法華証明鈔
書下し
法華証明鈔
[1]<人>法華経の行者 日 蓮 <花押>花押花押>人>
[2]末代悪世に法華経を経のごとく信じまいらせ候者をば、法華経の御鏡にはいかんがうかべさせ給ふと拝見つかまつり候へば、過去に十万億の仏を供養せる人なりと、たしかに釈迦仏の金口の御口より出でさせ給ひて候を、一仏なれば末代の凡夫はうたがいやせんずらんとて、此より東方にはるかの国をすぎさせ給ひておはします、宝浄世界の多宝仏、わざわざと行幸ならせ給ひて釈迦仏にをり向ひまいらせて、妙法華経皆是真実と証明せさせ給ひ候き。
[3]この上はなにの不審か残るべき。なれどもなを〳〵末代の凡夫はをぼつかなしとをぼしめしや有りけん。十方の諸仏を召しあつめさせ給ひて、広長舌相と申して無量劫よりこのかた永くそらごとなきひろくながく大なる御舌を、須弥山のごとく虚空に立てならべ給ひし事は、おびただしかりし事なり。
[4]かう候へば、末代の凡夫の身として法華経の一字二字を信じまいらせ候へば、十方の仏の御舌を持物ぞかし。いかなる過去の宿習にてかかる身とは生まるらむと悦びまいらせ候上、経文は過去に十万億の仏にあいまいらせて供養をなしまいらせて候ける者が、法華経計りをば用ひまいらせず候けれども仏くやうの功徳莫大なりければ、謗法の罪に依りて貧賤の身とは生れて候へども、又この経を信ずる人となれりと見へて候。
[5]これをば天台の御釈に云く、〔「人の地に倒れて還て地より起がごとし」〕等云云。地にたうれたる人はかへりて地よりをく。法華経謗法の人は三悪ならびに人天の地にはたうれ候へども、かへりて法華経の御手にかゝりて仏になるとことわられて候。
[6]しかるにこの上野の七郎次郎は末代の凡夫、武士の家に生れて悪人とは申すべけれども、心は善人なり。其の故は日蓮が法門をば上一人より下万民まで信じ給はざる上、たま〳〵信ずる人あれば、或は所領或は田畠等にわづらひをなし、結句は命に及ぶ人々もあり。信じがたきにちゝ故上野殿は信じまいらせ候ぬ。
[7]又此者嫡子となりて、人もすゝめぬに心中より信じまいらせて、上下万民にあるひはいさめ、或はをどし候つるに、ついに捨つる心なくて候へば、すでに仏になるべしと見へ候へば、天魔外道が病をつけてをどさんと心み候か。
[8]命はかぎりある事なり。すこしもをどろく事なかれ。又鬼神めらめ、此の人をなやますは剣をさかさまにのむか。又大火をいただくか、三世十方の仏の大怨敵となるか。あなかしこ〳〵。
[9]此の人のやまいを忽になをして、かへりてまほりとなりて、鬼道の大苦をぬくべきか。其義なくして現在には頭破七分の科に行はれ、後生には大無間地獄に堕つべきか。永くとどめよ〳〵。日蓮が言をいやしみて後悔あるべし、後悔あるべし。
[10]<日>二月廿八日日>
[11]<先>下伯耆房先>
現代語訳
法華証明鈔
弘安五年(一二八二)二月二八日、六一歳、日興宛、和文、定一九一〇—一九一二頁。
[1]<人>法華経の行者 日 蓮 <花押>花押花押>人>
一 多宝如来の証明
[2]仏が入滅なされてのち、世も末となって濁った悪い事の多い世に、法華経を経文の通りに信仰する人が、法華経の鏡にはどのように映って見えるかといえば、過去の世で永い間に十万億の仏を供養した人があると、確かに釈迦仏が自ら法師品の中でおっしゃっておられる。しかしただ一人の仏の言葉だということになると、末世の凡夫は疑いの心を持つであろうと考えられ、ここより東の方へ遥かにいくつもの国を過ぎた彼方にある宝浄世界の多宝仏が、わざわざおいでになられ、釈迦仏とご対面なされ、「妙法蓮華経はみなこれ真実なり」と証明なされたのである。
[3]こうした点から考えても、このうえ何の疑問も残らぬはずである。それなのになお末代の凡夫は頼りないものとお考えになられて、十方の諸仏を召集なされ、広長舌相といって無限の長い昔から今日まで嘘を言ったことのない広く長い御舌を、須弥山のように大空に向かって立てられた事は、非常に大事な意義をもったことであった。
[4]このような次第であるので、末代の凡夫の身として法華経の一字でも二字でも信じるならば、十方の仏の御舌(つまり法を)たもつことになるのである。私はどのような過去の世からの因縁によって、このような有難い身として生まれてきたのかと悦んでいる次第である。そのうえ経文によると、過去に十万億の仏に会いたてまつって、供養をした功徳により、法華経だけを信用したわけではないが、仏を供養した功徳があまりに大きかったので、謗法の罪によって今生には貧しく身分の低い者として生まれたのであるが、またこのように法華経を信ずる人となったものとみえる。
[5]この事を妙楽大師の法華文句記会本では「人が地に倒れて、かえって地より起き上がるようなものだ」と解釈している。すなわち地に倒れた人はかえってその地から立ち上がるものである。法華経を謗った人は地獄・餓鬼・畜生の三悪道に落ち、ならびに人・天の間をさまよい地に倒れるけれども、かえってそれが縁となり法華経の御手に導かれて、ついに仏に成ることができるとおっしゃっておられるのである。
二 命はかぎりあるものなり
[6]しかるにこの上野に住む七郎次郎は、末代の凡夫であり武士の家に生まれて人を切ったり傷つけたりする悪人ではあるけれども、心は善人である。その理由は日蓮の法門を上一人から下は万民に至るまで、信じようとしないうえに、たまたま信ずる人があると、あるいは持っている地所や、あるいは田畠にまで難題をつけて取り上げ、結局は命まで取られそうになる人々がいる。このように信じ難いのに、父である故上野殿は法華経を信仰されたのである。
[7]またこの七郎次郎は、その父の長男としてだれも勧めないのに、心の底から法華経を信じられた。周囲に大勢の人々からあるいは注意されたりあるいは脅迫されても、ついに法華信仰を捨てる心がなかったので、てっきり仏に成るものとばかり思っていたのに、このたびは天魔外道が病気をおこさせておどかそうとしているのであろうか。
[8]命は限りあるものである。少しも驚くことはない。また鬼神めらよ、この人を病気で悩ますようなことをすれば、かえって鬼神めらは剣をさかさまに呑み込まされるか、または大火を抱くような目に遭うのであって、三世十方の仏の大怨敵となるであろう。たいへんに恐ろしいことではないか。
[9]この七郎次郎の病気をたちまちのうちに治して、逆に守護神となり鬼病の大苦を抜き去るべきである。この事を実行しなかったならば、現世では頭が七つに割れるという罪科を受け、次の世では大無間地獄に落ち入るであろう。永くこの鬼病を中止させるべきである。日蓮のこの言葉を軽く見るようなことをすると、あとで必ず後悔しなくてはならないことになる。後悔することになる。
[10]<日>二月二十八日日>
[11]<先>伯耆房日興に下す先>