諸法実相鈔
書下し
諸法実相鈔
[1]<人>日 蓮 記之人>
[2]問ていはく、法華経の第一方便品にいはく、「諸法実相乃至本末究竟等」云云。この経文の意いかん。
[3]答ていはく、下も地獄より上み仏界までの十界の依正の当体、悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりといふ経文なり。依報あるならば必す正報住すべし。釈にいはく、〔「依報正報常に妙経を宣ぶ」〕等云云。またいはく、〔「実相は必ず諸法、諸法は必十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土」〕云云。またいはく、〔「阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾えず」〕云云。これらの釈義分明なり。誰か疑網を生ぜんや。されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし。釈迦多宝の二仏といふも、妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時、事相に二仏と顕れて宝塔の中にしてうなづき合ひ給ふ。
[4]かくのごときらの法門日蓮を除きては申し出す人一人もあるべからず。天台・妙楽・伝教等は心には知り給へども言に出し給ふまではなし。胸の中にしてくらし給へり。それも道理なり。付属なきがゆへに、時のいまだいたらざるゆへに、仏の久遠の弟子にあらざるゆへに、地涌の菩薩の中の上首唱導上行無辺行等の菩薩より外は、末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給ふのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし。これすなわち本門寿量品の事の一念三千の法門なるがゆへなり。
[5]されば釈迦多宝の二仏といふも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ。経にいはく、「如来秘密神通之力」これなり。「如来秘密」は体の三身にして本仏なり。「神通之力」は用の三身にして迹仏ぞかし。凡夫は体の三身にして本仏ぞかし。仏は用の三身にして迹仏なり。しかれば釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備へ給ふと思ひしに、さにては候はず。返て仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり。そのゆへは如来といふは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり」と判じ給へり。この釈に本仏といふは凡夫なり。迹仏といふは仏なり。しかれども迷悟の不同にして生仏異なるに依て、倶体倶用の三身といふ事をば衆生しらざるなり。
[6]さてこそ諸法と十界を挙て実相とは説れて候へ。実相といふは妙法蓮華経の異名なり。諸法は妙法蓮華経といふ事なり。地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり。餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず。仏は仏のすがた、凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりという事を諸法実相とは申すなり。
[7]天台いはく、〔「実相の深理本有の妙法蓮華経なりと」〕云云。この釈の意は実相の名言は迹門に主づけ、本有の妙法蓮華経といふは本門の上の法門なり。この釈能能心中に案じさせ給へ候へ。
[8]日蓮末法に生れて上行菩薩の弘め給ふべき所の妙法を先立て粗ひろめ、つくりあらはし給ふべき本門寿量品の古仏たる釈迦仏、迹門宝塔品の時涌出し給ふ多宝仏、涌出品の時出現し給ふ地涌の菩薩等を先作り顕はし奉る事、予が分斉にはいみじき事なり。日蓮をこそにくむとも内証にはいかが及ばん。さればかゝる日蓮をこの島まで遠流しける罪無量劫にもきへぬべしとも覚へず。
[9]譬諭品にいはく、〔「もしその罪を説かば劫を窮るも尽きず」〕とはこれなり。また日蓮を供養し、また日蓮が弟子檀那となり給ふ事、その功徳をば仏の智慧にてもはかり尽し給ふべからず。経にいはく、〔「仏の智慧をもって籌量すとも多少その辺を得ず」〕といへり。
[10]地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり。地涌の菩薩の数にもや入りなまし。もし日蓮地涌の菩薩の数に入らば、あに日蓮が弟子檀那地涌の流類に非ずや。経にいはく、〔「能窃かに一人のために法華経の乃至一句を説かば、当に知るべしこの人はすなわち如来の使、如来の所遣として如来の事を行ずるなり」〕と。あに別人の事を説き給ふならんや。
[11]されば余りに人の我をほむる時は如何様にもなりたき意の出来し候なり。これほむる処の言よりをこり候ぞかし。末法に生れて法華経を弘めん行者は三類の敵人有て流罪死罪におよばん。しかれどもたえ(堪)て弘めん者をば衣をもて釈迦仏をほひ給ふべきぞ、諸天は供養をいたすべきぞ、かたにかけ、せなかにをふべきぞ、大善根の者にてあるぞ、一切衆生のためには大導師にてあるべしと、釈迦仏多宝仏十方の諸仏菩薩、天神七代地神五代の神神、鬼子母神十羅刹女、四大天王梵天帝釈閻魔法王、水神風神山神海神、大日如来普賢文殊日月等の諸尊たちにほめられ奉る間、無量の大難をも堪忍して候なり。ほめられぬれば我身の損ずるをもかへりみず、そしられぬる時はまた我身のやぶるるをもしらず、ふるまふ事は凡夫のことはざ(為業)なり。
[12]いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給ふべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑んや。経にいはく、〔「我久遠より来、これらの衆を教化す」〕とはこれなり。末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。
[13]日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来もまたしかるべし。これあに地涌の義に非ずや。剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給ふべし。
[14]釈迦仏多宝仏十方の諸仏菩薩虚空にして二仏うなづき合、定めさせ給しは別の事には非ず。ただひとへに末法の令法久住のゆへなり。すでに多宝仏は半座を分けて釈迦如来に奉り給ひし時、妙法蓮華経の旗をさし顕し、釈迦多宝の二仏大将としてさだめ給ひし事あにいつはりなるべきや。しかしながら我等衆生を仏になさんとの御談合なり。日蓮はその座には住し候はねども、経文を見候にすこしもくもりなし。またその座にもやありけん。凡夫なれば過去をしらず。現在は見へて法華経の行者なり。また未来は決定として当詣道場なるべし。過去をもこれをもつて推するに、虚空会にもやありつらん。三世各別あるべからず。
[15]かくのごとく思ひつづけて候へば流人なれども喜悦はかりなし。うれしきにもなみだ、つらきにもなみだなり。涙は善悪に通ずるものなり。かの千人の阿羅漢、仏の事を思ひいでて涙をながし、ながしながら文殊師利菩薩は妙法蓮華経と唱へさせ給へば、千人の阿羅漢の中の阿難尊者はなき(泣)ながら「如是我聞」と答へ給ふ。余の九百九十九人はなくなみだ(涙)を硯の水として、また「如是我聞」の上に妙法蓮華経とかきつけしなり。今日蓮もかくのごとし。
[16]かゝる身となるも妙法蓮華経の五字七字を弘むるゆへなり。釈迦仏多宝仏、未来日本国の一切衆生のためにとどめをき給ふ処の妙法蓮華経なりと、かくのごとく我も聞きしゆへぞかし。現在の大難を思ひつづくるにもなみだ、未来の成仏を思ふて喜ぶにもなみだせきあへず。鳥と虫とはなけ(鳴)どもなみだをちず。日蓮はなかねどもなみだひまなし。このなみだ世間の事には非ず。ただひとへに法華経のゆへなり。もししからば甘露のなみだともいいつべし。涅槃経には父母兄弟妻子眷属にわかれ(別)て流すところの涙は、四大海の水よりもをゝしといへども、仏法のためには一滴をもこぼさずと見えたり。
[17]法華経の行者となる事は過去の宿習なり。同じ草木なれども仏とつくらるるは宿縁なるべし。仏なりとも権仏となるはまた宿業なるべし。
[18]この文には日蓮が大事の法門どもかきて候ぞ。よくよく見ほどかせ給へ。意得させ給ふべし。
[19]一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。あひかまへて、あひかまへて、信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給ふべし。行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし。
[20]南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。恐々謹言。
[21]<日>五月十七日日>
[22]<人>日 蓮 <花押>花押花押>人>
[23]追申候。日蓮が相承の法門等前前かき進らせ候ひき。ことにこの文には大事の事どもしるしてまいらせ候ぞ。不思議なる契約なるか。六万恒沙の上首上行等の四菩薩の変化か。さだめてゆへあらん。総じて日蓮が身に当ての法門わたしまいらせ候ぞ。日蓮もしや六万恒沙の地涌の菩薩の眷属にもやあるらん。南無妙法蓮華経と唱へて日本国の男女をみちびかんとおもへばなり。経にいはく、「一名上行乃至唱導之師」とは説かれ候はぬか。まことに宿縁のをふところ予が弟子となり給ふ。この文あひかまへて秘し給へ。日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ。とどめ畢ぬ。
[24]<先>最蓮房御返事先>
現代語訳
諸法実相鈔
文永一〇年(一二七三)五月一七日、五二歳、於佐渡一谷、和文、定七二三—七二九頁。
[1]<人>日 蓮 これを記す人>
一 諸法実相とは何か
[2]お尋ねするが、法華経の第一巻方便品第二に、「諸法実相というのはあらゆるものの相と性と体と力と作と因と縁と果と報と、さらにその本と末とがすべて等しく帰一するところの原理をいうのである」と説かれているが、この経文の意味はどういうことか教えていただきたい。
[3]お答えしよう、この法界のすべてを十界と称して十に分けているが、その一番下の地獄から上は仏界に至るまでの十界のすべてのものは、ことごとく一つも残すことなく妙法蓮華経のすがたであるという意味の経文である。依報といわれる草木国土が存在すれば、必ず正報といわれる生物・有情が住んでいるのである。したがって妙楽大師は法華文句記の第十巻で、「依報も正報もともにいつも妙法蓮華経を説いている」と記し、また同大師は金錍論の中で「実相というのは法界のあらゆる諸法のことであり、その諸法は必ず先に述べた相・性・体等の十如から成り立っているのである。そしてこの十如は必ず地獄から仏界までの十界を構成している。そのまた十界は必ず依報・正報の二報によって存在しているのである」といっている。さらに同書には「阿鼻地獄の依報と正報とはすべて仏の心の中にある。また仏の依報と正報はともに凡夫の一念の中にあるのである」とも説いている。これらの解釈を見ると明らかに一念の中に三千の諸法があることは疑いの余地のないところである。したがって宇宙法界のすがたは、すべて妙法蓮華経の五字と同じであって別のものではない。釈迦・多宝の二仏も妙法等の五字が作用して衆生を救済しようとするとき、二仏の姿となって現われ宝塔品の会座の時のようにうなずき合われるのである。
二 本化の菩薩
[4]このような法門については、日蓮を除いてはほかに一人も言い出した者はいない。先の天台・妙楽・伝教等の大師らも、心の中では知っていたが口に出して言うことをせず、深く胸の中にしまっておられた。それは道理のあることで、仏からこの経を弘めよという付属を受けていないからであり、また時期もまだその段階に至っていなかったからである。さらに仏の久遠の昔からの弟子ではなかったのである。地涌の菩薩といわれる仏の本弟子の中の上首で唱導師たる上行・無辺行等の本化の菩薩よりほかの者は、末法の始めの五百年に出現して、法体の妙法蓮華経の五字を弘めることはできないのである。そのうえ、宝塔品で説かれているような釈迦・多宝の二仏が宝塔の中で並び座し、大事な法門が説かれていった儀式の姿を作り現わしていくことは本化以外にはできないのである。これはすなわち法華経本門寿量品の肝心である事の一念三千の法門だからであり、弘める人も本化の菩薩でなくてはならないからである。
三 諸法実相と妙法蓮華経
[5]したがって釈迦・多宝の二仏も作用として現われた仏であり、妙法蓮華経こそ本仏でおわしますのである。寿量品には「如来の秘密、神通の力」とあるごとくで、如来の秘密とは本体である三身(法身・報身・応身)を備えた本仏のことである。神通の力とは作用としての三身であって迹仏と称されるものである。また元来、凡夫は本体の三身を備えた本仏であり、仏は作用としての三身であり迹仏であるといえる。もしそうだとしたら釈迦仏はわれら衆生のために主・師・親の三つの徳を備えられたものと思っていたが、そうではなくてかえって仏に三徳を備え奉ったのは凡夫のほうであったことになる。そのわけは、如来というのは天台大師が法華文句の第九の中で、「十方三世の諸仏を始めとして、二仏(真身・応身)・三仏(法身・報身・応身)・本仏・迹仏等すべての仏の通号である」と判断している。この文の中の本仏というのは凡夫のことであり、迹仏というのは仏のことである。だが衆生は迷っていて仏は悟りを得ているという違いがあるのであって、本来は衆生も仏も本体・作用ともに一緒の三身であるということを知らずに迷っているのである。
[6]さて、そこで諸法といわれている十界は実相のことだと説かれたのであるが、実相というのは妙法蓮華経の異名である。すなわち諸法は妙法蓮華経ということである。地獄は地獄の姿を見せるのが実の相であり、餓鬼に変わってしまったら、地獄の実のすがたではなくなってしまう。仏は仏のすがた、凡夫は凡夫のすがた、そして万法の当体のすがた、すなわち真実の相が妙法蓮華経の当体であるということを諸法実相というのである。
[7]天台大師は「実相の深理は、本来常住の妙法蓮華経である」といっている。この文の意味は、実相の深い法理というのは迹門につけ、本来から存在するところの妙法蓮華経というのは本門の上につけられた法門である。この解釈は簡単には理解しにくいので、よくよく心中に考えてみていただきたい。
四 如来の使者
[8]日蓮は末法に生まれて上行菩薩の弘められる妙法を、他の者に先立ってその概要を弘め、さらに本門寿量品の古仏たる釈迦仏を始め、迹門宝塔品のとき涌出された多宝仏、涌出品のとき出現した本化地涌の菩薩等をまっさきに作りあらわし奉ったことは、日蓮にとって大変に意義の深いことである。この日蓮をどのように憎む者であっても、その心の内に得た証についてまではいかに権力者といえども、いかんともしがたいものである。したがってこのように日蓮をこの島(佐渡)まで遠く流罪にした罪は無量の永きにわたっても、消えるとは思えない。
[9]譬喩品に「もしも法華経の行者を迫害する者がいたならば、その罪は年数が尽きるようなことがあっても、なお尽くしきれないほどである」とあるのはこのことである。また日蓮を供養し、日蓮の弟子檀那となられたことは、その功徳の多大であることは仏の智慧をもってしても計算することはできないほどである。薬王品には「仏の智慧をもってはかってみても、とてもはかることはできない」と説かれている。
[10]この大地の中からわき出たといわれる本化の菩薩のさきがけは日蓮一人である。地涌の菩薩の数に入っているのかもしれない。もしも日蓮が地涌の菩薩の一員として数えられるとしたら、まさに日蓮の弟子や檀那も地涌の菩薩の一類ということになるのではないか。法師品には「よくひそかに一人のために法華経の一句であっても説き聞かせたならば、まさにこの人はすなわち如来の使いであり、如来から派遣された人で、如来のなすべきことをなす人である」とあるが、これは別に他の人々のことを指しているのではなく、われわれのことを指しているものであろう。
五 地涌の菩薩
[11]さて、人というものは他人からほめられると、どのような困難なことでもなしとげてやろうとするものである。これはほめられた言葉を聞いてその気が生起してくるためである。末法に生まれて法華経を弘める行者は、三種類の敵人があって、行者を流罪や死罪にするであろう。しかしそれによく耐えて妙法を弘めようとする者を、釈迦仏は衣をもって覆いかばって下さるし、諸天善神はその行者を供養し、肩にかけ背中におぶって助けて下さるであろう。大善根の者であり、一切衆生のためには大導師であると、釈迦仏・多宝仏を始め、十方の諸仏菩薩や天神七代・地神五代の神々、鬼子母神・十羅刹女、四大天王・梵天・帝釈・閻魔法王・水神・風神・山神・海神、大日如来・普賢・文珠・日月等の諸尊たちにほめられるので、無量の大難を忍んだのである。ほめられれば我が身の損することもかえりみず、またそしられるときは我が身の破られることもしらずにふるまうのは凡夫の常のあり方である。
[12]いかなることがあっても、このたびは信心を強くして法華経の行者となりとおし、日蓮の一門とおなりなさい。日蓮と同意ならば地涌の菩薩ではないか。地涌の菩薩にさだまれば、釈尊の久遠からの本化の弟子であることは疑いのないことであろう。涌出品には「我は久遠よりこのかたこれらの衆を教化す」と説かれている通りである。末法において妙法蓮華経の五字を弘める者は、男女の区別をつけるべきではない。みな地涌の菩薩の出現でなければ、唱えがたき題目である。
六 法華経に名を立て身をまかせ
[13]日蓮が一人で初めは南無妙法蓮華経と唱え出したが、二人三人百人と次第に唱え伝えていくのである。未来もまたこのようになっていくことであろう。このことがすなわち地涌ということの意義ではなかろうか。大地の中から無数の人々が湧出して、広くこの妙法が流布したときは、日本中に南無妙法蓮華経と唱える人々で満ち溢れることは、まさに大地を的とするようにたしかなことである。ともかくも法華経に名を立て身をまかせて、経文のごとくに実践してみることである。
[14]釈迦仏や多宝仏、それに十方の諸仏菩薩が、霊鷲山の虚空会(法華本門の会座)において、釈迦・多宝の二仏がうなずき合いつつ定められたのはほかのことではない、ただひとえに末法の世に、法華経が久しく弘まっていくことのためであった。すでに多宝仏は宝塔の中にあって、半座を分けて釈迦如来にゆずられたとき、妙法蓮華経の旗を立て、釈迦・多宝の二仏が大将となって定められたことには、断じていつわりはないはずである。それはまさしくわれら衆生を仏にさせようとする御話し合いであったのである。日蓮はその座にいたわけではないが、経文を見ると少しの疑問もないところである。またその座にあるいはいたのかもしれないのだが、凡夫なので過去のことを覚えていない。だが現在のことはよく見えており、法華経の行者である。また未来についても間違いなく仏の道場に詣ることは決定している。過去のこともこうした点から推察してみると、虚空会にも列なっていたことであろう。過去・現在・未来の三世は別々ではないからである。
七 日蓮は泣かねども涙ひまなし
[15]このように思い続けてみると、日蓮はいま流人であるけれども、喜悦は計りしれないほどである。うれしいことにも涙、つらいことにも涙で、善悪に涙は共通するものである。かの千人の阿羅漢が仏の入滅後に集まって、仏のことを思い出しながら涙を流しつつ文殊師利菩薩は、妙法蓮華経と唱えられると、千人の阿羅漢の中の一人であった阿難尊者は、泣きながら「私はこのように聞いた」と答えられた。他の九百九十九人も泣きながら涙を硯の水として、また「私はこのように聞いた」と記したうえに、妙法蓮華経と書き付けられたのである。いま日蓮もそのように涙を流しているのである。
[16]このような身の上となったのも、妙法蓮華経の五字七字の題目を弘めたからである。釈迦仏と多宝仏が、未来の日本国の一切衆生を仏にさせるために、留めおかれたところの妙法蓮華経であると、日蓮も聞いていたからである。現在の大難を思いながらも涙、未来の成仏を思って喜ぶにも涙がとめどもない状態である。鳥と虫とは鳴いても涙を落とさないけれど、日蓮は泣かないが涙は乾くひまがないほどである。この涙は世間一般の私情で流しているのではなく、ただひとえに法華経のためであるから、甘露の涙ともいえるであろう。涅槃経には「父母・兄弟・妻子・眷属と別れを惜しんで流す涙は、四大海の水よりも多いといえるが、仏法のためには一滴の涙もこぼさない」とある。
[17]法華経の行者となることは、過去からの永い因縁によるものである。同じ草木であっても、仏像として造られていくものは、やはり永い因縁による。仏であっても実仏ではなく権仏(仮の仏)として造られていくことも、またすべて過去世からの永い因縁によるものなのである。
八 行・学の二道
[18]この文章の中には日蓮にとって大事な法門を書いておいたので、よく充分に読んで理解してほしい。
[19]特に一閻浮提第一の最も優れた御本尊を信仰して、真剣に心の底から信心を強く盛んにし、釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏のご守護がいただけるよう心がけることが大切である。またさらに修行と学問の二道を怠らず励むことが肝心である。この行と学の二道が絶えるようなことがあれば、仏法は滅亡してしまう。まず自分自身がこの二道を励み、得たことはただちに他の人々に教えていくべきである。そしてこの行学の二道は、信心から起こり始まっていくのである。もしも自分に力があったならば、たとえ一文一句であっても、他に向かって語り伝えていくべきである。
[20]南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。恐れながら謹んで申し上げる。
[21]<日>五月十七日日>
[22]<人>日 蓮 <花押>花押花押>人>
[23]追加して申し上げるが、日蓮が受けついだ法門等については、前々から書いてお知らせした通りである。しかしこの文章は特に大事なことを記しておいた。不思議な過去からの契約によるものであろうか。あるいは涌出品に書かれている六万恒沙の上首である上行等の四菩薩が形をかえて現われたのであろうか。きっと深いわけがあるにちがいないであろう。すべて日蓮の身に当たっての法門をあなたにおわたしした。日蓮はもしかすると涌出品に説かれている六万恒沙の地涌の菩薩の使者であるかもしれない。それは南無妙法蓮華経と唱えながら、日本国中の男女を導こうとしているからである。涌出品の中に「一人は上行菩薩と名づく、乃至この人は唱導の師である」と説かれているではないか。あなたはまことに宿縁が深い人で、私の弟子となったわけであるが、この文章は充分に注意して大事にして頂きたい。それは日蓮がすでに証したところの法門を書き付けてあるからである。ではこれで筆を擱くことにしよう。
[24]<先>最蓮房御返事先>