千日尼御前御返事
書下し
千日尼御前御返事
[1]弘安元年〈太歳戊寅〉七月六日、佐渡の国より千日尼と申す人、同じ日本国甲州波木井郷の身延山と申す深山へ、同じ夫の阿仏房を使として送り給ふ御文に云く、女人の罪障はいかがと存じ候へども、御法門に法華経は女人の成仏をさきとするぞと候しを、万事はたのみまいらせ候て等云云。
[2]それ法華経と申し候御経は誰れ仏の説き給ひて候ぞとをもひ候へば、この日本国より西、漢土よりまた西、流沙・葱嶺と申すよりはまたはるか西、月氏と申す国に浄飯王と申しける大王の太子、十九の年位をすべらせ給ひて檀どく山と申す山に入り御出家、三十にして仏とならせ給ひ、身は金色と変じ、神は三世をかがみさせ給ふ。すぎにし事、来るべき事、かがみにかけさせ給ひてをはせし仏の、五十余年が間一代一切の経々を説きをかせ給ふ。この一切経の経々、仏の滅後一千年が間、月氏国にやうやくひろまり候しかども、いまだ漢土・日本国等へは来り候はず。
[3]仏滅度後一千十五年と申せしに漢土へ仏法渡りはじめて候しかども、またいまだ法華経はわたり給はず。仏法漢土にわたりて二百余年に及んで、月氏と漢土との中間に亀茲国と申す国あり。彼国の内に鳩摩羅えん三蔵と申せし人の御子鳩摩羅什と申せし人、彼国より月氏に入り、須利耶蘇磨三蔵と申せし人にこの法華経をさづかり給ひき。その授け給ひし時の御語に云く、「この法華経は東北の国に縁ふかし」と云云。この御語を持ちて月氏より東方漢土へは、わたし給ひ候しなり。漢土には仏法わたりて二百余年、後秦王の御宇に渡りて候き。日本国には人王第三十代欽明天皇の御宇、治十三年〈壬申〉十月十三日〈辛酉〉日、これより西百済国と申す国より聖明皇、日本国に仏法をわたす。此は漢土に仏法わたて四百年、仏滅後一千四百余年なり。その中にも法華経はましまししかども人王第三十二代用明天皇の太子、聖徳太子と申せし人、漢土へ使をつかわして法華経をとりよせまいらせて日本国に弘通し給ひき。それよりこのかた七百余年なり。
[4]仏滅度後はすでに二千二百三十余年になり候上、月氏・漢土・日本、山々・河々・海々遠くへだたり、人々・心々・国々・各々別にして語かわり、しなことなれば、いかでか仏法の御心をば我等凡夫は弁へ候べき。ただ経々の文字を引合せてこそ知るべきに、一切経はやう〳〵に候へども法華経と申す御経は八巻まします。流通に普賢経、序分の無量義経各一巻已上。
[5]この御経を開き見まいらせ候へば明らかなる鏡をもつて我が面を見るがごとし。日出て草木の色を弁へるににたり。序分の無量義経を見まいらせ候へば、「四十余年未顕真実」と申す経文あり。法華経の第一の巻、方便品の始に〔「世尊の法は久くして後に要らずまさに真実を説きたもうべし」〕と申す経文あり。第四の巻の宝塔品には「妙法華経皆是真実」と申す明文あり。第七の巻には〔「舌相梵天に至る」〕と申す経文赫々たり。その外はこの経より外のさきのち(前後)ならべる経々をば星に譬へ、江河に譬へ、小王に譬へ、小山に譬へたり。法華経をば月に譬へ、日に譬へ、大海・大山・大王等に譬へ給へり。この語は私の言にはあらず。皆如来の金言なり。十方の諸仏の御評定の御言なり。一切の菩薩・二乗・梵天・帝釈今の天に懸て明鏡のごとくまします。日月も見給ひき聞き給き。その日月の御語もこの経にのせられて候。
[6]月氏・漢土・日本国のふるき神たちも皆その座につらなりし神々なり。天照太神・八幡大菩薩・熊野・すずか等の日本国の神々もあらそひ給ふべからず。この経文は一切経に勝れたり。地走る者の王たり。師子王のごとし。空飛ぶ者の王たり。鷲のごとし。南無阿弥陀仏経等はきじのごとし。兎のごとし。鷲につかまれては涙をながし、師子にせめられては腹わたをたつ。念仏者・律僧・禅僧・真言師等またかくのごとし。法華経の行者に値ひぬればいろを失ひ魂をけすなり。
[7]かゝるいみじき法華経と申す御経はいかなる法門ぞと申せば、一の巻方便品よりうちはじめて菩薩・二乗・凡夫皆仏になり給ふやうをとかれて候へども、いまだ其しるしなし。たとへば始めたる客人が相貌うるわしくして心もいさぎよく、口もきいて候へばいう事疑ひなけれども、さきも見ぬ人なればいまだあらわれたる事なければ、語のみにては信じがたきぞかし。その時、語にまかせて大なる事度々あひ候へば、さては後の事もたのもしなんど申すぞかし。
[8]一切信じて信ぜられざりしを第五の巻に即身成仏と申す一経第一の肝心あり。譬へばくろき物を白くなす事漆を雪となし、不浄を清浄になす事、濁水に如意珠を入れたるがごとし。竜女と申せし小蛇を現身に仏になしてまし〳〵き。この時こそ一切の男子の仏になる事をば疑ふ者は候はざりしか。さればこの経は女人成仏を手本としてとかれたりと申す。されば日本国に法華経の正義を弘通し始めましませし、叡山の根本伝教大師のこの事を釈し給ふには、〔「能化所化倶に歴劫なし、妙法経力即身成仏す」〕等。
[9]漢土の天台智者大師法華経の正義をよみはじめ給ひしには、〔「他経はただ、男に記して女に記せず乃至、今経は皆記す」〕等云云。これは一代聖教の中には法華経第一、法華経の中には女人成仏第一なりとことわらせ給ふにや。されば日本一切の女人は法華経より外の一切経には女人成仏せずと嫌ふとも、法華経にだにも女人成仏ゆるされなばなにかくるしかるべき。
[10]しかるに日蓮はうけがたくして人身をうけ、値ひがたくして仏法に値ひ奉る。一切の仏法の中に法華経に値ひまいらせて候。その恩徳ををもへば父母の恩・国主の恩・一切衆生の恩なり。父母の恩の中に慈父をば天に譬へ、悲母を大地に譬へたり。いづれもわけがたし。その中、悲母の大恩ことにほうじがたし。これを報ぜんとをもうに外典の三墳・五典・孝経等によて報ぜんとをもへば、現在をやしないて後生をたすけがたし。身をやしない魂をたすけず。
[11]内典の仏法に入て五千七千余巻の小乗大乗は、女人成仏かたければ悲母の恩報じがたし。小乗は女人成仏一向に許されず。大乗経は或は成仏、或は往生を許したるやうなれども仏の仮言にて実事なし。ただ法華経計りこそ女人成仏、悲母の恩を報ずる実の報恩経にては候へと見候しかば、悲母の恩を報ぜんためにこの経の題目を一切の女人に唱へさせんと願す。
[12]それに日本国の一切の女人は漢土の善導、日本の慧心・永観・法然等にすかされて、詮とすべきに南無妙法蓮華経をば一国の一切の女人一人も唱ふることなし。ただ南無阿弥陀仏と一日に一返十返百千万億反乃至三万十万反、一生が間昼夜十二時にまた他事なし。道心堅固なる女人も、また悪人なる女人も弥陀念仏を本とせり。わづかに法華経をこととするやうなる女人も月まつまでのすさび、をもわしき男のひまに心ならず心ざしなき男にあうがごとし。
[13]されば日本国の一切の女人法華経の御心に叶ふは一人もなし。我悲母に詮とすべき法華経をば唱へずして弥陀に心をかけば、法華経は本ならねばたすけ給ふべからず。弥陀念仏は女人たすくる法にあらず、必ず地獄に堕ち給ふべし。いかんがせんとなげきし程に我悲母をたすけんために、弥陀念仏は無間地獄の業なり。五逆にはあらざれども五逆にすぎたり。父母を殺す人はその肉身をばやぶれども、父母を後生に無間地獄には入れず。
[14]今日本国の女人は必ず法華経にて仏になるべきを、たぼらかして一向に南無阿弥陀仏になしぬ。悪ならざればすかされぬ。仏なにる種ならざれば仏にはならず。弥陀念仏の小善をもつて法華経の大善を失う。小善の念仏は大悪の五逆罪にすぎたり。
[15]譬へば承平の将門は関東八箇国をうたへ(打平)、天喜の貞任は奥州をうちとどめし。民を王へ通ぜざりしかば、朝敵となりてついにほろぼされぬ。これ等は五逆にすぎたる謀反なり。今日本国の仏法もまたかくのごとし。色かわれる謀反なり。法華経は大王、大日経・観無量寿経・真言宗・浄土宗・禅宗・律僧等は彼々の小経によて法華経の大怨敵となりぬ。
[16]しかるを、日本の一切の女人等、我心のをろかなるをば知らずして、我をたすくる日蓮をかたきとをもひ、大怨敵たる念仏者・禅・律・真言師等を善知識とあやまてり。たすけんとする日蓮かへりて大怨敵とをもわるゝゆえに、女人こぞりて国主に讒言して伊豆の国へながせし上、また佐渡の国へながされぬ。
[17]こゝに日蓮願て云く、日蓮は全悞なし。たとひ僻事なりとも日本国の一切の女人を扶んと願せる志はすてがたかるべし。いかにいはんや法華経のまゝに申す。しかるを一切の女人等信ぜずばさてこそあるべきに、かへりて日蓮をうたする、日蓮が僻事か。釈迦・多宝・十方の諸仏・菩薩・二乗・梵釈・四天等いかに計らひ給ふぞ。日蓮僻事ならばその義を示し給へ。ことには日月天は眼前の境界なり。また仏前にしてきかせ給へる上、法華経の行者をあだまんものをば「頭破七分」等と誓はせ給ひて候へばいかんが候べきと、日蓮強盛にせめまいらせ候ゆへに天この国を罰す。ゆへにこの疫病出現せり。他国よりこの国を天をほせつけて責めらるべきに、両方の人あまた死ぬべきに、天の御計ひとしてまづ民を滅して人の手足を切るがごとくして、大事の合戦なくして、この国の王臣等をせめかたぶけて、法華経の御敵を滅して正法を弘通せんとなり。
[18]しかるに日蓮佐渡の国へながされたりしかば、彼国の守護等は国主の御計ひに随ひて日蓮をあだむ。万民はその命に随う。念仏者・禅・律・真言師等は鎌倉よりもいかにもしてこれへわたらぬやう計ると申しつかわし、極楽寺の良観等は武蔵の前司殿の私の御教書を申して、弟子に持たせて日蓮をあだみなんとせしかば、いかにも命たすかるべきやうはなかりしに、天の御計らひはさてをきぬ、地頭々々等、念仏者々々々等、日蓮が庵室に昼夜に立ちそいてかよ(通)う人あるをまどわさんとせめしに、阿仏房にひつ(櫃)をしをわせ、夜中に度々御わたりありし事、いつの世にかわすらむ。ただ悲母の佐渡の国に生れかわりてあるか。
[19]漢土に沛公と申せし人、王の相ありとて秦の始皇の勅宣を下して云く、沛公打ちてまいらせん者には不次の賞を行ふべし。沛公は里の中には隠れがたくして、山に入りて七日二七日なんどありしなり。その時命すでにをわりぬべかりしに、沛公の妻女呂公と申せし人こそ、山中を尋ねて時〳〵命をたすけしが、彼は妻なればなさけすてがたし。
[20]これは後世ををぼせずば、なにしにかかくはをはすべき。またその故に或は所ををい、或はくわれう(科料)をひき、或は宅をとられなんどせしに、ついにとをらせ給ぬ。法華経には過去に十万億の仏を供養せる人こそ、今生には退せぬとわみへて候へ。されば十万億供養の女人なり。
[21]その上、人は見る眼の前には心ざしありとも、さしはなれぬれば、心はわすれずともさてこそ候に、去ぬる文永十一年より今年弘安元年まではすでに五ヶ年が間、この山中に候に、佐渡の国より三度まで夫をつかわす。いくらほどの御心ざしぞ。大地よりもあつく、大海よりもふかき御心ざしぞかし。
[22]釈迦如来は我が薩埵王子たりし時うへたる虎に身をかい(飼)し功徳、尸毗王とありし時、鳩のために身をかへし功徳をば、我が末の代かくのごとく法華経を信ぜん人にゆづらむとこそ、多宝・十方の仏の御前にては申させ給ひしか。
[23]その上御消息に云く、「尼が父の十三年は来る八月十一日」。また云く「ぜに一貫もん」等云云。あまりの御心ざしの切に候へば、ありえて御はしますに随ひて法華経十巻をくりまいらせ候。日蓮がこいしくをはせん時は、学乗房によませて御ちやうもんあるべし。この御経をしるしとして、後生には御たづねあるべし。
[24]そもそも去年今年のありさまはいかにかならせ給ひぬらむと、をぼつかなさに法華経にねんごろに申し候つれども、いまだいぶかし(不審)く候つるに、七月二十七日の申の時に阿仏房を見つけて、尼ごぜんはいかに、こう入道殿はいかにとまづといて候つれば、いまだやま(病)ず、こう入道殿は同道にて候つるが、わせ(早稲)はすでにちかづきぬ、こ(子)わなし、いかんがせんとてかへられ候つるとかたり候し時こそ、盲目の者の眼のあきたる、死し給へる父母の閻魔宮より御をとづれの夢の内にあるをゆめにて悦ぶがごとし。あわれ〳〵ふしぎなる事かな。これもかまくらも此方の者はこの病にて死ぬる人はすくなく候。同じ船にて候へばいづれもたすかるべしともをぼへず候つるに、ふねやぶれてたすけぶねに値へるか。また竜神のたすけにて事なく岸へつけるかとこそ不思議がり候へ。
[25]さわ(谷)の入道の事なげくよし尼ごぜんへ申しつたへさせ給へ。ただし入道の事は申切り候しかばをもひ合せ給ふらむ。いかに念仏堂ありとも阿弥陀仏は法華経のかたきをばたすけ給ふべからず。かへりて阿弥陀仏の御かたきなり。後生悪道に堕ちてくいられ候らむ事あさまし。ただし入道の堂のらう(廊)にて、いのちをたびたびたすけられたりし事こそ、いかにすべしともをぼへ候はね。
[26]学乗房をもつてはか(墓)につね〳〵法華経をよませ給へとかたらせ給へ。それも叶ふべしとはをぼえず。さても尼のいかにたよりなかるらむとなげくと申しつたへさせ給ひ候へ。またまた申すべし。
[27]<日>七月二十八日日>
[28]<人>日 蓮 <花押>花押花押>人>
[29]<先>佐渡国府阿仏房尼御前先>
現代語訳
千日尼御前御返事
弘安元年(一二七八)七月二八日、五七歳、千日尼宛、和文、定一五三八—一五四七頁。
一 法華経とはどんなお経か
[1]弘安元年(<暦>一二七八暦>)太歳戊寅七月六日、佐渡の国から千日尼という人が、同じ日本国の甲州波木井郷の身延山という深山へ、夫である阿仏房を使者として送ってこられたお手紙の中に、「女性の罪障はいかに深いものかと存じてはおりましたが、お示し下さった御法門によると、法華経は女性の成仏を真先に考えているということなので、これを何よりもの頼みにいたしています」と記されていた。
[2]まず第一に法華経というお経は、どんな仏が説かれたのかと思ってみるのに、この日本国より西の方向、中国よりもさらに西方で、流沙・葱嶺という所よりもまた遥かに西の方で、月支(インド)という国があり浄飯王という大王の太子がおられた。十九歳のとき、太子の位を捨てられて檀特山という山に登り御出家された。三十歳のとき仏になられ、身体は金色に輝き、神は過去・現在・未来の三世を見きわめられ、過去のことも未来のことも、鏡に映し出すようにご覧になられた仏が、五十余年の間、一切経といわれる数多くの教えをお説きになられた。この一切の教えは、仏の滅後一千年をへて、インドで次第に広まっていったが、いまだ中国や日本には伝わってこなかった。
[3]仏の滅後一千十五年に中国へ仏法が渡り始めたけれども、まだ法華経は渡ってこなかった。仏法が中国に渡って二百余年後に、インドと中国の中間に亀茲という国があった。その国の中に鳩摩羅炎三蔵という人の子で鳩摩羅什という人がいた。亀茲国からインドに入り、須利耶蘇磨三蔵という人からこの法華経を授かった。その授ける時に須利耶蘇磨は、「この法華経は東北の方向にある国に縁が深い」と鳩摩羅什におっしゃった。この言葉によってインドから東方の中国へ法華経を伝えたのである。中国に仏法が伝わって二百余年、後秦王の御代に渡来したのである。日本国の場合は第二十九代の欽明天皇の御代であり、十三年壬申(<暦>五五二暦>)十月十三日辛酉に、ここより西方にあたる百済国という国より、聖明王が日本へ仏教を伝えたのである。これは中国に仏教が伝わってから四百年後、仏滅後一千四百余年後のことであった。その中にも法華経はあったけれども、第三十一代用明天皇の太子で聖徳太子という人が、中国へ使者を出して法華経をとりよせられて、初めて日本の国に法華経が広まっていったのである。それより以来今日まで七百余年たっている。
[4]仏の滅度後すでに二千二百三十余年も過ぎているうえに、インド・中国・日本と国をへだて、さらに山や河や海をいくつも遠く離れて、人々の心や国によって言葉も変わり、風俗習慣もみなちがっているので、どうすれば仏法の御心を正しくわれら凡夫が理解することができようか。ただ経典の文字を読んでいくしかないが、一切経は数も多く幾種類にも分かれている。しかし法華経はただ八巻である。流通分の普賢経と、序分の無量義経が各一巻ずつあって十巻となる。
[5]この法華経を開いて見ると、明らかな鏡にわが顔を映して見るようにはっきりと見える。日が照って草木の色がはっきりわかるようなものである。まず序分の無量義経を見ると、「四十余年間いまだ真実を顕わしていない」という経文がある。また法華経の第一の巻の方便品の始めには、「世尊は久しくして後に真実の法を説くであろう」とある。同じく第四巻の宝塔品には、「妙法華経は皆これ真実なり」という経文もある。第七巻の神力品には「仏は舌を梵天に至るまで長く示された」(真実の法門であるということの実証)という経文も明白にある。その他にも薬王品には、法華経以外の前後の経を、月や日や大海・大山・大王等にたとえられている。これは私が勝手に言っているのではなく、すべて如来の述べられた言葉であり、十方の諸仏が相談して決定されたお言葉である。またすべての菩薩や二乗・梵天・帝釈を始め、いま現在天にかかっている日・月もご覧になりお聞きになられたのであり、その日・月のこともこの法華経には記載されているのである。
[6]インド・中国・日本の古くからの神々もみなその座につらなっていた神々であり、わが国の天照太神・八幡大菩薩・熊野・鈴鹿等の神々も、法華経が真実であるという言葉には反対できないのであり、この法華経は他のすべての経よりも優れているのである。例えば地を走るものの王である獅子のごとくであり、空を飛ぶものの王者である鷲のごとくである。南無阿弥陀仏経等は雉や兎のごとくであり、鷲につかまっては涙を流し、獅子に攻められて腹わたを切られるようなものである。念仏者・律僧・禅僧・真言師らはちょうどこのようなものである。法華経の行者に会うと色を失い魂をうばわれたようになってしまう。
二 女性の成仏を説いた経典
[7]このように貴い法華経というお経は、一体どのような法門が説かれているのかといえば、第一巻の方便品から始まって、菩薩や二乗を始め凡夫のすべてがみな仏に成ることが説かれているが、しかしまだその現実の証拠がない。例えば初めて来たお客が姿形も立派で心持も良く、言葉も正しくて言っていることも疑問な点は少しもないが、初めて会った人なので本当に言っていることに間違いがないかどうか、事実を確かめたうえでないと、言葉だけでは信じがたいのと同様である。そうした時に言葉通り、大事なことがたびたび事実と合ったならば、その後の事はたのもしく信じることができるものである。
[8]すべて仏の説であるので一応信じてきたが、確証がないので本当に信じきることができなかったが、第五巻の提婆品で、即身成仏という法華一経の中で第一の肝心な法門が説かれ、これではっきりしたのである。例えば黒い漆を雪のように白くしたり、不浄の濁水に清浄な如意宝珠を入れてきれいにしたようなものである。竜女という小蛇を現身に即して仏になさしめられた。この時こそすべての男子が仏になることを疑う者はいなかったであろう。したがって法華経は女人成仏をお手本として、すべての衆生の成仏が説かれた経典なのである。それゆえに日本で法華経の正しい理由を説き始めた比叡山の根本である伝教大師は、この事について、「仏に成って法を説いた竜女も、その説法を聞いて仏となった衆生も、ともに永い間の修行を必要とせず、妙法の経力によって即身成仏した」と法華秀句の中に解説している。
[9]中国の天台智者大師は、法華経を正しく解釈された法華文句の中で、「法華経以外の経では、ただ男の成仏については述べられているが、女の成仏については記していない。法華経では男女ともに成仏が説かれている」とある。これらの説は仏一代の聖教の中では法華経が第一に優れた教えであり、その法華経の中では、女人の成仏のことが第一であるといわれているのではなかろうか。もしそうだとしたら、日本中のすべての女性は法華経よりほかのすべての経で、女性は成仏できないといって嫌われても、法華経によって女性の成仏が許されるのであれば、少しも苦しく思うことはないのである。
三 信仰を間違えてしまった人々
[10]日蓮はいま受け難い人としての身を受け、そのうえ値い難い仏法に値い奉ることができた。すべての仏法の中でも最も優れた法華経に値うことができた。その恩徳を思えば、父母の恩・国王の恩・すべての衆生の恩である。父母の恩については、慈父を天にたとえ、悲母を大地にたとえて、どちらも分けへだてすることは出来ないが、その中でも特に悲母の大恩はことに報いがたいものがある。この大恩を報じようと思って仏教以外の儒教による三墳・五典・孝経等によって報じようとしたら、現世の報恩はできても、後生の報恩まではできない。すなわち身体を養うことはできても魂を扶けることはできない。
[11]仏法の中に入っても、五千ないし七千余巻もある小乗や大乗の経は、女性の成仏がむずかしいので、悲母の恩に報いることはできない。ことに小乗仏教では女性の成仏は少しも許されていない。大乗経の中にはあるいは成仏、あるいは往生を許したようにみられるけれども、仏の仮の言葉であって、事実ではない。ただ法華経だけが女性の成仏を説き、悲母の恩に報ずることのできる真実の報恩経であると見定めたので、悲母の恩を報ずるために、この経の題目をすべての女人に唱えさせようと願っているのである。
[12]それなのに日本中のすべての女性は、中国の善導や、日本の慧心・永観・法然等にだまされて、頼るべき南無妙法蓮華経を国中の女性は一人も唱える者がいない。ただ南無阿弥陀仏と一日に一返十返、百千万億返ないし三万十万反、一生の間に昼夜にわたって唱え、他の事は一切やっていない。道心のかたい女性も、また悪心を持った女性もともに弥陀念仏を基本としている。わずかに法華経を信仰するような女性もいないわけではないが、例えてみると月が出てくるまでのわずかな待ち時間を、心に思っている男の現われるまで、心では思っていない別な男に会って時間つぶしをするようなものである。
[13]したがって日本中のすべての女性は、法華経の御心にかなった人は一人もいない。わが悲母のために頼るべき法華経を唱えず、弥陀に心をかけていたならば、法華経が本になっていないので、母を助けることもできないのである。弥陀念仏は女性を助ける法ではないから、必ず地獄へ落ちてしまうことになる。どうしようかと嘆いてみたが、我が悲母を助けるために唱える弥陀念仏は、無間地獄へ落ちるための業因となり、五逆罪を犯したわけでもないのに、五逆罪よりも過ぎた罪となってしまう。なぜなら父母を殺す人はその肉体を傷つけるが、父母の魂にまで傷をつけ後生に無間地獄へ落とし入れることはないからである。
[14]現今の日本国中の女性は、必ず法華経で仏に成れるはずなのに、だまされて、もっぱら南無阿弥陀仏を唱えている。もともとからの悪人ではないので、だまされてしまうのである。仏に成る種子ではないので、いくら唱えても念仏では仏にならない。弥陀念仏の小善でもって法華経の大善を失うことになる。この場合の小善の念仏は、大悪の五逆罪に過ぎたものとなる。
[15]例えば承平年間(<暦>九三一—九三八暦>)に平将門は関東八州を平定し、天喜年間(<暦>一〇五三—一〇五八暦>)の阿部貞任は奥州を打ち平らげて、民と王とを引き離してしまったので、朝敵となりついに滅ぼされてしまったようなものである。これらは五逆罪よりも重い謀反の罪である。現在の日本における仏法もまたこのようなものであり、色形の変わった謀反である。すなわち法華経は大王であり、大日経・観無量寿経・真言宗・浄土宗・禅宗・律僧等は、それぞれの小経によって大王たる法華経の大怨敵となってしまっている。
[16]それなのに日本中のすべての女性は、自分の心の間違っているのを知らないで、自分たちを助けようとしている日蓮を逆に敵と思い、大怨敵である念仏者・禅・律・真言師等を正しい師だと誤ってしまっている。助けようとする日蓮を、かえって大怨敵だと思い込んでしまっているので、女性はこぞって国主に讒言をし、伊豆の国へ流罪にしたうえ、さらにまた佐渡へも流罪にした。
四 諸天の御はからい
[17]そこで日蓮は次のような願を立てた。「日蓮には全くあやまちはないはずである。たとえ間違っていたとしても、日本中のすべての女性を扶けようと願って立てた志は捨てがたいものである。ましてや法華経に説かれている通りに申し立てている。それなのにすべての女性は信じてしかるべきなのに、逆に日蓮を打たせるということは、日蓮が間違っているのであろうか。釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩・二乗・梵天・帝釈・四天王等は、これをどのように考えられているか。もしも日蓮が間違っているならば、そのことを示していただきたい」という願である。ことに日天・月天は眼前に輝いている。また昔、仏前において法華経の行者を守護すべきことを聞いているうえに、「もし行者を妨害する者があったら頭を七つに割ってしまうと誓いを立てられているので、その誓いは今どのようになっているのか」と日蓮が強く盛んに守護の神々を攻めたてたので、諸天はこの国を罰して疫病が流行しているのである。他の国からこの国を諸天に命じて責めさせるべきであるが、双方の国の人人が数多く死ぬことになるので、天のはからいでまず民の数をへらし、人の手足を切るように、大事な合戦に至らないようにして、この国の王臣等を責めながら、法華経の敵をほろぼし、正法を広めようとしたのである。
五 日蓮の母の生まれかわり
[18]それなのに日蓮が佐渡の国へ流されたので、佐渡の守護職にあたっている人らは、国主の命に随って日蓮を敵視するのである。万民もまたその命に随っている。念仏者・禅・律・真言師等は、どんなことがあっても二度と鎌倉へ日蓮が帰ってこないように対策を立てていると言ってよこし、極楽寺の良観等は武蔵の前司である宣時に頼んで私の御教書を書いてもらい、弟子に持たせて佐渡へわたり、日蓮を迫害しようとしたので、なんとも命が助かるとは思えなかった。諸天の御はからいについては、さておくことにしよう。地頭という地頭等、念仏者という念仏者等は、すべて日蓮の庵室に昼夜に立ち添って、尋ねて来る人々を迷わせ、日蓮に会わせないように妨害しているなかで、あなたは夫の阿仏房に櫃を背負わせて、夜暗にまぎれたびたび尋ねて来てくれたことは、いつの世になっても忘れることはできないことである。ただごととも思えない。日蓮の母が佐渡の国へ生まれ変わってこのようにしむけてくれているのではなかろうか。
[19]中国の沛公という人は王になる人相をしていた。そこで秦の始皇は勅宣を下して、「沛公を打ち殺してきた者には、多大の賞を授与する」と言った。沛公は村里の中には穏れるところがなくなり、山の中へ逃げ入って一週間から二週間にも及んだ。その時に食物もなくなり命もすでに尽きようとしていたおり、沛公の妻である呂公という人が、ひそかに山中を尋ねてときおり食物を届けたということであるが、彼の場合は妻なので、情のうえからも捨ててはおかれなかったからである。
[20]今あなたの場合は、後世のことを思わなかったならば、なんでこのように尽くしてくれることができようか。またそのためにあるいは住む所を追われ、あるいは科料に処せられ、あるいは住宅を取り上げられたりしたが、ついにわが意を通して、心をひるがえさなかった。法華経の法師品には、「過去の世に十万億の仏を供養した人だけが、今生においてどのような困難にあっても退転せずに仏に成れる」と書かれている。もしそうだとしたらあなたは、過去世に十万億の仏を供養した女性である。
[21]そのうえ、人間というものは自分の眼の前では、いろいろと心をこめた世話をしてくれるものだが、眼の前から遠く離れてしまうと、心の中では忘れていなくとも、つい疎遠になってしまうものである。それなのに去る文永十一年(<暦>一二七四暦>)より今年弘安元年(<暦>一二七八暦>)までの五か年の間に、この身延山へ佐渡の国から三度も夫である阿仏房を旅立たせられたことは、どのような御心ざしによるものであろうか。さながら大地よりも厚く大海よりも深い御心ざしである。
[22]釈迦如来は、その昔薩埵王子としての修行中には、飢えた虎にわが身を与え、尸毗王として生まれた時は鳩のためにわが身を鷹に与えた、その功徳を、我が末法の時代にこのように法華経を信ずる人に譲り与えられると、多宝・十方の諸仏の御前で言明されておられたのであろうか。
六 法華経を頼り霊山浄土へ
[23]そのうえ、お手紙によると「尼の父上の十三回忌が、来たる八月十一日」とのこと、また「その供養に布施として一貫文を送る」とのこと。あまりに御心ざしが尊いことであるので、手元に置いてある法華経十巻本を贈呈することにしよう。日蓮を恋しく思うときは、学乗房にこの経を読ませて御聴聞なさい。この御経を証明書として、後生には霊山浄土へ尋ねて来られるがよい。
[24]さてそれはともかく、去年から今年にかけての疫病流行のありさまで、どのように暮らしておられるかと、心配のあまり法華経に無事であることをねんごろに祈願していたが、いまだに不安な気持でいたところ、七月二十七日の午後四時頃に、阿仏房が到着したのを見て、「尼御前は無事でおられるか」「国府入道殿はお元気か」と真っ先に聞いたところ、「まだ二人とも病気にもかからず元気で、ことに国府入道殿は、一緒に途中まで来たが、早稲の取り入れ時期になってしまったので、代りに農事をしてくれる子がいないから仕方なく引き返して行かれた」と阿仏房が答えた時は、まさに眼の不自由な者が眼が見えるようになったような、また亡くなられた父や母が閻魔の宮から夢の中へ訪れてきて会うことができたような悦びであった。まことにまことに不思議なことであった。身延山でも鎌倉でも、われわれの関係者には疫病で亡くなる人は少ない。例えば同じ船に乗り合わせていた場合、船が沈めば助かる人はなく、皆ともに海へ沈むことになるのだが、船が難破しても助け船に会ったか、または竜神の助けによって、無事に溺れず岸へたどり着いたようなもので、不思議なことである。
[25]佐渡の一の谷入道が亡くなられたことについて、「深く哀悼の意を表している」と、亡くなられた入道の尼御前にお伝え願いたい。ただし、入道の信心については、(念仏を信じていたので、一心になって法華を信仰しなければ仏には成れないと)言いきっておいたので、今はさぞ思い合わせていることであろう。たとえ念仏堂があったとしても、阿弥陀仏は法華経の敵を助けるようなことはしない。かえって阿弥陀仏の敵となってしまうことになる。亡くなられて悪道に落ち、悔やんでおられることと思うが、ただし、入道の堂の廊で命をたびたび助けてもらったことは、どのようなことがあっても忘れられない。
[26]学乗房にいつも入道のお墓へ参って、法華経を読んであげるようにと伝えていただきたい。それでも仏に成るという願いはかなえられるとは思えない。それはそうとして残された尼が、どのように頼りなく嘆いておられるかと、悲しんでいると伝えていただきたい。また次の機会に申し上げることにしよう。
[27]<日>七月二十八日日>
[28]<人>日 蓮 <花押>花押花押>人>
[29]<先>佐渡国府阿仏房尼御前先>