日女御前御返事
書下し
日女御前御返事
[1]御布施七貫文送り給ひ畢んぬ。
[2]属累品の御心は、仏虚空に立ち給ひて、四百万億那由佗の世界にむさしの(武蔵野)のすゝきのごとく、富士山の木のごとく、ぞくぞくとひざをつめよせて頭を地につけ、身をまげ掌をあはせ、あせを流し、つゆしげくおはせし上行菩薩等・文殊等・大梵天王・帝釈・日月・四天王・竜王・十羅刹女等に、法華経をゆづらんがために、三度まで頂をなでさせ給ふ。譬へば悲母の一子が頂のかみ(髪)をなづるがごとし。
[3]その時に、上行ないし日月等忝き仰せを蒙りて、法華経を末代に弘通せんとちかひ給ひしなり。
[4]薬王品と申すは、昔、喜見菩薩と申せし菩薩、日月浄明徳仏に法華経を習はせ給ひて、その師の恩と申し、法華経のたうとさと申し、かんにたへかねて万の重宝を尽くさせ給ひしかども、なを心ゆかずして、身に油をぬりて千二百歳の間、当時の油にとうしみ(灯心)を入れてたくがごとく、身をたいて仏を供養し、後に七万二千歳が間ひぢ(臂)をともしびとしてたきつくし、法華経を御供養候き。されば今法華経を後五百歳の女人供養せば、その功徳を一分ものこさずゆづるべし。譬へば長者の一子に一切の財宝をゆづるがごとし。
[5]妙音品と申すは、東方の浄華宿王智仏の国に妙音菩薩と申せし菩薩あり。昔の雲雷音王仏の御代に妙荘厳王の后、浄徳夫人なり。昔法華経を供養して、今妙音菩薩となれり。釈迦如来の娑婆世界にして法華経を説き給ふにまいりて、約束申して、末代の女人の法華経を持ち給ふをまもるべしと云云。
[6]観音品と申すは、また普門品と名づく、始は観世音菩薩を持ち奉る人の功徳を説きて候。これを観音品と名づく。後には、観音の持ち給へる法華経を持つ人の功徳をとけり。これを普門品と名づく。
[7]陀羅尼品と申すは、二聖・二天・十羅刹女の法華経の行者を守護すべき様を説きけり。二聖と申すは薬王と勇施となり。二天と申すは毗沙門と持国天となり。十羅刹女と申すは十人の大鬼神女、四天下の一切の鬼神の母なり。また、十羅刹女の母あり、鬼子母神これなり。
[8]鬼のならひとして人を食す。人に三十六物あり。いわゆる糞と尿と唾と肉と血と皮と骨と五蔵と六腑と髪と毛と気と命等なり。しかるに下品の鬼神は糞等を食し、中品の鬼神は骨等を食す。上品の鬼神は精気を食す。この十羅刹女は上品の鬼神として精気を食す。疫病の大鬼神なり。
[9]鬼神に二あり。一には善鬼、二には悪鬼なり。善鬼は法華経の怨を食す。悪鬼は法華経の行者を食す。今日本国の去年今年の大疫病は何とか心うべき。これを答ふべき様は一には善鬼なり。梵王・帝釈・日月・四天の許されありて、法華経の怨を食す。二には、悪鬼が第六天の魔王のすゝめによりて、法華経を修行する人を食す。善鬼が法華経の怨を食ふことは、官兵の朝敵を罰するがごとし。悪鬼が法華経の行者を食ふは、強盗夜討等が官兵を殺すがごとし。例せば、日本国に仏法の渡りてありし時、仏法の敵たりし物部の大連・守屋等も疫病をやみき。蘇我の宿禰・馬子等もやみき。
[10]欽明・敏達・用明の三代の国王は心には仏法・釈迦如来を信じまいらせ給ひてありしかども、外には国の礼にまかせて天照太神・熊野山等を仰ぎまいらせさせ給ひしかども、仏と法との信はうすく、神の信はあつかりしかば、強きにひかれて三代の国王疫病疱瘡にして崩御ならせ給ひき。これをもて上の二鬼をも、今の代の世間の人人の疫病をも、日蓮が方のやみしぬをも心うべし。
[11]されば、身をすてて信ぜん人々はやまぬへんもあるべし。また、やむともたすかるへんもあるべし。また、大悪鬼に値ひなば命を奪はるる人もあるべし。例せば、畠山重忠は日本第一の大力の大将なりしかども、多勢には終にほろびぬ。
[12]また、日本国の一切の真言師の悪霊となれると、並に禅宗・念仏者等が日蓮をあだまんがために国中に入り乱れたり。また、梵釈・日月・十羅刹の眷属日本国に乱入せり。両方互に責めとらんとはげむなり。しかるに十羅刹女は総じて法華経の行者を守護すべしと誓はせ給ひて候へば、一切の法華経を持つ人々をば守護せさせ給ふらんと思ひ候に、法華経を持つ人々も、あるいは大日経はまされりなど申して、真言師が法華経を読誦し候は、かへりてそしるにて候なり。また余の宗々もこれをもつて押しはかるべし。
[13]また、法華経をば経のごとく持つ人々も、法華経の行者をあるいは貪瞋癡により、あるいは世間の事により、あるいはしなじなのふるまひによて憎む人あり。これは法華経を信ずれども、信ずる功徳なし。かへりて罰をかほるなり。例せば父母なんどには、謀反等より外は、子息等の身としてこれに背けば不孝なり。父が我がいとをしきめ(女)をとり、母が我がいとをしきをとこ(夫)を奪ふとも、子の身として一分も違はば、現世には天に捨てられ、後生には必ず阿鼻地獄に堕つる業なり。何にいはんや、父母にまされる賢王に背かんをや。
[14]何にいはんや、父母・国王に百千万億倍まされる世間の師をや。何にいはんや、出世間の師をや。何にいはんや、法華経の御師をや。
[15]黄河は千年に一度すむといへり。聖人は千年に一度出づるなり。仏は無量劫に一度出世し給ふ。彼には値ふといへども、法華経には値ひがたし。たとひ法華経に値ひ奉るとも、末代の凡夫法華経の行者には値ひがたし。何ぞなれば、末代の法華経の行者は、法華経を説かざる華厳・阿含・方等・般若・大日経等の千二百余尊よりも、末代に法華経を説く行者は勝れて候なるを、妙楽大師釈していはく、〔「供養することある者は、福十号に過ぎ、もし悩乱する者は、頭七分に破れん」〕云云。
[16]今日本国の者、去年今年の疫病と、去ぬる正嘉の疫病とは、人王始まりて九十余代に並びなき疫病なり。聖人の国にあるをあだむゆへと見えたり。師子を吼る犬は腸切れ、日月をのむ修羅は頭の破れ候なるはこれなり。日本国の一切衆生すでに三分二はやみぬ。また半分は死しぬ。今一分は身はやまざれども、心はやみぬ。また、頭も顕にも冥にも破ぬらん。
[17]罰に四あり。総罰・別罰・冥罰・顕罰なり。聖人をあだめば総罰一国にわたる。また四天下、また六欲・四禅にわたる。賢人をあだめば、ただ敵人等なり。今日本国の疫病は総罰なり。定んて聖人の国にあるをあだむか。山は玉をいだけば草木かれず。国に聖人あればその国やぶれず。山の草木のかれぬは、玉のあるゆへとも愚者はしらず。国のやぶるるは、聖人をあだむゆへとも愚人は弁へざるか。
[18]たとひ日月の光ありとも、盲目のために用事なし。たとひ声ありとも、耳しひのためになにの用かあるべき。日本国の一切衆生は盲目と耳しひのごとし。この一切の眼と耳とをくじりて、一切の眼をあけ、一切の耳に物をきかせんは、いか程の功徳かあるべき。誰の人か、この功徳をば計るべき。たとひ父母子をうみて眼・耳ありとも、物を教ふる師なくば、畜生の眼・耳にてこそあらましか。
[19]日本の一切衆生は、十方の中には西方の一方、一切の仏の中には阿弥陀仏、一切の行の中には弥陀の名号、この三を本として余行をば兼たる人もあり、一向なる人もありしに、某去る建長五年より今にいたるまで二十余年の間、遠くは一代聖教の勝劣・先後・浅深を立て、近くは弥陀念仏と法華経の題目との高下を立て申す程に、上一人より下万民にいたるまでこの事を用ひず。あるいは師々に問ひ、あるいは主々に訴へ、あるいは傍輩にかたり、あるいは我身は妻子眷属に申すほどに、国々郡々郷々村々寺々社々え沙汰ある程に、人ごとに日蓮が名を知り、法華経を念仏に対して、念仏のいみじき様、法華経叶ひがたき事、諸人のいみじき様、日蓮わろき様を申す程に、上もあだみ、下も悪む。日本一同に法華経と行者との大怨敵となりぬ。
[20]かう申せば、日本国の人々並に日蓮が方の中にも物におぼえぬ者は、人に信ぜられんとあらぬ事をいふと思へり。これは仏法の道理を信じたる男女に知らせんれう(料)に申す。各々の心にまかせ給ふべし。
[21]妙荘厳王品と申すは、ことに女人の御ために用る事なり。妻が夫をすゝめたる品なり。末代に及びても、女房の男をすゝめんは、名こそかわりたりとも功徳はただ浄徳夫人のごとし。いはうやこれは女房も男も共に御信用あり、鳥の二の羽そなはり、車の二つの輪かかれり。何事か成ぜざるべき。天あり地あり、日あり月あり、日てり雨ふる、功徳の草木花さき菓なるべし。
[22]次に勧発品と申すは、釈迦仏の御弟子の中に僧はあまたありしかども、迦葉・阿難左右におはしき。王の左右の臣のごとし。これは、小乗経の仏なり。また、普賢・文殊と申すは、一切の菩薩多しといへども、教主釈尊の左右の臣なり。しかるに一代超過の法華経八箇年が間、十方の諸仏菩薩等、大地微塵よりも多く集まり候しに、左右の臣たる普賢菩薩のおはせざりしは、不思議なりし事なり。
[23]しかれども、妙荘厳王品をとかれてさておはりぬべかりしに、東方宝威徳浄王仏の国より万億の伎楽を奏し、無数の八部衆を引卒して、おくればせして参らせ給ひしかば、仏の御きそく(気色)やあしからんずらんと思ひしゆえにや、色かへて末代に法華経の行者を守護すべきやうをねんごろに申し上られしかば、仏も法華経を閻浮に流布せんこと、ことにねんごろなるべきと申すにやめでさせ給ひけん。返って上の上位よりも、ことにねんごろに仏ほめさせ給ヘり。
[24]かゝる法華経を末代の女人、二十八品を品品ごとに供養せばやとおぼしめす。ただ事にはあらず。
[25]宝塔品の御時は、多宝如来・釈迦如来・十方の諸仏・一切の菩薩あつまらせ給ひぬ。この宝塔品はいづれのところにかただ今ましますらんとかんがへ候へば、日女御前の御胸の間、八葉の心蓮華の内におはしますと日蓮は見まいらせて候。例せば蓮のみ(実)に蓮華のあるがごとく、后の御腹に太子を懐妊せるがごとし。十善を持てる人、太子と生れんとして后の御腹にましませば、諸天これを守護す。ゆえに、太子をば天子と号す。法華経二十八品の文字、六万九千三百八十四字、一一の文字は字ごとに太子のごとし。字毎に仏の御種子なり。
[26]闇の中に影あり、人これをみず。虚空に鳥の飛跡あり、人これをみず。大海に魚の道あり、人これをみず。月の中に四天下の人物一もかけず、人これをみず。しかりといへども、天眼はこれをみる。日女御前の御身の内心に、宝塔品まします。凡夫は見ずといへども、釈迦・多宝・十方の諸仏は御らんあり。日蓮またこれをすい(推)す。あらたうとし、たうとし。
[27]周の文王は老たる者をやしなひて、いくさに勝ち、その末三十七代八百年の間、すゑずゑには、ひが事ありしかども、根本の功によりてさかへさせ給ふ。
[28]阿闍世王は大悪人たりしかども、父びんばさら王の仏を数年やしなひまいらせしゆへに、九十年の間位を持ち給ひき。当世もまたかくのごとく、法華経の御かたきに成りて候代なれば、須臾も持つべしとはみえねども、故権の大夫殿・武蔵の前司入道殿の御まつりごといみじくて、しばらく安穏なるか。それも始終は法華経の敵と成りなば叶ふまじきにや。この人々の御僻案には、念仏者等は法華経にちいん(知音)なり。日蓮は念仏の敵なり。我等は何れをも信じたりと云云。日蓮つめていはく、代に大禍なくば、古にすぎたる疫病・飢饉・大兵乱はいかに。召も決せずして法華経の行者を二度まで大科に行ひしはいかに。不便不便。
[29]しかるに女人の御身として、法華経の御命をつがせ給ふは、釈迦・多宝・十方の諸仏の御父母の御命をつがせ給ふなり。この功徳をもてる人一閻浮提の内にあるべしや。恐恐謹言。
[30]<日>六月二十五日日>
[31]<人>日 蓮 <花押>花押花押>人>
[32]<先>日女御前先>
現代語訳
日女御前御返事
弘安元年(一二七八)六月二五日、五七歳、日女御前宛、和文、定一五〇八—一五一七頁。
一 属累品の意味
[1]お布施の七貫文をお送りいただき、まさに受領いたした。
[2]法華経の属累品の意味するところは、仏が多宝塔から出られ、虚空の中にお立ちになられて、四百万億那由陀という広大な世界の中で、ちょうど武蔵野の芒や、富士山の木のように、ぞくぞくと数多く膝を詰め寄せ、頭を地につけ、身体を曲げ掌を合わせ、汗を流しながら、皆一心になって付嘱を受けようとしている。すなわち本化といわれる上行等の大菩薩や、文殊等の迹化の菩薩たち、ならびに大梵天王・帝釈・日月・四天王・竜王・十羅刹女らの守護神等に、仏の滅後末の世に法華経を弘めることを任せようとして、三回それらの頭をなでられたのであった。例えば慈悲深い母が、一人子の髪をなでて愛してやるようであった。
[3]その時に、上行菩薩を始めとして日・月等の諸天善神らは、仏の尊く大切な命令を受けて、この法華経を仏の滅後の末の世に弘めることを誓ったのである。
二 薬王品
[4]法華経の薬王品の中には、その昔、一切衆生喜見という名の菩薩がいたが、その菩薩のことが説かれている。それによると、この菩薩は日月浄明徳仏という仏から法華経を教えていただいたのであるが、そのおりの師の恩と、法華経の尊さに深く感銘を覚え、あらゆる宝物をもって供養したが、なおそれでも心に足りないものを感じ、ついにわが身に香油をぬって、千二百年もの間、灯火をつけて身を焼き、さらにそのあと七万二千年もの間、わが臂を灯明として燃やし続け、法華経に御供養したのであった。したがって、現在、法華経を仏の滅後第五の五百歳にあたる末法の女性が供養したとすると、その功徳は少しも残すことなく譲り与えられることになるのである。例えば長者がその一人の子に、自分の全財産を譲り与えるのと同様である。
三 妙音品・観音品・陀羅尼品
[5]次に法華経の妙音品というお経には、この娑婆世界から東の方向にあたる浄華宿王智仏の国にいた妙音という名の菩薩のことが説かれている。それによると、この菩薩は昔、雲雷音王仏の御代に妙荘厳王の后であった浄徳夫人の後身であった。昔法華経を供養した功徳により、今は妙音菩薩となったのである。釈迦如来が娑婆世界で法華経をお説きになられた際、その場に来て末代の女性が法華経を受持した場合は、必ず守護すると約束したのであった。
[6]次に観音品というお経があるが、これはまた普門品ともいう。始めから前半は観世音菩薩を信仰した人たちの功徳が説かれている。したがってこの品を観音品と名付けられている。後半にはその観音菩薩の受持した法華経を受持する人の功徳が説かれている。だからこの品をまた普門品ともいうのである。
[7]その次に陀羅尼品というのは、二人の聖人と二人の天人、ならびに十人の羅刹女が法華経の行者を守護することを明確にしたお経である。二聖とは薬王と勇施に二人の菩薩のことであり、二天とは毘沙門と持国の二天のことである。十羅刹女と云うのは、十人の大鬼神女のことで、四天下のすべての鬼神の母にあたる。また十羅刹女には鬼子母神という母があった。
[8]鬼なので人を食べることが日常の生活であった。人間には三十六の物質が備わっているが、それはすなわち糞と尿と唾と肉と血と皮と骨、それに五臓と六腑と髪と毛と気と命等がそれである。これらのうち下級の鬼神は糞等の不浄なものを食べ、中級の鬼神は骨等を食べ、上級の鬼神は精気を食べるのである。この十羅刹女は上級の鬼神なので精気を食べるのであり、疫病の大鬼神である。
四 善鬼と悪鬼
[9]さて、鬼神には二種類がある。その一つは善鬼で、もう一つは悪鬼である。善鬼は法華経の怨敵を食べ、悪鬼は法華経の行者を食べる。今、日本の国内で去年から今年にかけて、大疫病が流行し法華経の怨敵も信者もともに倒れたのはどうしてなのか、という質問にこれから答えよう。まず第一は善鬼が梵王・帝釈・日月・四天等の守護神の許可をえて、法華経の怨敵を食べているからである。第二は逆に悪鬼が第六天の魔王の命令を受けて、法華経を修行する人々を食べているのである。例えてみると、善鬼が法華経の怨敵を食べるのは、官兵が朝敵を罰して倒すようなものであり、悪鬼が法華経の行者を食うのは、強盗や夜討が官兵を殺すようなものである。ちょうど日本の国に仏教が渡来してきたとき、仏法の敵となった物部の大連・守屋らも疫病にとりつかれ、仏法の味方となった蘇我の宿禰・馬子らもともに病気になったようなものである。
[10]また、欽明・敏達・用明の三代の国王は、心の中では仏法・釈迦如来を信仰していたが、対外的には国の例にならって天照太神や熊野山等の神々を信仰していた。しかも仏と法の信仰は薄く、神社の信仰が厚いものであったので、強いほうに引かれてしまい三代の国王は、疫病の疱瘡にかかって亡くなられてしまったのである。この史実にもとづいて善悪の二鬼のことも、現代の世間の人々が疫病にかかることも、また日蓮の味方の中にも病気になったり死ぬ者も出ていることも理解すべきである。
[11]したがって、身命を惜しまず一心に信仰する人々は病気にとりつかれなくてすむであろう。また病気に万一とりつかれても、助かることができるであろう。しかし大悪鬼にあえば命を奪われることもあるであろう。例えば畠山重忠は、日本第一の大力の大将であったが、多数の敵にあってついに滅んでしまった。
[12]また日本国のすべての真言宗の人師らが悪霊となり、さらに禅宗と念仏宗の人々が、日蓮を敵として攻めるために国中に入り乱れている。また梵天・帝釈・日月・十羅刹の眷属がこれに対抗して、国中に乱れ入ってきている。この双方が互いに攻め合っているのである。しかるに十羅刹女は全員で法華経の行者を守護することを誓願しているので、すべての法華経をたもつ人々を守護するものと思っているかもしれないが、法華経をたもつ人々の中にも、「法華経より大日経のほうが優れている」などと言いながら、真言宗の人師らが法華経を読んでみても、これはかえって法華経を謗っていることになるのである。またその他の宗派についてもこれと同様で、法華経をいくら読んでみても、他のお経のほうが優れていると思いつつ読んでいたのでは、かえって謗法となるのである。
五 法華経行者にあうことは稀なり
[13]また法華経を経文に説かれている通りに持つ人々がいても、この人らが他の法華経の行者を欲のため、むさぼりのため、あるいは無知のために、あるいは世間の都合によって、あるいはいろいろな状態から憎む人がいる。これではたとえ法華経を信じていたとしても、信じた功徳は現われてこない。むしろ罰を受けることになるのである。例えば父母が国主にたいして謀反を起こした場合は別として、その他の場合では子息たちが父母にそむけば不孝の者となる。たとえ父が子の愛している娘を取り、母が子のいとしいと思う男を奪ったとしても、子の立場をほんの少しでも違えてしまったら、現実には諸天善神から見捨てられ、次の世では必ず最も恐ろしい地獄へ落ちる結果となる。ましてや父母よりもまさる賢王にそむくことは間違いなく地獄へ落ちることになる。
[14]さらに、父母・国王よりも百千万億倍もまさる世間の恩師にそむいた場合、さらに出世間の導きの師、特に法華経を教え導いて下さった恩師にそむくことは、間違いなく地獄に落ちることになるのである。
[15]中国の大河として有名な黄河はいつも濁っているが、千年に一度澄むということである。同様に聖人は千年に一度世に出るという。ところが仏は数えきれないほどの長い年月を経て、ようやく一度世にお出ましになられるのである。その仏にあうことができたとしても、法華経にあうことはむずかしい。たとえ法華経にあうことができたとしても、末代の世に生まれた凡夫が、法華経の行者にあうことはむずかしい。なぜかといえば、末代の法華経の行者は、法華経を説かない華厳・阿含・方等・般若・大日経などの千二百余尊よりも、末代に法華経を説く行者のほうが優れているからである。このことを妙楽大師は、法華文句の記の中で、「法華経の行者を供養する者は、その福徳が仏・世尊よりも過ぎたものとなり、逆に悩ましたり迫害を加えるようなことがあれば、頭が七つに割れてしまうであろう」と解釈している。
六 四種の罰
[16]今現在、日本中の人々が昨年(建治三年<暦>一二七七暦>)から今年(弘安元年<暦>一二七八暦>)へかけての疫病と、去る正嘉の年中における疫病にとりつかれているのは、神武天皇いらい九十余代の現在の天皇に至るまでに、いまだかつて例のない疫病の流行である。これは聖人が国にいるのにその聖人を迫害しているからであるとみえる。獅子を吼える犬は腸が切れ、日月を呑もうとする修羅は、頭が割れ裂けるというのはこのことである。日本国のすべての衆生は、すでに三分の二が病気にかかり、またその半分はすでに死亡してしまった。今残っている一分は身は病気にかかっていないが、心は病魔に犯されている。また頭も経文にある通り、すでに割れてしまっている人、あるいはこれから割れる人も出るであろう。
[17]罰には四種類がある。すなわち総罰・別罰・冥罰・顕罰とであり、聖人を迫害すると総罰が一国の全体に及ぶことになる。さらに四天下から六欲天や四禅天にもあたる。これにたいして賢人に迫害を加えればただ加えた敵人のみが罰を受けることになる。いま日本国中に流行している疫病は総罰である。きっと聖人が国に出現しているのを迫害しているためであろう。例えば山が地中に玉を抱いていれば草木は枯れないように、国の中に聖人が住んでいれば、その国は滅亡することはない。山の草木が枯れないのは、玉が地中にあるからであるということも愚かな者は知らずにいるのである。同様に国が破れるのは聖人に迫害を加えるためであるとも愚かな者はわきまえていないためであろうか。
七 日蓮を悪宣伝した諸人
[18]たとえ日月の光明があっても、目の不自由な人には光も届かない。また声を出してみても、耳の不自由な人にとっては何の用にもたたない。それと同様に日本中のすべての衆生は目と耳の不自由な人のようなものである。このすべての眼と耳とを開いて、すべてのものが見えたり聞こえたりするようにしたとしたら、その功徳はどれほど大きいものか、だれもこの功徳を計算することは困難であろう。たとえ父母から産んでもらって眼や耳が備わっていたとしても、いろいろなことを教えてくださる先生がいなかったら、畜生の眼や耳と同じではないか。
[19]日本のすべての衆生は、十方の中の西方の一方のみをたより、すべての仏の中ではただ阿弥陀仏のみを信じ、あらゆる修行の中から弥陀の名号を唱えることだけを実行している。この三つを基本として、他の修行を兼ねている人もあり、一向にこの三つだけを実行している人もいたが、日蓮は建長五年(<暦>一二五三暦>)より今日に至るまで二十余年間、遠くは仏一代の聖教について、勝劣・先後・浅深の区別をはっきりさせ、近くは弥陀念仏と法華経の題目との違いを確立してきたが、上は天皇より下は万民に至るまで、この相違のあることに従わず、ある者は他の人師について問いただし、またある者は自分の主人に訴えて、またある者は友達と相談し、ある者は妻子や関係者らに語り聞かせたので、国中の郡や郷や村に伝わり、寺院も神社もことごとく聞き知って、人ごとに日蓮の名を知り、法華経と念仏とを対比して逆に念仏のほうが尊く優れており、法華経では願い事がかなわないことを伝え、日蓮は悪い僧であって、その他の諸僧は尊く良い人であると宣伝したのである。このため上に立つ人は日蓮を敵とみなし、一般の人々は憎む結果となった。そのため日本国中の一同が法華経とその行者との大怨敵となってしまった。
[20]このように言うと日本国の人々、ならびに日蓮の一門の中にも、もののわからぬ者たちは、人に信じてもらいたいためにありえないことを言っていると思う者もいる。しかしここで述べていることは、仏法の道理を信じている男女に、本当のことを知らせようと考えて真実を言っているのである。各人の心にまかせるしかないことである。
八 妙荘厳王品と勧発品
[21]妙荘厳王品というお経は、ことに女性のために用いるもので、妻が夫を勧めて仏の道に引き入れた品である。末代の世に至っても、女房が夫を勧めて仏の道に入れることは、名こそ変わってもその功徳はもっぱら浄徳夫人と同様である。ましてやあなたがたは女房も夫もともに法華経を信仰されているので、ちょうど鳥の両翼が備わり、車の両輪が備わっているようなもので、どんな事でも成就しないことはない。天と地が備わって日と月が欠けずにあり、日光と雨とに恵まれれば、功徳の草も木もみな花を咲かせて果実を実らせることができるのである。
[22]次に勧発品というお経は、釈迦仏のお弟子には数多くの僧がいたのだが、その中でも迦葉と阿難は仏の左右に従っていた。ちょうど王様の左右の大臣のようなものであった。だがこれは小乗経の時の仏である。また普賢と文殊という菩薩は、すべての数多い菩薩の中でも、教主釈尊の左右の大臣のような存在である。しかるに仏一代の教法の中で特に越え優れた法華経八年間の説法の座に、十方の諸仏菩薩らが大地の微塵の数よりも多く集まってきていたのに、左右の大臣に相当する普賢菩薩がその場にいなかったのは不思議なことである。
[23]だが妙荘厳王品をお説きになられ、さてこれで終わりにしようとしたところへ、東方の宝威徳浄王仏の国から、万億もの音楽を奏で、数えきれないほどの天人や竜王や音楽の神などを引率して、遅ればせながらようやく到着した。大事な説法の場に遅刻したので、仏のご気嫌がわるくなっていることだと思ったのであろう、顔色をかえて「末代に法華経の行者を守護いたします」とねんごろに申し上げたので、仏も法華経を全世界に広めることについて、ことに気を遣って大切に行なうべきことを聞き知り、大変にほめられたのであった。かえって位の上の者よりもていねいに仏はおほめになられた。
九 宝塔品の容相は胸中に
[24]このような深い意義のある法華経を、末代の女人が二十八品を各品ごとにご供養しようとお考えになられたのはただ事ではない。尊いことである。
[25]宝塔品では多宝如来や釈迦如来や十方の諸仏を始め、すべての菩薩が集まってこられた。この宝塔品の容相はいまどこにあるかと考えてみると、日女御前の胸の中にある八葉の心蓮華の内にあると日蓮は見ている。例えば蓮の実の中にこれから咲く蓮華の花があるようなものであり、后の胎内に太子が懐妊しているのと同様である。前世に十善戒をたもった人が、今世に太子となって生まれようとし、后の胎内に宿れば諸天善神はこれを守護する。だから太子のことを天子ともいうのである。法華経の二十八品の文字は、六万九千三百八十四文字ある。一字一字の文字はみな太子のごとくであり、一字ごとに仏の種子である。
[26]闇の中に人影があっても人には見えない。大空に鳥の飛ぶ跡があるがこれも人には見えない。また大海の中に魚の通る道があるが、これも人には見えない。さらに月には四天下の人や物が一つも欠けずに映っているが、人には見ることができないのである。しかし天眼を備えた人にはこれらが見える。日女御前の御身の内心はこれと同じように宝塔品で説かれている尊い容相があるのである。凡夫の眼では見ることはできないけれども、釈迦・多宝・十方の諸仏はご覧になっておられる。日蓮もまたこれを推しはかって見ることができる。実に尊いことである。
十 釈迦仏・法華経の御命を継ぐ者
[27]中国における周の代の文王という人は、孝の道を尊び老人を大切にしたので、その徳により戦に勝利を得て、その子孫三十七代八百年もの間、末裔には悪いこともあったが、先祖である一番根本の文王の功績によって、隆昌したのであった。
[28]インドの阿闍世王は、大悪人であったが、父の頻娑婆羅王が仏を数年間にわたって供養したので、九十年もの間、王位をたもつことができたのである。現代もまたこれと同様で、法華経の敵となってしまった幕府の時代なので、少しの間も法華経をたもつことはないと思うが、故権の大夫殿(北条義時)や武蔵の前司人道殿(北条泰時)の政治が良かったので、この功によりしばらくの間は安穏であろう。それもついには法華経の敵となってしまったので、かなえられないでほろぶであろう。この幕府の人々のまちがった考えによると、「念仏者等は法華経に親しみをもっている。それなのに日蓮は念仏の敵となっている。われらは念仏も法華経も双方を信じている」と。日蓮はこれにたいしいて、「当代の幕府に大きなあやまちがなかったならば、古今を通じていまだかつてない疫病や飢饉や大兵乱はどうして起きたのか。召し出して善悪の決着もつけずに法華経の行者を二度も大罪に処したのはなぜか」(これでも法華経を信じ親しみを持っているのといえるのか)。まことに不都合なことである。
[29]このような世の中にありながら、しかも女性の御身で法華経の御命を続けさせようとご供養されることは、釈迦仏・多宝如来さらに十方の諸仏の御父母の御命を継ぐことになるのであって尊いことである。このような功徳を持っている人は、あなた以外にこの世界の中にいるであろうか(いやいや決していないであろう)。恐れながら謹んで申し上げる。
[30]<日>六月二十五日日>
[31]<人>日 蓮 <花押>花押花押>人>
[32]<先>日女御前先>