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光日房御書

全集 第5巻 2段 定本: #20213(定本の該当ページへ)

書下し

光日房御書こうにちぼうごしよ


[1]去文永八年太歳辛未九月のころより御勘気ごかんきをかほりて、北国の海中佐渡*さどしまにはなたれしかば、なにとなく相州鎌倉にすみしには、生国なれば安房*あわくにはこひしかりしかども、我国ながらも、人の心もいかにとや、むつ(眤)びにくくありしかば、常にはかよう事もなくしてすぎしに、御勘気の身となりて死罪となるべかりしが、しばらく国の外にはなたれし上は、をぼろげ(小縁)ならではかまくらへはかへるべからず。かへらずば又父母のはかをみる身となりがたしとおもひつづけしかば、いまさらとびたつばかりくやしくて、などかかゝる身とならざりし時、日にも月にも海もわたり、山をもこえて父母のはかをもみ、師匠のありやうをも、とひをとづれざりけんとなげかしくて、彼の蘇武そぶ胡国ここくに入りて十九年、かりの南へとびけるをうらやみ、仲丸なかまろが日本国の朝使としてもろこしにわたりてありしが、かへされずしてとしを経しかば、月の東に出でたるをみて、我国みかさの山にもこの月は出でさせ給ひて、故里ふるさとの人も只今月に向ひてながむらんと、心をすましてけり。これもかくをもひやりし時、我国より或人のびん(便)につけて、きぬをたびたりし時、彼の蘇武そぶがかりのあし、これは現にきぬあり。にるべくもなく心なぐさみて候ひしに、日蓮はさせるとがあるべしとはをもはねども、この国のならひ、念仏者と禅宗と律宗と真言宗*しんごんしゆうにすかされぬるゆへに、法華経をば上にはたうとむよしをふるまへ、心には入らざるゆへに、日蓮が法華経をいみじきよし申せば、威音王仏いおんのうぶつの末の末法に、不軽菩*ふきようぼさつをにくみしごとく、上一人かみいちじんよりしも万人にいたるまで、名をもきかじ、ましてかたちをみる事はをもひよらず、さればたとひとがなくとも、かくなさるる上はゆるしがたし。ましていわうや、日本国の人の父母よりもをもく、日月よりもたかくたのみたまへる念仏を、無間の業と申し、禅宗は天魔の所為そい、真言は亡国の邪法、念仏者・禅宗・律僧等が寺をばやきはらひ、念仏者どもが頸をはねらるべしと申す上、故最明寺こ*さいみようじ極楽寺*ごくらくじの両入道殿を阿鼻地獄*あびじごくに堕ち給ひたりと申すほどの大禍ある身なり。此等程の大事を上下万人に申しつけられぬる上は、たとひそらごとなりともこの世にはうかびがたし。いかにいわうや、これはみな朝夕に申し、昼夜に談ぜしうへ、*へい左衛門尉さえもんのじよう等の数百人の奉行人に申しきかせ、いかにとが(科)に行はるとも申しやむまじきよし、したゝかにいゐきかせぬ。されば大海のそこのちびきの石はうかぶとも、そらよりふる雨は地にをちずとも、日蓮はかまくらへは還るべからず。
[2]ただし法華経のまことにおはしまし、日月我をすて給はずば、かへり入りて又父母のはかをもみるへんもありなんと、心づよくをもひて、梵天・帝釈・日月・四天はいかになり給ひぬるやらん。天照大神・正八幡宮はこの国にをはせぬか。仏前の御起請はむなしくて、法華経の行者をばすて給ふか。もしこの事叶はずば、日蓮が身のなにともならん事はをしからず。各々おのおの現に教主釈尊と多宝如来と、十方の諸仏の御宝前にして誓状を立て給ひしが、今日蓮を守護せずして捨て給ふならば、正直捨方便しようじきしやほうべんの法華経に大妄語を加へ給へるか、十方三世の諸仏をたぼらかし奉れる御失おんとがは、提婆達多だいばだつたが大妄語にもこへ、伽利尊者くぎやりそんじや虚誑罪こおうざいにもまされたり。たとひ大梵天として色界しきかいの頂に居し、千眼天せんげんてんといはれて須弥しゆみの頂におはすとも、日蓮をすて給ふならば、阿鼻のほのおにはたきぎとなり、無間大城にはいづるごおはせじ。此罪をそろしくをぼせば、いそぎいそぎ国にしるしをいだし給へ、本国へかへし給へと、高き山にのぼりて大音声をはなちてさけびしかば、九月の十二日に御勘気、十一月に謀反むほんのものいできたり、かへる年の二月十一日に、日本国のかためたるべき大将どもよしなく打ちころされぬ。天のせめという事あらはなり。これにやをどろかれけん、弟子どもゆるされぬ。しかれどもいまだゆりざりしかば、いよ強盛ごうじように天に申せしかば、頭の白き烏とび来りぬ。彼燕かのえんのたむ(丹)太子の馬、烏のれい(例)、日蔵上人*にちぞうしようにんの、山がらすかしらもしろくなりにけり我がかへるべき期や来ぬらん、とながめしこれなりと申しもあへず、文永十一年二月十四日の御赦免状、同三月八日に佐渡*さどくににつきぬ。同十三日に国を立ちて、うら(網羅)というつ(津)にをりて、十四日はかのつにとどまり、同じき十五日に越後の*てらどまり(泊)のつにつくべきが、大風にはなたれ、さいわひ(幸)にふつかぢ(二日程)をすぎて、しはざき(柏崎)につきて、次の日はこう(国府)につき、十二日をへて三月二十六日に鎌倉へ入りぬ。
[3]同じき四月八日に平の左衛門の尉に見参す。本よりごせし事なれば、日本国のほろびんを助けんがために、三度いさめんに御用ひなくば、山林にまじわるべきよし存ぜしゆへに、同五月十二日に鎌倉をいでぬ。ただし本国にいたりて今一度、父母のはかをもみんとをもへども、にしきをきて故郷へはかへれといふ事は内外のをきてなり。させる面目もなくして本国へいたりなば、不幸の者にてやあらんずらん。これほどのかた(難)かりし事だにもやぶれて、かまくらへかへり入る身なれば、又にしきをきるへんもやあらんずらん。其時、父母のはかをもみよかしと、ふかくをもうゆへにいまに生国へはいたらねども、さすがこひしくて、吹く風、立つくもまでも、東のかたと申せば、庵をいでて身にふれ、庭に立ちてみるなり。
[4]かかる事なれば、故郷の人はたとひ心よせにおもはぬ物なれども、我国の人といへばなつかしくてはんべるところに、この御ふみをたびて、心もあらずしていそぎいそぎひらきてみ候へば、をとゝしの六月の八日に、や(弥)四郎にをくれ(後)てとかかれたり。御ふみも、ひろげつるまではうれしくて有つるが、今、このことばをよみてこそ、なにしにかいそぎひらきけん。うらしまが子のはこなれや、あけてくやしきものかな。
[5]我国の事は、うくつらくあたりし人のすへまでも、をろかならずをもうに、ことさらこの人は形も常の人にはすぎてみへし上、うちをもひたるけしき、かたくなにもなしとみし。をりしも法華経のみざ(御座)なれば、しらぬ人々あまたありしかばことばもかけずありしに、経はて(果)させ給ひて、皆人も立ちかへる。この人も立ちかへりしが、使を入れて申せしは、安房国のあまつ(天津)と申すところの者にて候が、をさなくより御心ざしをもひまいらせて候上、母にて候人も、をろか(疎略)ならず申し、なれ(馴)しき申し事にて候へども、ひそかに申すべき事の候。さきまひりて、次第になれ(馴)まいらせてこそ、申し入るべきに候へども、ゆみや(弓)とる人にみやづかひてひま候はぬ上、事きう(急)になり候ひぬる上は、をそれをかへりみず申すと、こまごまときこえしかば、なにとなく生国の人なる上、そのあたりの事ははゞかるべきにあらずとて、入れたてまつりてこまと、こしかたゆくすへかたりて、のちには世間無常なり、いつと申す事をしらず。其上、武士に身をまかせたる身なり。又、ちかく申しかけられて候事、のがれ()がたし。さるにては後生こそをそろしく候へ、たすけさせ給へときこへしかば、経文をひいて申しきかす。彼れのなげき申せしは、父はさてをき候ぬ。やもめにて候はわ(母)をさしをきて、さきに立ち候はん事こそ、不孝にをぼへ候へ。もしやの事候ならば、御弟子に申しつたへてたび候へと、ねんごろにあつらへ候ひしが、そのたびは事ゆへなく候へけれども、後にむなし(空)くなる事のいできたりて候ひけるにや。
[6]人間に生をうけたる人、上下につけてうれへなき人はなけれども、時にあたり、人々にしたがひて、なげきしな(品々)なり。譬へば、病のならひはいずれの病も、重くなりぬれば、これにすぎたる病なしとをもうがごとし。主のわかれ、をや(親)のわかれ、夫妻のわかれ、いづれかおろかなるべき。なれども主は又他の主もありぬべし。夫妻は又かはりぬれば、心をやすむる事もありなん。をやこのわかれこそ、月日のへだつるまゝに、いよいよなげきふかかりぬべくみへ候へ。をやこのわかれにも、をやはゆきて子はとど(留)まるは、同じ無常なれどもことはりにもや。をひたるはわ(母)はとどまりて、わか(若)き子のさきにたつなさけなき事なれば、神も仏もうらめしや。いかなれば、をやに子をかへさせ給ひてさきにはたてさせ給はず、とどめをかせ給ひて、なげかさせ給ふらんと心うし。心なき畜生すら子のわかれ(別)しのびがたし。竹林精舎の金鳥こんちようは、かひこ(卵)のために身をやき、鹿野苑ろくやおんの鹿は、胎内の子ををしみて王の前にまいれり。いかにいわうや心あらん人にをいてをや。されば王陵が母は子のためになづき(頭脳)をくだき、神堯しんぎよう皇帝の后は胎内の太子の御ために腹をやぶらせ給ひき。此等ををもひつづけさせ給はんには、火にも入り、頭をもわりて、我子の形をみるべきならば、をしからずとこそ、おぼすらめとをもひやられてなみだもとどまらず。
[7]又御消息に云く、人をもころしたりし者なれば、いかやうなるところにか生れて候らん、をほせをかほり候はんと云々。それ、針は水にしずむ。雨はそらにとどまらず。蟻子ありを殺せる者は地獄に入り、死にかばね(屍)を切れる者は悪道をまぬがれず。いかにいわんや、人身をうけたる者をころせる人をや。ただし大石も海にうかぶ、船の力なり。大火もきゆる事、水の用にあらずや。小罪なれども、懺悔ざんげせざれば悪道をまぬかれず。大逆なれども、懺悔すれば罪きへぬ。所謂、粟をつみ(摘)たりし比丘は、五百生が間牛となる。うりをつみし者は三悪道に堕ちにき。羅摩らま王・抜提ばつだい王・楼真びるしん王・なごさ王・かてい王・びしやきや王・月光王・光明王・日光王・愛王・持多人じたにん王等の八万余人の諸王は、皆、父を殺して位につく。善知識にあはざれば、罪きへずして阿鼻地獄*あびじごくに入りにき。波羅奈はらな城に悪人あり、其名をば阿逸多あいつたという。母をあひ(愛)せしゆへに父を殺し妻とせり。父が師の阿羅漢あらかんありて、教訓せしかば阿らかむを殺す。母又、他の夫にとつぎしかば、又母をも殺しつ。つぶさに三逆罪をつくりしかば、鄰里りんりの人うとみ(疎)しかば一身たもちがたくして、精舎ぎおんしようじやにゆいて出家をもとめしに、諸僧許さざりしかば、悪心強盛にして多くの僧坊をやきぬ。然れども、釈尊にひ奉りて出家をゆるし給はりにき。北天竺に城あり。細石となづく。彼城に王あり。龍印りゆういんという。父を殺してありしかども、後に此をおそれて彼国をすてて、仏にまいりたりしかば、仏懺悔を許し給き。阿闍世あじやせ王は、ひととなり(成)三毒しじようなり、十悪ひまなし。其上父をころし、母を害せんとし、提婆達多だいばだつたを師として無量の仏弟子を殺しぬ。悪逆のつも(積)りに、二月十五日、仏の御入滅の日にあたりて無間地獄*むけんじごくの先相に、七処に悪瘡出生して、玉体しづかならず。大火の身をやくがごとく、熱湯をくみかくるがごとくなりしに、六大臣まいりて六師外道ろくしげどうを召されて、悪瘡をいやすべきやう申しき。今の日本国の人々の、禅師・律師・念仏者・真言師等を善知識とたのみて、蒙古国を調伏し、後生をたすからんとをもうがごとし。其上、提婆達多は阿闍世王の本師也。外道げどうの六万蔵、仏法の八万蔵をそら(諳)にして、世間・出世のあきらかなる事、日月と明鏡とに向ふがごとし。今の世の天台宗の碩学の、顕密二道を胸にうかべ、一切経*いつさいきようをそらんぜしがごとし。此等の人々諸の大臣阿闍世王を教訓せしかば、仏に帰依し奉る事なかりし程に、摩竭提まかだに天変度々かさなり、地夭ちようしきりなる上、大風・大旱ばつ・飢饉・疫癘えきれいひまなき上、他国よりせめられて、すでにかうとみえしに、悪瘡すら身に出でしかば、国土一時にほろびぬとみえし程に、にわかに仏前にまいり、懺悔して罪きえしなり。
[8]これらはさてをき候ひぬ。人のをやは悪人なれども、子、善人なればをやの罪ゆるす事あり。又、子、悪人なれども、親、善人なれば子の罪ゆるさるる事あり。されば故弥四郎こ*やしろう殿は、たとひ悪人なりともうめる母、釈仏の御宝前にして昼夜なげきとぶらはば、いかでか彼人うかばざるべき。いかにいわうや、彼人は法華経を信じたりしかば、をやをみちびく身とぞなられて候らん。
[9]法華経を信ずる人は、かまへて法華経のかたきををそれさせ給へ。念仏者と持斎と真言師と、一切南無妙法蓮華経と申さざらん者をば、いかに法華経をよむとも、法華経のかたきとしろしめすべし。かたきをしらねばかたきにたぼら(誑)かされ候ぞ。あはれあはれ、けさんに入つてくわしく申し候はばや。又、これよりそれへわたり候三位房さんみぼう佐渡公*さどこう等に、たびごとにこのふみ(文)をよませてきこしめすべし。又、この御文をば明慧房にあづけ(預)させ給ふべし。なにとなく我智慧はたらぬ者が、或はをこつき、或はこのふみをさいかく(才覚)としてそしり候なり。或はよも此御房は、弘法大師*こうぼうだいしにはまさらじ、よも慈覚大師*じかくだいしにはこへ(超)じなんど、人くらべをし候ぞ。かく申す人をばものしらぬ者とをぼすべし。
[10]建治二年〈太歳丙子〉<日>三月 日
[11]<人>日 蓮<花押>花押
[12]<先>甲州南部波木井はきい郷の山中
現代語訳

光日房御書


建治二年(一二七六)三月、五五歳、於身延、光日房宛、和文、定一一五二—一一六一頁。

佐渡流罪と懐郷


[1]去る文永八年(<暦>一二七一)九月の頃、幕府の咎めを受けて北国の海に浮かぶ佐渡が島へ流罪となりました。相模国の鎌倉に住んでいた頃は、故郷の安房をなつかしく思っていましたが、生まれた国でありながら人びとがどう考えているかわかりかねましたので、あまり故郷に帰ることなく過ごしてきました。しかし、今度は咎めを受けて死罪になるところを流罪となったのですから、おそらく鎌倉へ帰ることはできないと思います。帰れなければ父母の墓へ参ることもできないと思いますと、今になって飛んで行きたいほど悔しく、なぜこのような配流の身となる前に、毎日でも毎月でも海を渡り山を越えて父母の墓に参り、師の道善房の様子を問い訪ねなかったのかと残念に思っています。蘇武は胡国に使者として入りましたが拘留されること十九年、この間、雁が南へ飛ぶのを見てはうらやましく思い、また阿倍の仲丸(仲麿)は日本国の使者として中国に渡りましたが、何年たっても還されず、月が東の山に出るのを見ては日本の三笠の山にもこの月が出て、故郷の人びともこの同じ月を眺めているであろうと心を落ち着かせたということです。いま日蓮もそのように故郷のことを思っているところへ、故郷安房のあなたから使者に托して衣服を頂戴しました。蘇武は手紙をもらっただけですが、日蓮は衣服まで頂戴したのですから、心を慰められることは比較にならないほどです。日蓮はそれほどの罪科ある身とは思いませんが、日本の人びとは長い間、念仏者と禅宗と律宗と真言宗の教えにだまされてきていますから、法華経を表面では尊崇しているように見えますが、心からは信じておらず、日蓮が法華経を最勝の経であるといえば、あたかも威音王仏の末法の人びとが不軽菩を憎んだように、日本の上下のすべての人びとは日蓮を憎みその名を聞くことすらい、まして姿を見ようと思う者など一人もいません。したがって、たとえ罪科がなくても流罪にされた上は赦免されることはないでしょう。まして日蓮は、日本国の人びとが父母よりも重く尊び、日月よりも高く仰いでいる念仏を無間地獄に堕ちる業、禅宗は天魔の所為、真言宗は亡国の邪法であると破し、念仏者・禅宗・律僧などの寺を焼き払い、念仏者の首をねよと申し述べたばかりか、故最明寺入道時頼殿・極楽寺入道重時殿は無間地獄に堕ちたとまで主張した大罪のある身です。これほどの大事を上下万人に申し上げた以上、かりに虚事であるとしてもこの流罪が赦免されることはないでしょう。ましてこれらのことは、すべて日蓮が常に語り続けたばかりでなく、文永八年(<暦>一二七一)九月十日には平左衛門尉ら、数百人の役人の前で申し聞かせ、いかなる罪科に処せられても決してその主張を止めることはできないと、強く言明したのですからなおのことです。したがって、たとえ大海の底の千人の力でようやく引くことのできる重い大石が浮かぶことがありましても、また天から降る雨が大地に落ちないことがありましても、日蓮が再び鎌倉へ帰ることはないと思います。
[2]ただし、法華経が真実の教えであり、日月天などの法華経を守護する諸天が日蓮を見捨てなければ、また故郷へ帰り父母の墓へ参ることもできるであろうと心強く、法華経の行者を守護する梵天・帝釈天・日月天・四天王らはどうなされたか、天照大神・正八幡宮はこの日本におられないのか、法華経の行者を守護するという仏前の起請を破って、法華経の行者を捨てられたのかと思うばかりです。諸天の守護がなく、日蓮の身がどうなろうとも惜しいとは思いません。ただ、あなた方が現に教主釈尊と多宝如来と十方の諸仏の前で、法華経の行者を守護すると誓いを立てながら、いま日蓮を守護しないでその誓いを捨てるならば、釈尊が「正直に方便を捨てる」と言われた法華経に大きな妄語を加えることになりましょう。十方三世の諸仏を欺いた罪は、提婆達多の大きな偽りよりも伽利尊者の虚誑罪よりも重く深いものです。たとえ大梵天として色界の頂上に居住し、帝釈天といわれて須弥山しゆみせんの頂上におられても、もし日蓮を守護しないで捨て去るならば、絶え間なく責め苦を受ける阿鼻地獄の炎を増す薪となって、その無間地獄から解放されることは永久にないでしょう。この罪を恐ろしいと思われるならば、急ぎ日蓮が逮捕されたとき予言したように内乱の現証を示されよ、日蓮を鎌倉へ帰されよと高い山に登り、大音声をもって諸天へ強言しました。すると九月十二日の咎めの日から、わずか三ケ月後の十一月に謀反を起こす者が現われ、翌年の二月十一日には日本国を守るべき大将たちが理由もなく殺されました。諸天の呵責かしやくが実行されたことはこれによって明らかです。これに驚いた幕府は牢につながれていた日蓮の弟子たちをただちに赦免しました。しかし日蓮にはいまだ赦免がありませんので、さらに強盛に守護なきことを諸天に申し聞かせますと、頭の白い烏が飛来してきました。これは何事かと考えてみますと、むかしえんの国のたん太子が秦の国に人質になったとき、秦王が戯れにもし白頭の烏があらわれ、馬に角が生えたならば許そうといったのを丹太子が祈り、ついに白頭の烏があらわれ、馬に角が生じて本国へ帰ることを許された例があります。また日蔵上人が「山がらすかしらもしろくなりにけり我かへるべき期や来ぬらん」と詠んだことなどを思い合わせ、自分の帰る時期も近づいたのであろうかと考えていますと、文永十一年(<暦>一二七四)二月十四日に赦免状が下り、それが三月八日に佐渡の国へ届いたのです。十三日に佐渡の配所を発って真浦の津に着き、十四日はそこに泊り、翌十五日に越後の寺泊に着く予定が、大風のため船が流され二日後に柏崎へ到着しました。そしてその翌日には越後の国府に着き、十二日間の旅程をへて三月二十六日に鎌倉へ入りました。

身延入山と懐郷


[3]四月八日には平の左衛門尉頼綱と対面しました。そして日本を滅亡から救うために三度諫め、それでも自分の意見が採用されなければ山林にのがれようとは、もとより覚悟していたことですので、五月十二日に鎌倉を発ってこの身延の山に入ったのです。ただ身延の山に入る前に、一度故郷へ帰り両親の墓へお参りしたいと思いましたが、成功して故郷に帰れとは儒仏の掟でありますので、三度の諫めも採用されないまま故郷へ帰ることは不孝の者となりましょう。ただ、帰ることができないと考えていた佐渡流罪も赦されて、再び鎌倉へ帰ることができたのですから、また幕府が自分の意見を採用するときもあろうかと思われます。そのときこそ両親の墓へお参りしようと思いますので、今は故郷に帰りません。しかし、さすがに両親の眠る故郷は恋しく、吹いて来る風、立つ雲が東方からといえば、思わず庵を出て身に触れ庭に立って見るばかりです。

弥四郎の死を弔し悲母を慰励す


[4]したがって、たとえ親しみのない人でも故郷の人といえば非常になつかしく思われますのに、まして親しい尼御前からの手紙を頂戴し、心もはやって早速拝見しましたところ、一昨年の六月八日に御子息の弥四郎殿がなくなられたとのこと。お手紙を見るまでは嬉しく思っていましたが、いまこのお手紙を読み、どうしてこんなに急いでお手紙をひらいたかと、浦島太郎の玉手箱のように開けたことを悔いています。
[5]故郷の安房の国のことは、日蓮につらくあたった人のことでもなつかしく思っておりますし、とりわけ弥四郎殿は容貌も人並み以上に勝れ、温和な人柄とお見受けしました。いつぞやお会いしたのは法華経講説の席で、知らない人びとも多勢いましたので言葉もかけませんでした。講説も終わり人びとも弥四郎殿も帰られましたが、やがて使いをよこし、自分は安房の国天津に居住する者ですが、幼少のときからあなたの御志を御慕いし、私の母もまたあなたのことをおろそかには申していませんでした。馴れ馴れしい申し分ではありますが、内密に申し上げたいことがございます。本来ならばお伺いいたし、御懇意をいただいてから申し上げるべきですが、武士に仕える身分にて暇もなく、それに急ぎ申し上げねばならない事情もありますので、失礼をかえりみず申し上げます。と懇切に面会を求めてこられました。故郷の人でもあり、別に憚る事もありませんので招いたところ、こまごまと今までのことや行末のことなどを話してから、無常は世の習いであればいつ命を失うかはわかりません。その上、自分は武士となった身であり、また近いうちに刀を用いなければなりません。それにつけても後生が恐ろしく思われてなりませんので、どうか助けていただきたいといわれましたので、経文を引用して申し聞かせました。また弥四郎殿がいていうには、父はすでになくなりましたが寡婦の母がいます。この母より先に死ぬことは、この上ない不孝だと考えています。もし私が死ぬようなことがあれば、是非母をお弟子にしていただきたいとねんごろに依頼されました。そのときは何事もなくすんだようでしたが、その後また死なねばならない事件が起こったのでしょうか。
[6]人間として生を受けた以上、身分の上下にかかわらず憂いのない人はありませんが、時により人によってそのきはさまざまです。たとえば病の常としてどのような病でも重くなれば、これ以上のつらい病はないと思うようなものです。これと同じように主従の別れ、親子の別れ、夫婦の別れもいずれ劣らぬきではありますが、たとえ主君は失ってもまた他の主君に仕えることもできます。夫婦もまたたとえ別れても、代わりを迎えれば心を休めることもできましょう。しかしながら親子の別ればかりは、月日もたてばたつほどそのきはいよいよ深くなるばかりです。親子の別れでも親が先になくなり子供が残ることは、同じ無常ではありますが自然の道理ですからやむをえません。しかし、老いたる母が生き残って、若い子供が先立つのはあまりにも哀れで神や仏がうらめしく思われます。どうして親を、子供の代わりに死なせないで生き残らせ、このようにかせるのであろうかと悲しくてなりません。思慮分別のない畜生でも子との別れは堪えがたいものです。竹林精舎のきじは子を助けるために卵を抱いたまま焼死し、鹿野苑の鹿は子をはらんだ雌鹿のために、王の前に身を呈したということです。ましてや、思慮分別のある人間が子を惜しむのは当然のことです。それゆえ、漢の王陵の母は、王陵が情に動かされて二心を抱くことをとどめて頭を砕いて死に、唐の高祖のとう皇后は胎内の子のために腹を破られたということです。これらのことどもを思うにつけ、尼御前もわが子の姿を見るためには、たとえ火に入っても頭を砕いても惜しくはないと考えるその胸中が思いやられて涙も止まりません。
[7]またお手紙に、弥四郎はかつて人を殺害した者であるから、後生はどのような所へ生まれてくるのか御教示いただきたいとのことですが、針が水の中に沈み、雨が空中にとどまらないように、蟻を殺した者も地獄に堕ち、死んだ屍体を切った者も地獄・餓鬼・畜生の三悪道へ堕ちることから免れることはできません。まして、人間を殺したとすればなおさらのことです。しかし、大石も船の力を借りて海に浮かぶことができ、大火も水の働きによって消すことがきるように、小さな罪でも悔い改めなければ必ず悪道に堕ちますが、大きな罪を犯した人でも悔い改めればその罪は消えます。そうした例は大変多くあります。梵波提きようぼんはだいは過去世に粟を盗んで牛が食べるように反したため、五百生のあいだ牛に生まれかわり、また瓜を盗んだために三悪道に堕ちた者もいます。羅摩王・抜提王・楼真王・沙王・帝王・王・月光王・光明王・日光王・愛王・持多人王などのインド古代の八万余人の諸王は、みな父を殺して王位についた者ですが、人を導く高僧にあわなかったために、犯した罪を悔い改めることができずついに無間地獄に堕ちてしまいました。また波羅奈城に阿逸多という悪人が住んでいましたが、その母に恋慕をいだき、ついに父を殺し母を妻としましたので、父の師匠であった阿羅漢がこれをいましめたところ、その阿羅漢をも殺してしまいました。ところが母がまた他の夫に嫁いだところ、その母をも殺してしまいました。かくて、殺父・殺母・殺阿羅漢の三逆罪のすべてを犯したために、近隣の人びとの排斥に耐えることができず、園精舎へ赴き出家することを願いましたが、諸僧が許さなかったので、怒り狂った悪人阿逸多はついに多くの僧坊を焼き払ってしまいました。しかし、釈尊にあい心から過去に犯した罪を悔い改めたので出家を許されたのです。また北インドに細石という城があり、その王を龍印といいました。龍印は父を殺してその位についたのですが、後にその罪を恐れ国を捨てて仏のもとに赴き悔い改めたのでその罪を許されました。また中インドのマガダ国の阿闍世王は、生まれつき貪欲・恚・愚痴の三毒がきわめて強く、常に十悪を犯し、さらに父を殺し、母をも殺そうとしたばかりでなく、悪人の提婆達多を師匠として多くの仏弟子を殺しました。こうした人並みはずれた悪事が重なり、二月十五日の釈尊の御入滅の日に、無間地獄へ堕ちる先相として身体の七ケ所に悪瘡ができました。阿闍世王のその苦しみは全身を大火で焼き、熱湯を浴びせられるようでしたので、王に従う六大臣は当時中インドに勢力のあった六人の外道論師を招いて、その悪瘡を治療するよう命じました。これはあたかも、今の日本国の人びとが禅師・律師・念仏者・真言師らを高僧と信頼して、蒙古国を調伏し、後生を助けてもらおうと思っているようなものです。その上、阿闍世王の師である提婆達多は外道の六万蔵、仏法の八万蔵をそらんじて、仏法の教えにも世間の学問にも明るかったことは、あたかも日月や鏡に向かうようなものでした。今の天台宗の碩学が顕教・密教の二教に通じ、一切経をそらんじているのと同じです。このような提婆達多や六師外道、六大臣が阿闍世王を教導したため、阿闍世王は釈尊に帰依することもなく過ごすうちに、摩竭提国に天変地異が続発し、大風・大旱魃・飢饉・疫病などがつづきました。さらに他国から攻め寄せられ、阿闍世王の身には悪瘡が出て、まさに国は滅びようとしたのです。しかし、阿闍世王は深く前非を悔い、急ぎ仏の前におもむき懺悔したためにその罪も消えたということです。
[8]これらのことはさておいて、親が悪人でもその子が善人ならば、親の犯した罪が赦されることもあり、また子供が悪人でも親が善人ならば、子供の罪が赦されることもあります。だから、なくなられた弥四郎殿がたとえ悪人でありましても、生母の尼御前が釈尊の御宝前で昼夜に弔われるならば必ず成仏いたしましょう。ましてや、弥四郎殿は生前、深く法華経を信じていたのですから、今は成仏されてかえって親である尼御前を導く身となられていることでしょう。
[9]法華経を信仰する者は、心にかけて法華経の敵を恐れなければなりません。念仏者や戒律をたもつ者や真言僧、また南無妙法蓮華経と唱えない者はすべて、どのように法華経を読もうとも法華経の敵と考えるべきです。敵を知らなければ敵に欺かれるものです。早くお会いして詳しくお話をしたいものです。また、三位房や佐渡公が安房に行くたびに、この手紙を読ませて聴かれるとよいでしょう。また、この手紙は明慧房に預けておくとよいと思います。思慮のない者たちが日蓮をあざけったり、またこの手紙から日蓮の学識を知りそしったりするでしょう。あるいは、日蓮がいかに賢くとも弘法大師空海よりはすぐれていまい、よもや慈覚大師円仁には及ぶまいなどと比較する人もいるでしょうが、たとえそのようなことをいう人がいても、それは仏教を知らない者のいうことだと思い捨ておきなさい。
[10]建治二年<日>三月 日
[11]<人>日 蓮 <花押>花押
[12]甲州南部波木井郷の山中