日女御前御返事(品々供養事)
293 日女御前御返事
御布施七貫文送給畢。属累品の御心は、仏虚空に立給て、四百万億那由佗の世界にむさしの(武蔵野)のすゝきのごとく、富士山の木のごとく、ぞくぞくとひざをつめよせて頭を地につけ、身をまげ掌をあはせ、あせを流し、つゆしげくおはせし上行菩薩等・文殊等・大梵天王・帝釈・日月・四天王・龍王・十羅刹女等に、法華経をゆづらんがために、三度まで頂をなでさせ給ふ。譬ば悲母の一子が頂のかみ(髪)をなづるがごとし。
爾時に上行乃至日月等忝き仰を蒙て、法華経を末代に弘通せんとちかひ給しなり。
薬王品と申は、昔、喜見菩薩と申せし菩薩、日月浄明徳仏に法華経を習せ給て、其師の恩と申、法華経のたうとさと申、かんにたへかねて万の重宝を尽させ給しかども、なを心ゆかずして、身に油をぬりて千二百歳の間、当時の油にとうしみ(燈心)を入てたくがごとく、身をたいて仏を供養し、後に七万二千歳が間ひぢ(臂)をともしびとしてたきつくし、法華経を御供養候き。
されば今法華経を後五百歳の女人供養せば、其功徳を一分ものこさずゆづるべし。譬ば長者の 一子に 一切の財宝をゆづるがごとし。
妙音品と申は、東方の浄華宿王智仏の国に妙音菩薩と申せし菩薩あり。昔の雲雷音王仏の御代に妙荘厳王の后、浄徳夫人なり。昔法華経を供養して今妙音菩薩となれり。釈迦如来の娑婆世界にして法華経を説給ふにまいりて約束申て、末代の女人の法華経を持給をまもるべしと[云云]。
観音品と申は、又普門品と名く、始は観世音菩薩を持奉る人の功徳を説て候。此を観音品と名く。後には観音の持給へる法華経を持つ人の功徳をとけり。此を普門品と名く。
陀羅尼品と申は、二聖・二天・十羅刹女の法華経の行者を守護すべき様を説けり。二聖と申は薬王と勇施となり。二天と申は毘沙門と持国天となり。十羅刹女と申は十人の大鬼神女、四天下の一切の鬼神の母なり。又十羅刹女の母あり、鬼子母神是也。鬼のならひとして人を食す。人に三十六物あり。所謂糞と尿と唾と肉と血と皮と骨と五蔵と六腑と髪と毛と気と命等なり。而に下品の鬼神は糞等を食し、中品の鬼神は骨等を食す。上品の鬼神は精気を食す。此十羅刹女は上品の鬼神として精気を食す。疫病の大鬼神なり。鬼神に二あり。一には善鬼、二には悪鬼なり。善鬼は法華経の怨を食す。悪鬼は法華経の行者を食す。今日本国の去年今年の大疫病は何とか心うべき。此を答ふべき様は一には善鬼也。梵王・帝釈・日月・四天の許されありて法華経の怨を食す。二には悪鬼が第六天の魔王のすゝめによりて法華経を修行する人を食す。善鬼が法華経の怨を食ふことは、官兵の朝敵を罰するがごとし。悪鬼が法華経の行者を食ふは、強盗夜討等が官兵を殺すがごとし。
例せば日本国に仏法の渡てありし時、仏法の敵たりし物部大連・守屋等も疫病をやみき。蘇我宿祢・馬子等もやみき。欽明・敏達・用明の三代の国王は心には仏法・釈迦如来を信じまいらせ給てありしかども、外には国の礼にまかせて天照太神・熊野山等を仰ぎまいらせさせ給ひしかども、仏と法との信はうすく、神の信はあつかりしかば、強きにひかれて三代の国王疫病疱瘡にして崩御ならせ給き。此をもて上の二鬼をも、今の代の世間の人人の疫病をも、日蓮が方のやみしぬをも心うべし。されば身をすてて信ぜん人々はやまぬへんもあるべし。又やむともたすかるへんもあるべし。又大悪鬼に値なば命を奪はるる人もあるべし。例せば畠山重忠は日本第一の大力の大将なりしかども、多勢には終にほろびぬ。
又日本国の一切の真言師の悪霊となれると、並に禅宗・念仏者等が日蓮をあだまんがために国中に入乱れたり。又梵釈・日月・十羅刹の眷属日本国に乱入せり。両方互に責とらんとはげむなり。而に十羅刹女は総じて法華経の行者を守護すべしと誓はせ給て候へば、一切法華経を持人々をば守護せさせ給らんと思候に、法華経を持人々も或は大日経はまされりなど申して、真言師が法華経を読誦し候はかへりてそしるにて候也。又余の宗々も此を以て押計るべし。又法華経をば経のごとく持人々も、法華経の行者を或は貪瞋癡により、或は世間の事により、或はしなじなのふるまひによて憎む人あり。此は法華経を信ずれども信ずる功徳なし。かへりて罰をかほるなり。例せば父母なんどには謀反等より外は、子息等の身として此に背けば不孝也。父が我がいとをしきめ(女)をとり、母が我がいとをしきをとこ(夫)を奪ふとも、子の身として一分も違はば、現世には天に捨られ、後生には必ず阿鼻地獄に堕る業也。何に況や、父母にまされる賢王に背かんをや。何に況や、父母・国王に百千万億倍まされる世間の師をや。何に況や、出世間の師をや。何に況や、法華経の御師をや。
黄河は千年に一度すむといへり。聖人は千年に一度出る也。仏は無量劫に一度出世し給ふ。彼には値といへども法華経には値がたし。設ひ法華経に値奉るとも、末代の凡夫法華経の行者には値がたし。何ぞなれば末代の法華経の行者は、法華経を説ざる華厳・阿含・方等・般若・大日経等の千二百余尊よりも、末代に法華経を説く行者は勝て候なるを、妙楽大師釈云 有供養者福過十号若悩乱者頭破七分[云云]。今日本国の者去年今年の疫病と、去正嘉の疫病とは人王始て九十余代に並なき疫病也。聖人の国にあるをあだむゆへと見えたり。師子を吼る犬は腸切れ、日月をのむ修羅は頭の破れ候なるはこれなり。日本国の一切衆生すでに三分二はやみぬ。又半分は死ぬ。今一分は身はやまざれども心はやみぬ。又頭も顕にも冥にも破ぬらん。罰に四あり。総罰・別罰・冥罰・顕罰也。聖人をあだめは総罰一国にわたる。又四天下、又六欲・四禅にわたる。賢人をあだめば但敵人等也。今日本国の疫病は総罰也。定て聖人の国にあるをあだむ歟。山は玉をいだけば草木かれず。国に聖人あれば其国やぶれず。山の草木のかれぬは玉のある故とも愚者はしらず。国のやぶるるは聖人をあだむ故とも愚人は弁へざる歟。
設ひ日月の光ありとも、盲目のために用事なし。設ひ声ありとも、耳しひのためになにの用かあるべき。日本国の一切衆生は盲目と耳しひのごとし。此一切の眼と耳とをくじりて、一切の眼をあけ、一切の耳に物をきかせんは、いか程の功徳かあるべき。誰の人か此功徳をば計るべき。設ひ父母子をうみて眼・耳有とも、物を教る師なくば畜生の眼・耳にてこそあらましか。日本の一切衆生は十方の中には西方の一方、一切の仏の中には阿弥陀仏、一切の行の中には弥陀の名号、此三を本として余行をば兼たる人もあり、一向なる人もありしに、某去建長五年より今に至まで二十余年の間、遠は一代聖教の勝劣先後浅深を立、近は弥陀念仏と法華経の題目との高下を立申程に、上一人より下万民に至まで此事を用ひず。或は師々に問、或は主々に訴へ、或は傍輩にかたり、或は我身は妻子眷属に申ほどに、国々郡々郷々村々寺々社々え沙汰ある程に、人ごとに日蓮が名を知り、法華経を念仏に対して念仏のいみじき様、法華経叶ひがたき事、諸人のいみじき様、日蓮わろき様を申す程に、上もあだみ、下も悪む。日本一同に法華経と行者との大怨敵となりぬ。かう申せば日本国の人々並に日蓮が方の中にも物におぼえぬ者は、人に信ぜられんとあらぬ事を云と思へり。此は仏法の道理を信じたる男女に知せんれう(料)に申。各々の心にまかせ給べし。
妙荘厳王品と申は、殊に女人御ために用事也。妻が夫をすゝめたる品也。末代に及ても、女房の男をすゝめんは、名こそかわりたりとも功徳は但浄徳夫人のごとし。いはうや此は女房も男も共に御信用あり、鳥の二の羽そなはり、車の二の輪かかれり。何事か成ぜざるべき。天あり地あり、日あり月あり、日てり雨ふる、功徳の草木花さき菓なるべし。
次に勧発品と申は、釈迦仏の御弟子の中に僧はあまたありしかども、迦葉・阿難左右におはしき。王の左右の臣の如し。此は小乗経の仏也。又普賢・文殊と申は一切の菩薩多しといへども、教主釈尊の左右の臣也。而に一代超過の法華経八箇年が間、十方の諸仏菩薩等、大地微塵よりも多く集り候しに、左右の臣たる普賢菩薩のおはせざりしは不思議なりし事也。而れども妙荘厳王品をとかれてさておはりぬべかりしに、東方宝威徳浄王仏の国より万億の伎楽を奏し、無数の八部衆を引卒して、おくればせして参せ給しかば、仏の御きそく(気色)やあしからんずらんと思ひし故にや、色かへて末代に法華経の行者を守護すべきやうをねんごろに申上られしかば、仏も法華経を閻浮に流布せんこと、ことにねんごろなるべきと申にやめでさせ給けん。返て上の上位よりも、ことにねんごろに仏ほめさせ給へり。
かゝる法華経を末代の女人、二十八品を品品ごとに供養せばやとおぼしめす、但事にはあらず。宝塔品の御時は多宝如来・釈迦如来・十方の諸仏・一切の菩薩あつまらせ給ぬ。此宝塔品はいづれのところにか只今ましますらんとかんがへ候へば、日女御前の御胸の間、八葉の心蓮華の内におはしますと日蓮は見まいらせて候。例せば蓮のみ(実)に蓮華の有がごとく、后の御腹に太子を懐妊せるがごとし。十善を持る人、太子と生んとして后の御腹にましませば諸天此を守護す。故に太子をば天子と号す。法華経二十八品の文字、六万九千三百八十四字、一一の文字は字ごとに太子のごとし。字毎に仏の御種子也。闇の中に影あり、人此をみず。虚空に鳥の飛跡あり、人此をみず。大海に魚の道あり、人これをみず。月の中に四天下の人物一もかけず、人此をみず。而といへども天眼は此をみる。日女御前の御身の内心に宝塔品まします。凡夫は見ずといへども、釈迦・多宝・十方の諸仏は御らんあり。日蓮又此をすい(推)す。あらたうとしたうとし。
周の文王は老たる者をやしなひていくさに勝、其末三十七代八百年の間、すゑずゑには、ひが事ありしかども、根本の功によりてさかへさせ給ふ。阿闍世王は大悪人たりしかども、父びんばさら王の仏を数年やしなひまいらせし故に、九十年の間位を持給き。当世も又かくの如く、法華経の御かたきに成りて候代なれば、須臾も持つべしとはみえねども、故権大夫殿・武蔵前司入道殿の御まつりごといみじくて暫く安穏なるか。其も始終は法華経の敵と成りなば叶まじきにや。此人々の御僻案には念仏者等は法華経にちいん(知音)也。日蓮は念仏の敵也。我等は何をも信じたりと[云云]。日蓮つめて云、代に大禍なくば古にすぎたる疫病・飢饉・大兵乱はいかに。召も決せずして法華経の行者を二度まで大科に行ひしはいかに。不便不便。而に女人の御身として法華経の御命をつがせ給釈迦・多宝・十方の諸仏の御父母の御命をつがせ給なり。此功徳をもてる人一閻浮提の内に有べしや。恐恐謹言。 六月二十五日 日蓮 [花押] 日女御前