではありませんでしたので、その罪もあまり重罪ではなく、法華経のときに天王如来となっています。
[2]同じ三逆罪でも、今の真言師・念仏者・禅・律などの人びとや、これらの諸宗に帰依する天皇や将軍家、そして日本国のすべての人びとが法華経の強敵となるばかりでなく、法華経の行者の大怨敵となったのです。したがって、たとえ一切経を覚り、十方の仏に帰依し、一国の堂塔を建立し、すべての人びとに慈悲を施したとしても、その罪を消すことはできません。それは、すべての川の流れも大海に流れこめば塩辛くなり、すべての鳥も須弥山に近づけば同じ色になるようなもので、すべての大善は変じて大悪となり、七福はかえって七難となるのです。今や、日本の現状は大蒙古国からは厳しく攻められ、自身は敵に殺され、妻子は敵に捕われ、後生には無間地獄に堕ちるでありましょう。以上のことから考えてみますと、故弥四郎殿はたとえ大罪があるにしても、提婆達多の犯した五逆罪にはとても及びません。それは誰もが犯すような小罪であり、まして故弥四郎殿は日蓮によって法華経を信仰した人ですから、法華経方便品に「もし法を聞く者は、一人として成仏しない者はない」とありますように成仏することは疑いありません。

真言の教えと堕獄


[3]お尋ねします。今の真言師たちが無間地獄へ堕ちるという日蓮の主張は理解しがたいことです。今の真言宗の根本は弘法大師・伝教大師・慈覚大師・智証大師の四人の流派ですから、この四人が地獄に堕ちなければ、今の真言師の僧たちが地獄に堕ちるはずがないではありませんか。お答えします。地獄には百三十六の種類があります。そのうち、百三十五種の地獄へ堕ちる人は雨のように非常に多いのです。それは、その地獄へ堕ちる原因をつくることが簡単だからです。しかし、残る一つの無間地獄へ堕ちる人は稀なのです。それは、その地獄へ堕ちる五逆罪の大罪をつくる人が稀だからなのです。ことに釈尊以前の世には五逆罪というものがなく、ただ父を殺す罪と母を殺す罪の二逆罪のみだったからです。また、釈尊が出られる以前の殺父・殺母の二逆罪を犯しただけでは、必ず無間地獄へ堕ちるということはないのです。それは畜生が父母を殺すのと同じだからです。ところが、今の日本国の人びとは、堕ちやすい百三十五の地獄へは堕ちません。なぜなら、日本国の人びとは形は変わっていても、みな同じように法華経をそしる人びとばかりですから、無間地獄へ堕ちるのです。このように、日本国の人びとはそれぞれ異なりますが、同じように法華経を誹謗するようになった根本原因は、実に伝教大師最澄以外の弘法・慈覚・智証の三人の大師の教義から起こったものなのです。
[4]お尋ねします。その三人の大師の教義はどのようなものでしょうか。お答えします。弘法大師らの三人の大師はそれぞれ教義が異なっていても、法華経を真言より劣っているとする点は三人とも同じです。それは善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵が法華経を謗ったのと同じ誤った考え方です。お尋ねします。三人の大師が地獄へ堕ちるという証拠があるのでしょうか。お答えします。善無畏三蔵は中国・日本における真言宗の元祖です。その善無畏三蔵がにわかになくなって閻魔の責めにあっています。その理由は法華経が大日経より劣ると説いたからです。しかるに、それとは知らずにこの誤った教えを弘めた慈覚大師・智証大師もまた地獄へ堕ちることになりましょう。そして、善無畏三蔵が閻魔の責めにあった理由が究明されれば、三人の大師が地獄に堕ちた事も自然に明らかになりましょう。善無畏三蔵が地獄の鬼に七筋の縄で縛られ引かれていったことは、善無畏三蔵自身が大日経の疏に書いているとおりです。その上、山城の醍醐寺の閻魔堂や相模の鎌倉の閻魔堂に掛けてある画からも明らかです。真言の元祖である善無畏三蔵のこの事実によりましても、その流れをくむ慈覚大師・智証大師が地獄に堕ちていることがわかると思います。

法華経と大日三部経との勝劣


[5]お尋ねします。法華経と大日三部経との勝劣を説かれた経文はあるのでしょうか。お答えします。法華経の安楽行品に「諸経の中で最上の経である」と説かれ、この法華経は一切経の中で最上の法であると釈尊自らが認めています。しかしながら、大日経七巻・金剛頂経三巻・蘇悉地経三巻の以上十三巻のなかに、これら大日三部経が法華経より勝れているという経文は一句一偈もありません。ただ、蘇悉地経の中に大日三部経の中では、この蘇悉地経が王であるという文があるだけです。しかし、これは大日三部経の中の王であり、釈尊が説かれたすべての経の大王というのではありません。たとえば、日本の王を大王というようなもので、日本国の大王ではありますが、中国・インドの諸王に勝れた大王というのではありません。しかるに、法華経は釈尊が説かれたすべての経の王であるばかりか、三世十方の一切の諸仏が説かれた諸経の中の大王なのです。たとえていえば、三界の主である大梵天王のようなもので、もろもろの小王・転輪小王・四天王・帝釈天王・第六天の魔王などのすべての王に勝れた大王なのです。金剛頂経は真言教の中の頂王にすぎませんし、最勝王経も外道や天人や仙人たちの経の中での大王という意味であり、一切経全体の中の頂王ではないのです。それに比べて法華経は一切経すべての中の頂上に位置する宝珠なのです。もろもろの論師や人師の考えを捨てて、もっぱら経典を比較検討すれば、法華経と大日三部経との勝劣は以上の通りとなります。
[6]しかるに、中国に天台大師智によって天台宗が立てられたあと、インドから伝来した経論や、インドや中国で新しく立てた諸宗の元祖たちは、鬼神のような心を起こして経論に自分の言葉を加えてそれを仏説としたり、経文に自分の筆を加えて、もともとインドの経文にある仏説のように主張しています。善無畏三蔵らは法華経と大日経との勝劣を決定するのに、理において同じであるが、事相において大日経は法華経よりも勝れていると主張しています。しかし、これは仏の本意ではありません。仏説のとおりならば、大日経などは法華経が説かれる前の四十余年の間に説かれた権経です。さらにいえば、四十余年の間に説かれた諸経のなかでも華厳経や般若経にも及ばないもので、小乗の阿含経より少しは勝れた経ともいうべきものです。しかるに、慈覚大師らは天台大師・伝教大師の法華宗にその身を置きながら、その義をわきまえず善無畏三蔵を重視するあまりに、理は同じであるが事相の面で勝れているという誤った説を正しいと思っているのです。ところで、日本真言宗の祖である弘法大師は、慈覚大師・智証大師とは比較にならないほどの誤った考えの人です。すなわち、弘法大師はその昔、十住心論などで、法華経は大日経に劣るばかりでなく、華厳経よりも劣るものであると主張しています。そして、この誤った教えを人に信じさせるために、この教えは大日如来から相承したものであるとか、直接、釈尊から霊鷲山りようじゆせんで聞いたものであるとか、師である中国の恵果和尚が自分を褒めたとか、あるいは日本への帰国の途上、海上から日本へ向けて投げた三鈷が海を越えて高野山に留まったというような種々の偽りを主張したのです。そのために、何も知らない人びとは今もそれを信じています。また、天台宗の天台密教の徒は、伝教大師の法孫である慈覚大師を本としています。そして、比叡山三千人の僧侶もこの誤った教えを信じていますので、代々の天皇も勅宣を下しています。その勅宣は法華経と大日経は最上の教法であり、たとえば鳥の二つの翼か、人間の左右の眼のようなものであるという趣旨です。今の世の真言師はこの義を出るものではありませんが、大日経が法華経よりも勝れているとする義は、螢の火が日月よりも明るいと思ったり、小さな土の山を中国の名山である華山よりも高いというようなものです。
[7]その上、すべての真言師は灌頂という儀式のなかで、壇上に敷いた曼陀羅に画かれた釈尊像を弟子に足で踏ませたり、あるいは法華経の仏は無明に迷える仏で、人間の中の夷のようなもので、大日如来の履物とりにも及ばないものであると書き記した書物を著わしています。今の真言師たちはこの書物を本疏と名づけ、これによって日夜、教義を談義し、公家・武家の天下安穏の祈をおこなっては、賜わった多くの寺領を支配し信者を偽っています。その事の心を考えてみますと、インドの大慢婆羅門が釈尊の像を造っては高座の四足として侮したように、また無垢論師が小乗の教えをもって大乗の教えを誹謗したのと同じです。このような真言の徒は生きながら無間地獄に堕ちていく人びとですが、その誤りを明らかにする強敵がいなかったために、その重罪が現われずに今まで無事にきたのでしょうか。しかしながら、彼等が無間地獄に堕ちるきざしはまのあたりに現われてきました。すなわち、慈覚門家と智証門家との闘諍は絶えず繰り返され、弘法大師が開いた高野山と正覚房覚鑁かくばんが開いた根来ねごろの伝法院との間でも、その末孫が修羅と修羅のような争いをし、叡山と三井の園城寺との間でも猿と犬のようなみにくい争いを繰り返しています。このようなことになったのは、慈覚大師が夢に日輪を射て真実と思ったこと、さらには弘法大師が誤った教えを弘めたことから始まるのです。釈尊は末法の今を予言されて、涅槃経に「謗法の者は大地微塵の数よりも多く、正法をたもつ者は爪の上の土よりも少ないであろう」と記されていますが、この釈尊の言葉に誤りはなく、今の日本国の状態はまさにその予言の通りです。

日蓮聖人の諸宗批判と迫害


[8]日蓮はかねてより御存知のとおり、幼少のときから学問に心がけた上に、十二歳の年より虚空蔵菩の御宝前において、日本第一の智者となしたまえという祈願をたてました。その所願にはくわしい事情がありますが、ここでは省略します。その後、まず浄土宗と禅宗の教義を学び、ついで叡山を中心として園城寺・高野山で天台・真言の教義を学び、さらに京都や地方の寺々で諸宗の教義を修学しましたが、自身の心に抱いた仏法の不審は晴れませんでした。かねてよりの誓願に、諸宗いずれの宗に対しても一定の立場に片寄ったり、執着する心をもたず、いずれの宗であろうと仏の説いた教えに証拠があり、道理であれば用いるべきであり、論師・訳者・人師らの説を依拠とせず、もっぱら経文を第一とすべきであり、法門の上でたとえ国王の命令、呵責があっても遠慮せず、ましてやそれ以下の人びとの迫害などを恐れず、たとえ父母・師・兄などの教訓でも仏説に相違するならば用いず、人が信じようと信じまいともっぱら経文の説かれるとおり正直に申し述べようと誓状を立てたのです。ところが、天台大師・妙楽大師そして伝教大師らの諸師は、三論宗の嘉祥・華厳宗の澄観・法相宗の慈恩などを無間地獄に堕ちると責めましたが、真言宗の善無畏三蔵・弘法大師・慈覚大師・智証大師らの誤った教えに対して責めた人は一人もいません。善無畏三蔵や不空三蔵らが真言宗を捨てて、天台の教学に依っていることは、妙楽大師著の法華文句記第十巻の後序、ならびに伝教大師著の依憑集に載せられています。しかし、詳しくなかったために、慈覚大師や智証大師の教学に天台密教化の誤りが現われたのであり、その根源である善無畏三蔵らの誤りを強く責めなければならないのです。
[9]このように考えて、三十二歳の建長五年(<暦>一二五三)の春の頃から、まず浄土宗と禅宗とを責め、後に真言宗などに対する批判を行ないました。最初は念仏者たちも日蓮をさげすみ、日蓮がいかに賢くとも明円房・公胤僧正・叡山の顕真座主などには及ぶはずがない。これらの高僧たちも最初は法然上人を批判したが、最後にはみな法然上人に帰伏して弟子となったり同門となった。日蓮もまた同じであろうと、われもわれも日蓮を論伏しようと勇み立ったのです。ところが、昔の人びとはただ法然の教えのみ批難して、根源の中国浄土教の善導・道綽らの教えについては全く批判を加えていません。さらに、所依の経典の権実についても厳しく批判しませんでしたから、念仏者たちは自分の立場を当然と思い得意になっているのです。しかるにいま、日蓮はその善導・法然らを無間地獄につきおとし、加えて彼らが所依の経典とする浄土三部経と法華経とを比較し、法華経を日月・大海とすれば、浄土三部経は螢火・江河のような高下・勝劣があり、念仏は仏が仮に説かれた方便の教えであり、この教えによって往生しようと思うのは、大石で造った船で大海を渡ろうとするようなものであり、大山を背負って険しい難所を越えるようなもので、往生できるわけがないと厳しく論難しましたので、日蓮と正面から敵対する念仏者は一人もありませんでした。後には天台宗の人びとを仲間に引き入れて、日蓮と同志討ちをさせようとまでしましたが、それは失敗に終わりました。やがて、天台宗の人びとも日蓮によって批判されましたので、在家の信奉者や僧のなかでも分別のある人びとは、わずかですが念仏や禅を捨てるようになったのです。
[10]念仏者や禅宗・律僧たちは、自分の智慧では日蓮にかないませんでしたので、諸宗の間を走りまわって人びとを誘い、日蓮をさまざまに讒言したのです。疑問をもつ在家の人びとも、それぞれ帰依する僧や真言師、念仏者、天台宗、禅宗、律宗の僧とともに日蓮の住房に法論のために押しかけたり、あるいは自分のもとに呼び寄せたりしました。しかしながら、彼らは多言に及ばず一言か二言で詰まってしまいました。それは旃延が外道を責め破り、また徳慧菩が摩沓婆を問い詰めたように、厳しく責めましたので、彼らは力及ばず敗退したのです。彼らのなかには智慧ある人が少ないためでしょうか、最後には念仏者たちに議論をさせて、かなわないときには名前ばかり知られて何も知らない侍たちや、面白半分に前後もわきまえない在家の富裕な人たちを呼び集め、大勢で日蓮にあだをなし、あるいは日蓮の信奉者に乱暴狼藉をし、住居を追放し、所領を奪い、あるいは勘当される人など数えきれないほどです。さらに彼らは日蓮を幕府へ訴えましたが、そうはいっても人びとの主となり功徳力の具わった日蓮に、何か理由があるかと思われてか、安易に罪科には処しませんでした。そこで権勢ある人びとは寄り合って、町人など数万人の人びとを誘い集め、夜中に日蓮の草庵を襲撃し殺そうとしました。しかし、法華経の守護神十羅刹の加護によるものでしょうか、その夜の難も脱れることができたのです。この襲撃は執権武蔵守北条長時と連署の相模守北条政村が心を合わせて行なわせたことです。しかし、日蓮を殺害することができませんでしたので、さらに伊豆国へ流したのです。だが、最明寺北条時頼殿だけは、讒言によって流罪されたことを知って、間もなく伊豆流罪を赦されました。やがて、日蓮の教えの理解者でありましたその北条時頼殿もなくなりましたので、日蓮の主張が用いられることはむずかしくなりました。もはや、山林に隠れる時期かと思いましたが、また考えてみれば法華経を強く弘めれば必ず大難が起こるであろう。その時こそ身命を捨てようと覚悟を決め、さらに法華経を弘めましたので、日蓮を讒訴する人びとの数はふえるばかりでした。日本国のすべての人びとは、日蓮を父母の敵かあるいは妻が遊女を見るように憎しみをもってながめ、それはあたかも不軽菩が威音王仏の末世に法華経を弘められたときと少しもかわらないほどです。(後欠)