木絵二像開眼之事
書下し
木絵二像開眼之事
[1]仏に〔三十二相有り〕、皆色法なり。最下の千輻輪より終り無見頂相に至るまでの三十一相は可見有対色なれば、書きつべし、作りつべし。梵音声の一相は不可見無対色なれば、〔書くべからず、作るべからず〕。
[2]仏滅後は木画の二像あり。これ三十一相にして梵音声かけたり。〔ゆえに仏にあらず〕。また、心法かけたり。生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり。何ぞ涅槃の後分には生身の仏と滅後の木画の二像と、功徳斉等なりといふや。また、大瓔珞経には木画の二像は生身の仏にはをとれりととけり。木画の二像の仏の前に経を置けば、三十二相具足するなり。ただ心なければ三十二相を具すれども必仏にあらず。人天も三十二相あるがゆへに。
[3]木絵の三十一相の前に五戒経を置けば、この仏は輪王とひとし。十善論といふを置けば、帝釈とひとし。出欲論といふを置けば梵王とひとし。全く仏にあらず。また木絵二像の前に阿含経を置けば、声聞とひとし。方等般若の一時一会の共般若を置けば、縁覚とひとし。華厳方等般若の別円を置けば、菩薩とひとし。〔全く仏にあらず〕。
[4]大日経・金剛頂経・蘇悉地経等の仏眼、大日の印真言は、名は仏眼大日といへども、その義は〔仏眼大日にあらず〕。例せば、〔仏も華厳経は円仏にあらず〕。名にはよらず。
[5]三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり云云。ゆへに普賢経に法華経の仏を説ていはく、〔「仏の三種の身は方等より生ず」文。この方等は方等部の方等にあらず〕、法華を方等といふなり。またいはく、〔「この大乗経は、これ諸仏の眼なり。諸仏これに因て五眼を具することを得る」〕等云云。
[6]法華経の文字は仏の梵音声の不可見無対色を、可見有対色のかたちとあらはしぬれば、顕形の二色となれるなり。滅せる梵音声かへて形をあらはして、文字と成て衆生を利益するなり。人の声を出すに二つあり。一とは自身は存ぜざれども、人をたぶらかさむがために声をいだす。これは随他意の声。自身の思を声にあらはす事あり。されば、意が声とあらはる。意は心法、声は色法。心より色をあらはす。また、声を聞て心を知る。色法が心法を顕すなり。色心不二なるがゆへに而二とあらはれて、仏の御意あらはれて法華の文字となれり。文字変じて、また仏の御意となる。
[7]されば法華経をよませ給はむ人は、文字と思食す事なかれ。すなはち仏の御意なり。ゆへに天台の釈にいはく、〔「請を受けて説く時は、ただこれ教の意を説く。教の意はこれ仏意、仏意すなわちこれ仏智なり。仏智至て深し。このゆえに三止四請す。かくのごとき艱難あり。余経に比するに、余経はすなわち易し」〕文。この釈の中に仏意と申すは色法ををさへて心法といふ釈なり。法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるはこれなり。
[8]ゆへに、天台は「一色一香無非中道」と云云。妙楽これをうけて釈するに、〔「しかるに、またともに色香中道を許せども、無情仏性は耳を惑はし心を驚かす」〕云云。華厳の澄観が天台の一念三千をぬす(盗ん)で華厳にさしいれ、法華・華厳ともに一念三千なり。ただ華厳は頓頓さきなれば、法華は漸頓のちなれば、華厳は根本さき(魁)をしぬれば、法華は枝葉等といふて、我れ理をえたりとおもへる意〔山のごとし。しかりといえども〕、一念三千の肝心、草木成仏を〔知らざる事を〕妙楽のわらひ給へる事なり。
[9]今の天台の学者等、我れ一念三千を得たりと思ふ。〔しかりといえども〕法華をもて、あるいは華厳に同じ、あるいは大日経に同ず。その義を論ずるに、〔澄観の見を出ず。善無畏・不空に同す。詮をもってこれをいわば〕、今の〔木絵二像を真言師をもってこれを供養すれば、実仏に非ずして権仏なり。権仏にも非ず〕。形は〔仏に似れども〕意は本の非情の草木なり。〔また、本の非情の草木にも非ず〕。魔なり。鬼なり。真言師が邪義、印真言と成て木絵二像の意と成れるゆへに。例せば人の思ひ変じて石と成る。倶留と黄夫石がごとし。
[10]法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するにその身に鬼神入るがごとし。〔今真言をもって〕日本の仏を供養すれば、鬼入て人の命ちをうばふ。鬼をば奪命者といふ。魔入て功徳をうばふ。魔をば奪功徳者といふ。鬼をあがむるゆへに、今生には国をほろぼす。魔をたとむゆへに、後生には〔無間獄に堕す〕。
[11]人死すれば魂去り、その身に鬼神入替て〔子孫を亡す〕。餓鬼といふは我をくらふといふこれなり。智者あつて法華経を讃歎して骨の魂となせば、死人の身は人身、心は法身。生身得忍といへる法門これなり。
[12]華厳・方等・般若の円をさとれる智者は死人の骨を生身得忍と成す。涅槃経に〔身は人身なりといえども、心は仏心に同すと〕いへるこれなり。生身得忍の現証は純陀なり。法華を悟れる智者、死骨を供養せば生身すなわち法身。これを即身といふ。さりぬる魂を取り返して死骨に入れて、かの魂を変て仏意と成す。成仏これなり。
[13]即身の二字は色法、成仏の二字は心法。死人の色心を変じて無始の妙境妙智と成す。これすなわち即身成仏なり。ゆへに法華経にいはく、「所謂諸法如是相〈死人ノ身〉如是性〈同ク心〉如是体〈同ク色心等〉」云云。またいはく、〔「深く罪福の相を達して徧く十方を照したまふ、微妙の浄き法身相を具せること三十二」〕等云云。上の二句は生身得忍。下の二句は即身成仏。即身成仏の手本は竜女これなり。生身得忍の手本は純陀これなり。
現代語訳
木絵二像開眼之事
文永一一年(一二七四)一説には文永元年(一二六四)、五二歳、於佐渡一谷、和文、定七九一—七九四頁。
一 仏の三十二相について
[1]仏には三十二相という特別の形相があり、みな形態をもったものである。一番下の千輻輪(仏の足裏にある網形の紋)から始まって、無見頂相(八十種好の一つで、仏の頂上に肉塊があり髪の形をしているが、その中に一般の人は見ることのできない頂点がある)に至るまでの三十一相は、眼で見ることができ、色も見分けられるので絵に書いたり木像に彫って表わすことができる。しかし、梵音声(仏の清らかでうるおいのあるお声)だけは、耳で聞くことはできても、見ることのできないものであり、色や形がないので、絵にも木像にも表わすことはできないものである。
[2]仏が入滅された後には、木像と絵像の二種類があって、仏のお姿を表わしているのだが、これらはみな三十二相の中の三十一相を表わし、梵音声の一相だけは欠けてしまっている。したがって三十二相のすべてが揃っていないので仏ではない。そのうえに心法が欠けているので、生身の仏と木像や絵像の仏とを比較すると、天と地・雲や泥ほどの大差がある。だからどうして涅槃された後の世においては、生身の仏と滅後に木像や絵像で表わした仏とが、功徳は全くひとしいものだなどといえるのだろうか。また大瓔珞経には木像や画像で表わした二種の仏は、生身の仏よりも劣っていると説かれている。そこで木像や画像の二像の仏の前に、経典を安置すれば三十二相が備わったことになるのである。ただし、心がなかったならば、たとえ三十二相を備えたとしても、必ずしも仏とはいえない。人界や天上界でも三十二相を持っているものもいるからである。
二 木絵の二像と法華経
[3]たとえば木像や絵像の三十一相を持った像の前に、五戒経を安置すれば、この仏は輪王とひとしい像となる。また十善論という論書を置いた場合は帝釈天にひとしくなり、さらにまた出欲論という論書を置くと、梵王にひとしい像となって、全く仏とは違った像となる。このようにして木絵の二像の前に阿含経を置けば声聞とひとしく、方等般若の数多く説かれたその時々の教えの経を置けば縁覚にひとしく、華厳・方等・般若の別教や円教が説かれた経を置けば菩薩にひとしくなって、これまた仏とは全く別の像となる。
[4]大日経や金剛頂経・蘇悉地経等で説いている仏眼や、大日経の印と真言は、名前は仏眼だとか大日といっているが、実際には仏眼でも大日でもない。例えば仏といっても華厳経では円仏(すべて備わった仏)とはいえないのであって、単なる名のみでは本当のことはわからないのである。
[5]三十一相の仏の前に法華経を安置したてまつることによって、始めて純粋の円仏ということができるのである。したがって普賢経には法華経の仏のことを、「仏の三種の身は方等より生ず」と説いている。ここで方等というのは五時でいう方等部のことではなく、法華のことを方等といっているのである。また同経には「この大乗経は諸仏の眼であって、諸仏はこの経によって五眼を備えることができる」とも説かれている。
[6]法華経の文字は、仏の梵音声といって見ることもさわることもできない音声を、見たりさわったりすることのできる文字の形として表わしたものであるので、眼で読むことができるようになっのである。消えていってしまった仏のお声を文字という形に表わして、衆生を利益せしめることになった。元来、人が声を出すのには二つの意味がある。その一つは自分でも気がつかないうちに、人をうっかりだましてしまうために声を出すことがある。これは他人の意に随って出す声であり、自分の本心から出た声ではない。もう一つは自分の思っていることを声として表わすことである。これは本心が声となって現われるものである。意は心法とよび、声は色法という。心法から色法が現われてくるのである。また声を聞いて心を知ることができることもある。この場合は色法(声)が心法(こころ)をあらわしたことになる。色と心とは不二であるのだが、時に二つが別々にあらわれて、仏の御意を表わすのであり、法華の文字もそうした仏の御意を表わしたものである。したがって文字はまた変じて仏の御意ともなるのである。
三 経文は仏の御意である
[7]このゆえに法華経を読む人は、単に経文を文字だと思ってはいけない。すなわち仏の御意であると理解すべきである。天台大師は「人から依頼されて法華経を説く時は、ただ経文だけではなく教えの意を説くのである。教えの意は仏の御意である。仏の御意はすなわち仏智であり、仏智は至って深いものである。ゆえに説く時も仏は慎重を期すために三回依頼を受けてもことわり、四回目に請われて始めて説くことにされているのである。このようなむずかしい段取りをするのも法華経が仏智を説かれたものだからであり、他の諸経の時はこのような手続きをせず簡単に説かれているのである」と解している。この解釈文の中で仏意といっているのは色法をおさえて心法のことをいっているのである。法華経を心法であると定めて、三十一相の木絵の二像に添えて安置したならば、その木絵二像の全体は生身の仏である。草木の成仏とはこのことである。
[8]このゆえにまた天台は「一色一香(あらゆるもの)はみな中道でないものはない」と言い、妙楽もこの文を受けて「しかしながらまた色香はともに中道であると言っているが、無情にも仏性ありとする説は、無情に仏性なしとする者にとって、耳を惑わし心を驚かせるものである」と言っている。これは華厳宗の澄観が天台の一念三千の法門を盗んで、華厳の教えの中に入れてしまい、法華も華厳もともに一念三千の法門が説かれているとし、ただ華厳の場合は一番先にただちに説かれたものであり、法華は次第に説かれたあとからの教えであるので、華厳が根本であり先がけの教えである。法華はあとから説かれた枝葉の教えであると言って、我が方が理に叶っていると思う心が山ほどもあると思い込んでしまっているのである。このように一念三千の肝心と草木成仏の本当のことを知らないでいるのを妙楽は笑って言われたことなのである。
[9]現代の天台宗の学者たちは、「我は一念三千の法門を会得した」と思い込んでいるが、しかし法華をもって華厳と同等であると思ってみたり、あるいは大日経と同じであると思っており、その教義について論ずる時も、先の澄観のような見方しかしていない。または中国真言宗の善無畏や不空といった人たちと同じ考え方しかしていない。結局のところ、今の木絵二像の本尊を、真言の人師によって供養したならば、これは実仏ではなく権仏である。もっといえば権仏でもなく、形は仏に似ているが、意はもとの非情の草木にすぎない。いやむしろもとの草木でもなく、魔であり鬼である。真言の人師らの邪義が印と真言となって木絵二像の意となってしまっているからである。例えば人の思いが変じて石となるようなものだ。インドの倶留という外道と中国の黄夫石という老人が石と化したようなものである。
四 法華経による即身成仏
[10]法華を心得た人が木絵二像の開眼供養をしなかったならば、例えると家の中に主人が留守中盗人が入って荒らし去って行ったごとくであり、人が死んだあとその身に鬼神が入って、その亡者を狂わせてしまうようなものである。今、真言でもって日本の仏を供養したならば、すなわち鬼が入って人の命を奪ってしまうことになる。鬼のことを「命を奪う者」ともいうからである。また魔が入って功徳を奪ってしまう。魔のことを「功徳を奪う者」ともいっているからである。つまり鬼をあがめるために、今生では国をほろぼし、魔を尊ぶゆえに、のちの世には無間地獄に落ちる。
[11]人が死んだら魂がぬけ去り、その身に鬼神が入りこんで、子孫を滅亡させてしまう。餓鬼というのは我が身を食うといわれているがまさにこのことである。智者があって法華経を讃歎し、骨に魂を入れたならば、死者の身体は人身であるが心は法身となる。生身得忍という法門はこのことを指していうのである。
[12]華厳・方等・般若の円教を悟った智者は、死人の骨を生身得忍とすることができる。涅槃経に「身は人間であるといえども心は仏心である」と説かれているのはこのことである。生身得忍の現実の証拠は仏弟子の純陀である。法華を悟った智者が死後の骨を供養したならば生身即法身となる。これを即身という。去って行った魂を取り戻して死骨の中に入れて、彼の魂を変え仏意となすことができる。これを成仏という。
[13]即身の二字は色法をさし、成仏の二字は心法をさす。したがって死人の色心を変じて、始まりなき無限の過去より永久に存在する悟りの境地となすことができる。これがすなわち「即身成仏」ということである。このゆえに法華経の方便品には、「いわゆる諸法の、かくのごときの相〈死人の身〉、かくのごとき性〈同じく心〉、かくのごときの体〈同じく色心等〉」とある。また提婆達多品には「深く罪を滅して福の相に到達し、あまねく十方の世界を照らすことができた。その浄らかな法身の相を備えていること三十二である」等とある。この上の二句は生身得忍を現わし、下の二句は即身成仏を示したものである。即身成仏のお手本は提婆品の竜女であり、生身得忍のお手本は仏弟子の純陀である。