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種種御振舞御書

全集 第5巻 2段 定本: #20176(定本の該当ページへ)

書下し

種種御振舞御書しゆじゆおんふるまいごしよ


[1]去ぬる文永五年後の正月十八日、西戎さいじゆう大蒙古国より日本国ををそ(襲)うべきよし牒状をわたす。日蓮が去ぬる文応元年〈太歳庚申〉に勘へたりし立正安国論*りつしようあんこくろんすこしもたがわず符合しぬ。此書は白楽天が楽府がふにも越へ、仏の未来記にもをとらず。末代の不思議なに事かこれにすぎん。賢王聖主けんのうしようしゆ御世みよならば、日本第一之権状けんじようにもをこなわれ、現身に大師号もあるべし。定んで御たづねありて、いくさの僉義せんぎをもいいあわせ、調伏なんども申しつけられぬらんとをもひしに、其義なかりしかば、其年の末十月に十一通*じゆういつつうじようをかきて、かたがたへをどろ(驚)かし申す。
[2]国に賢人なんどもあるならば、不思議なる事かな、これはひとへにただ事にはあらず。天照太神・正八幡宮の僧につい(託)て、日本国のたすかるべき事を、御計らひのあるかとをもわるべきに、さはなくて或は使を悪口し、或はあざむき、或はとりも入れず、或は返事もなし。或は返事をなせどもかみへも申さず。これひとへにただ事にはあらず。たとひ日蓮が身の事なりとも、国主となり、まつり(政)事をなさん人々は、取りつぎ申したらんには政道の法ぞかし。いわうやこの事はかみの御大事いできたらむのみならず、各々の身にあたりて、をほいなるなげき出来すべき事ぞかし。しかるを用ひる事こそなくとも、悪口まではあまりなり。これひとへに日本国の上下万人、一人もなく法華経の強敵となりて、としひさし(年久)くなりぬれば、大禍のつもり、大鬼神の各各の身に入る上へ、蒙古国の牒状ちようじように正念をぬかれてくるう(狂)なり。
[3]例せばいん紂王ちゆうおう比干ひかんといいし者いさ(諫)めをなせしかば、用ひずして胸をほる。周のぶん武王ぶおうにほろぼされぬ。呉王は伍子胥ごししよがいさめを用ひず、自害をせさせしかば、越王勾践えつおうこうせんの手にかかる。これもかれがごとくなるべきかと、いよいよふびんにをぼへて、名をもをしまず、命をもすてて、強盛に申しはりしかば、風大なれば波大なり、龍大なれば雨たけきやうに、いよいよあだをなし、ますますにくみて、御評定に僉議あり。頸をはぬべきか、鎌倉ををわるべきか。弟子檀等をば、所領あらん者は所領を召して頸を切れ、或はろう(籠)にてせめ、あるいは遠流おんるすべし等云云。
[4]日蓮よろこんで云く、本より存知の旨なり。雪山童子は半偈のために身をなげ、常啼菩じようたいぼさつは身をうり、善財童子は火に入り、楽法梵士ぎようぼうぼんじは皮をはぐ、薬王菩ひじをやく、不軽菩*ふきようぼさつ木をかうむり、師子尊者は頭をはねられ、提婆だいばは外道にころさる。此等はいかなりける時ぞやとかんがうれば、天台大師*てんだいだいしは〔「時にかなうのみ」〕とかかれ、章安大師*しようあんだいしは〔「取捨よろしきを得て、一向にすべからず」〕としるさる。法華経は一法なれども、機にしたがひ時によりて其行万差なるべし。仏記して云く、我滅後正像二千年すぎて、末法の始にこの法華経の肝心題目の五字ばかりを、弘めんもの出来すべし。其時悪王・悪比丘等、大地微塵より多くして、或は大乗、或は小乗等をもてきそはんほどに、この題目の行者にせめられて在家の檀等をかたらひて、或はのり、或はうち、或はろうに入れ、或は所領を召し、或は流罪、或は頸をはぬべし、などいふとも退転なくひろむるほどならば、あだをなすものは国主はどし打ちをはじめ、餓鬼のごとく身をくらひ、後には他国よりせめらるべし。これひとへに梵天・帝釈・日月・四天等、法華経の敵なる国を他国より責めさせ給ふなるべしととかれて候ぞ。
[5]各各おのおの我弟子となのらん人々は、一人もをく(臆)しをもはるべからず。をや(親)ををもひ、めこ(妻子)ををもひ、所領をかへりみることなかれ。無量劫よりこのかた、をやこ(親子)のため、所領のために、命すてたる事は大地微塵よりもをほし。法華経のゆへにはいまだ一度もすてず。法華経をばそこばく行ぜしかども、かゝる事出来せしかば退転してやみにき。譬へばゆ(湯)をわかして水に入れ、火を切るにと(遂)げざるがごとし。各々おのおの思ひ切り給へ。この身を法華経にかうるは石にこがねをかへ、ふんに米をかうるなり。仏滅後二千二百二十余年が間、かしよう阿難あなん等、馬鳴めみよう龍樹りゆうじゆ等、南岳なんがく天台てんだい等、妙楽みようらく伝教でんぎよう等だにもいまだひろめ給はぬ法華経の肝心、諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字、末法の始に一閻浮提にひろまらせ給ふべき瑞相に日蓮さきがけしたり。わたうども(和党共)二陣三陣つづきて、葉・阿難にも勝ぐれ、天台・伝教にもこへよかし。わづかの小島のぬしら(主等)がをどさんを、をぢ(恐)ては閻魔王のせめ(責)をばいかんがすべき。仏の御使となのりながら、をく(臆)せんは無下むげの人々なりと申しふくめぬ。
[6]さりし程に念仏者・持斎・真言師等、自身の智は及ばず、訴状も叶はざれば、上郎尼じようろうあまごぜんたちにとりつきて、種々にかま(構)へ申す。故最明寺入道*さいみようじにゆうどう殿・極楽寺入道*ごくらくじにゆうどう殿を無間地獄に堕ちたりと申し、建長寺*けんちようじ寿福寺*じゆふくじ極楽寺*ごくらくじ長楽寺*ちようらくじ大仏寺*だいぶつじ等をやきはらへと申し、道隆*どうりゆう上人・良観*りようかん上人等を頸をはねよと申す。御評定になにとなくとも、日蓮が罪禍まぬかれがたし。但し上件かみくだんの事一定いちじよう申すかと、召し出だしてたずねらるべし、とて召し出されぬ。
[7]奉行人の云く、かみへのをほせかくのごとしと申せしかば、上件かみくだんの事一言もたがはず申す。ただし最明寺殿・極楽寺殿を地獄という事はそらごとなり。この法門は最明寺殿・極楽寺殿、御存生の時より申せし事なり。するところ、上件かみくだんの事どもはこの国ををもひて申す事なれば、世を安穏にたもたんとをぼさば、彼法師ばらを召し合せてきこしめせ。さなくして彼等にかわりて理不尽にとがに行はるるほどならば、国に後悔ありて、日蓮御勘気をかほらば、仏の御使ひを用ひぬになるべし。梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて、遠流死罪おんるしざいの後、百日・一年・三年・七年が内に自界逆難*じかいほんぎやくなんとて、この御一門どしうち(同士打)はじまるべし。其後は他国侵*たこくしんぴつなんとて四方より、ことには西方よりせめられさせ給ふべし。其時後悔あるべし*へい左衛門さえもんじようと、申し付けしかども、太政の入道のくるひ(狂)しやうに、すこしもはばかる事なく物にくるう。
[8]いぬる文永八年〈太歳辛未〉九月十二日御勘気ごかんきをかほる。其時の御勘気のやうも常ならず法にすぎてみゆ。了行が謀反むほんををこし、大夫の律師が世をみださんとせしを、めしとられしにもこえたり。平の左衛門の尉大将として、数百人の兵者つわものにどうまろ(胴丸)きせて、ゑぼうし(烏帽子)かけして、まなこをいからし声をあらうす。大体事の心を案ずるに、太政入道の世をとりながら、国をやぶらんとせしにに(似)たり。ただ事ともみへず。日蓮これを見てをもうやう。ごろつきごろをもひまうけたりつる事はこれなり。さいわひなるかな、法華経のために身をすてん事よ。くさきかうべ(臭頭)をはなたれば、いさごに金をかへ、石に珠をあき(貿)なへるがごとし。さて平の左衛門の尉が一の郎従、少輔房せうぼうと申す者はしりよりて、日蓮が懐中せる法華経の第五の巻を取り出して、おもて(面)を三度さいなみて、さんざんとうちちらす。又九巻の法華経を兵者つわものども打ちちらして、あるいは足にふみ、あるいは身にまとひ、あるいはいたじき(板敷)たゝみ(畳)等、家の二三間にちらさぬ所もなし。日蓮大高声を放ちて申す。あらをもしろや、平の左衛門の尉がものにくるうを見よ。とのばら(殿原)、但今ぞ日本国の柱をたをす、とよばはりしかば上下万人あわてて見へし。日蓮こそ御勘気をかほれば、をく(臆)して見ゆべかりしに、さはなくして、これはひが(僻)ことなりとやをもひけん。兵者どものいろ(色)こそへんじて見へしか。
[9]十日並に十二日の間、真言宗*しんごんしゆうとが、禅宗・念仏等、良観が雨ふらさぬ事、つぶさ(具)に平の左衛門尉にいゐきかせてありしに、或ははとわらひ、或はいかり、なんどせし事どもは、しげければしるさず。せん()するところは、六月十八日より七月四日まで、良観が雨のいのりして、日蓮にかゝれてふらしかね、あせ(汗)をながし、なんだ(涙)のみ下して、雨ふらざりし上、逆風ひまなくてありし事。三度までつかひ(使者)をつかわして、一丈のほり(堀)をこへぬもの、十丈二十丈のほりをこうべきか。ずみしきぶ(和泉式部)、いろごのみの身にして、八斎戒*はつさいかいにせいせるうた(和歌)をよみて雨をふらし、能因法師*のういんほつしが破戒の身としてうたをよみて天雨を下らせしに、いかに二百五十戒の人々百千人あつまりて、七日二七日せめさせ給ふに、雨の下らざる上に大風は吹き候ぞ。これをもつて存ぜさせ給へ。各々の往生は叶ふまじきぞとせめられて、良観がなきし事、人々につきて讒せし事、一一に申せしかば、平の左衛門の尉等かたうど(方人)しかなへずして、つまりふし(詰伏)し事どもはしげければかゝず。
[10]さては十二日の夜、武蔵の守殿のあづか(預)りにて、夜半に及び頸を切らんがために鎌倉をいでしに、わかみやこうぢ(若宮小路)にうち出で、四方につわもののうちつゝみてありしかども、日蓮云く、各々おのおのさわがせ給ふな。べち(別)の事はなし。八幡大菩に最後に申すべき事あり、とて馬よりさしをりて高声に申すやう。いかに八幡大菩はまことの神か。和気の清丸が頸を刎られんとせし時は、たけ一丈の月と顕はれさせ給ひ、伝教大師の法華経をかう(講)ぜさせ給ひし時は、むらさきの袈裟を御布施にさづけさせ給ひき。今日蓮は日本第一の法華経の行者なり。其上身に一分のあやまちなし。日本国の一切衆生の法華経を謗じて無間大城におつべきを、たすけんがために申す法門なり。又大蒙古国よりこの国をせむるならば、天照太神・正八幡とても安穏におはすべきか。其上、釈仏、法華経を説き給ひしかば、多宝仏・十方の諸仏・菩あつまりて、日と日と、月と月と、星と星と、鏡と鏡とをならべたるがごとくなりし時、無量の諸天並に天竺・漢土・日本国等の善神聖人あつまりたりし時、各々法華経の行者にをろか(疎略)なるまじき由の誓状せいじようまいらせよとせめられしかば、一一に御誓状を立てられしぞかし。さるにては日蓮が申すまでもなし、いそぎ(急)いそぎこそ誓状の宿願をとげさせ給ふべきに、いかにこの処にはをちあわせ給はぬぞ、とたかだか(高々)と申す。さて最後には、日蓮今夜頸切られて霊山りようぜん浄土へまいりてあらん時は、まづ天照太神・正八幡こそ起請を用ひぬかみにて候けれと、さしきりて教主釈尊に申し上候はんずるぞ。いた(痛)しとおぼさば、いそぎいそぎ御計らひあるべし、とて又馬にのりぬ。
[11]ゆい(由比)のはまにうちいでて、御りやう(霊)のまへにいたりて又云く、しばしとのばら、これにつ(告)ぐべき人ありとて、中務三郎左衛門*なかつかささぶろうざえもんじようと申す者のもとへ、熊王くまおうと申す童子をつかわしたりしかば、いそぎいでぬ。今夜頸切られへまかるなり。この数年が間願ひつる事これなり。この娑婆世界にして、きじ(雉)となりし時はたか(鷹)につかまれ、ねずみとなりし時はねこにくらわれき。或はめ(妻)に、こ(子)に、かたきに身を失ひし事大地微塵より多し。法華経の御ためには一度も失ふことなし。されば日蓮貧道の身と生れて、父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力なし。今度頸を法華経に奉りて其功徳を父母に回向せん。そのあまりは弟子檀等にはぶく(配当)べしと申せし事これなり、と申せしかば、左衛門の尉兄弟四人、馬の口にとりつきて、こしごへ(腰越)つ(龍)の口にゆきぬ。
[12]ここにてぞ有らんずらんとをもうところに、案にたがはず兵士つわものどもうちまはりさわぎしかば、左衛門の尉申すやう、只今なりとな(泣)く。日蓮申すやう、不かくのとのばらかな。これほどの悦びをばわらへかし。いかにやくそく(約束)をばたがへらるるぞ、と申せし時、江のしま(島)のかたより月のごとくひかりたる物、まり(鞠)のやうにて、辰巳たつみのかたより戌亥いぬいのかたへひかりわたる。十二日の夜のあけぐれ(昧爽)、人のおもてもみへざりしが、物のひかり月よ(夜)のやうにて、人々の面もみなみゆ。太刀取たちとり目くらみたふれ臥し、兵共つわものどもおぢ怖れ、けうさめ(興醒)て一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり、或は馬の上にてうずくまれるもあり。日蓮申すやう、いかにとのばら、かゝる大に禍なる召人めしうどにはとを(遠)のくぞ。近く打ちよれや、打ちよれや、とたかだかとよばわれども、いそぎよる人もなし。さてよ(夜)あけばいかに。頸切るべくわいそぎ切るべし。夜明けなばみぐるし(見苦)かりなん、とすゝめ(勧)しかども、とかくのへんじもなし。はるか計りありて云く、さがみ(相模)のち(依智)と申すところへ入らせ給へと申す。これは道知る者なし。さきうち(先打)すべしと申せども、うつ人もなかりしかば、さてやすらう(小憩)ほどに、或る兵士もののふの云く、それこそその道にて候へと申せしかば、道にまかせてゆく。うまの時計りにえちと申すところへゆきつきたりしかば、本間*ほんま六郎左衛門ろくろうざえもんがいへに入りぬ。
[13]さけ(酒)とりよせて、ものゝふどもにの(飲)ませてありしかば、おのおのかへるとてかうべをうなだれ、手をあざ()へて申すやう。このほどはいかなる人にてやをはすらん。我等がたのみて候阿弥陀仏をそしらせ給ふとうけ給はれば、にくみまいらせて候つるに、まのあたりをが(拝)みまいらせ候つる事どもを見て候へば、たうとさにとしごろ申しつる念仏はすて候ぬ、とてひうちぶくろ(火打袋)よりずず(珠数)とりいだしてすつる者あり。今は念仏申さじとせいじやう(誓状)をたつる者もあり。六郎左衛門が郎従等番をばうけとりぬ。さえもんのじよう(左衛門尉)もかへりぬ。
[14]その日のいぬの時ばかりにかまくら(鎌倉)よりかみの御使とて、たてぶみ(立文)をもつてぬ。頸切れというかさ(重)ねたる御使かと、もののふどもはをもひてありし程に、六郎左衛門が代、右馬のじようと申す者、立てぶみもちてはしり来りひざまづひて申す。今夜にて候べし、あらあさましやと存じて候つるに、かかる御悦びの御ふみ来りて候。武蔵の守殿は今日の時にあたみ(熱海)の御ゆ(湯)へにて候へば、いそぎあやなき(無益)事もやと、まづこれへはしりまいりて候と申す。かまくらより御つかひは二時ふたときにはしりて候。今夜の内にあたみの御ゆへははしりまいるべし、とてまかりいでぬ。追状に云く、この人はとが(失)なき人なり。今しばらくありてゆるさせ給ふべし。あやまち(過)しては後悔あるべしと云云。
[15]その夜は十三日、兵士ども数十人坊の辺り並に大庭になみゐ(並居)て候き。九月十三日の夜なれば月大にはれてありしに、夜中に大庭に立ち出でて月に向い奉りて、自我偈じがげ少少よみ奉り、諸宗の勝劣、法華経の文あら申して、そもそも今の月天は法華経の御座につらなりまします名月天子ぞかし。宝塔品ほうとうほんにして仏勅をうけ給ひ、嘱累品ぞくるいほんにして仏にいただきをなでられまいらせ、〔「世尊の勅のごとく、まさにつぶさに奉行すべし」〕と誓状をたてし天ぞかし。仏前の誓は日蓮なくばむなしくてこそをはすべけれ。今かかる事出来しゆつたいせば、いそぎ悦びをなして法華経の行者にもかはり、仏勅ぶつちよくをもはたして、誓状のしるし(験)をばとげさせ給ふべし。いかに、今しるしのなきは不思議に候ものかな。いかなる事も国になくしては、鎌倉へもかへらんとも思はず。しるしこそなくとも、うれしがをにて澄み渡らせ給ふはいかに。大集経には〔「日月明を現ぜず」〕ととかれ、仁王経には〔「日月度を失う」〕とかかれ、最勝王経には〔「三十三天各瞋恨おのおのしんこんを生ず」〕とこそ見え侍るに、いかに月天いかに月天、とせめしかば、そのしるしにや、そらより明星の如くなる大星下りて、前の梅の木の枝にかかりてありしかば、ものゝふども皆ゑん(縁)よりとびをり、或は大庭にひれふし、或は家のうしろ(後)へにげぬ。やがて即ちそらかきくもりて大風吹き来りて、江の島のなるとて空のひびく事、大なるつづみを打つがごとし。
[16]夜明くれば十四日、卯の時に十郎入道と申すもの来りて云く、昨日の夜のいぬの時ばかりにかうどの(守殿)に大なるさわぎあり。陰陽師を召して御うらなひ候へば、申せしは大に国みだれ候べし。この御房御勘気のゆへなり。いそぎいそぎ召しかえさずんば、世中いかが候べかるらんと申せば、ゆりさせ給へ候と申す人もあり、又百日の内にいくさあるべしと申しつれば、それを待つべしとも申す。
[17]依智*えちにして二十余日、其間鎌倉*かまくらに或は火をつくる事七八度、或は人をころす事ひまなし。讒言ざんげんの者共の云く、日蓮が弟子共の火をつくるなりと。さもあるらんとて、日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて、二百六十余人にしる(記)さる。皆遠島へ遣すべし。ろう(牢)にある弟子共をば、頸をはねらるべしと聞ふ。さる程に火をつくる者は、持斎・念仏者がはかり事なり。その由はしげければかかず。
[18]同十月十日に依智えちを立つて、同十月二十八日に佐渡*さどくにへ著きぬ。十一月一日に、六郎左衛門が家のうしろみの家より*つかはらと申す山野の中に、洛陽の蓮台野れんだいののやうに死人を捨る所に、一間四面なる堂の仏もなし。うえはいたま(板間)あはず、四壁しへきはあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かゝる所に、しきがは(敷皮)打ちしきみのうちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪あられ雷電いなずまひまなし。昼は日の光もさゝせ給はず。心細かるべきすまゐなり。彼李陵りりようが胡国に入りてがんかうくつ(巌崛)にせめられし、法道三蔵ほうどうさんぞうきそう皇帝にせめられてかおにかなやき(火印)をさゝれて、江南にはな(放)たれしも只今とおぼゆ。
[19]あらうれしや。檀王だんのう阿私仙人あしせんにんにせめられて、法華経の功徳を得給ひき。不軽菩*ふきようぼさつは上慢の比丘等のにあたりて、一乗の行者といはれ給ふ。今日蓮は末法に生れて妙法蓮華経の五字を弘めて、かゝるせめ(責)にあへり。仏滅度後二千二百余年が間、恐らくは天台智者大師も「一切世間多怨難信いつさいせけんたおんなんしん」の経文をば行じ給はず。「数数見擯出さくさくけんひんずい」の明文はただ日蓮一人也。「一句一偈我皆与授記いつくいちげがかいよじゆき」は我也。阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみやくさんぼだいは疑ひなし。相模*さがみかみ殿こそ善知識よ。平の佐衛門こそ提婆達多だいばだつたよ。念仏者は伽利くぎやり尊者、持斎等は善星比丘ぜんしようびく。在世は今にあり、今は在世なり。法華経の肝心は諸法実相ととかれて、本末究竟等ほんまつくきようとうとのべられて候はこれ也。摩訶止観第五に云く、〔「行解ぎようげすでに勤めぬれば、三障四魔紛然さんしようしまふんぜんとして競い起る」。また云く、「猪の金山こんぜんり、衆流の海に入り、たきぎの火をんにし、風の求羅ぐらすがごときのみ」〕等云云。釈の心は、法華経をおしえのごとく機に叶ひ時に叶ふて解行すれば、七つの大事出来す。其中に天子魔とて第六天の魔王、或は国主或は父母或は妻子或は檀或は悪人等について、或は随つて法華経の行をさ(支)え、或はしてさうべき事也。何れの経をも行ぜよ、仏法を行ずるには分分に随つて留難るなんあるべし。其中に法華経を行ずるには強盛ごうじようにさうべし。法華経ををしへの如く時機に当つて行ずるには殊に難あるべし。故に弘決ぐけつの八に云く、〔「もし衆生生死を出でず仏乗を慕わずと知れば、魔この人においてなお親の想をす」〕等云云。釈の心は人善根を修すれども、念仏・真言・禅・律等の行をなして法華経を行ぜざれば、魔王おやのおもひをなして、人間につきて其人をもてなし供養す。世間の人にまことの僧と思はせんが為也。例せば国主のたとむ僧をば諸人供養するが如し。されば国主等のかたきにするは、既に正法を行ずるにてある也。釈如来の御ためには提婆達多だいばだつたこそ第一の善知識なれ。今の世間を見るに、人をよくなす(成)ものはかたうど(方人)よりも強敵が人をばよくなしけるなり。眼前に見えたり。この鎌倉の御一門の御繁昌は、義盛と隠岐*おきの法皇ましまさずんば、いかでか日本の主となり給ふべき。さればこの人々は、この御一門の御ためには第一のかたうどなり。日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信*かげのぶ、法師には良観*りようかん道隆*どうりゆう道阿弥陀仏*どうあみだぶつ*へい左衛門さえもんじよう守殿こうどのましまさずんば、いかでか法華経の行者とはなるべきと悦ふ。
[20]かくてすごす程に、庭には雪つもりて人もかよはず。堂にはあらき風より外はをとづるゝものなし。眼には止観・法華をさらし、口には南無妙法蓮華経と唱へ、夜は月星に向ひ奉りて、諸宗の違目と法華経の深義を談ずる程に、年もかへりぬ。いづくも人の心のはかなさは、佐渡の国の持斎じさい・念仏者の唯阿弥陀仏ゆいあみだぶつ生喩房しようゆぼう印性房いんしようぼう・慈道房等の数百人より合ひて僉議せんぎすと承る。聞ふる阿弥陀仏の大怨敵、一切衆生の悪知識の日蓮房、この国にながされたり。なにとなくとも、この国へ流されたる人の始終いけ(活)らるる事なし。たとひいけらるるとも、かへ(帰)る事なし。又打ちころしたれども、御とがめなし。原と云ふ所に只一人あり。いかにがう(剛)なりとも、力つよくとも、人なき処なれば集りていころせ(射殺)かし、と云ふものもありけり。又なにとなくとも頸を切らるべかりけるが、守殿の御台所の御懐妊なれば、しばらくきられず。終には一定ときく。又云く、六郎左衛門の尉殿に申して、きらずんばはからうべしと云ふ。多くの義の中に、これについて守護所に数百人集りぬ。六郎左衛門の尉の云く、かみより殺しまいすまじき副状そえじよう下りて、あなづ()るべき流人にはあらず。あやまちあるならば、重連*しげつらが大なるとがなるべし。それよりはただ法門にてせめよかしと云ひければ、念仏者等或は浄土の三部経、或は止観、或は真言等を、小法師こぼつし等が頸にかけさせ、或はわき(腋)にはさ(挾)ませて正月十六日にあつまる。佐渡の国のみならず、越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国々より集れる法師等なれば、原の堂の大庭山野に数百人、六郎左衛門の尉兄弟一家、さならぬもの百姓の入道等かずをしらず集まりたり。念仏者は口々に悪口をなし、真言師は面々に色を失ひ、天台宗ぞ勝つべきよしをのゝしる。在家の者どもは、聞こふる阿弥陀仏のかたきよとのゝしり、さわぎひびく事震動雷電の如し。日蓮は暫らくさはがせて後、各々しづまらせ給へ。法門の御為にこそ御渡りあるらめ。悪口等よしなしと申せしかば、六郎左衛門を始めて諸人然るべしとて、悪口せし念仏者をばそくび(素首)をつきいだしぬ。さて止観・真言・念仏の法門、一一にかれが申す様をでつしあげ(牒揚)て、承伏せさせては、ちやうとはつめ(詰)つめ、一言二言にはすぎず。鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりもはかなきものどもなれば、ただ思ひやらせ給へ。利剣をもてうり(瓜)をきり、大風の草をなびかすが如し。仏法のおろかなるのみならず、或は自語相違し、或は経文をわすれて論と云ひ、釈をわすれて論と云ふ。善導*ぜんどうが柳より落ち、弘法大師*こうぼうだいしの三を投げたる、大日如来*だいにちによらいと現じたる等をば、或は妄語、或は物にくるへる処を、一一にせめたるに、或は悪口し、或は口を閉ぢ、或は色を失ひ、或は念仏ひが(僻)事也けりと云ふものもあり。或は当座に袈裟平念珠をすてて、念仏申すまじきよし誓状を立つる者もあり。皆人立ち帰る程に、六郎左衛門の尉も立ち帰る。一家の者も返る。
[21]日蓮不思議ひとつ云はんと思ひて、六郎左衛門の尉を大庭よりよび返して云く、いつか鎌倉へのぼり給ふべき。かれ答て云く、下人共に農せさせて七月のころと云云。日蓮云、ゆみやとる者はをゝやけの御大事にあひて、所領をも給はり候をこそ。田畠つくるとは申せ、只今いくさ(軍)のあらんずるに、急ぎうちのぼり、高名して所知を給はらぬか。さすがに和殿原はさがみの国には名ある侍ぞかし。田舎にて田つくり、いくさにはづれたらんは恥なるべしと申せしかば、いかにや思ひげにて、あはててものもいはず。念仏者・持斎・在家の者どもも、なにと云ふ事ぞやとあやしむ。
[22]さて皆帰りしかば、去年こぞの十一月より勘へたる開目抄と申すふみ二巻造りたり。頸切らるゝならば日蓮が不思議とどめんと思ひて勘へたり。この文の心は、日蓮によりて日本国の有無はあるべし。譬へばいえに柱なければたもたず。人に魂なければ死人也。日蓮は日本の人の魂也。平の左衛門既に日本の柱をたをしぬ。只今世乱れて、それともなくゆめ(夢)の如くに妄語出来しゆつたいして、この御一門どしうち(同士討)して、後には他国よりせめらるべし。倒せば立正安国論にくわしきがごとし。かやうに書き付けて、中務なかつかさの三郎左衛門の尉が使にとらせぬ。つきたる弟子等もあらぎ(強義)かなと思へども、力及ばざりげにてある程に、二月の十八日に島に船つく。鎌倉*かまくらに軍あり、京にもあり、そのやう申す計りなし。
[23]六郎左衛門の尉、其夜にはやふね(早舟)をもて、一門相具してわたる。日蓮にたな心を合せて、たすけさせ給へ、いぬる正月十六日の御言おんことばいかにやと此程疑ひ申しつるに、いくほどなく三十日が内にあひ候ひぬ。又蒙古国も一定いちじよう渡り候なん。念仏無間地獄*むけんじごくも一定にてぞ候はんずらん。永く念仏申し候まじと申せしかば、いかに云ふとも、相模*さがみかみ殿等の用ひ給はざらんには、日本国の人用ゆまじ。用ゐずは国必ず亡ぶべし。日蓮は幼若の者なれども、法華経を弘むれば釈仏の御使ぞかし。わづかの天照太神・正八幡なんどと申すは、この国には重んずけれども、梵・釈・日月・四天に対すれば小神こがみぞかし。されどもこの神人しんじんなんどをあやまち(過)ぬれば、只の人を殺せるには七人半なんど申すぞかし。太政入道・隠岐おきの法皇等のほろび給ひしはこれ也。これはそれにはにるべくもなし。教主釈尊の御使なれば、天照太神・正八幡宮もこうべをかたぶけ、手を合せて地に伏し給ふべき事也。法華経の行者をば梵・釈左右に侍り、日月前後を照し給ふ。かかる日蓮を用ひぬるとも、あしくうやま(敬)はば国亡ぶべし。いかにいわんや数百人ににくませ、二度まで流しぬ。この国の亡びん事疑ひなかるべけれども、しばらくとどめをなして国をたすけ給へと、日蓮がひかうればこそ、今までは安穏にありつれども、はう(法)に過ぐれば罰あたりぬるなり。又此度も用ひずば、大蒙古国より打手を向けて日本国ほろぼさるべし。ただ平の左衛門の尉が好むわざわひなり。和殿原とてもこの島とても安穏なるまじき也と申せしかば、あさましげにて立ち帰りぬ。
[24]さて在家の者ども申しけるは、この御房は神通の人にてましますか。あらおそろしおそろし。今は念仏者をもやしなひ、持斎をも供養すまじ。念仏者・良観が弟子の持斎等が云く、この御房はむほんの内に入りたりけるか。
[25]さてしばらくありて世間しづまる。又念仏者集りて僉議せんぎす。かうてあらんには、我等かつえしぬ(餓死)べし。いかにもしてこの法師を失はばや。既に国の者も大体つきぬ。いかんがせん。念仏者の長者のゆい阿弥陀仏・持斎の長者の性諭房しようゆぼう・良観が弟子の道観等、鎌倉に走り登りて武蔵の守殿に申す。この御房島に候ものならば、堂塔一宇も候べからず、僧一人も候まじ。阿弥陀仏をば或は火に入れ、或は河にながす。夜もひるも高き山に登りて、日月に向つて大音声を放つてかみ呪咀じゆそし奉る。その音声一国に聞ふと申す。
[26]武蔵の前司殿これをきき、かみへ申すまでもあるまじ。まず国中のもの日蓮房につくならば、或は国をおひ、或はろうに入れよ、と私の下知を下す。又下文くだしぶみ下る。かくのごとく三度、其間の事申さざるに心をもて計りぬべし。或はその前をとを(通行)れりと云ふてろうに入れ、或はその御房に物をまいらせけりと云ふて国をおひ或は妻子をとる。
[27]かくの如くしてかみへこの由を申されければ、案に相違して、いぬる文永十一年二月十四日御赦免の状、同三月八日に島につきぬ。念仏者等僉議せんぎして云く、これ程の阿弥陀仏の御敵、善導*ぜんどう和尚・法然*ほうねん上人をのる(罵)ほどの者が、たまたま御勘気を蒙りてこの島に放されたるを、御赦免あるとていけ(生)て帰さんは、心う(憂)き事也と云ふて、やうやうの支度ありしかども、いかなる事にや有りけん、思はざるに順風吹き来りて島をばたちしかば、あはい(間合)あしければ百日五十日にもわたらず。順風には三日なる所を須臾しばらくの間に渡りぬ。越後のこう(国府)、信濃の善光寺の念仏者・持斎・真言等は雲集して僉議せんぎす。島の法師原は、今までいけてかへす(生還)は人かつたい(乞丐)也。我等はいかにも生身の阿弥陀仏の御前をば、とをす(通)まじと僉議せしかども、又越後のこうより兵者つわものどもあまた日蓮にそひ(添)て、善光寺をとをりしかば力及ばず。三月十三日に島を立ちて、同三月二十六日に鎌倉へ打ち入りぬ。
[28]同四月八日*へい左衛門さえもんじように見参しぬ。さき(前)にはにるべくもなく威儀を和げてただ(正)しくする上、或入道は念仏をとふ、或俗は真言をとふ、或人は禅をとふ、平の左衛門の尉は前得道の有無をとふ。一一に経文を引ひて申す。平の左衛門の尉はかみの御使の様にて、大蒙古国はいつか渡り候べきと申す。日蓮答て云く、今年は一定也。それにとつては、日蓮已前より勘へ申すをば御用ひなし。譬へば病の起りを知らざらん人の病を治せば、いよいよ病は倍増すべし。真言師だにも調伏するならば、いよいよこの国いくさにまく(負)べし穴賢穴賢。真言師じて当世の法師等をもて御祈り有るべからず。各々は仏法をしらせ給ふておわすにこそ、申すともしらせ給はめ。又いかなる不思議にやあるらん、他事にはことにして日蓮が申す事は御用ひなし。後に思ひ合せさせ奉らんが為に申す。隠岐の法皇は天子也。ごん大夫たゆう殿は民ぞかし。子の親をあだまんをば、天照太神うけ給ひなんや。所従が主君を敵とせんをば、正八幡は御用ひあるべしや。いかなりければ公家はまけ給ひけるぞ。これはひとえに只事にはあらず。弘法大師*こうぼうだいしの邪義、慈覚大師*じかくだいし智証大師*ちしようだいしの僻見をまことと思ひて、叡山*えいざん東寺*とうじ園城寺*おんじようじの人々の鎌倉をあだみ給ひしかば、「還著於本人げんじやくおうほんにん」とてその失還とがかえつて公家はまけ給ひぬ。武家は其事知らずして、調伏も行はざればかち(勝)ぬ。今又かくの如くなるべし。ゑぞ(蝦夷)は死生不知のもの、安藤五郎は因果の道理を弁へて、堂塔多く造りし善人也。いかにとして頸をばゑぞにとられぬるぞ。是をもて思ふに、この御房たちだに御祈りあらば、入道殿事にあひ給ひぬと覚え候。あなかしこあなかしこ。さい(云)はざりけるとおほせ候なと、したゝかに申し付け候ぬ。
[29]さてかへり(帰)きき(聞)しかば、同四月十日より阿弥陀堂法印*あみだどうほういんに仰せ付けられて雨の御いのりあり。この法印は東寺第一の智人、をむろ(御室)等の御師、弘法大師・慈覚大師・智証大師の真言の秘法を鏡にかけ、天台・華厳等の諸宗をみな胸にうかべたり。それに随ひて十日よりの祈雨に十一日に大雨りて風ふかず、雨しづかにて一日一夜ふりしかば、守殿こうどの御感のあまりに、金三十両・むま(馬)やうやうの御ひきで物ありときこふ。鎌倉中の上下万人、手をたゝき口をすくめて、わらうやうは、日蓮ひが法門申して、すでに頸をきられんとせしが、とかう(左右)してゆりたらば、さではなくして念仏・禅をそしるのみならず、真言の密教なんどをもそしるゆへに、かゝる法のしるし(験)めでたしとのゝしりしかば、日蓮が弟子等けう(興)さめて、これは御あら義と申せし程に、日蓮が申すやうは、しばしまて、弘法大師の悪義まことにて国の御いのり(祈)となるべくば、隠岐の法皇こそいくさ(軍)にかち給はめ。をむろ(御室)最愛のちごせいたか(勢多)も頸をきられざるらん。弘法の法華経を華厳経にをとれりとかける状は、十住心論じゆうじゆうしんろんと申すふみにあり。寿量品の釈仏をば凡夫なりとしる(記)されたるふみは、秘蔵宝鑰ひぞうほうやくに候。天台大師をぬす人とかける状は二教論にあり。一乗法華経をとける仏をば、真言師のはきもの(履)とりにも及ばずとかける状は、正覚房が舎利講しやりこうの式にあり。かゝる僻事ひがごとを申す人の弟子阿弥陀堂の法印が日蓮にかつならば、龍王は法華経のかたきなり、梵釈四王にせめられなん。子細ぞあらんずらんと申せば、弟子どものいはく、いかなる子細のあるべきぞと、をこつき(笑)し程に、日蓮云、善無畏ぜんむい不空ふくうも雨のいのりに雨はふりたりしかども、大風吹きてありけるとみゆ。弘法は三七日すぎて雨をふらしたり。此等は雨ふらさぬがごとし。三七二十一日にふらぬ雨やあるべき。たとひふりたりとも、なんの不思議かあるべき。天台のごとく、千観なんどのごとく、一座なんどこそたう(尊)とけれ。これは一定やう(様)あるべしと、いゐもあはせず大風吹き来る。大小の舎宅・堂塔・古木・御所等を或は天に吹きのぼせ、或は地に吹きいれ、そらには大なる光り物とび、地には棟梁みだれたり。人々をもふきころ(吹殺)し、牛馬をゝくたふれぬ。悪風なれども、秋は時なればなをゆる(許)すかたもあり。これは夏四月なり。其上、日本国にはふかず、ただ関東八箇国なり。八箇国にも武蔵・相模の両国なり。両国の中には相州につよくふく。相州にもかまくら(鎌倉)、かまくらにも御所・若宮・建長寺・極楽寺等につよくふけり。ただ事ともみへず。ひとへにこのいのりのゆへにやとをぼへて、わらひ口すくめせし人々も、けう(興)さめてありしうへ、我弟子どももあら不思議やと舌をふるう。
[30]本よりご(期)せし事なれば、三度国をいさめんにもちゐずば国をさるべしと。されば同五月十二日にかまくらをいでてこの山に入る。同十月に大蒙古国よせて壱岐いき対馬つしまの二箇国を打取らるるのみならず、太宰府もやぶられて少弐入道しようににゆうどう大友おおとも等ききにげ(聞逃)ににげ、其外の兵者つわものども其事ともなく大体打たれぬ。又今度よせるならば、いかにもこの国よは(弱々)と見ゆるなり。仁王経には、〔「聖人去る時は七難必ず起る」〕等云云。最勝王経に云く、〔「悪人を愛敬し善人を治罰するによるが故に、乃至、他方の怨賊来りて国人喪乱に遭わん」〕等云云。仏説まことならば、この国に一定悪人のあるを国主たつとませ給ひて、善人をあだませ給ふにや。大集経だいじつきように云く、〔「日月めいを現ぜず、四方皆亢旱こうかんす。かくのごとくして不善業の悪王悪比丘、我が正法を毀壊きえせん」〕云云。仁王経に云く、〔「諸の悪比丘多く名利を求め、国王太子王子の前において、自ら破仏法の因縁破国の因縁を説く。その王わきまえずしてこの語を信聴せん。これを破仏法破国の因縁となす」〕等云云。法華経に云く、「濁世じよくせの悪比丘」等云云。経文まことならば、この国に一定いちじよう悪比丘のあるなり。宝山ほうざんには曲林をきる。大海には死骸をとどめず。仏法の大海、一乗の宝山には、五逆の瓦礫がりやく・四重の濁水じよくすいをば入るれども、誹謗の死骸と一闡提いつせんだいの曲林をばをさめざるなり。されば仏法を習はん人、後世をねがはん人は法華誹謗をおそるべし。
[31]皆人をぼするやうは、いかでか弘法・慈覚等をそしる人を用ゆべきと。他人はさてをきぬ。安房国*あわのくにの東西の人々はこの事を信ずべき事なり。眼前の現証あり。いのもりの円頓房えんどんぼう・清澄の西堯房さいぎようぼう道義房どうぎぼう、かたうみの実智房じつちぼう等はたうとかりし僧ぞかし。此等の臨終はいかんがありけんと尋ぬべし。これらはさてをきぬ。円智房は清澄の大堂にして三箇年が間、一字三礼いちじさんらいの法華経を我とかきたてまつりて、十巻をそらにをぼへ、五十年が間、一日一夜に二部づつよまれしぞかし。かれをば皆人は仏になるべしと云云。日蓮こそ念仏者よりも道義房と円智房とは無間地獄*むけんじごくの底にをつべしと申したりしが、この人々の御臨終はよく候ひけるかいかに。日蓮なくばこの人々をば仏になりぬらんとこそをぼすべけれ。これをもつてしろしめせ。弘法・慈覚等はあさましき事どもはあれども、弟子ども隠せしかば、公家もしらせ給はず。末の代はいよいよあをぐ(仰)なり。あらはす人なくば未来永劫までもさであるべし。拘留外道くるげどうは八百年ありて水となり、毘羅外道かびらげどうは一千年すぎてこそそのとがはあらわれしか。
[32]それ人身をうくる事は五戒の力による。五戒をたもてる者をば、二十五の善神これをまほる上、同生同名と申して二つの天、生れしよりこのかた、左右のかた(肩)に守護するゆへに、とがなくて鬼神あだむことなし。しかるにこの国の無量の諸人なげきをなすのみならず、ゆき・つしまの両国の人皆事にあひぬ。太宰府又申すばかりなし。この国はいかなるとが(失)のあるやらん。しらまほし(欲)き事なり。一人二人こそとがもあるらめ、そこばく(若干)の人々いかん。これひとへに法華経をさぐ(下)る弘法・慈覚・智証等の末の真言師、善導・法然が末の弟子等、達磨だるま等の人々の末の者ども国中に充満せり。故に梵・釈・四天等、法華経の座の誓状のごとく、頭破作七分ずはさしちぶんとがにあてらるるなり。
[33]疑て云く、法華経の行者をあだむ者は、頭破作七分ととかれて候に、日蓮房をそしれども頭もわれぬは、日蓮房は法華経の行者にはあらざるかと申すは、道理也とをぼへ候はいかん。答て云く、日蓮を法華経の行者にてなしと申さば、法華経をなげすてよとかける法然等、無明の辺域としるせる弘法大師、理同事勝*りどうじしようのべたる善無畏ぜんむい・慈覚等が法華経の行者にてあるべきか。又頭破作七分と申す事はいかなる事ぞ。刀をもてきるやうにわるるとしれるか。経文には「如阿梨樹枝によありじゆし」とこそとかれたり。人のこうべに七滴あり。七鬼神ありて一滴くらへば頭をいたむ。三滴を食へば寿いのち絶んとす。七滴皆食へば死するなり。今の世の人々は皆、頭は阿梨樹の枝のごとくにわれたれども、悪業ふかくしてしらざるなり。例せばてを(手負)いたる人の、或は酒にゑひ、或はね(寝)いりぬれば、をぼえざるが如し。又「頭破作七分ずはさしちぶん」と申すは、或は「心破作七分しんはさしちぶん」とも申して、いただきの皮の底にある骨のひびたふ(響破)るなり。死ぬる時はわるゝ事もあり。今の世の人々は去正嘉*しようか大地震だいじしん文永*ぶんえい大彗星だいすいせいに皆頭われて候なり。その頭のわれし時ぜひやみ(喘息)、五蔵の損ぜし時あかき腹(赤痢)をやみしなり。これは法華経の行者をそしりしゆへにあたりし罰とはしらずや。
[34]されば鹿は味ある故に人に殺され、亀は油ある故に命を害せらる。女人はみめ形よければねたむ者多し。〔国を治むる〕者は他国の恐れあり。〔財ある〕者は命危し。法華経を持つ者は必ず成仏し候。故に第六天の魔王と申す三界の主、この経を持つ人をばあながちねたみ候也。この魔王、疫病の神の目にも見えずして人に付き候やうに、古酒こしゆに人の酔候如く、国主・父母・妻子に付きて、法華経の行者を嫉むべしと見えて候。少しも〔違わざるは〕当時の世にて候。日蓮は南無妙法蓮華経と唱ふる故に、二十余年所を追はれ、二度まで御勘気を蒙り、最後にはこの山にこもる。
[35]この山のていたらくは、西は七面の山、東は天子のたけ(嶽)、北は身延の山、南は鷹取たかとりの山。四の山高きこと天に付き、さがしきこと飛鳥もとびがたし。中に四の河あり。いわゆる、富士河・早河・大白河・身延河也。その中に一町ばかりはざまの候に庵室を結びて候。昼は日をみず、夜は月を拝せず。冬は雪深く、夏は草茂り、問ふ人まれなれば道をふみわくることかたし。殊に今年は雪深くして人問ふことなし。命をとして法華経ばかりをたのみ奉り候に、御音信ありがたく候。しらず、釈仏の御使か、過去の父母の御使かと申すばかりなく候。南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経。
現代語訳

種種御振舞御書


建治元年(一二七五)、五四歳、於身延、和文、定九五九—九八六頁。

予言の適中と幕府への警告


[1]去る文永五年(<暦>一二六八)閏正月十八日に、西方の大蒙古国より日本国を攻め寄せるとの内容をもった国書がもたらされました。これは日蓮が去る文応元年(<暦>一二六〇)に前の執権である最明寺時頼入道へ上呈した立正安国論に予言した他国侵の難と少しも相違せず符合したものです。したがって、この立正安国論は、白楽天が楽府を作って諫めたことよりもすぐれ、予言の適中したことは仏の未来記にも劣らないものです。末法の今、これに超える不思議があるでしょうか。もし賢王・聖主のいる御代ならば、日本第一の恩賞にもあずかり、生きているうちに大師号をも賜わるほどのことです。幕府は必ずこの日蓮を召し出して問いただし、軍事の評議にも相談にあずかり、蒙古国調伏の祈などを申しつけられるであろうと思っていましたが、何の沙汰もありません。そこで、その年の十月、幕府の重職にある人や鎌倉の大寺など十一ヶ所へ十一通の書状を書き送り、法の邪正を決すべきことを迫りました。
[2]もしこの日本に賢人がいるならば、立正安国論に書き記した他国侵の難の予言の適中に驚いて、何と不思議なことであろう、これは決してただごとではない、天照大神・正八幡大菩がこの日蓮に託して日本国を救済すべきことを相談されたのであろうか、と考えるべきでありますのに、そうではなくて十一通の書状を受けた人びとは、使いの者を悪口したり欺いたり、あるいは書状を受け取らず、受け取っても返事をするものもなく、あるいは返事をしても執権へ取り次ぎませんでした。これはまったく、ただごとではありません。たとえ日蓮個人のことであろうとも、国主となって政事をする人たちは取り次ぐことが政道の法でありましょう。ましてこのことは、幕府にとって一大事が発生するだけでなく、あなたがたの身にも大きな悲しみがおころうとしているのです。しかるに、日蓮のいうことを聞かないばかりか、悪口までいうとはあまりにも浅慮な仕打ちです。これはひとえに日本国の人びとが、上下万人ことごとく法華経に背き、諸宗を信じて法華経の強い敵となってから長い年月を経過しましたので、その大きな災いが積もって、大鬼神があなたがたの身に入って惑うだけでなく、日本を襲うという蒙古国の書状におびえて、正しい判断を失った結果、心が乱れたのに違いありません。
[3]このような先例はたくさんあります。暴君であった殷の紂王に比干という者が諫言しましたが、王はこれを聞き入れず、比干を殺してその心臓を裂いたため、紂王は天下の信用を失い周の文王・武王に滅ぼされました。また、呉王夫差は忠臣伍子胥の諫言を聞き入れず、伍子胥を自害させたので越王勾践のために滅ぼされました。今の北条氏もかれらと同じように滅びるのかと思うといよいよ哀れに思われ、名声も惜しまず、命も捨てて強盛に諸宗を破折し、法華経の正法であることを主張しました。風が強ければ波が高くなり、龍が大きければ降る雨も激しいように、日蓮に対する幕府や諸宗の怨嫉もますます強く、憎悪の念も強まりました。御評定所では評議が開かれ、日蓮の首をねるべきか、鎌倉を追放すべきか、また日蓮にしたがう弟子・檀越のなかで、所領のある者は召し上げて首を切れ、あるいは牢に入れて責めよ、あるいは遠流すべきであるなどの意見が出たということです。
[4]日蓮はこのことを聞き、かえって喜んでいます。このようになるであろうことは、もとより覚悟をしていました。昔、雪山童子は半偈の教えを聞くためにその身を鬼神に投げ与え、常啼菩は法を求めて、師の曇無竭どんむかつに供養するために自分の身を売り、善財童子は修行のために自分の身を火中に投じ、楽法梵士は自分の皮膚をいで紙とし、骨を筆とし、血をもって墨として仏の教えを記し、薬王菩は臂を焼いて七万二千年の間、法華経と仏とを供養し、不軽菩は法華経を弘めるために木で打たれ、石を投げられるなどの迫害をこうむり、師子尊者は仏法を弘めて檀弥羅だんみら王のために首を刎ねられ、提婆菩は法論に敗けたバラモン教の弟子の一人に殺されました。これら昔の聖賢が命を投げうって仏法を求め、弘められたのはどのような時代であったのでしょうか。これについて天台大師智は法華文句で、その時に従ってあるときは折伏しやくぶくの強い方法を用い、あるときは摂受しようじゆによって穏やかな方法を用いるべしと説き、弟子の章安大師も涅槃経疏で、摂受・折伏の取捨はその時の宜しきに随って一方に偏してはならないと記しています。法華経は同じ法華経でもそれを受け入れる人の能力、また時代によって修行や弘教の方法に大きな相違があるのです。とするならば、末法のこの日本にはいかなる法を、いかにして弘めるべきなのでしょうか。釈尊はすでに法華経・涅槃経などに、自分の滅後、正法・像法の二千年を過ぎて、闘諍堅固白法隠没の世である末法の時代に入った始めに、この法華経の肝心である題目の五字ばかりを弘める法師があらわれるであろう。その時、法華経を信じない悪王・悪比丘らの数は大地の微塵よりも多く、大乗教あるいは小乗教などによりその功徳の勝れていることを争うであろうが、法華経の題目を弘める行者に責め破られて対抗できず、在家の信者を味方に引き入れては、ののしり、打擲ちようちやくし、あるいは牢に入れ、所領を没収し、あるいは流罪にし、首を刎ねるなどの迫害があるだろうが、退かず法華経を弘めるならば、恨み、迫害を加える国主は同志討ちをはじめ、餓鬼の子を食べるように争い、ついには他国から攻められるであろう。これはひとえに、梵天・帝釈・日月・四天らの善神が法華経に怨を加える国を反省させるために、他国より攻めさせるからであると説かれています。

門弟への激励


[5]日蓮の弟子であると名乗る人びとは、一人たりとも恐れひるんではいけません。法華経のためには親・妻子のことを思い、所領を惜しんではいけません。はかり知れないほどの昔から今日に至るまで、親・子供・所領のために身命を捨てたことは、大地の微塵の数よりも多いのですが、法華経のために身命を捨てたことはいまだかつて一度もありません。過去に法華経を多少は修行したことはあっても、身命におよぶことがおこれば、たちまち中止して法華経をたもつことをやめてしまったのです。それはあたかも、湯を沸かしても水に入れればもとの水になり、火打石で火をつけようとしても途中でやめてしまえば火がつかないのと同じです。今こそ法華経に身命を捧げる時であり、日蓮の弟子と名乗る人ならば覚悟を決めるときです。この汚れた身を投げうって法華経に替えるのは、石を黄金に替え、糞を米に替えるようなものです。釈尊の滅後、二千二百二十余年の間、インドの葉・阿難らの仏弟子、馬鳴・龍樹らの大論師、中国の南岳・天台・妙楽大師、そして日本の伝教大師らもいまだ弘められなかった法華経の肝心、諸仏の眼目である妙法蓮華経の五字が、経文の予言のように末法の始めにこの世界に弘まろうとするきざしに、この日蓮が先陣を切ったのです。わが一門の人びとよ、二陣・三陣とつづいて葉・阿難にも勝れ、天台・伝教大師にもこえる手柄をたてられよ。わずかの小島の主である北条氏などの威嚇に恐れて法華経を捨てるならば、地獄に堕ちて閻魔王の責めをいかに耐えるのか。仏の使者であると名乗りながら、この程度の迫害で恐れるのは卑劣な人びとでありますぞと申し聞かせました。

日蓮聖人の逮捕と諫言


[6]ところが、念仏者・持斎・真言師らは、自分たちの智慧では法論に勝つ自信がなく、訴状もその目的を達することができないとみるや、幕府上層部の未亡人たちに取り入って、あの日蓮は故最明寺時頼殿・極楽寺重時殿は無間地獄に堕ちたと言い、建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺などを焼きはらえと主張し、故時頼・重時殿の帰依が厚かった道隆上人・良観上人らの首をねよと主張していると讒言したのです。御評定ではいずれにせよ、日蓮の罪はのがれがたいものである。このようなことを日蓮が確かに申したかどうか召し出して尋問すべきであるとして、九月十日に評定所へ召し出されたのです。
[7]評定所の奉行人が、日蓮の主張はこのとおりであるかと申しますので、上に述べた事柄は一言も違わず主張したと申し上げました。ただし、最明寺殿・極楽寺殿が無間地獄に堕ちたということを、今主張したというのは偽りです。この法門は最明寺殿・極楽寺殿が生きておられたときから主張していたところです。いずれにしましても、上に述べた事柄はこの日本国の安危を思って主張したことですので、国家の安穏を思われるのであれば、日蓮の主張することを憎まず、彼の法師たちとこの場に召し合わせ、その正邪を聞かれるべきです。それをしないで、彼らにかわって理不尽に日蓮を罪科に処するようなことがあれば、日本国に大事がおこり、定めて後悔することになりましょう。また、日蓮を流罪・死罪にするようなことがあれば、釈尊の御使いを用いないことにもなります。そのようなことになれば、法華経守護の梵天・帝釈天・日月・四天のお咎めにより、この日蓮が遠流・死罪にされたあと百日・一年・三年あるいは七年のうちに、自界逆の難として北条氏一門で同志討ちがはじまるでしょう。さらにその後は、他国侵難としてこの日本は四方から、とりわけ西方から攻められるでありましょう。その時になって必ず後悔されるであろうと平左衛門尉頼綱に申し聞かせましたが、頼綱はあたかも太政入道平清盛が狂ったように、あたりを憚ることなく怒り狂うばかりでした。
[8]評定所へ召し出された二日後の文永八年(<暦>一二七一)九月十二日、幕府のお咎めを受けましたが、そのときの有様も極めて異常で、法の範囲をこえる物々しさでした。それは建長三年(<暦>一二五一)に鎌倉幕府の転覆をはかって失敗した了行の逮捕のときや、弘長二年(<暦>一二六一)に幕府に謀をおこして失敗した太夫の律師の逮捕にもまして、日蓮のそれは規模の大きなものでした。侍所所司である平左衛門尉頼綱を大将として、数百人の兵士に歩兵用の鎧を着せ、烏帽子をつけさせ、眼をいからし声も荒々しく逮捕にきたのです。おおよそ、その真相を考えてみますとこの鎌倉幕府のやりかたは、太政入道清盛が世を治めながら、実は国を滅ぼした状況と同じでただごととは思えません。日蓮はこの有様を見て、前々から常に考えつづけていたのはこのことで、いま法華経のためにこの身を捧げることができることは何と幸いなことであろう。自分の臭い頭を刎ねられるのは、あたかも砂を金に替え、石を珠に替えるようなものです。そのとき、平左衛門尉頼綱の第一の家臣である少輔房という者が走り寄り、日蓮がふところに入れていた法華経の第五の巻を取り出して、日蓮の顔を三度打ちそれを激しく散らしました。そして、残りの九巻の法華経も兵士どもが引き散らし、足で踏み、あるいは身にまとい、板敷・畳など家の中全体に引き散らかしたのです。日蓮はこの有様を見て、これは面白い。平左衛門尉頼綱がものに狂う様子を見られよ。頼綱はいま日本国の柱を倒すと大声で叫びましたので、頼綱をはじめ家臣もその場にいた群衆もうろたえているようにみえました。日蓮こそお咎めを受けた身ですから心臆して見えるはずですのに、そうではなくて、かえって法華経を引き散らした兵士どもが、これは間違ったことをしたと思ったのでしょうか、顔色を変えてしまったのです。
[9]去る九月十日ならびに十二日の夜、真言宗の教えは国を滅亡させる悪法であること、禅宗は天魔の邪法であること、念仏は地獄へ堕ちる法であること、そして良観房が祈雨の法を行なったが雨を降らすことができなかったことなどを、くわしく平左衛門尉頼綱に申し聞かせましたが、日蓮の話を聞いているうちにり笑ったり、怒りだしたりしたことなどは煩瑣になるので記さないことにします。要するに、六月十八日から七月四日まで、幕府の命をうけた良観房は祈雨の修法を行ないましたが、日蓮にさえぎられて雨を降らすことができず、汗を流し涙のみ下して、ついに雨を降らせなかったばかりでなく、かえって逆風が吹きあれ被害を与えたのです。この間、日蓮は三度ばかり使者を良観房へ遣わし、一丈の堀を越えることのできないものが、どうして十丈・二十丈の堀を越すことができようか。和泉式部は好色の身ではあるが、八斎戒で制止された歌を詠んで雨を降らし、能因法師も破戒の身でありながら和歌を詠んで雨を降らすことができたのに、どうして二百五十戒をたもつ僧を百人も千人も集め、七日間も十四日間も祈ったにもかかわらず、雨を降らすことができないばかりか、大風が吹きあれたのか。この事実をもっても考えてみられよ。御房らの往生ができないのは明らかではないかと責められて、良観房が泣いて口惜しがったこと、そして日蓮を恨んで北条氏の未亡人たちに讒言したことなどを、ひとつひとつ申し聞かせましたので、平左衛門尉頼綱らも良観房をかばいきれず沈黙してしまいましたが、それらも煩瑣になるのでここでは省略します。

鶴岡八幡社頭の諫言


[10]さて、九月十二日の夜、武蔵守北条宣時殿の預り人となり、夜半になって首を切るために鎌倉を出立しましたが、若宮小路にさしかかり鶴岡八幡宮の社前にきたとき、馬の歩みを止めた日蓮を四方から兵士たちが取り囲みました。そこで日蓮は、おのおの方、騒ぎたまうな、格別のことではありません。八幡大菩に最後に申すべきことがあるので、しばらく待たれよと馬より降りて、社前にて声高々と、いかに八幡大菩はまことの神でありましょうか。昔、和気清丸が道鏡のために首を刎ねられようとしたときは、長さ一丈の月となって現われ清丸を守護され、また伝教大師最澄が法華経を講義されたときは、紫の袈裟をお布施として授けられたではありませんか。今、この日蓮は日本第一の法華経の行者であります。その上、自分の身には少しの過失もありません。日本国のすべての人びとが正法である法華経を謗る罪によって、無間地獄に堕ちようとしているのを助けるために説き始めた法門です。そのために、いま日蓮が首を切られようとしているのに傍観されているのはどうしてでありましょうか。日蓮が死罪になったあとで、大蒙古国がこの日本国に攻め寄せるならば、この国の守護神である天照大神・正八幡大菩もはたして安穏でいられましょうか。その上、釈尊が法華経を説かれたとき、多宝仏・十方の諸仏・諸菩が集まって、日と日と、月と月と、星と星と、鏡と鏡とを並べたようになったとき、多くの諸天ならびにインド・中国・日本国などの善神・聖人らに対し、釈尊が法華経の行者を疎略にしないとの誓状を書けといわれて、ひとりひとり誓状を書かれたではありませんか。そうであるならば、日蓮がこのように申すまでもなく、ただちに誓状に書かれた誓願を実行すべきでありますのに、どうしてここに出現してしるしをあらわさないでありましょうかと声高々に申し述べ、最後に日蓮が今夜首を切られて霊山浄土へ参ったときは、まず天照大神・正八幡大菩こそ誓願を果たさない神でありますと、遠慮せずに教主釈尊に申し上げることになりましょう。もし心に痛みを感じられるならば、急ぎ考えられるがよいでしょうと言って再び馬に乗りました。

龍口法難


[11]由比の浜に出て御霊の社の前に来たとき、日蓮は再び方々かたがたしばし待たれよ、ここに知らせたい人がいるといって、四条中務三郎左衛門尉頼基のもとへ熊王という童子を遣わせましたので、四条金吾は驚いて馳けつけてきました。日蓮は今夜、首を切られに行くところです。この数年の間、願い求めてきたのはこのことです。過去の世に数多くこの娑婆世界に生まれてきましたが、雉となって生まれたときには鷹に捉まり、鼠のときには猫に食われ、あるいは人と生まれてきたときは妻や子のため、そして敵のために自分の命を失ったことは大地の微塵の数より多いけれども、法華経のために命を捨てたことは一度もありません。それゆえ、日蓮は今生には貧しい僧の身と生まれて、思うように父母の孝養もできず、また国恩に報いる力もありません。このたびこそ、首を法華経に捧げてその功徳を父母に回向して孝養の一分とし、その余りは弟子・檀らに分かち与えようと申してきたことが、今夜こそ実現するのですと申し聞かせましたので、四条頼基ら兄弟四人は馬の口にとりすがりつつ、腰越の龍口までまいりました。
[12]ここで首を切るのであろうと思っておりますと、予想したとおり兵士どもが日蓮を取り囲んで騒ぎはじめました。四条頼基はいよいよ御最後ですといって泣き伏しました。日蓮はこれを見て、覚悟のできておらぬ方々であることよ、臭い頭を法華経に捧げることの悦びをお笑い下され、どうしてかねての約束を違えられるのかと申し聞かせたとき、江の島の方角から月のように光ったものが、毬のように東南の方より西北の方に渡りました。十二日の夜はまだ明けやらずして薄暗く、人の顔も見えないほどでしたが、その光で月夜のように人びとの顔もはっきりと見えたほどです。日蓮を切るべく構えていた太刀取りは、目がくらんで倒れ臥し、兵士どもは恐れ、気おくれして一町ばかりも逃げ去ったものもいれば、馬より下りて恐れ慎むもの、馬上でうずくまっているものもいます。そこで日蓮は、いかに方々かたがた、かかる大罪ある召人を捨てて遠のくのか、近く寄れや、寄れやと声高々と叫びましたが急いで近寄る人もありません。このようなことで夜が明けたらどうするのか。首を切るならば、急いで切るがよい、夜が明けたら見苦しいではないかと勧めましたが、何の返事もありません。かなり時間がたってから、相模の依智の武蔵守宣時の家人けにん、本間六郎左衛門の館にお入り下さるようにというので、日蓮は道を知らないから、誰か先頭に立って案内せよといっても、先に立って行く人もありません。しばらく休むうちに、ある兵士がそれが依智への道ですというので、道にまかせて行くうちに十三日の正午ごろ依智の郷に着き、本間六郎左衛門の館に入りました。
[13]日蓮は酒を取り寄せて警護してきた兵士たちに飲ませましたが、やがておのおの帰るといい、頭を垂れ、手を合わせていうには、いままではいかなる人であるかも知らず、自分たちが信仰し頼みとする阿弥陀仏を謗る人と聞いて憎んでおりました。しかし、昨夜からのことどもをまのあたりに拝見して、あまりの尊さにこれまでとなえてきた念仏を捨てることにしましたといって、火打袋から珠数を取り出して捨てるものもあり、今後、念仏は称えませんと誓状を立てるものもありました。かくて、兵士たちは鎌倉へ帰っていきましたので、本間六郎左衛門の家来たちが警護をひきうけ、四条頼基も帰りました。
[14]その夜の八時ごろ、鎌倉より幕府の使者が書状を持ってきました。再び首を切れという重ねての使者であろうかと兵士どもは思いましたが、本間六郎左衛門の代官である右馬尉うまのじようと申すものが、書状を持ち走り来てひざまづいていうには、いよいよ今夜こそ首を切れという使者であろうかと思っておりましたが、そうではなくこのような喜ばしい書状が参りました。武蔵守殿は今朝六時ごろ、熱海へ湯治に行かれましたので、そこへ書状を持参したあとで早まったことがあってはと思い、まずこちらへ走って参ったとのことです。使者は鎌倉から四時間ほどでここまで走ってきたそうですが、今夜のうちに熱海の武蔵守殿の湯治先へ駆けつけるといって、すぐに立ち去りましたと日蓮に伝え退室しました。その書状の追伸には、この人は罪なき人である。やがて赦されるであろうから、早まって殺害などして後悔しないようにとありました。
[15]その夜は十三日で、警護の兵士ども数十人が、日蓮のいる部屋の付近や大庭に並んでいました。ちょうど九月十三日の夜、月が大きく澄み渡っていましたので、夜中に大庭に出て月に向かって法華経寿量品の偈である自我偈を数回読誦どくじゆし、さらに諸宗の勝劣や法華経の経文を大略申し述べたあと、そもそも今の月天子は釈尊が法華経を説かれた会座えざに列なっておられた名月天子ではありませんか。そして、法華経宝塔品においては仏の滅後に法華経を弘めよ、法華経の行者を守護せよとの勅命を受けられ、嘱累品においては仏から三度まで頭をなでられ、仏の勅命のごとく間違いなく実行しますと誓状を立てた天子ではありませんか。その仏前の誓いもこの日蓮が大難にあわなければ、実行する機会もなく偽りとなってしまうではありませんか。今、日蓮にこのような大事が起こったのですから、急ぎ喜んで法華経の行者にもかわり、仏の勅命を果たし誓言のしるしをあらわすべきです。今、日蓮が法華経のためにとがめを受けているのに、験がないのはまことに不思議なことです。法華経の行者である日蓮を罰したこの日本国に何の験もないとしたら、赦免されても再び鎌倉へ帰ろうとは思っていません。験もなく、そのようにうれし顔に澄み渡っているのはどうしたことでしょうか。大集経には、謗法の国には「日月も光を現わさない」と説き、仁王経には「日月も光を失う」と説き、最勝王経にも「三十三天おのおの瞋恨をなす」と説かれているのに、どうして月天子は験をあらわさないのかと責めたてましたので、その験でありましょうか。突如、天より明星のような大きな星が降り、前の庭の梅の木の枝にかかりました。警護の兵士たちはそれを見て驚き、みな縁より飛びおり、あるいは庭にひれ伏し、家の後ろに逃げ隠れました。やがて一天かき曇り、大風が吹きあれて江の島の海の鳴る音が空に響きましたが、それは大きな鼓を打つようでした。
[16]その夜も明けて十四日の朝六時ごろ、十郎入道という者が来て、昨夜八時ごろ執権相模守時宗殿の館に異変があり、大変な騒ぎになったため、陰陽師を召し出して占わせたところ、これは大いに国が乱れる前兆で、その理由は日蓮御房を罪科に処したためであり、早く日蓮を召し還して赦さなければ、世の中はどのように乱れるかわからないと報告しましたので、ただちに日蓮を赦免させよと進言する者もあれば、百日のうちにいくさが起こるというのであるなら、それを待ってから赦免すべきだという人もあったことなどを知らせてくれました。

門弟の弾圧


[17]そのまま依智にとどめられること二十余日におよびましたが、その間に鎌倉では七、八回も放火があり、また毎夜のように人殺しがありました。事実を偽って告げ口をする人が、これは日蓮の弟子どもが放火したのだと訴えましたので、奉行人はさもあろうと信じ、日蓮の弟子たちを鎌倉から追放すべく弟子や信者の名前二百六十余人を書き上げ、それらの者をすべて遠流にすべきであるとか、また牢にいる弟子たちの首を刎ねるべしとの評定があったとのうわさがたちました。しかし、あとになって、放火したのは律や念仏を信じる者たちが、日蓮の弟子たちを陥れる計略であったことがわかりましたが、そのことは繁雑になるのでここでは省略します。

佐渡流罪


[18]やがて十月十日に依智をたって、十月二十八日に佐渡の国へ着きました。十一月一日に本間六郎左衛門の家の背後の原という山野の中の三昧堂に入りましたが、そこは都の蓮台野のように死者を捨てる場所に建てられた一間四面ほどの仏像も安置されていない堂です。屋根の板はすき間だらけで、四方の壁は破れて崩れ、雪が堂内まで降り積もって消えることがありません。このような所に敷皮を敷き蓑を着て、夜を明かし日を暮らしました。夜は雪・雹・雷電が絶えることなく、昼は雲が低くたれこめて日の光もささず、まことに心細い住居です。かの蘇武が胡国に使者としておもむいたにもかかわらず拘留されて岩窟に幽閉され、法道三蔵が宗皇帝を諫めて逆鱗にふれ、顔に焼印を押されて江南の地に追放されたのも、今の我が身のごとくであったと思い知らされるのです。
[19]しかし考えてみれば、これはまことに嬉しいことなのです。昔、檀王は法を求めて千年の間、阿私仙人のもとで苦行を積んだからこそ、法華経の功徳を得られたのです。不軽菩は増上慢の僧たちのに打たれて法華経の行者といわれるようになったのです。いま日蓮は末法の世に生まれ、妙法蓮華経の五字を弘通したためにこのような責めにあったのです。釈尊が入滅されたあと二千二百余年の間、法華経を弘めた中国の天台大師といえども、法華経安楽行品の「一切世間にあだするものが多くて法華経を信ずることが難しい」とある経文を、身をもって読まれてはおりません。法華経勧持品の、法華経のために「しばしば追放される」という明らかに定めてある経文も、身に読んだ者はインド・中国・日本の三国の中では日蓮一人だけです。釈尊は法華経法師品で、「一句一偈の修行にも皆成仏の保証を与える」と説かれましたが、それを受けるのはこの日蓮だけです。この上ない悟りを得ることは疑いありません。日蓮に法華経を身をもって読ませてくれた相模守北条時宗殿こそ仏道を成さしめてくれた人であり、日蓮を殺害しようとした平左衛門頼綱こそ、釈尊を殺害しようとした提婆達多のような人です。今の念仏者は釈尊の御在世の時に、釈尊を迫害した伽利尊者のようであり、律宗の人びとは善星比丘のようなものです。このように考えてみますと、まさに釈尊の在世が今の世に再現し、今こそ釈尊の在世と同じなのです。法華経の肝心の教えは諸法実相であると説かれ、本と末との落ち着くところを究竟となすと述べられているのはこれです。したがって、天台大師は摩訶止観の第五に、「修行と智解が進んでいくと仏道修行を妨げる三障と人びとを悩害する四魔が入り乱れて起こる」と述べられ、また「猪が金山の輝くのを憎み、身をもってこれをり消そうとして、かえって金山の輝きを増し、海は多くの流れが集まって大きくなり、火は薪を加えればさかんとなり、風が強ければ加羅求羅からぐら虫がますます増えるようなものである」と記しています。この釈の意味は、法華経を教えのごとく人びとの機根により、時にしたがって理解し修行すれば、三障四魔という七つの大難がおこります。そのなかでも天子魔という第六天の魔王が、国主・父母・妻子、あるいは檀・悪人などの心の中に入りこんで、法華経の行者に従いながら、あるいは行者を守るようにしながら実はその修行を妨げ、またあるときは行者に逆らって法華経の修行を妨げるということです。いずれの経を行ずるにしても、仏法を行ずるときは修行する経典によって難がありますが、その中でも法華経を修行すれば強い障害があります。とりわけ、法華経の教えのごとく時と機にかなったこの末法に、法華経を修行すればより大きな難事がおこります。それゆえ、妙楽大師は止観弘決の第八に、「もし人びとが生死を離れず、成仏の道を願わないと見れば、その悪魔はその人に親のような親しい想いをかける」といわれています。この釈の意味は、もし僧侶が善根を行なっても、念仏・真言・禅・律などの修行ばかりして、真の成仏道である法華経を修行しなければ、その悪魔はその僧に親のような想いをかけ、多くの人びとに取りついてこれをもてなしたり、供養したりします。それは欺いて世間の人びとに真実の僧と思わせるためです。たとえば、国主の崇める僧を国中の人びとが尊んで供養するようなものです。それゆえ、日蓮が国主らに敵とされるのは、日蓮がすでに正法を行じているという証拠なのです。釈如来にとってその敵であった提婆達多こそ仏道を成さしめてくれた第一の人でした。今の世間を見ても人を立派にするのは、味方よりもむしろ強敵がその人をよくするものです。その証拠は眼前にあります。北条氏一門の繁栄は、かつて北条氏を滅ぼそうとした和田義盛と後鳥羽法皇がいたからで、もしこれらの人びとがいなかったならば、どうして北条氏が日本の主となることができたでしょうか。それゆえ、これらの人びとは、北条氏一門にとって第一の味方というべきです。同様に、いま日蓮が仏になる第一の味方は、この日蓮を殺害しようとした東条景信、法師では日蓮を讒訴した良観・道隆・道阿弥陀仏、そして平左衛門尉頼綱・北条時宗で、もしこれらの人びとがいなかったならば、とても法華経の行者となることはできなかったであろうと喜んでいるのです。

原問答


[20]このようにして過ごすうちに、庭には雪が積もって人も通れず、堂には強い風が吹き寄せるほかは訪れる人もありません。昼は終日、摩訶止観や法華経を読み、お題目を唱え、夜は月や星に向かって諸宗の相違と法華経の深義を談じているうちに、年もかわって文永九年(<暦>一二七二)になりました。どこでも人の心の愚かさは変わらないもので、ここ佐渡の国の持斎・念仏者の唯阿弥陀仏・生喩房・印性房・慈道房らの数百人が寄り集まって日蓮のことについて協議したということです。うわさに聞く阿弥陀仏の大怨敵であり、多くの人びとを悪道に誘い入れる邪悪な僧日蓮がこの国に流されてきている。いずれにしても、この国へ流された人で最後まで生きられた例はない。たとえ生きられても再び帰されたことはない。したがって、日蓮を我らが打ち殺したとしても、幕府の咎めを受けることはないであろう。日蓮はいま原という所にただ一人でいる。いかに勇敢な者であろうと、いかに力強いといっても、人のいない所であるから大勢で日蓮を射殺してしまおうという者もいます。またある者は、日蓮は首を切られるはずであったのが、北条時宗の奥方が懐妊したのでそのままになっているので、いずれは必ず切られるのだといい、また地頭の本間六郎左衛門殿にいって切ってもらおう、もし切らなかったら我らで処分しようという者もいます。多くの意見のなかで地頭に訴えようということになり、守護所に数百人の人びとが集まりました。本間六郎左衛門尉重連は彼らに対し、日蓮は軽んずべき流人ではない、日蓮を殺害してはならぬとの鎌倉殿からの副状もある。日蓮を殺害すればこの重連の重大な失態となる。それよりはひたすら法門をもって責められよと申し渡したので、念仏者らは浄土三部経、あるいは止観、真言経などを小法師らの首にかけさせ、あるいは小脇にかかえて正月十六日に原へ集まりました。当日は佐渡の国のみならず、越後・越中・出羽・奥州・信濃などの国々からも法師が集まりましたので、原の堂の大庭や山野は数百人の人でひしめき、本間重連兄弟一家や、その他百姓の入道など、数えきれないほどの人びとが集まりました。念仏者は口々に悪口をいい、真言師は怒りのあまり顔色を変え、天台宗の法師は自宗が勝つであろうと騒ぎたてました。また、在家の人びとはこれがに聞く憎き阿弥陀仏の敵よとののしり、騒ぎの響くことは雷電のようでした。日蓮はしばらく騒ぐにまかせたのち、おのおの方静かになされよ、おのおの方は法論のために来られたのであろう。とすれば悪口などは無益なことではないかといましめましたので、本間重連をはじめとする多くの人びともこれに同感して、悪口をいった念仏者の素首をつかんで突き出してしまいました。さて、法論がはじまり止観・真言・念仏の法門の一つ一つについて、彼らの主張に念を押しては承服させてのち問いつめたので、一言二言で沈黙してしまいました。もとより鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりも、はるかに劣る田舎法師のことですから、その有様は想像がつくことでしょう。あたかも、鋭い刀で瓜を切り、大風が草をなびかすようなものでした。彼らは仏法の理に暗いばかりでなく、矛盾したことをいい、あるいは経文を忘れて論といい、釈を忘れて論といったりする有様でした。そこで日蓮は、中国浄土教の大成者である善導が、柳の木から身を投じて自害したこと、また日本真言宗の開祖である弘法大師が唐から三鈷を投げたところ、高野の山中に止まったので高野山を開いたことや、朝廷で諸宗と対論したとき弘法大師が印を結んで大日如来の姿で現われたことなどはいずれも偽りであり、狂気の沙汰であることを一つ一つ責めましたので、返答に窮した彼らは悪口するもの、沈黙するもの、顔色を青ざめるものもあり、また念仏は間違っていたと後悔するもの、あるいはすぐその場で袈裟や平念珠を捨てて、今日かぎり念仏を称えないと誓いを立てるものもありました。原に集まった人びとがみな帰り、本間重連も一家の者と帰りました。

二月騒動の予言


[21]そのとき、日蓮は不思議な大事を一つ申し聞かせようと、本間重連を大庭より呼び返し鎌倉へはいつ上られるかと尋ねました。重連が家来たちに農事をさせ七月頃になりましょうと答えたところ、日蓮は、武家たる者は主君の大事にあって勲功をたて所領をたまわることこそ本分であろう。田畑を作るとはいえ、今にも合戦が起ころうとしているのに、なぜ急ぎ鎌倉へ上り名をあげて所領をたまわろうとしないのか。貴殿は相模の国では名の知られた武士ではないか。田舎で田を作り大事な合戦に間にあわないようでは、武士たる者の恥となろうといいますと、何と思ったのでしょうか、あわててものもいわずに帰ってしまいました。かたわらでこれを聞いていた念仏者・持斎、そして在家の人たちは何という不思議なことをいう法師かと疑わしく思うばかりでした。

開目抄述作


[22]さて皆が帰りましたので、去年の十一月から考えていた開目抄という書物二巻を述作しました。もし、この島で首を切られるならば、日蓮の不思議を書き留めておこうと思い考えてきたものです。この書物の中心は、日本国の存亡は日蓮の考えを信ずるか否かにあるということです。たとえば、家に柱がなければ家はもちこたえられません。人に魂がなければ死人と同じです。日蓮は日本の人びとの魂です。しかるに平頼綱は日蓮の意見を用いず、流罪にして日本の柱を倒したのです。今に世は乱れ、偽りがひろまり、北条氏一門に同志討ちがはじまり、さらに後になれば他国より攻められるでありましょう。それはかねて立正安国論にくわしく述べたとおりであると書き記し、四条頼基の使者に持たせて鎌倉の弟子・檀に与えました。日蓮に随っていた弟子たちも、あまりに強硬な主張だと思ったようですが、止めることもできないようでした。やがて二月十八日に船が着き、人びとの話によれば鎌倉に合戦が始まり、京都にもいくさがあって、その有様は口ではいえないほどであるということです。

本間重連の帰依


[23]鎌倉の急を聞き、本間重連はその夜のうちに早舟を仕立て、一門を引き連れて海を渡っていきました。そのとき、重連は日蓮のもとに来て手を合わせ、お助けいただきたい。去る正月十六日のお言葉をまさかとこれまで疑っていましたが、わずか三十日もたたないうちに符合して合戦がおこりました。おそらく蒙古国も必ず攻め寄せてくることでしょう。念仏を称える者が無間地獄に堕ちるということも真実でありましょう。今日限り、私は念仏を称えませんと誓ったのです。そこで日蓮は、いかに貴殿が誓っても北条時宗が日蓮のいうことを信用しなければ、日本国の人びとも信用しないでしょう。日本国の人びとが信用しなければ、日本国は必ず滅びるでしょう。日蓮は力のない者ではありますが、法華経を弘める者であれば釈仏のお使いです。天照大神・正八幡大菩などという神々は、この日本国では重んじられていますが、梵天・帝釈天・日月・四天王にくらべれば小神にすぎません。しかし、この小神に仕える人を殺せば、人を七人半も殺した罪にあたるというではありませんか。太政入道平清盛や後鳥羽上皇らが滅びたのは、神に仕える人などを殺害したからです。日蓮にくらべれば、かの神に仕える人たちは数えたてるほどのものではありません。日蓮は教主釈尊の御使いですから、天照大神も正八幡大菩も頭を下げ、手を合わせて地に伏せらるべきです。法華経の行者には梵天・帝釈天が左右に仕え、日月が前後を照らして仕えるはずです。このような日蓮を信用したとしても、もし悪く敬うならば日本国は滅びるでしょう。ましてこの日蓮を数百人の人びとに憎ませて、伊豆流罪・佐渡流罪と二度まで流罪にしたのです。もはやこの日本が滅びるのは間違いありませんが、日蓮がしばらく差し止めてこの日本国を救済したまえと祈り、加護しているからこそ今までは安穏でしたが、法をこえれば仏罰を受けるのは当然です。またこのたびも日蓮の意見を用いないならば、仏天は大蒙古国より討手を向けて日本国を滅ぼすでしょう。それは平頼綱が好んで招いた災いです。もし蒙古国が日本に攻め寄せてきたら、貴殿も日本とても安穏ではいられないであろうと申し聞かせたところ、本間重連は驚いて帰ってしまいました。
[24]さて、在家の人びとはこのことを伝え聞いて、日蓮御房のいうことが当たるのは神通力を得た人だからであろうかと、驚くばかりでした。もうこれからは念仏者を扶養し、持斎に供養することはやめようといいかわしました。また、念仏者や良観の弟子の持斎らは、日蓮があらかじめ鎌倉に合戦がおこることを知っているのは、日蓮が謀の人のなかに加わっていたからであろうとしあいました。

佐渡の門弟への弾圧


[25]まもなく、京都や鎌倉の騒ぎもおさまり世の中も静まりました。そして佐渡の国の日蓮の信奉者も次第に増えていきました。この有様を見た念仏者は再び集まり、このままでは我らに供養してくれる者がなくなり餓死しなければならない。なんとかして、日蓮をなきものにすべきである。すでに国中の者もおおかた日蓮の信奉者になってしまった。いかがすべきかと協議をしました。そして、念仏者の長老である唯阿弥陀仏、持斎の長老の性諭房、良観の弟子の道観らが代表して鎌倉へ馳せ上り、北条宣時殿に、日蓮がこのまま佐渡の島にいたならば、一つの寺も一人の僧もなくなるであろう。しかも、日蓮は阿弥陀仏の像を火に入れ河に流し、昼夜高い山に登り、日月に向かって大音声で幕府を呪咀する声が佐渡一国に聞こえるほどであると訴えたのです。
[26]北条宣時殿はこれを聞き、執権へ申し上げることもあるまいと、佐渡の地頭に対し、佐渡の国の住人で日蓮房に信奉する者は、国から追放しあるいは牢に入れよという指示を下し、私的な命令文書を発令しました。このような命令は三度も出され、佐渡の信奉者を圧迫しましたが、その間のことは省略しますので御推察下さい。命令文書が出されてから、日蓮の庵室の前を通ったといっては牢に入れ、日蓮に物を供養したといっては国を追放し、あるいは妻子を人質として捕えたのです。

佐渡流罪赦免


[27]このように鎌倉へ訴えたものがありましたが、佐渡の念仏者たちの考えに反して文永十一年(<暦>一二七四)二月十四日に日蓮の流罪赦免状が出され、それが三月八日に島に着きました。赦免状の到来を聞き知った念仏者たちは急ぎ協議し、このような阿弥陀仏の敵でしかも善導和尚・法然上人をののしる日蓮が、おとがめを受けてこの島に流罪されてきたのに、御赦免になったからといって、そのまま生きて帰すのはまことになさけないことであるといって、いろいろ計略をめぐらしたようです。しかし、どうしたことでありましょうか、思いがけない順風が吹き、急ぎ佐渡の島を発ちましたので、風の都合が悪いと百日・五十日待っても渡れず、順風でも三日はかかる海路をわずかの間に渡ることができました。ところが、越後の国の国府、信濃の国の善光寺の念仏者・持斎・真言師たちが雲集し、佐渡の島の法師どもは今まで日蓮を生かしておいて、このまま鎌倉へ帰すとはあまりにもふがいなく、阿弥陀仏の御恩を忘れたものである。われらは絶対に生身の阿弥陀仏の前を通すようなことはさせないと協議しましたが、越後の国府より、そのようなこともあろうかと多くの兵士が日蓮を警護して、善光寺を通りましたので、念仏者たちも手を出すことができませんでした。かくて、三月十三日に佐渡が島を発ち、三月二十六日に鎌倉へ到着しました。

頼綱への諫言と法印の祈雨


[28]四月八日には平頼綱に対面しましたが、頼綱は前の対面のときとはかわって威儀をやわらげ、態度を正して日蓮を迎え、またある入道は念仏の法門が無間地獄に堕ちる理由を、ある在家の人は真言が亡国である理由を、そしてある人は禅が天魔の教えである理由を日蓮に問い、平頼綱も法華経以外の諸経でも成仏できるかと尋ねましたので、日蓮は質問の一つ一つに経文を引用して説明しました。さらに、平頼綱は執権の使者のような態度で、大蒙古国はいつごろわが国に攻め寄せてくるであろうかと尋ねましたので、今年中には必ず攻めてくるであろうと答えました。そのことについては、日蓮が以前から自分の考えを申し上げているのに、いまだに用いようとしません。たとえば、病気の原因を知らない人が、病気を直そうとしても、かえって病気が悪くなるようなものです。もし、真言師が蒙古調伏の祈をするならば、かえって日本は戦いに負けるでありましょう。真言師はもとより、今の世のすべての法師らに決して祈を命じてはいけません。貴殿らは仏法の邪正を知らないにもかかわらず、日蓮が申し上げても知ろうとしません。さらに疑問に思うのは、他の政道とは異なって、日蓮の申すことをまったく用いないことです。後に、なるほどと思いあたるように一つの事実を申し上げておきましょう。隠岐の法皇といわれた後鳥羽天皇は天子です。その法皇に弓を引いた北条義時殿は民の身です。子が親を敵とするのを、天照大神がはたして許されるでしょうか。また、臣下が主君を敵とするのを正八幡大菩が承知されるでしょうか。北条義時こそ神罰を受けるべきでありますのに、かえって法皇方が敗れたのはいかなる理由によるのでしょうか。これはまったく異常なことといわねばなりません。それは法皇方が弘法大師空海の誤った教え、慈覚大師円仁・智証大師円珍の間違った教えを真実であると考え、比叡山・東寺・園城寺の法師に誤った真言の修法によって、鎌倉の北条氏調伏の祈をさせたからで、法華経観世音菩普門品第二十五の「還って本人に著きなん」の経文どおり、その罪が祈した本人に還ってきて法皇方が敗けたのです。武家はそのことを知らないので、真言による修法もおこなわなかったので、かえっていくさに勝ったのです。このたびもまたそのとおりで、もし真言の悪法で蒙古調伏などおこなえば、この日本は必ず敗れることになりましょう。蝦夷えぞの人びとは生死の道理も知らない無知の者ですが、津軽の代官安藤五郎は因果の道理をわきまえ、そのために多くの堂塔を造立し真言や念仏の修行も積んだ善人です。その安藤五郎がどうして、無知な蝦夷の人に首を切られたのでしょうか。この事実をもって考えてみましても、真言の御房たちに蒙古調伏の祈をさせるならば、平頼綱殿も必ず大事にあわれるでありましょう。そのときになって、日蓮は決してそのようにはいわなかったなどと仰せられるなよと、強く申し聞かせました。
[29]さて、帰ってから聞くところによれば、幕府は四月十日から阿弥陀堂法印定清に命じ、祈雨の修法をおこなわせたということです。この法印は、このころ東寺第一の智者であり、御室道助法親王らの師で、東寺の弘法大師空海・叡山の慈覚大師円仁・三井の智証大師円珍の真言の秘法をきわめ、天台・華厳などの諸宗の宗義にことごとく通じている人です。幕命にしたがって、法印は十日から祈雨の法を修したところ、十一日には終日終夜、風も吹かず静かに雨が降りましたので、時宗殿は感激のあまり、金三十両に馬やさまざまの賜り物を与えたということです。鎌倉中のすべての人びとは、これを聞いて手をたたき、口をすぼめて笑いながら、日蓮は誤った教えを主張し首を切られるところをなんとか赦されたのであるから、少しは慎むべきであるのに念仏や禅を謗るだけでなく、真言の密教なども謗ったために、かえって真言の法験があらわれたのだと騒ぎたてました。日蓮の弟子のなかにも、不審に思いこれはあまりにも粗暴な方法ではないかという者もありましたので、日蓮はしばし待て、弘法大師の悪義が真実であり、もしその祈りが国のための祈りとなるならば、隠岐の法皇はいくさに勝ったはずである。また、御室道助どうじよ法親王の最愛の子供である勢多も首を切られることはなかったであろう。法華経は華厳経より劣ると書いたのは弘法大師の十住心論という書物であり、法華経の寿量品を説かれた釈仏を凡夫であると記したのも同じ弘法大師の秘蔵宝鑰であり、さらに天台大師を盗人と書いたのも大師の二教論である。また法華経を説かれた釈仏を、真言師の履物取りにもおよばないと書いているのは正覚房覚鑁かくばんの舎利講式である。このような誤ったことをいう人たちの弟子である阿弥陀堂法印が、正法である法華経を弘める日蓮に勝つならば、龍王は法華経のかたきであり、必ず梵天・帝釈天・四天王の責めにあうであろう。このたびの降雨には何か理由があるに違いないと申し聞かせたところ、弟子たちのなかにはいかなる理由があるというのかと笑する者もいました。そこで日蓮は、中国真言宗の善無畏や不空が雨の祈りをおこなったとき、たしかに雨は降ったが、まもなく大風が吹き荒れたということが古い記録にあります。また、日本の弘法大師が雨の祈りをおこなったときは、二十一日も過ぎて雨が降りましたが、これは雨を降らせたとはいえません。なぜなら、二十一日を過ぎても降らない雨はないのですから、たとえ降ったとしても何の不思議もないのです。天台大師や摂津金龍寺の学僧である千観法師のように、一座の修法で雨を降らせてこそその法も尊いのです。このたびの阿弥陀堂法印が降らせた雨には、必ず理由があるに違いないといい終わらないうちに、大風が吹きはじめました。そして、大小の家屋・堂塔・古木・御所などを天に吹き上げ、地に吹き倒し、空には大きな光り物が飛び、地には建物のむねはりが散乱し、人びとを吹き殺し多くの牛馬も吹き倒しました。このような暴風も季節が秋ならば時節でもあり不思議ではありませんが、初夏の四月にこのような暴風が吹くのは奇怪なことです。そのうえ、この暴風は日本国中に吹いたのではなく、ただ関東八ケ国のみであり、八ケ国のなかでも武蔵・相模の両国だけで、両国のなかでも相模に強く、相模のなかでも鎌倉、鎌倉のなかでも御所・若宮・建長寺・極楽寺などに最も強く吹いたのです。とても只事とは思えません。これは間違いなく阿弥陀堂法印の修法のためであろうと思われ、日蓮を笑していた人びとも驚きましたが、日蓮の弟子たちも何と不思議なことかと驚き恐れるばかりでした。

身延入山と蒙古襲来


[30]もとより、三度国を諫めて用いられなければ身を引こうとは、古の聖賢にならって心に決めていましたので、同年五月十二日に鎌倉を発ち、この身延の山に入りました。身延に入ってまもない同じ年の十月に、大蒙古国が日本に攻めよせ、壱岐・対馬の二ケ国を奪い取っただけでなく、太宰府も破られ、豊前ぶぜん前司ぜんじ少弐入道資能・鎮西奉行大友頼泰らは、それを聞いて戦わずに逃げ出し、そのほかの兵士たちもおおかた討ち殺されてしまいました。大風のため蒙古軍は引き上げましたが、再び攻め寄せてくるならば、この日本国を弱々しいと見くびって来るでしょう。仁王経には「聖人が国を去るときは、その国に七難が必ず起こる」と説かれ、最勝王経には「悪人を尊敬し、善人を治罰すれば、他国より怨賊が来て人びとを滅ぼすであろう」と説かれています。仏の説くところが真実であるならば、このような困難が起こったのも、日本の国主が悪人を尊敬して善人を憎んだからではないでしょうか。大集経には「日月も光をかくし、国中ことごとく厳しい旱魃かんばつとなる。このようにして不善業の悪王と悪僧とが、わが正法をやぶるであろう」と説かれ、仁王経には「多くの悪僧が名誉と利欲を求め、国王・太子・王子の前で自ら仏法を破り、国家を滅ぼすような邪法を説くであろう。この王は邪法であることを判別できず、その悪僧の言葉を信じるであろう。これを破仏法破国の因縁という」と説かれ、法華経には「末法悪世の僧たちには悪智恵の者が多く、心がゆがみ、悟ってもいないのに悟りすました顔をし、他人を軽んずる心をもった人が多い」と説かれています。これらの経文が真実ならば、この日本には必ず悪僧がいるはずです。それはあたかも、宝の山には曲がった木はなく、大海には死骸をとどめないように、仏法という大海、一乗という宝の山には、殺父・殺母・殺阿羅漢・破和合僧・出仏身血の五逆罪を犯した瓦礫や、殺生・偸盗・邪婬・妄語の四重禁戒を犯した濁水は入れるけども、法華経誹謗の死骸と一闡提の曲林だけは決して収めません。したがって、仏教を習い後生善処を願う人は、法華誹謗の罪がいかに重罪であるかを恐れなければなりません。

謗法者への治罰


[31]世間の人はみな、弘法大師や慈覚大師らを遠慮することなく批判するこの日蓮を、どうして信用することができようと思うでありましょう。しかし、他人はさておき安房の国の各地の人びとは、この日蓮の言葉を信用すべきです。それは、まのあたりに現実の証拠があるからです。いのもりの円頓房、清澄の西堯房と道義房、片海の実智房らは、世間の人から尊敬された僧でした。しかし、これら諸僧の臨終の様子はどうだったかを尋ねてごらんなさい。これらのことはさておき、かの円智房は清澄寺の大堂で三年の間、一字ごとに三礼しては法華経の書写を自分一人でなしとげ、法華経十巻を完全に暗記し、五十年の間、一日一夜に二部ずつ読誦されたほどの人です。世間ではこの円智房こそ仏になるだろうと思っていました。しかし、道義房と円智房の謗法を知った日蓮は、彼らは必ず無間地獄に堕ちるであろうと申しておきましたが、この二人の臨終はどうだったでしょうか。もし日蓮がいなかったならば、世間の人びとはかれらが仏になったと思ったでありましょう。この事実をもって理解していただきたいと思います。弘法大師や慈覚大師は浅ましいことどもがあっても、弟子たちが隠したので朝廷にも知られず、末の世の人びとは何も知りませんからいよいよ敬うのです。もし、その浅ましいことを明らかにする人がいなければ、未来永劫までも敬われるでしょう。昔、インドの拘留外道は石となって八百年もすぎましたが、じんなに破折されて水となり、毘羅外道は一千年も過ぎてのち、その誤りが明らかになりました。かの弘法大師・慈覚大師も四百年すぎた今、日蓮によってその誤りが明らかになったのです。
[32]人間として生まれることができるのは、過去世に五戒をたもった果報によるものです。五戒を持つものは、二十五の善神が守護するだけでなく、同生・同名という二天が生まれたときから左右の肩に宿って守護するから、過失を犯さないかぎり、鬼神もこの人を恨むことはできません。しかるに、蒙古の襲来はいま日本の多くの人びとの悲しみとなるばかりでなく、現実に壱岐・対馬の両国の人びとは戦禍にあい、太宰府もまた悲惨な状況です。このように日本が他国に攻められるのは、いかなる誤りによるのでしょうか。是非、知りたいところです。一人二人ならば誤りもあるでしょうが、このように多くの人びとが悲しみにあうのはどうしてでしょうか。これはひとえに、法華経を謗った弘法大師・慈覚大師・智証大師らの末流の真言師、あるいは善導・法然の流れをくむ念仏者、達磨らの教えを信奉する禅宗徒が日本国中に充満して、邪法が弘まったからです。そのために梵天・帝釈天・四天王らが法華経の座における誓約にしたがって、法華経陀羅尼品に法華経の行者を悩乱すれば、法華経守護の鬼子母神きしもじん・十羅刹女らせつによが、その頭を破り七分となるとあるように、謗法の国を頭破作七分の罰にあてられたからです。
[33]お尋ねします。法華経の行者を怨する者は、頭がわれて七分となると説かれているのに、日蓮房を謗っても頭がわれないのは、日蓮房が法華経の行者ではないからだというのは道理であると思いますが、いかがお考えでしょうか。お答えします。日蓮を法華経の行者でないというのなら、法華経を捨てよと書いた法然、釈尊を迷いの身分にあるといった弘法大師、また真言と法華経とは理は同じでも事相の上で真言が勝れていると述べた善無畏や慈覚大師らが、法華経の行者というのでしょうか。決してそのようなことはありません。また、法華経陀羅尼品に説く「頭が七分に破れる」ということは、いかなることだと思っているのでしょうか。刀で切るようにわれるとでも思っているのでしょうか。同じ法華経陀羅尼品の経文に「阿梨樹の枝のごとし」と説かれていますが、これも形容の言葉です。考えてみますと、人の頭には精気を養う七滴の水があり、七つの鬼神があってこれを飲もうとしています。そして、一滴飲めば頭が痛み、三滴飲めば生命が絶えようとし、七滴すべてを飲めば生命を失うのです。今の世の人びとは、みな頭の中が阿梨樹の枝のようにわれているのですが、悪業が深いために知らないだけなのです。たとえば、傷を受けた人も、酒に酔ったり寝入ってしまえば自分でも気がつかないようなものです。また、「頭破作七分」は「心破作七分」ともいって、頭の皮の奥にある骨がひび割れすることです。死ぬときはそれが割れてしまうこともあります。今の世の人びとは、さる正嘉元年(<暦>一二五七)八月二十三日の大地震、そして文永元年(<暦>一二六四)七月五日の大彗星に驚いてみな頭がわれてしまったのです。そのために喘息ぜんそくを病み、五臓をいため、赤痢を病んだのです。これらはすべて、法華経の行者を謗った現罰であることに気づいていないのです。
[34]鹿は良い味がするために人に殺され、亀は良い油があるためにその命を奪われます。女性は顔かたちがよいと多くの人から嫉まれます。国を治める者は常に他国から攻められる恐れがあり、多くの財産をもつ者はその命を狙われる危険があります。法華経をたもつ者は必ず成仏しますから、迷いの世界の主である第六天の魔王という三界の主が、この法華経を持つ人を非常に嫉むのです。この魔王は疫病神が目にみえないうちに人につき、古い酒で知らないうちに深酔するように、国主・父母・妻子にとりついて法華経の行者を嫉むであろうと経論に説かれています。それと少しも変わらないのが今の世です。日蓮は少しの誤りもありませんが、ただ南無妙法蓮華経と唱えるゆえに、日本の国主や人びとに嫉まれて、二十年の間、所を追われ二度までとがめを受けて流罪され、最後にこの身延山にこもったのです。

身延の叙景


[35]この身延の山の有様は、西は七面山、東は天子が嶽、北は身延山、南に鷹取山がつらなり、この四つの山の高いことは天にとどき、険しいことは飛ぶ鳥も越えがたいほどです。この狭い山の間を四つの河が流れています。いわゆる富士河・早河・大白河・身延河です。その中の一町ほどの平地に庵室を結びましたが、山が高いので昼も日の光を見ず、夜は月も拝めないほどです。冬は雪が深く、夏は草が繁り、訪れる人も稀ですから踏みわけることもむずかしく、ことに今年は雪が深いために訪れる人はまったくありません。命を期して修行しておりますこの身延まで、お手紙をいただきましたこと、まことにありがたいことでした。さては釈仏のお使いか、あるいはなくなった父母のお使いかとうれしさは申し上げようもないほどです。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。