妙法尼御前御返事
書下し
妙法尼御前御返事
[1]御消息に云く、めうほうれんぐゑきやう(妙法蓮華経)をよるひる(夜昼)となへまいらせ、すでにちかくなりて二声かうしやう(高声)にとなへ、乃至いきて候し時よりもなをいろもしろく、かたちもそむせずと云云。
[2]法華経に云く、「如是相乃至本末究竟等」云云。大論に云く、〔「臨終の時色黒きは地獄に堕つ」〕等云云。守護経に云く、「地獄に堕つるに十五の相・餓鬼に八種の相・畜生に五種の相」等云云。天台大師の摩訶止観に云く、〔「身の黒色は地獄の陰に譬う」〕等云云。
[3]夫れおもんみれば日蓮幼少の時より仏法を学び候ひしが、念願すらく、人の寿命は無常なり。出づる気は入る気を待つ事なし。風の前の露、尚譬にあらず。賢きも、はかなきも、老いたるも、若きも定め無き習ひなり。されば先臨終の事を習ふて後に他事を習ふべしと思ひて、一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかんがへあつめ(勘集)て、これを明鏡として、一切の諸人の死する時と、ならびに臨終の後とに引き向へてみ候へば、すこしもくもりなし。
[4]この人は地獄に堕ちぬ、乃至人天とはみへて候を、世間の人々或は師匠父母等の臨終の相をかくして、西方浄土往生とのみ申し候。悲いかな、師匠は悪道に堕ちて多くの苦しのびがたければ、弟子はとゞまりゐて師の臨終をさんだんし、地獄の苦を増長せしむる。譬へばつみ(罪)ふかき者を口をふさいできうもん(糾問)し、はれ物のの口をあけずしてやま(病)するがごとし。
[5]しかるに今の御消息に云く、いきて候し時よりもなをいろしろく、かたちもそむせずと云云。
[6]天台云く、〔「色白きは天に譬う」〕。大論に云く、〔「赤白端正なる者は天上を得る」〕云云。天台大師御臨終の記に云く、〔「色白し」〕。玄奘三蔵臨終を記して云く、〔「色白し」〕。一代聖教の定むる名目に云く、「黒業は六道に止まり、白業は四聖となる」。
[7]これらの文証と現証をもつてかんがへて候に、この人は天に生ぜるか。はた又「法華経の名号を臨終に二反となう」と云云。
[8]法華経の第七の巻に云く、〔「我滅度の後において応に斯の経を受持すべし。この人仏道において決定して疑いあることなけん」〕云云。一代の聖教いづれも〳〵をろかなる事は候はず。皆我等が親父、大聖教主釈尊の金言なり。皆真実なり。皆実語なり。その中に於て又小乗・大乗・顕教・密教・権大乗・実大乗あひわかれて候。仏説と申すは二天・三仙・外道・道士の経々にたいし候へば、これ等は妄語、仏説は実語にて候。この実語の中に妄語あり、実語あり、綺語も悪口もあり。その中に法華経は実語の中の実語なり。真実の中の真実なり。
[9]真言宗と華厳宗と三論と法相と、倶舎・成実と律宗と念仏宗と禅宗等は、実語の中の妄語より立て出だせる宗々なり。法華宗はこれ等の宗々には似るべくもなき実語なり。法華宗の実語なるのみならず、一代妄語の経々すら、法華経の大海に入りぬれば、法華経の御力にせめられて実語となり候。いわうや法華経の題目をや。白粉の力は漆を変じて雪のごとく白くなす。須弥山に近づく衆鳥は皆金色なり。法華経の名号を持つ人は、一生乃至過去遠々劫の黒業の漆変じて白業の大善となる。いわうや無始の善根皆変じて金色と成り候なり。
[10]しかれば故聖霊、最後臨終に南無妙法蓮華経ととなへさせ給ひしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種と成り給ふ。煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門なり。かゝる人の縁の夫妻にならせ給へば、又女人成仏も疑ひなかるべし。
[11]もしこの事虚事ならば、釈迦・多宝・十方分身の諸仏は妄語の人、大妄語の人、悪人なり。一切衆生をたぼらかして地獄におとす人なるべし。提婆達多は寂光浄土の主となり、教主釈尊は阿鼻大城のほのをにむせび給ふべし。日月は地に落ち、大地はくつがへり、河は逆に流れ、須弥山はくだけをつべし。
[12]日蓮が妄語にはあらず、十方三世の諸仏の妄語なり。いかでかその義候べきとこそをぼへ候へ。委くは見参の時申すべく候。
[13]<日>七月十四日日>
[14]<人>日 蓮 <花押>花押花押>人>
[15]妙法尼御前申させ給へ
現代語訳
妙法尼御前御返事
弘安元年(一二七八)七月一四日、五七歳、妙法尼宛、和文、定一五三五—一五三七頁。
一 地獄に落ちる悪相
[1]あなたから来たお手紙に、ご主人が「妙法蓮華経を夜も昼も唱えられ、いよいよ臨終が近くなったら二声高声に唱えられた」という。その功徳でさらに死後も「生きている時よりも顔色が白く、形も安らかで変わったことがない」とあった。
[2]法華経の方便品には「かくの如きの相、乃至本末究竟等」とある。また竜樹菩薩の著した大智度論によると、「臨終の時に身体の色が黒くなる者は地獄に落ちる」とある。守護国界主陀羅尼経には、地獄に落ちる人の悪相について十五種類、餓鬼道に落ちる人の八種類の悪相、畜生道に落ちる人の悪相五種類が説かれている。さらに天台大師の摩訶止観には、「身体が黒色に変わるのは地獄の陰の色である」と記されている。
二 臨終のことを先に習え
[3]考えてみるのに、日蓮は幼少の時から仏法を学習してきたが、よくよく思うのに人の寿命は無常であって、吐く息は、吸いこむ息を待つ間もないくらいであり、風の吹く前の露のようなもので、いつ散ってしまうかわからないものである。賢い人も、そうでない人も、老人も若い人も、すべていつ死を迎えるか定めのないことである。そこでまず臨終のことをよくわきまえて、その後で他の事を考えるべきであると思い、仏一代の聖教を解釈した論師や人師の参考書をだいたい考え集め、これを明鏡として、すべての人々の死ぬ時と、ならびに臨終の後のようすとを照らし合わせて見ると、少しも相違するところがなかった。
[4]この人は地獄に落ち入る人、あるいはこの人は天上界に生まれる人と見分けがついていたのに、世間の人々は師匠や父母などの臨終の姿形をかくして、ただ西方の極楽浄土へ往生したとのみ言いふらしている。まことに悲しいことに、師匠は悪道に落ちて苦しみに耐えられないでいるのに、弟子たちはこの世に残って、師匠の臨終はよかったとほめ、かえって地獄の苦しみを増長させているのである。例えば罪の深い人の口をふさいでおいて、いろいろと尋問したり、また腫れ物の口を切開しないでおいてなおそうとして痛みを増すようなものである。
三 白と黒
[5]このような次第であるのに、今のあなたのお手紙によると、ご主人が「生きている時よりも、なお色も白く、姿形も変わらずに安らかであった」ということである。
[6]天台大師の摩訶止観には、「白い色は天にたとえる」とあり、竜樹菩薩の大智度論には、「赤色や白色で容姿の調っている者は天上界に生まれる」とある。また天台大師の御臨終を記録した天台大師別伝によると、「色が白かった」とある。玄奘三蔵の御臨終を記録した書物の中にも、「色は白かった」とある。仏一代の聖教を定めた書物によると、「黒色の業の者は六道(地獄・餓鬼・畜生などの迷界)にとどまり、白色の業の者は四聖(仏・菩薩・縁覚・声聞の悟界)となる」とある。
[7]これらの経論の文の証拠と、天台大師や玄奘三蔵などの現実の証拠とを照らし合わせて考えてみるのに、この人(亡くなられた妙法尼の夫)は、天上界に生まれたのではなかろうか。そのうえ、また法華経の名号を臨終に際して二返も唱えられたという(この事から考え、天上界に生まれられたことは、もはや間違いのないことである)。
四 法華経は実語の中の実語
[8]法華経の第七巻の神力品には、「仏が滅度したあとの世において、この法華経を受け持つ人は、仏の道に入り成仏することは決定して疑いのないところである」とある。仏一代の聖教はどれもみな大事なもので、おろそかにすることはできない。すべてわれらの父親である大聖教主釈尊の金言である。みな真実であり実語である。そうした中においても、また小乗・大乗・顕教・密教・権大乗・実大乗といったぐあいにいくつにも分かれている。仏説というのは、二天・三仙・外道・道士といった仏教以外の経典と対比してみると、これらは妄語であり、仏説の経典は実語の教えである。しかしこの実語である仏教の中にまた妄語と実語との区別があり、綺語(真実でない飾りたてた言葉)や悪口もある。そうした中でも法華経は、実語の中の実語であり、真実の中の真実の経典である。
[9]真言・華厳・三論・法相・倶舎・成実・律・念仏・禅等の諸宗は、実語の中の妄語からなり立った宗派である。それに対して法華経はこれらの宗派にはくらべものにならないほど優れた実語である。法華経は実語であるというのみではなく、仏一代の妄語方便の経典でさえも、法華経の大海に流れ込んでしまえば、法華経の御力に感化されて実語となるのである。ましてや法華経の題目についてはなおさらのことである。ちょうど白粉の力は漆を変じて雪のように白くしてしまうようなものであり、須弥山に近づくさまざまな鳥は、みんな金色となるようなものである。同じように法華経の名号を持つ人は、一生の間、ないし過去数えきれないほどの昔からの黒い悪業が変じて白い大善となるのである。まして、無限の過去からの善根はみな変化して金色となるのである。
五 女人成仏
[10]このようなことから、あなたの亡くなられたご主人の聖霊は、人生最後の臨終にあたり、南無妙法蓮華経とお唱えになられたということから考えて、一生の間ないし無限の過去からの長きにわたる悪業も、皆変じて仏の種子となる。煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏という法門はこのことである。このような人と夫婦としての縁を結ばれたのであるから、また女人成仏も疑いのないものである。
[11]もしもこのことがうそであるとしたら、釈尊・多宝・十方の世界にいる釈尊の分身の諸仏は、うそつきの人、大うそつきの人となり、悪人であることになる。すべての人をだまして地獄へ落とし入れる人となってしまう。そうなれば逆に提婆達多が寂光浄土の主となり、教主釈尊が阿鼻大地獄の炎で焼かれて苦しむこととなる。太陽や月は地に落ち、大地はひっくりかえり、河はさかさまに流れ、須弥山はくだけ散ってしまうことになる。
[12]もしも、そうだとしたら、日蓮がうそを言ったからではなく、十方三世諸仏がうそをいったことになる。こんなばかげた事は断じてありえないことであるが、詳しいことはまたお目にかかった時に申し上げたいと思う。
[13]<日>七月十四日日>
[14]<人>日 蓮 <花押>花押花押>人>
[15]妙法尼御前にお伝えいただきたい。