妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

随自意御書

全集 第4巻 2段 定本: #20321(定本の該当ページへ)

書下し

随自意御書ずいじいごしよ


[1]衆生の身心しんじんをとかせ給ふ。その衆生の心にのむとてとかせ給へば、人の説なれども衆生の心をいでず。かるがゆへに随他意ずいたいの経となづけたり。譬へばさけ(酒)もこのまぬをや(親)の、きわめてさけをこのむいとをしき子あり。かつはいとをしみ、かつは心をとらんがために、かれにさけをすゝめんがために、父母も酒をこのむよしをするなり。しかるを、はかなき子は父母も酒をこのみ給ふとをもへり。
[2]提謂経*だいいきようと申す経は、人天の事をとけり。阿含経と申す経は、二乗の事をとかせ給ふ。華厳経と申す経は、菩のことなり。方等・般若経等はあるいは阿含経・提謂経ににたり。或は華厳経にもにたり。これ経経きようぎようは末代の凡夫ぼんぶこれをよみ候へば、仏の御心みこころかなふらんとは行者はをもへども、くはしくこれをろむ(論)ずればおのれが心をよむなり。己が心はもとよりつたなき心なれば、はかしき事なし。
[3]法華経と申すは随自意ずいじいと申して、仏の御心みこころをとかせ給ふ。仏の御心はよき心なるゆへに、たといしらざる人もこの経をよみたてまつれば利益りやくはかりなし。あさの中のよもぎ・つゝ(筒)の中のくちなは(蛇)・よき人にむつぶもの、なにとなけれども心もふるまひ(振舞)も言もなを(直)しくなるなり。法華経もかくのごとし。なにとなけれども、この経を信じぬる人をば仏のよき物とをぼすなり。
[4]この法華経にをひて、また機により、時により、国により、ひろむる人により、やう(様々)にかわりて候をば、等覚*とうがくの菩までもこのあわひをばしらせ給わずとみへて候。まして末代の凡夫はいかでか、はからひをゝせ候べき。しかれども、人のつかひに三人あり。一人はきわめてこざかしき、一人ははかなくもなし、またこざかしからず。一人はきわめてはかなくたしかなる。
[5]この三人に第一はあやまちなし。第二は第一ほどこそなけれども、すこしこざかしきゆへに、しゆの御ことばに私の言をそうるゆへに、第一のわるきつかいとなる。第三はきわめてはかなくあるゆへに、私の言をまじへず。きわめて正直なるゆへに主の言ばをたがへず。第二よりもよき事にて候。あやまつて第一にもすぐれて候なり。第一をば月支がつしの四依にたとう。第二をば漢土かんど人師にんしにたとう。第三をば末代の凡夫の中に愚癡ぐちにして正直なる物にたとう。
[6]仏在世ぶつざいせはしばらくこれををく。仏の御入滅の次の日より一千年をば正法*しようぼうと申す。この正法一千年を二にわかつ。前の五百年が間は小乗経ひろまらせ給ふ。ひろめし人々はかしよう阿難あなん等なり。後の五百年は馬鳴*めみよう竜樹*りゆうじゆ無著むじやく天親*てんじん等、*ごん大乗経を弘通せさせ給ふ。法華経をばかたはしばかりかける論師ろんじもあり。またつやつや申しいださぬ人もあり。正法一千年より後の論師の中には、少分しようぶんは仏説ににたれども、多分たぶんをあやまりあり。あやまりなくして、しかもたらざるは葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親等なり。
[7]像法に入り一千年、漢土に仏法わたりしかば、始は儒家じゆけ相論そうろんせしゆへに、いとまなきかのゆへに、仏教の内の大小権実ごんじつ沙汰さたなし。やうやく仏法流布るふせしうえ月支がつしよりかさね仏法わたり来るほどに、前の人々はかしこきやうなれども、後にわたる経論をもつてみれば、はかなき事も出来す。またはかなくをもひし人々も、かしこくみゆる事もありき。結句けつく十流*じゆうりゆうになりて千万の義ありしかば、愚者ぐしやはいづれにつくべしともみへず。智者とをぼしき人は偏執へんしゆかぎりなし。
[8]しかれども最極さいごくは一同の義あり。いはゆる一代第一は華厳経・第二は涅槃経・第三は法華経。この義はかみ一人よりしも万民にいたるまで異義なし。大聖だいしようとあうぎし法雲法師*ほううんほつし智蔵*ちぞう法師等の十師の義一同なりしゆへなり。
[9]しかるを像法ぞうぼうの中のちんずいの代にちぎと申す小僧しようそうあり。後には智者大師ちしやだいしとがうす。法門多しといへども、せんするところ法華・涅槃・華厳経の勝劣しようれつひとばかりなり。智法師云く、仏法さかさまなり云云。陳主ちんしゆこの事をたださんがために、南北の十師の最頂たる*えこう僧上・恵光僧都*えこうそうづ恵栄*ええい法歳*ほうさい法師等の百有余人ゆうよにんはせられし時、法華経の中には〔「諸経の中に於て最もその上にあり」〕等云云。また云く「已今当説最為難信難解*いこんとうせつさいいなんしんなんげ」等云云。とは量義経に云く「摩訶般者・華厳海空」等云云。とうとは涅槃経に云く〔「般若ハラ蜜より大涅槃を出す」〕等云云。この経文は華厳経・涅槃経には法華経まさると見ゆる事かくたりめい々たり、御会通ごえつうあるべしとせめしかば、あるいは口をとぢ、或は悪口をはき、或はいろをへんじなんどせしかども、陳主立て三拝さんはいし、百官掌ひやつかんたなごころをあわせしかば、力およばずまけにき。
[10]一代の中には第一法華経にてありしほどに、像法の後の五百に新訳*しんやく経論重きようろんかさねてわたる。大宗たいそう皇帝の貞観じようがん三年に玄奘げんじようと申す人あり。月支がつしに入りて十七年、五天の仏法を習ひきわめて、貞観十九年に漢土へわたりしが、深密経じんみつきよう伽論*ゆがろん唯識論ゆいしきろん法相宗ほつそうしゆうをわたす。玄奘云く、月支に宗々多しといへども、この宗第一なり。大宗皇帝は、また漢土第一の賢王なり。玄奘を師とす。この宗の所詮に云く、或は三乗方便一乗真実*さんじようほうべんいちじようしんじつ、或は一乗方便三乗真実。また云く、〔「五性ごしよう各別かくべつなり、決定性と無性むしよう有情うじようは永く仏に成らず」〕等と云云。この義は天台宗と水火なり。
[11]しかも天台大師と章安大師は御入滅なりぬ。その已下いかの人々は人非人なり。すでに天台宗破れてみへしなり。その後、則天皇后そくてんこうごう御世みよに華厳宗立つ。前に天台大師にせめられし六十巻の華厳経をばさしをきて、後に日照*につしよう三蔵のわたせる新訳しんやくの華厳経八十巻をもつて立てたり。この宗のせん(詮)にいわく、華厳経は根本法輪こんぽんほうりん、法華経は枝末法輪しまつほうりん等云云。則天皇后は尼にてをはせしが、内外典ないげでんにこざかしき人なり。慢心まんしんたかくして天台宗をさげをぼしてありしなり。法相といゐ、華厳宗といゐ、二重に法華経かくれさせ給ふ。
[12]その後玄宗皇帝の御宇に、月支より善無畏ぜんむい三蔵・金剛智*こんごうち三蔵・不空*ふくう三蔵、大日経だいにちきよう金剛頂経こんごうちようきよう蘇悉地経そしつじきようと申す三経をわたす。この三人は人がらといゐ、法門といゐ前々の漢土の人師には対すべくもなき人々なり。しかも前になかりし*いん真言しんごんとをわたす。ゆへに仏法は已前いぜんにはこの国になかりけりとをぼせしなり。この人々の云く、天台宗は華厳・法相・三論には勝れたり。しかれどもこの真言経には及ばずと云云。
[13]その後、妙楽大師は天台大師のせめ給はざる法相宗・華厳宗・真言宗をせめ給ひて候へども、天台大師のごとく公場にてせめ給はされば、ただ闇夜あんやのにしきのごとし。法華経になき印と真言と現前げんぜんなるゆへに、皆人一同に真言まさりにてありしなり。
[14]像法ぞうぼうの中に日本国に仏法わたり、いはゆる欽明天皇きんめいてんのう六年なり。欽明より桓武かんむにいたるまで二百余年が間は三論さんろん成実じようじつ法相ほつそうくしや華厳けごんりつの六宗弘通ぐつうせり。真言宗は人王四十四代、元正げんしよう天皇の御宇にわたる。天台宗は人王第四十五代、聖武しようむ天皇の御宇にわたる。しかれどもひろまる事なし。桓武の御代みよ最澄法師さいちようほつし、後には教大師とがうす。入唐已前いぜん宗を習ひきわむる上、十五年が間天台真言の二宗を山にこもりゐて御覧ごらんありき。入唐已前に天台宗をもつて六宗をせめしかば、七大寺*しちだいじ皆せめられて最澄の弟子となりぬ。六宗の義やぶれぬ。後、延暦えんりやく二十三年に御入唐ごにゆうとう、同じき二十四年御帰朝ごきちよう、天台真言の宗を日本国にひろめたり。但し勝劣の事は内心にこれを存じて、人に向てとかざるか。
[15]同代どうだい空海くうかいという人あり。後には弘法こうぼう大師とがうす。延暦二十三年に御入唐、大同三年御帰朝、ただし真言の一宗を習ひわたす。この人の義に云く、法華経はなお華厳経に及ばず。いかにいはんや真言にをひてをや。伝教大師の御弟子に円仁えんにんという人あり。後に慈覚じかく大師とがうす。ぬる承和じようわ五年の御入唐、同じき十四年に御帰朝、十年があいだ真言・天台の二宗をがく(学)す。日本国にて伝教大師・義真ぎしん円澄*えんちように天台・真言の二宗を習ひきわめたる上、漢土にわたりて十年が間ヶの大徳だいとくにあひて真言を習ひ、宗叡すえい志遠しおん等にたまひて天台宗を習ふ。日本に帰朝して云く、天台宗と真言宗とはおなじ醍醐*だいごなり。とも深秘しんぴなり等云云。宣旨せんじを申して、これにそう(添)。
[16]その後、円珍えんちんと申す人あり。後には智証*ちしよう大師とがうす。入唐已前には、義真ぎしん和尚の御弟子なり。日本国にして義真・円澄・円仁等の人々に天台・真言の二宗習ひきわめたり。その上、ぬる仁嘉にんか三年に御入唐、貞観じようがん元年に御帰朝、七年が間天台・真言の二宗を法全はつせんりようせい等の人々に習ひきわむ。天台・真言の二宗の勝劣鏡しようれつかがみをかけたり。後代に一定あらそひありなん、さだむべしと云つて、天台・真言の二宗は譬へば人のふたつまなこ、鳥の二のつばさのごとし。この外、異義いぎぞんぜん人々をば祖師伝教大師そしでんぎようだいしにそむく人なり、山に住むべからずと宣旨せんじを申しそへて弘通ぐつうせさせ給ひき。
[17]されば漢土日本に智者多しというとも、この義をやぶる人はあるべからず。この義まことならば、習ふ人々は必ず仏にならせ給ひぬらん。あがめさせ給ふ国王等は必ず世安穏よあんのんにありぬらんとをぼゆ。
[18]ただし愚案ぐあんは人に申せども、おんもちゐあるべからざる上、のあだとなるべし。またきかせ給ふ弟子檀那でしだんなも安穏なるべからずとをもひし上、その義またたがわず。ただこの事は一定仏意いちじようぶついには叶わでもやあるらんとをぼへ候。法華経一部八巻二十八品にはこの経に勝れたる経をはせば、この法華経は十方の仏あつまりて大妄語だいもうごをあつめさせ給へるなるべし。
[19]したがつて華厳・涅槃・般若・大日経・深密等の経々を見るに〔「諸経の中に於て最も其の上に在り」〕の明文をやぶりたる文なし。随て善無畏ぜんむい等・玄奘等、弘法・慈覚・智証ちしよう種々しゆじゆのたくみあれども、法華経を大日経に対してやぶりたる経文はいだし給はず。ただ印と真言ばかりの有無うむをゆへ(所以)とせるなるべし。数百巻のふみをつくり、漢土日本に往復して無尽むじんのたばかりをなし、宣旨せんじを申しそへて人ををどされんよりは、経文分明きようもんふんみようならばたれか疑ひをなすべき。
[20]つゆつもりて河となる、河つもりて大海となる、ちりつもりて山となる、山かさなりて須弥山しゆみせんとなれり。小事しようじつもりて大事となる。いかにいはんや、この事はもつとも大事なり。じよをつくられけるにも両方の道理文証どうりもんしようをつくさるべかりけるか。また宣旨も両方をたずきわめて分明ふんみよう証文しようもんをかきのせていましめあるべかりけるか。已今当いこんとう経文きようもんは仏すらやぶりがたし。いかにいはんや論師・人師・国王の威徳をもつてやぶるべしや。已今当の経文をば梵王*ぼんのう帝釈*たいしやく日月にちがつ四天*してん聴聞ちようもんして各々おのおの宮殿ぐうでんにかきとゞめてをはするなり。
[21]まことに已今当の経文を知らぬ人のある時は先の人々の邪義じやぎはひろまりてとがなきやうにてはありとも、この経文をつよく立て退転せざるこわ(強)物出来ものしゆつたいしなば大事だいじ出来すべし。いやしみてあるいはのり、或は打ち、或はながし、或は命をたゝんほどに、梵王・帝釈・日月・四天をこりあひて、この行者のかたうどをせんほどに、存外ぞんがいに天のせめきたりて民もほろび国もやぶれんか。法華経の行者はいやしけれども、守護する天こわし。例せば脩羅しゆらが日月をのめば頭七分こうべしちぶんにわる、犬が師子をほゆればはらわたくさる。
[22]みるに日本国かくのごとし。またこれを供養せん人々は、法華経供養くよう功徳くどくあるべし。伝教大師釈して云く〔「讃者ほめんものふく安明あめいつみほうせん者はつみ無間むげんひらかん」〕等云云。ひへ(稗)のはん(飯)を辟支仏*ひやくしぶつに供養せし人は宝明ほうみよう如来となる。つちのもちゐを仏に供養せしかば閻浮提えんぶだいの王となれり。
[23]たとひこう(功)をいたせども、まことならぬ事を供養すれば、大悪とはなれども善とならず。たとひ心をろかにすこしきの物なれども、まことの人に供養すればこう大なり。いかにいはんや心ざしありて、まことの法を供養せん人々をや。その上、当世とうせみだれてたみの力よわし、いとまなき時なれども心ざしのゆくところ、山中の法華経へまうそう(孟宗)がたかんな(笋)ををくらせ給ふ。福田*ふくでんによきたねをくださせたまふか。なみだもとゞまらず。
現代語訳

随自意御書


弘安元年(一二七八)、五七歳、於身延、和文、定一六一〇—一六一八頁。

一 随他意ずいたいについて


[1](法華経以前に説かれた諸経は)衆生の身と心について説かれたものである。その衆生の心の望むところに随って説かれた教えであるので、仏の説であっても結局は衆生の心を出ないものである。したがって随他意の経と名付けたのである。例えば酒を好まぬ親に、たいへん酒好きの可愛い子がいた。一つには可愛さのあまり、もう一つにはその子の心をとらえるために、わざと好きな酒をすすめて、父母も酒が好きなような素振りをしてみせる。するとそのたよりにならない子は、父母もまた本当に酒を好んでいるものと思い込んでしまうものである。
[2]提謂経というお経には人間界と天上界のことが説かれている。阿含経というお経には声聞と縁覚のことが説かれている。華厳経というお経には菩のことが説かれている。方等・般若経等はあるいは阿含経・提謂経に似ており、あるいは華厳経にも似ている。これらのお経は末代の凡夫がこれを読むと、仏のお心にかなうものと行者は思うかもしれないが、詳しくこれについて論ずると、凡夫自身の心について書かれた経を読むことになる。自分の心は本来つたない心なので、はかばかしい事は一つもない。

二 三人の使者


[3]法華経というお経は、随自意といって仏のお心を説かれたものである。仏のお心は良きお心であるので、たとえ深く意味がわからなくても、法華経を読めば利益りやくは限りなく得られるのである。ちょうど麻の畠の中に生じたのように、また筒の中へ入った蛇が自然にまっすぐになるように、良き人と仲良くなると何とはなしに心も行ないも言葉づかいまで、素直に良くなっていくようなものである。法華経もこれと同じで、何とはなしにこの経を信ずる人を、仏は自然と良きものになると思うのである。
[4]この法華経において、また機根きこん(教えを受ける相手)により、時代や風土により、さらに弘める人によってさまざまに相違がみられるのであるが、あと一歩で仏に成れるという等覚の菩でさえもが、この点についてよく認識していないみたいである。ましてや末代の凡夫は、どうしてそのことを知りえようか。考えてみると、人の使者たるものに三通りの種類がある。その一人は極めて智恵のある者、もう一人は愚かでもなく智恵もすぐれていない人、三人目は智恵はないが正直でたしかな人の三種類である。
[5]この三種類のうち、第一の人は智恵があるので間違いはない。第二の人は第一の人ほどには智恵はないが、それでも少しは智恵があるので、主人の言葉に自分の考えを勝手に付け加えて言うから、最も悪い使者となる。第三の人は智恵がないので自分の言葉を交えず、正直なので主人の言葉を間違いなく伝えるから、第二の使者よりも良い使者といえる。場合によっては第一の使者よりも優れていることになる。すなわち第一の使者というのはインドの立派な導師にたとえ、第二の使者は中国の人師にたとえ、第三の使者は末法の凡夫で、愚かであっても正直なものにたとえたのである。

三 正法像法の二時代


[6]仏の在世についてはしばらくおいておくとして、仏の滅後についてはご入滅の次の日から数えて一千年を正法時代という。この正法一千年を二分して、前の五百年間は小乗経の弘まる時代とする。弘める人は葉や阿難等である。後の五百年間は馬鳴・竜樹・無著・天親等が出て権大乗経を弘める時代である。法華経についてはほんのわずかに書いている論師もあり、またはっきりと取り上げて論じようとしない人もいた。正法一千年より後の論師の中には、少しばかり仏の説に似たところもあるが、大部分は誤ってしまっている。誤りはないが不充分で足りないところがあったのは葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親といった人師であった。
[7]像法時代に入っての一千年は、中国に仏法が渡り、最初のうちは儒教の人と論争したので暇間がなかったため、仏教の内の大小権実といった区別について問題が起こらなかった。そのうちに次第に仏法が弘まり、インドからたびたび仏法が渡って来たので、前の人々は賢いようであったが、後から渡って来た経論を読んでみるとむなしいものが出てきた。また逆にむなしいと思っていた人々も賢く見えてきたものもあった。結局は十の流派に分かれて千も万もの教義があったために、学問のない人はどれについたらよいのか分からなくなり、智恵のあると思われる人は自分の学説にこだわってしまい偏った考えに固まってしまった。
[8]しかし、究極においてこれらの教義には同一の義があった。いわゆる仏一代の教えの中で第一は華厳経、第二は涅槃経、第三は法華経という順序であった。この教義は上は天皇より下は万民に至るまでだれも異議を唱える者はいなかった。大聖と世間から仰がれた法雲法師や智蔵法師等の十師の教義が同じく一つであったためである。
[9]ところが像法時代の中国に陳・隋の世に出た智という小僧があり、後に智者大師と号した。法門は数多くあるが、煎じ詰めるところ仏教は法華・涅槃・華厳の各経の勝劣を判定することの一つにしぼられていた。そこで智法師は「今の仏法は逆さまである」と言った。陳の王はこの問題について正邪をはっきりさせるために、南地の三師と北地の七師の最頂点に立っている恵

僧上・恵光僧都・恵栄・法歳法師等の百人余の法師たちをお呼び出しになられたとき、智法師は「法華経の安楽行品には、諸経の中に於てこの経は最もその上にあるとあり、また法師品にはすでに説きいま説きまさにこれから説こうとする教説の中で、この経が最も信じがたく理解しがたい最高の教えであるとある。このすでにとは無量義経によると摩訶般若・華厳海空等の経々を指し、まさにとは涅槃経によると、般若波羅蜜はんにやはらみつより大涅槃を出す等と記されている。この経文によると華厳経や涅槃経よりも法華経のほうがまさっているということは明確である。もしこれについて異議があるならば答えてほしい」と問いただしたところ、或る者は口を閉じ、或る者は悪口をたたき、或る者は顔色を変えて怒ったりしたが、陳の王は座を立って智法師を三拝し、王につき従う百官もみな合掌して帰伏の態度を示したので、その場にいた他の法師らは結局のところ、力及ばず敗北してしまった。

四 新訳経典と法華経


[10]仏一代の経典の中では法華経が第一であるのに、像法時代の後半の五百年に入って新訳の経論が重ねて伝わってきた。中国の大宗皇帝の貞観三年(<暦>六二九)に玄奘という人があり、インドに入って十七年間にわたって広く仏法を習い極め、貞観十九年(<暦>六四五)に中国へ戻ってきた。そして深密経・伽論・唯識論ゆいしきろん・法相宗を伝えた。玄奘が言うのに「インドに宗派はたくさんあるが、この法相宗が第一である」と。また当時太宗皇帝がおられたが、この人は中国で一番の賢王であった。その王が玄奘を師と仰いだので、その宗が隆昌したのである。法相宗の教義によれば、「あるいは声聞・縁覚・菩の三乗は方便であって、一仏乗が真実であると言い、あるいは逆に一乗が方便で三乗のほうが真実であると言い、また衆生の中には五つの段階があって、それぞれ別箇のものであり、その中でも決定性と無性のものは永遠に仏には成れない」と説き、すべてのものは成仏できると説く天台宗とは水と火のごとく相違している。
[11]しかし天台大師と章安大師はすでにこの頃はご入滅になった後なので、それ以降の人々は両大師に比較すると力が足りないために、玄奘の説に批判を加えることができず、天台宗は破れてしまったようにみえた。その後、則天武后そくてんぶこうの御代に澄観ちようかんによって華厳宗が立てられた。前に天台大師によって攻められた六十巻本の華厳経をさしおいて、後世に実難陀と日照三蔵が伝えた新訳の華厳経八十巻本を依り所にして宗を立てたのである。この宗の最も大事な法門によると、「華厳経は釈尊が最初に説かれた根本の教えであり、法華経は終わりに近づいて説かれた枝葉えだはの教えである」と。則天武后は尼であったが、仏典や仏典以外の経典についても一応は心得えていたので、うぬぼれの心が強く天台宗を見くだしていた。法相宗の時といい、華厳宗の時といい、二度も法華経は軽視されることになった。
[12]その後、玄宗皇帝の御代にインドより善無畏・金剛智・不空の三人の三蔵が、大日経・金剛頂経・蘇悉地経という三つのお経を伝えてきた。この三人は人柄といい、法門といい、前々の中国の人師には比較にならないほどの高僧であった。しかも前にはなかった印と真言との秘法を伝えたので、皇帝は本当の仏法はそれ以前にはこの国にはなかったのだと思われるほどであった。この三人の三蔵らは「天台宗は華厳・法相・三論等の各宗には優れているが、しかしこの真言の経には及ばない」と言っていた。
[13]その後、妙楽大師は天台大師の攻めなかった法相宗・華厳宗・真言宗を批判したが、天台大師のようにおおやけの場所で批判しなかったので、ちょうど闇の夜に錦の着物を着て歩いたようなものであった。法華経にない印と真言とが眼の前にはっきりと示されたので、すべての人々は一同に法華より真言のほうが勝っていると考えるに至った。

五 南都の六宗と真言・天台


[14]像法時代に日本に仏教が伝来した。いわゆる欽明天皇の七年(<暦>五三八)であった(原文は六年)。欽明から桓武に至るまでの二百余年の間は、三論・成実・法相・舎・華厳・律の六宗が弘まった。真言宗は第四十四代の元正天皇の御代に伝来し、天台大師は第四十五代聖武天皇の御代に伝わった。しかし当時は弘まることはなかった。桓武天皇の御代に最澄法師という人、後に伝教大師と号すが、唐の国へ渡る以前に、六宗を習い究めたうえ、さらに十五年間、天台と真言の二宗について比叡山にこもりご覧になられた。唐の国へ渡る前に、天台宗の立場で南都の六宗を批判したために、六宗の七大寺はみな論破されて最澄の弟子となってしまった。六宗の教義は破れてしまったのである。その後、延暦二十三年(<暦>八〇四)に唐の国へ渡られ、翌二十四年に帰ってこられ、天台・真言の二宗を日本へ弘められたのである。ただし二宗の勝劣については、内心に秘して人に向かって説くことをしなかったようである。
[15]同時代に空海という人がいた。後に弘法大師と号す。延暦二十三年に唐の国へ渡り、大同元年(<暦>八〇六)に帰ってきて(原文は大同三年)、ただ真言の一宗のみを伝えた。この人の教義によると、「法華経はなお華厳経に及ばない、ましてや真言にはなおさらのこと及ばない」と言うのであった。伝教大師のお弟子に円仁という人がいた。後に慈覚大師と号した。この人は去る承和五年(<暦>八三八)に唐の国へ渡り、同じ十四年(<暦>八四七)に帰って来られ、十年間真言・天台の二宗を学んでこられた。日本で伝教大師を始め義真・円澄について天台・真言の二宗を習い究めたうえに、中国へ渡り十年間、八人の大徳に会って真言を習い、宗叡・志遠等に会って天台宗を学んでこられた。日本に帰ってきて言うのに、「天台宗と真言宗とは同じく最高の教えであり、ともに深く秘すべきものがある」と主張し、天皇の勅宣ちよくせんをいただいてこれに添えたのである。
[16]その後、円珍という人があり、後に智証大師と号した。唐の国へ渡る前は義真和尚のお弟子であった。日本にいる時は義真・円澄・円仁等の人々から、天台・真言の二宗を習い究めた。そのうえ、去る仁寿三年(<暦>八五三)に唐の国へ渡られ、天安二年(<暦>八五八)に帰って来られた(原文では仁嘉三年入唐、貞観元年帰朝)。六年間にわたり天台・真言の二宗を法全・良等の人々から習い究めてきた。天台・真言の二宗の勝劣について鏡にうつすようにはっきりさせた。後代に至って必ず二宗の勝劣に関し論争が起こるであろう、その時のために定めておくといって、「天台・真言の二宗はたとえば人の両眼、鳥の二つの翼のようなものであり、どちらもともに大切である。この外に異議を持つ者がいたなら、その人々は祖師伝教大師に背く者である。比叡山に住むべきではない」と天皇の宣旨を添えて弘くこの事を知らしめられた。
[17]したがって中国・日本に智者は数多くいるが、この宗義を破る人はいなかった。この宗義が真実であるとしたら、これを習う人々は必ず仏に成ることであろう。これを崇める国王等も、必ずその治める世が安穏であったろうと思われるが、しかしそうではなかった。

六 こんとうの三説


[18]ただし、私が考えていることを人に語って聞かせても、それを聞いて信用しその説を用いることをしないうえに、さらに迫害を加えて身をあやうくする。また説いて聞かせた弟子や檀那も安穏にしてはおられないと思い知った通り、そのことに相違なく迫害が現われた。しかし、右にのべてきた円仁・円珍などの説はきっと仏意には叶わないのではないかと思う。法華経一部八巻二十八品のほかに、この経よりも優れたお経があったならば、この法華経は十方の仏が集まって、大きなうそを集めた経ということにる。
[19]したがって華厳・涅槃・般若・大日経・深密等の諸経を見ると、「諸経の中に於て最もその上位にある」という法華経の明らかな経文を破ったものは一つもない。したがって善無畏等・玄奘等・弘法・慈覚・智証等がいろいろとたくらんでみたが、法華経が大日経だいにちきようによって破られたという経文は明らかにしていない。ただ印と真言に限ってその有無を理由としている。数百巻の書物を作り、中国と日本を往復して数多くの策略を考え、天皇の宣旨まで添えたりしながら人を驚かすよりも、明確な経文を示したほうが、誰も疑問に思わないであろう。
[20]露も積もれば河となる。河も集まると大海となる。塵も積もれば山となり、山もかさなると須弥山となる。同様に小事でも積もると大事となる。ましてやこの事は最も大きな事である。註釈書を著作するにしても、法華と真言の両方の道理や経文の証拠を、充分に尽くしてから著作すべきである。また天皇の宣旨にしても、両方の主張をよく尋ねて事の真実を極めてから、その証拠の文章を記載して下されるべきものではないか。「すでに説き、いま説き、まさに説かんとする中で、この法華経は最も第一に勝れた経である」とする経文は、仏でさえも破り難いものである。ましてやそれ以下の論師や人師・国王がその威徳をもって破ることをしてもよいものであろうか。先の「こんとう」の経文は、梵王・帝釈・日月・四天等も皆聴聞して、各自の宮殿に書き示しているものである。
[21]まことに「已・今・当」の経文を知らない人がいる時は、先の人々の間違った宗義が弘まって、世間の人々からは罪のないように見られるかもしれないが、この経文を強く立て困難にも負けずに申し立てる者が出たならば、大事な出来ごとが生起することになる。すなわちその者を軽蔑して悪口を言ったり、あるいはや刀で打ち、あるいは流罪にしたり、あるいは命を取ろうとねらうので、梵王・帝釈・日月・四天は怒り合って、この行者の味方をし、存分に諸天が攻めてきて、国土も民も滅亡してしまうのではなかろうか。法華経の行者はたとえいやしくとも、守護する諸天はこわい存在である。例えば修羅が日月をのめば頭が七つに割れてしまう。また犬が獅子に向かってほえると腹わたがくさると言われているようなものだ。

七 福田ふくでんに良き種子たねを蒔く


[22]現在、私が見るのに日本の国もちょうどこのようなものである。またこの行者を供養する人々は、法華経を供養した功徳が得られる。伝教大師はこれを解釈して、「法華経の行者を讃歎する者はその福が須弥山のごとくに積もり、誹謗する者は無間地獄のようにもっとも罪が深い」と述べている。ひえの御飯を辟支仏に供養した人は、宝明如来となり、土のを仏に供養した童子は、この世界の王となったことが過去にあった。
[23]たとえ功績があったとしても、まことの道に合わない事を供養したとすれば、大悪とはなっても善にはならない。反対にたとえ心はおろかで少しであっても、まことの人に供養すれば、その功徳は広大である。ましてや心ざしのある者が、真実の法を供養するとしたら、その功徳ははかりしれないものがある。そのうえ現代は、世間も乱れて民の力も弱い。暇間もない時勢ではあるけれども、心ざしの行くところは、身延の山中に在る法華経の御宝前へ、孟宗のたけのこを送って下さった。福田に良き種子を蒔くようなものであろうか。涙も止まらぬ状態である。