木絵二像開眼之事(法華骨目肝心)
138 木絵二像開眼之事
仏に有三十二相皆色法也。最下千輻輪より終無見頂相至までの三十一相は可見有対色なれば書つべし作つべし。梵音声の一相は不可見無対色なれば不可書不可作。仏滅後は木画の二像あり。是三十一相にして梵音声かけたり。故非仏。又心法かけたり。生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥也。何涅槃の後分には生身の仏と滅後の木画の二像と功徳斉等なりといふや。又大瓔珞経には木画の二像は生身の仏にはをとれりととけり。
木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足する也。但心なければ三十二相を具すれども必仏にあらず、人天も三十二相あるがゆへに。木絵の三十一相の前に五戒経を置けば此仏は輪王とひとし。十善論と云を置けば帝釈とひとし。出欲論と云を置けは梵王とひとし。全仏にあらず。又木絵二像の前に阿含経を置けば声聞とひとし。方等般若の一時一会の共般若を置けば縁覚とひとし。華厳方等般若の別円を置けば菩薩とひとし。全非仏。大日経・金剛頂経・蘇悉地経等の仏眼、大日の印真言は、名は仏眼大日といへども其義は非仏眼大日。例せば仏華厳経非円仏。名にはよらず。
三十一相の仏の前に法華経を置たてまつれば必純円の仏[云云]。故普賢経に法華経の仏を説云、仏三種身従方等生[文]。是方等者非方等部之方等 法華を方等といふなり。又云、此大乗経是諸仏眼。諸仏因是得具五眼等[云云]。法華経の文字は仏の梵音声の不可見無対色を、可見有対色のかたちとあらはしぬれば、顕形の二色となれる也。滅せる梵音声かへて形をあらはして文字と成て衆生を利益する也。人の声を出すに二あり。一には自身は存ぜざれども、人をたぶらかさむがために声をいだす。是は随他意声。自身の思を声にあらはす事あり。されば意が声とあらはる。意は心法、声は色法。心より色をあらはす。又声を聞て心を知る。色法が心法を顕也。色心不二なるがゆへに而二とあらはれて、仏の御意あらはれて法華の文字となれり。文字変じて又仏の御意となる。されば法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれ。すなはち仏の御意也。故天台釈云、受請説時只是説於教意。教意是仏意 仏意即是仏智。仏智至深。是故三止四請。如此艱難。比於余経余経則易[文]。此釈の中に仏意と申は色法ををさへて心法といふ釈也。
法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像全体生身の仏也。草木成仏といへるは是也。故天台は一色一香無非中道と[云云]。妙楽是をうけて釈に、然亦倶許色香中道無情仏性惑耳驚心[云云]。華厳の澄観が天台の一念三千をぬす(盜ん)で華厳にさしいれ、法華華厳ともに一念三千。但華厳は頓頓さきなれば、法華は漸頓のちなれば、華厳は根本さき(魁)をしぬれば、法華は枝葉等といふて、我理をえたりとおもへる意如山。雖然一念三千の肝心、草木成仏を不知事妙楽のわらひ給へる事也。今の天台の学者等、我一念三千を得たりと思ふ。雖然法華をもて、或華厳に同じ、或大日経に同ず。其義を論ずるに不出澄観之見。同善無畏・不空。以詮謂之、今の木絵二像以真言師供養 之非実仏権仏也。非権仏。形は似 仏意は本の非情草木也。又非本非情草木。魔也鬼也。真言師が邪義、印真言と成て木絵二像の意と成れるゆへに。例せば人の思変じて石と成。倶留と黄夫石が如し。法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盜人が入、人の死するに其身に鬼神入が如し。今以真言日本仏供養すれば鬼入て人の命をうばふ。鬼をば奪命者といふ。魔入て功徳をうばふ。魔をば奪功徳者といふ。鬼をあがむるゆへに、今生には国をほろぼす。魔をたとむゆへに、後生には堕無間獄。
人死すれば魂去、其身に鬼神入替て亡子孫。餓鬼といふは我をくらふといふ是也。智者あって法華経を讃歎して骨の魂となせば、死人の身は人身、心は法身。生身得忍といへる法門是也。華厳・方等・般若の円をさとれる智者は死人の骨を生身得忍と成す。涅槃経に身雖人身心同仏心いへる是也。生身得忍の現証は純陀也。法華を悟れる智者死骨を供養せば生身即法身。是を即身といふ。さりぬる魂を取返て死骨に入れて彼魂を変て仏意と成す。成仏是也。即身の二字は色法、成仏の二字は心法。死人の色心を変て無始の妙境妙智と成す。是則即身成仏也。故法華経云 所謂諸法如是相[死人ノ身]如是性[同ク心]如是体[同ク色心等][云云]。又云、深達罪福相徧照於十方微妙浄法身具相三十二等[云云]。上二句は生身得忍。下の二句は即身成仏。即身成仏の手本は龍女是。生身得忍の手本は純陀是也。