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諸法実相鈔

全集 第4巻 2段 定本: #122(定本の該当ページへ)

書下し

諸法実相鈔しよほうじつそうしよう


[1]<人>日 蓮 記之
[2]とうていはく、法華経ほけきようの第一方便品ほうべんぽんにいはく、「諸法実相乃至本末究竟等*しよほうじつそうないしほんまつくきようとう」云云。この経文のこころいかん。
[3]答ていはく、も地獄より仏界ぶつかいまでの十界じゆつかい依正えしよう当体とうたいことごと一法いつぽうものこさず妙法蓮華経のすがたなりといふ経文なり。依報えほうあるならば必す正報住しようほうじゆうすべし。釈にいはく、〔「依報正報常えほうしようほうつね妙経みようきようを宣ぶ」〕等云云。またいはく、〔「実相じつそうは必ず諸法しよほう、諸法は必十如かならずじゆうによ、十如は必ず十界じゆつかい、十界は必ず身土しんど」〕云云。またいはく、〔「阿鼻あび依正えしようまつた極聖ごくしよう自心じしんしよし、毘盧びるの身土は凡下ぼんげ一念いちねんえず」〕云云。これらの釈義分明しやくぎふんみようなり。誰か疑網ぎもうしようぜんや。されば法界ほつかいのすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし。多宝しやかたほうの二仏といふも、妙法等の五字よりゆう利益りやくほどこたもふ時、事相じそうに二仏とあらわれて宝塔ほうとうの中にしてうなづきひ給ふ。
[4]かくのごときらの法門ほうもん日蓮を除きては申しいだす人一人いちにんもあるべからず。天台てんだい妙楽みようらく伝教でんぎよう等は心には知り給へどもことばいだし給ふまではなし。胸の中にしてくらし給へり。それも道理どうりなり。付属ふぞくなきがゆへに、ときのいまだいたらざるゆへに、仏の久遠くおんの弟子にあらざるゆへに、地涌じゆぼさつの中の上首唱導じようしゆしようどう上行無辺行じようぎようむへんぎよう等の菩よりほかは、末法まつぽうはじめの五百年に出現して法体ほつたいの妙法蓮華経の五字をひろめ給ふのみならず、宝塔ほうとうの中の二仏並座にぶつびようざの儀式を作りあらわすべき人なし。これすなわち本門寿量品ほんもんじゆりようほん一念三千いちねんさんぜん法門ほうもんなるがゆへなり。
[5]されば釈多宝の二仏といふもゆうほとけなり。妙法蓮華経こそ本仏ほんぶつにては御座候おわしそうらへ。経にいはく、「如来秘密神通之力によらいひみつじんつうしりき」これなり。「如来秘密」はたい三身*さんじんにして本仏なり。「神通之力」は用の三身にして迹仏しやくぶつぞかし。凡夫ぼんぶは体の三身にして本仏ぞかし。仏は用の三身にして迹仏なり。しかれば釈仏は我等衆生われらしゆじようのためには主師親しゆししん三徳さんとくを備へ給ふと思ひしに、さにてはそうらはず。かえつて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり。そのゆへは如来によらいといふは天台てんだいの釈に「如来とは十方三世じゆつぽうさんぜの諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号つうごうなり」と判じ給へり。この釈に本仏といふは凡夫なり。迹仏といふは仏なり。しかれども迷悟めいご不同ふどうにして生仏異しようぶつことなるに依て、くたいくゆうの三身といふ事をば衆生しらざるなり。
[6]さてこそ諸法と十界じゆつかいあげ実相じつそうとはとかれて候へ。実相といふは妙法蓮華経の異名いみようなり。諸法は妙法蓮華経といふ事なり。地獄じごくは地獄のすがたを見せたるがじつすがたなり。餓鬼がきへんぜば地獄の実のすがたにはあらず。仏は仏のすがた、凡夫は凡夫のすがた、万法ばんぽう当体とうたいのすがたが妙法蓮華経の当体なりという事を諸法実相*しよほうじつそうとはもうすなり。
[7]天台てんだいいはく、〔「実相じつそう深理本有じんりほんぬの妙法蓮華経なりと」〕云云。この釈のこころは実相の名言みようごん迹門しやくもんぬしづけ、本有の妙法蓮華経といふは本門ほんもんの上の法門なり。この釈能能心中よくよくしんちゆうに案じさせ給へそうらへ。
[8]日蓮末法まつぽうに生れて上行菩じようぎようぼさつひろめ給ふべき所の妙法を先立さきだちほぼひろめ、つくりあらはし給ふべき本門寿量品じゆりようほん古仏こぶつたる釈仏、迹門宝塔品ほうとうほんの時涌出ゆじゆつし給ふ多宝仏たほうぶつ涌出品ゆじゆつぽんの時出現し給ふ地涌じゆの菩等をまづ作りあらはし奉る事、分斉ぶんざいにはいみじき事なり。日蓮をこそにくむとも内証ないしようにはいかがおよばん。さればかゝる日蓮をの島まで遠流おんるしける罪無量劫つみむりようこうにもきへぬべしともおぼへず。
[9]譬諭品ひゆほんにいはく、〔「もしそのつみを説かばこうきわまるもきず」〕とはこれなり。また日蓮を供養くようし、また日蓮が弟子檀那でしだんなとなり給ふ事、その功徳くどくをば仏の智慧ちえにてもはかりつくし給ふべからず。経にいはく、〔「仏の智慧をもって籌量ちゆうりようすとも多少そのあたりを得ず」〕といへり。
[10]地涌じゆの菩のさきがけ日蓮一人なり。地涌の菩かずにもやりなまし。もし日蓮地涌の菩の数に入らば、あに日蓮が弟子檀那でしだんな地涌の流類るるいあらずや。経にいはく、〔「能窃よくひそかに一人のために法華経の乃至一句ないしいつくを説かば、まさに知るべしこの人はすなわち如来によらい使つかい、如来の所遣しよけんとして如来のを行ずるなり」〕と。あに別人べつにんことを説き給ふならんや。
[11]さればあまりに人のわれをほむる時は如何様いかようにもなりたきこころの出来し候なり。これほむるところことばよりをこり候ぞかし。末法まつぽうに生れて法華経をひろめん行者ぎようじや三類*さんるい敵人有てきじんあつ流罪死罪るざいしざいにおよばん。しかれどもたえ(堪)て弘めん者をばころもをもて釈仏をほひ給ふべきぞ、諸天しよてんは供養をいたすべきぞ、かたにかけ、せなかにをふべきぞ、大善根だいぜんこんの者にてあるぞ、一切衆生いつさいしゆじようのためには大導師だいどうしにてあるべしと、釈仏多宝仏十方の諸仏菩天神七代地神五代てんじんしちだいちじんごだい神神かみがみ鬼子母神十羅刹女きしもじんじゆうらせつによ四大天王梵天帝釈閻魔法王しだいてんのうぼんてんたいしやくえんまほうおう水神風神山神海神すいじんふうじんさんじんかいじん大日如来普賢文殊日月だいにちによらいふげんもんじゆにちがつ等の諸尊たちにほめられ奉る間、無量むりよう大難だいなんをも堪忍かんにんして候なり。ほめられぬれば我身わがみそんずるをもかへりみず、そしられぬる時はまた我身のやぶるるをもしらず、ふるまふ事は凡夫のことはざ(為業)なり。
[12]いかにも今度信心このたびしんじんをいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給ふべし。日蓮と同意どういならば地涌じゆの菩たらんか。地涌の菩にさだまりなば釈尊久遠くおんの弟子たる事あにうたがわんや。経にいはく、〔「我久遠くおんよりこのかた、これらのしゆう教化きようけす」〕とはこれなり。末法まつぽうにして妙法蓮華経の五字をひろめん者は男女なんによはきらふべからず、皆地涌の菩の出現に非ずんばとなへがたき題目だいもくなり。
[13]日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来もまたしかるべし。これあに地涌のに非ずや。あまつさ広宣流布こうせんるふの時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地だいちまととするなるべし。ともかくも法華経にをたてをまかせ給ふべし。
[14]仏多宝仏十方の諸仏菩虚空こくうにして二仏うなづきあい、定めさせたまいしはべちの事にはあらず。ただひとへに末法まつぽう令法久住りようぼうくじゆうのゆへなり。すでに多宝仏は半座はんざを分けて釈如来に奉り給ひし時、妙法蓮華経のはたをさしあらわし、釈多宝の二仏大将たいしようとしてさだめ給ひし事あにいつはりなるべきや。しかしながら我等衆生を仏になさんとの御談合ごだんごうなり。日蓮はその座にはじゆうし候はねども、経文きようもん見候みそうろうにすこしもくもりなし。またそのにもやありけん。凡夫ぼんぶなれば過去をしらず。現在は見へて法華経の行者ぎようじやなり。また未来は決定けつじようとして当詣道場とうけいどうじようなるべし。過去をもこれをもつてすいするに、虚空会こくうえにもやありつらん。三世各別さんぜかくベつあるべからず。
[15]かくのごとく思ひつづけて候へば流人なれども喜悦きえつはかりなし。うれしきにもなみだ、つらきにもなみだなり。涙は善悪ぜんなくに通ずるものなり。かの千人の阿羅漢あらかん、仏の事を思ひいでて涙をながし、ながしながら文殊師利菩もんじゆしりぼさつは妙法蓮華経と唱へさせ給へば、千人の阿羅漢の中の阿難尊者あなんそんじやはなき(泣)ながら「如是我聞によぜがもん」と答へ給ふ。余の九百九十九人はなくなみだ(涙)をすずりの水として、また「如是我聞」の上に妙法蓮華経とかきつけしなり。今日蓮もかくのごとし。
[16]かゝる身となるも妙法蓮華経の五字七字を弘むるゆへなり。釈仏多宝仏、未来みらい日本国の一切衆生のためにとどめをき給ふところの妙法蓮華経なりと、かくのごとくわれきしゆへぞかし。現在の大難だいなんを思ひつづくるにもなみだ、未来の成仏を思ふてよろこぶにもなみだせきあへず。鳥と虫とはなけ(鳴)どもなみだをちず。日蓮はなかねどもなみだひまなし。このなみだ世間せけんことにはあらず。ただひとへに法華経のゆへなり。もししからば甘露のなみだともいいつべし。涅槃経ねはんきようには父母ぶも兄弟妻子けんぞくにわかれ(別)て流すところの涙は、四大海の水よりもをゝしといへども、仏法のためには一滴をもこぼさずと見えたり。
[17]法華経の行者となることは過去の宿習しゆくじゆうなり。同じ草木そうもくなれども仏とつくらるるは宿縁しゆくえんなるべし。仏なりとも権仏ごんぶつとなるはまた宿業しゆくごうなるべし。
[18]このふみには日蓮が大事だいじ法門ほうもんどもかきて候ぞ。よくよく見ほどかせ給へ。意得こころえさせ給ふべし。
[19]一閻浮提第一いちえんぶだいだいいち御本尊ごほんぞんを信じさせ給へ。あひかまへて、あひかまへて、信心しんじんつよく候て三仏の守護しゆごをかうむらせ給ふべし。行学ぎようがく二道にどうをはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化きようけ候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし。
[20]南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。恐々謹言きようきようきんげん
[21]<日>五月十七日
[22]<人>日 蓮 <花押>花押
[23]追申候ついしんそうろう。日蓮が相承そうじようの法門等前前まえまえかきまいらせ候ひき。ことにこのふみには大事だいじことどもしるしてまいらせ候ぞ。不思議ふしぎなる契約けいやくなるか。六万恒沙ごうじや上首上行じようしゆじようぎよう等の四菩変化へんげか。さだめてゆへあらん。総じて日蓮が身にあたりての法門わたしまいらせ候ぞ。日蓮もしや六万恒沙の地涌じゆの菩けんぞくにもやあるらん。南無妙法蓮華経と唱へて日本国の男女をみちびかんとおもへばなり。経にいはく、「一名上行乃至唱導之師ないししようどうのし」とは説かれ候はぬか。まことに宿縁しゆくえんのをふところが弟子となり給ふ。このもんあひかまへてし給へ。日蓮が己証こしようの法門等かきつけて候ぞ。とどめおわんぬ。
[24]<先>最蓮房御返事さいれんぼうごへんじ
現代語訳

諸法実相鈔


文永一〇年(一二七三)五月一七日、五二歳、於佐渡一谷、和文、定七二三—七二九頁。

[1]<人>日 蓮 これを記す

一 諸法実相とは何か


[2]お尋ねするが、法華経の第一巻方便品第二に、「諸法実相というのはあらゆるもののそうしようたいりきいんえんほうと、さらにそのほんまつとがすべて等しく帰一するところの原理をいうのである」と説かれているが、この経文の意味はどういうことか教えていただきたい。
[3]お答えしよう、この法界のすべてを十界と称して十に分けているが、その一番下の地獄から上は仏界に至るまでの十界のすべてのものは、ことごとく一つも残すことなく妙法蓮華経のすがたであるという意味の経文である。依報といわれる草木国土が存在すれば、必ず正報といわれる生物・有情が住んでいるのである。したがって妙楽大師は法華文句記の第十巻で、「依報も正報もともにいつも妙法蓮華経を説いている」と記し、また同大師はこんべいろんの中で「実相というのは法界のあらゆる諸法のことであり、その諸法は必ず先に述べた相・性・体等の十如から成り立っているのである。そしてこの十如は必ず地獄から仏界までの十界を構成している。そのまた十界は必ず依報・正報の二報によって存在しているのである」といっている。さらに同書には「阿鼻地獄の依報と正報とはすべて仏の心の中にある。また仏の依報と正報はともに凡夫の一念の中にあるのである」とも説いている。これらの解釈を見ると明らかに一念の中に三千の諸法があることは疑いの余地のないところである。したがって宇宙法界のすがたは、すべて妙法蓮華経の五字と同じであって別のものではない。釈・多宝の二仏も妙法等の五字が作用して衆生を救済しようとするとき、二仏の姿となって現われ宝塔品の会座えざの時のようにうなずき合われるのである。

二 本化の菩


[4]このような法門については、日蓮を除いてはほかに一人も言い出した者はいない。先の天台・妙楽・伝教等の大師らも、心の中では知っていたが口に出して言うことをせず、深く胸の中にしまっておられた。それは道理のあることで、仏からこの経を弘めよという付属を受けていないからであり、また時期もまだその段階に至っていなかったからである。さらに仏の久遠の昔からの弟子ではなかったのである。地涌の菩といわれる仏の本弟子の中の上首で唱導師しようどうしたる上行・無辺行等の本化の菩よりほかの者は、末法の始めの五百年に出現して、法体の妙法蓮華経の五字を弘めることはできないのである。そのうえ、宝塔品で説かれているような釈・多宝の二仏が宝塔の中で並び座し、大事な法門が説かれていった儀式の姿を作り現わしていくことは本化以外にはできないのである。これはすなわち法華経本門寿量品の肝心である事の一念三千の法門だからであり、弘める人も本化の菩でなくてはならないからである。

三 諸法実相と妙法蓮華経


[5]したがって釈・多宝の二仏も作用として現われた仏であり、妙法蓮華経こそ本仏でおわしますのである。寿量品には「如来の秘密、神通の力」とあるごとくで、如来の秘密とは本体である三身(法身ほつしん報身ほうしん応身おうじん)を備えた本仏のことである。神通の力とは作用としての三身であって迹仏と称されるものである。また元来、凡夫は本体の三身を備えた本仏であり、仏は作用としての三身であり迹仏であるといえる。もしそうだとしたら釈仏はわれら衆生のために主・師・親の三つの徳を備えられたものと思っていたが、そうではなくてかえって仏に三徳を備え奉ったのは凡夫のほうであったことになる。そのわけは、如来というのは天台大師が法華文句の第九の中で、「十方三世の諸仏を始めとして、二仏(真身・応身)・三仏(法身・報身・応身)・本仏・迹仏等すべての仏の通号である」と判断している。この文の中の本仏というのは凡夫のことであり、迹仏というのは仏のことである。だが衆生は迷っていて仏は悟りを得ているという違いがあるのであって、本来は衆生も仏も本体・作用ともに一緒の三身であるということを知らずに迷っているのである。
[6]さて、そこで諸法といわれている十界は実相のことだと説かれたのであるが、実相というのは妙法蓮華経の異名である。すなわち諸法は妙法蓮華経ということである。地獄は地獄の姿を見せるのが実の相であり、餓鬼に変わってしまったら、地獄の実のすがたではなくなってしまう。仏は仏のすがた、凡夫は凡夫のすがた、そして万法の当体のすがた、すなわち真実の相が妙法蓮華経の当体であるということを諸法実相というのである。
[7]天台大師は「実相の深理は、本来常住の妙法蓮華経である」といっている。この文の意味は、実相の深い法理というのは迹門につけ、本来から存在するところの妙法蓮華経というのは本門の上につけられた法門である。この解釈は簡単には理解しにくいので、よくよく心中に考えてみていただきたい。

四 如来の使者


[8]日蓮は末法に生まれて上行菩の弘められる妙法を、他の者に先立ってその概要を弘め、さらに本門寿量品の古仏たる釈仏を始め、迹門宝塔品のとき涌出された多宝仏、涌出品のとき出現した本化地涌の菩等をまっさきに作りあらわし奉ったことは、日蓮にとって大変に意義の深いことである。この日蓮をどのように憎む者であっても、その心の内に得たさとりについてまではいかに権力者といえども、いかんともしがたいものである。したがってこのように日蓮をこの島(佐渡)まで遠く流罪にした罪は無量の永きにわたっても、消えるとは思えない。
[9]譬喩品に「もしも法華経の行者を迫害する者がいたならば、その罪は年数が尽きるようなことがあっても、なお尽くしきれないほどである」とあるのはこのことである。また日蓮を供養し、日蓮の弟子檀那となられたことは、その功徳の多大であることは仏の智慧をもってしても計算することはできないほどである。薬王品には「仏の智慧をもってはかってみても、とてもはかることはできない」と説かれている。
[10]この大地の中からわき出たといわれる本化の菩のさきがけは日蓮一人である。地涌の菩の数に入っているのかもしれない。もしも日蓮が地涌の菩の一員として数えられるとしたら、まさに日蓮の弟子や檀那も地涌の菩の一類ということになるのではないか。法師品には「よくひそかに一人のために法華経の一句であっても説き聞かせたならば、まさにこの人はすなわち如来の使いであり、如来から派遣された人で、如来のなすべきことをなす人である」とあるが、これは別に他の人々のことを指しているのではなく、われわれのことを指しているものであろう。

五 地涌の菩


[11]さて、人というものは他人からほめられると、どのような困難なことでもなしとげてやろうとするものである。これはほめられた言葉を聞いてその気が生起してくるためである。末法に生まれて法華経を弘める行者は、三種類の敵人があって、行者を流罪や死罪にするであろう。しかしそれによく耐えて妙法を弘めようとする者を、釈仏は衣をもって覆いかばって下さるし、諸天善神はその行者を供養し、肩にかけ背中におぶって助けて下さるであろう。大善根の者であり、一切衆生のためには大導師であると、釈仏・多宝仏を始め、十方の諸仏菩や天神七代・地神五代の神々、鬼子母神・十羅刹女、四大天王・梵天・帝釈・閻魔法王・水神・風神・山神・海神、大日如来・普賢・文珠・日月等の諸尊たちにほめられるので、無量の大難を忍んだのである。ほめられれば我が身の損することもかえりみず、またそしられるときは我が身の破られることもしらずにふるまうのは凡夫の常のあり方である。
[12]いかなることがあっても、このたびは信心を強くして法華経の行者となりとおし、日蓮の一門とおなりなさい。日蓮と同意ならば地涌の菩ではないか。地涌の菩にさだまれば、釈尊の久遠からの本化の弟子であることは疑いのないことであろう。涌出品には「我は久遠よりこのかたこれらの衆を教化す」と説かれている通りである。末法において妙法蓮華経の五字を弘める者は、男女の区別をつけるべきではない。みな地涌の菩の出現でなければ、唱えがたき題目である。

六 法華経に名を立て身をまかせ


[13]日蓮が一人で初めは南無妙法蓮華経と唱え出したが、二人三人百人と次第に唱え伝えていくのである。未来もまたこのようになっていくことであろう。このことがすなわち地涌ということの意義ではなかろうか。大地の中から無数の人々が湧出して、広くこの妙法が流布したときは、日本中に南無妙法蓮華経と唱える人々で満ちれることは、まさに大地を的とするようにたしかなことである。ともかくも法華経に名を立て身をまかせて、経文のごとくに実践してみることである。
[14]仏や多宝仏、それに十方の諸仏菩が、霊鷲山の虚空会(法華本門の会座)において、釈・多宝の二仏がうなずき合いつつ定められたのはほかのことではない、ただひとえに末法の世に、法華経が久しく弘まっていくことのためであった。すでに多宝仏は宝塔の中にあって、半座を分けて釈如来にゆずられたとき、妙法蓮華経の旗を立て、釈・多宝の二仏が大将となって定められたことには、断じていつわりはないはずである。それはまさしくわれら衆生を仏にさせようとする御話し合いであったのである。日蓮はその座にいたわけではないが、経文を見ると少しの疑問もないところである。またその座にあるいはいたのかもしれないのだが、凡夫なので過去のことを覚えていない。だが現在のことはよく見えており、法華経の行者である。また未来についても間違いなく仏の道場に詣ることは決定している。過去のこともこうした点から推察してみると、虚空会にも列なっていたことであろう。過去・現在・未来の三世は別々ではないからである。

七 日蓮は泣かねども涙ひまなし


[15]このように思い続けてみると、日蓮はいま流人であるけれども、喜悦は計りしれないほどである。うれしいことにも涙、つらいことにも涙で、善悪に涙は共通するものである。かの千人の阿羅漢が仏の入滅後に集まって、仏のことを思い出しながら涙を流しつつ文殊師利菩は、妙法蓮華経と唱えられると、千人の阿羅漢の中の一人であった阿難尊者は、泣きながら「私はこのように聞いた」と答えられた。他の九百九十九人も泣きながら涙を硯の水として、また「私はこのように聞いた」と記したうえに、妙法蓮華経と書き付けられたのである。いま日蓮もそのように涙を流しているのである。
[16]このような身の上となったのも、妙法蓮華経の五字七字の題目を弘めたからである。釈仏と多宝仏が、未来の日本国の一切衆生を仏にさせるために、留めおかれたところの妙法蓮華経であると、日蓮も聞いていたからである。現在の大難を思いながらも涙、未来の成仏を思って喜ぶにも涙がとめどもない状態である。鳥と虫とは鳴いても涙を落とさないけれど、日蓮は泣かないが涙は乾くひまがないほどである。この涙は世間一般の私情で流しているのではなく、ただひとえに法華経のためであるから、甘露の涙ともいえるであろう。涅槃経には「父母・兄弟・妻子・属と別れを惜しんで流す涙は、四大海の水よりも多いといえるが、仏法のためには一滴の涙もこぼさない」とある。
[17]法華経の行者となることは、過去からの永い因縁によるものである。同じ草木であっても、仏像として造られていくものは、やはり永い因縁による。仏であっても実仏ではなく権仏(仮の仏)として造られていくことも、またすべて過去世からの永い因縁によるものなのである。

八 行・学の二道


[18]この文章の中には日蓮にとって大事な法門を書いておいたので、よく充分に読んで理解してほしい。
[19]特に一閻浮提第一の最も優れた御本尊を信仰して、真剣に心の底から信心を強く盛んにし、釈仏・多宝仏・十方分身の諸仏のご守護がいただけるよう心がけることが大切である。またさらに修行と学問の二道を怠らず励むことが肝心である。この行と学の二道が絶えるようなことがあれば、仏法は滅亡してしまう。まず自分自身がこの二道を励み、得たことはただちに他の人々に教えていくべきである。そしてこの行学の二道は、信心から起こり始まっていくのである。もしも自分に力があったならば、たとえ一文一句であっても、他に向かって語り伝えていくべきである。
[20]南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。恐れながら謹んで申し上げる。
[21]<日>五月十七日
[22]<人>日 蓮 <花押>花押
[23]追加して申し上げるが、日蓮が受けついだ法門等については、前々から書いてお知らせした通りである。しかしこの文章は特に大事なことを記しておいた。不思議な過去からの契約によるものであろうか。あるいは涌出品に書かれている六万恒沙の上首である上行等の四菩が形をかえて現われたのであろうか。きっと深いわけがあるにちがいないであろう。すべて日蓮の身に当たっての法門をあなたにおわたしした。日蓮はもしかすると涌出品に説かれている六万恒沙の地涌の菩の使者であるかもしれない。それは南無妙法蓮華経と唱えながら、日本国中の男女を導こうとしているからである。涌出品の中に「一人は上行菩と名づく、乃至この人は唱導の師である」と説かれているではないか。あなたはまことに宿縁が深い人で、私の弟子となったわけであるが、この文章は充分に注意して大事にして頂きたい。それは日蓮がすでに証したところの法門を書き付けてあるからである。ではこれで筆を擱くことにしよう。
[24]<先>最蓮房御返事