聖人知三世事
書下し
聖人知三世事
[1]聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う。儒家の三皇・五帝並びに三聖は、ただ現在を知つて過・未を知らず。外道は過去八万・未来八万を知る。一分の聖人なり。小乗の二乗は過去・未来の因果を知る。外道に勝れたる聖人なり。小乗の菩薩は過去三僧祇劫、通教の菩薩は過去に動喩塵劫を経歴せり。別教の菩薩は一一の位の中に多倶低劫の過去を知る。法華経の迹門は過去の三千塵点劫を演説す。一代超過これなり。本門は五百塵点劫・過去遠遠劫をもこれを演説し、また未来無数劫の事をも宣伝す。
[2]これに依てこれを案ずるに、委しく過・未を知るは聖人の本なり。教主釈尊は既に近くは却後三月の涅槃これを知る。遠くは後五百歳の広宣流布疑いなき者か。もししかれば、近きを以て遠きを惟し、現を以て当を知る。「如是相、乃至本末究竟等」これなり。後五百歳には誰人を以て法華経の行者とこれを知るべきや。予はいまだ我が智慧を信ぜず、しかりといえども自他の返逆侵逼あり。これを以て我が智を信ず、あえて他人のためにあらず。また我が弟子等、これを存知せよ。日蓮はこれ法華経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に、軽毀する人は頭七分に破れ、信ずる者は福を安明に積まん。
[3]問て云く、何ぞ汝を毀る人、頭破七分なきや。答て云く、古昔の聖人は仏を除て已外これを毀る人、頭破ただ一人二人なり。今日蓮を毀呰する事非は、一人二人に限るべからず。日本一国一同に同じく破るるなり。いわゆる正嘉の大地震、文永の長星は誰が故ぞ。日蓮は一閻浮題第一の聖人なり。上み一人より下も万民に至るまで、これを軽毀して刀杖を加え、流罪に処するが故に、梵と釈と日月・四天と隣国に仰せ付けてこれを逼責するなり。大集経に云く、仁王経に云く、涅槃経に云く、法華経に云く。たとい万祈をなすとも日蓮を用いずば、必ずこの国今の壱岐・対島のごとくならん。我が弟子仰いでこれを見よ。これ偏に日蓮が尊貴なるにあらず。法華経の御力の殊勝なるに依るなり。身を挙ぐれば慢ずと想い、身を下せば経を蔑る。松高ければ藤長く、源深ければ流れ遠し。幸いなるかな楽しいかな、穢土において喜楽を受けるは、ただ日蓮一人なるのみ。
現代語訳
聖人知三世事
文永一一年(一二七四)、五三歳、於身延、原漢文、定八四二—八四三頁。
[1]聖人と呼ばれる人は、くわしく過去・現在・未来の三世を知る人をいいます。儒教で尊ぶ三皇・五帝・三聖は、ただ現在のことを知ることはできますが、過去・未来を知ることができません。インドの婆羅門教の仙人は過去八万年、未来八万年を知ることができたといいますから、一分の聖人といえましょう。しかし、小乗仏教の声聞・縁覚の二乗でさえ、過去・未来の因果の理を知っていましたから、婆羅門よりさらに勝れた聖人といえましょう。小乗仏教も菩薩になると過去阿僧祇劫を、そして大乗の通教の菩薩は過去動喩塵劫を経歴しています。さらに大乗の別教の菩薩ともなれば、一つ一つの位の中で多倶低劫の過去をわきまえています。そして法華経の迹門である化城喩品に至れば、釈尊は過去三千塵点劫という無限の過去を明らかにされますが、これが一代仏教のなかでも最も超過し勝れているという理由です。さらに法華経本門の寿量品では、五百塵点劫の久遠を明かすとともに、未来無数劫のことまで宣べられました。
[2]以上のことから考えてみますと、くわしく過去・未来を知ることは聖人としての資格であることがわかります。教主釈尊はすでに近いところでは、三月先の御入滅を知っておられましたし、遠いところでは末法に法華経が広宣流布することを予言されましたが、これも疑いないところでありましょう。そうであるならば、近い御入滅の予知をもって、遠い末法を予知することもでき、現在の状態をもって将来の状態をも知ることができましょう。法華経方便品に「如是相乃至本末究竟等」と説かれましたのはこのことです。それでは、後の五百歳の末法の時代には誰を法華経の行者であると考えたらよいのでしょうか。私は自ら智者と思うほど自信があるわけではありません。しかし、自界叛逆難と他国侵逼難の二難を予知したことだけは、自分の智慧を信ずることができます。だがそれも、あえて他人に誇示するためではありません。わが弟子たちは、このことについてよく承知してもらいたいと思います。日蓮は末法における法華経の行者です。それは不軽菩薩の跡を継承する者ですので、もし日蓮を軽蔑し、謗る人は法華経陀羅尼品に説かれているように、頭は七つに破れてしまうでしょうし、信ずる者は伝教大師もいわれているように、須弥山のような福を積むでありましょう。
[3]お尋ねしますが、あなたを謗る人は大変多いにもかかわらず、なぜ頭が七つに破れないのでしょうか。お答えします。昔の聖人は仏は別ですが、謗った人で頭が破れた人はわずか一人か二人だけです。今、日蓮を謗る者の天罰は一人や二人にとどまらず、日本一国すべての人びとが頭を破られるでしょう。あの正嘉元年(<暦>一二五七暦>)の大地震、文永元年(<暦>一二六四暦>)七月五日の大彗星は、誰のために起こったかを考えてごらんなさい。とするならば、日蓮はこの世界第一の聖人です。上一人より下万民に至るまでこの日蓮を軽んじ、謗っては刀杖を加え、流罪に処するゆえに梵天・帝釈天・日月・四天が隣国に命じてこの日本を攻めさせたのです。それは大集経・仁王経・涅槃経・法華経に説かれているとおりです。たとえ、いかなる祈禱を行なおうとも日蓮の教説を用いなければ、日本は必ず今の壱岐・対馬のような悲惨な状態になるでしょう。わが弟子はこのことを信じてその時をみるとよいでしょう。これは決して日蓮が尊いからではありません。ただ法華経のもつ力が勝れていることによるのです。尊大ぶれば慢心していると思われますし、自分を卑下すれば法華経を軽んずることになります。松が高く伸びれば伸びるほど、それに掛かる藤も長く伸び、水源が深ければ深いほど川は遠く流れるものです。この謗法濁悪の国で真の喜びと楽しみを受けているのは、ただ日蓮一人だけです。何と喜ばしいことではないでしょうか。