諸法実相鈔
122 諸法実相鈔
日蓮 記之
日蓮 記之
問云法華経第一方便品云諸法実相乃至本末究竟等[云云]。此経文の意如何。答云下地獄より上仏界までの十界の依正の当体、悉一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云経文也。依報あるならば必正報住すべし。釈云依報正報常宣妙経等[云云]。又云実相必諸法諸法必十如十如必十界十界必身土[云云]。又云阿鼻依正全処極聖自心毘盧身土不逾凡下一念[云云]。此等の釈義分明也。誰か疑網を生ぜんや。されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし。釈迦多宝の二仏と云も、妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時、事相に二仏と顕れて宝塔の中にしてうなづき合給ふ。
かくの如き等の法門日蓮を除ては申出す人一人もあるべからず。天台妙楽伝教等は心には知給へども言に出し給ふまではなし。胸の中にしてくらし給へり。其も道理なり。付属なきが故に、時のいまだいたらざる故に、仏の久遠の弟子にあらざる故に、地涌の菩薩の中の上首唱導上行無辺行等菩薩より外は、末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給のみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし。是即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故也。
されば釈迦多宝の二仏と云も用の仏也。妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ。経云如来秘密神通之力是也。如来秘密は体の三身にして本仏也。神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし。凡夫は体の三身にして本仏ぞかし。仏は用の三身にして迹仏也。然ば釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備へ給と思ひしに、さにては候はず。返て仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫也。其故は如来と云は天台釈に如来者十方三世諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏通号と判じ給へり。此釈に本仏と云は凡夫也。迹仏と云は仏也。
然ども迷悟の不同にして生仏異なるに依て、倶体倶用の三身と云事をば衆生しらざる也。さてこそ諸法と十界を挙て実相とは説れて候へ。
実相と云は妙法蓮華経の異名也。諸法妙法蓮華経と云事也。地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相也。餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず。仏は仏のすがた、凡夫は凡夫のすがた、万法当体のすがたが妙法蓮華経の当体也と云事を諸法実相とは申也。天台云実相深理本有妙法蓮華経[云云]。此釈の意は実相の名言は迹門に主づけ、本有妙法蓮華経と云は本門の上の法門也。此釈能能心中に案じさせ給へ候へ。
日蓮末法に生れて上行菩薩の弘め給べき所の妙法を先立て粗ひろめ、つくりあらはし給べき本門寿量品の古仏たる釈迦仏、迹門宝塔品の時涌出し給ふ多宝仏、涌出品の時出現し給ふ地涌の菩薩等を先作り顕し奉る事、予が分斉にはいみじき事也。日蓮をこそにくむとも内証にはいかが及ん。さればかゝる日蓮を此島まで遠流しける罪無量劫にもきへぬべしとも覚へず。譬喩品云若説其罪窮劫不尽とは是也。又日蓮を供養し、又日蓮が弟子檀那となり給事、其功徳をば仏の智慧にてもはかり尽し給べからず。経云以仏智慧籌量多少不得其辺と云へり。
地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人也。地涌の菩薩の数にもや入なまし。若日蓮地涌の菩薩の数に入らば豈日蓮が弟子檀那地涌の流類に非や。経云能窃為一人説法華経乃至一句当知是人則如来使如来所遣行如来事。豈別人の事を説給ならんや。
されば余りに人の我をほむる時は如何様にもなりたき意の出来し候也。是ほむる処の言よりをこり候ぞかし。末法に生れて法華経を弘ん行者は三類の敵人有て流罪死罪に及ばん。然れどもたえ(堪)て弘ん者をば衣を以釈迦仏をほひ給べきぞ、諸天は供養をいたすべきぞ、かたにかけ、せなかにをふべきぞ、大善根の者にてあるぞ、一切衆生のためには大導師にてあるべしと、釈迦仏多宝仏十方の諸仏菩薩、天神七代地神五代の神神、鬼子母神十羅刹女、四大天王梵天帝釈閻魔法王、水神風神山神海神、大日如来普賢文殊日月等の諸尊たちにほめられ奉る間、無量の大難をも堪忍して候也。ほめられぬれば我身の損ずるをもかへりみず、そしられぬる時は又我身のやぶるるをもしらず、ふるまふ事は凡夫のことはざ(為業)なり。
いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給べし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑や。経云我従久遠来教化是等衆とは是也。末法にして妙法蓮華経の五字を弘ん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非んば唱へがたき題目也。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給べし。
釈迦仏多宝仏十方の諸仏菩薩虚空にして二仏うなづき合、定めさせ給しは別の事には非ず。唯ひとへに末法の令法久住の故也。既に多宝仏は半座を分て釈迦如来に奉り給し時、妙法蓮華経の旛をさし顕し、釈迦多宝の二仏大将としてさだめ給し事あにいつはりなるべきや。併ら我等衆生を仏になさんとの御談合也。日蓮は其座には住し候はねども、経文を見候にすこしもくもりなし。又其座にもやありけん。凡夫なれば過去をしらず。現在は見へて法華経の行者也。又未来は決定として当詣道場なるべし。過去をも是を以推するに虚空会にもやありつらん。三世各別あるべからず。
此の如く思ひつづけて候へば流人なれども喜悦はかりなし。うれしきにもなみだ、つらきにもなみだなり。涙は善悪に通ずるものなり。彼の千人の阿羅漢、仏の事を思ひいでて涙をながし、ながしながら文殊師利菩薩は妙法蓮華経と唱へさせ給へば、千人の阿羅漢の中の阿難尊者はなき(泣)ながら如是我聞と答給ふ。余の九百九十九人はなくなみだ(涙)を硯の水として、又如是我聞の上に妙法蓮華経とかきつけし也。今日蓮もかくの如し。かゝる身となるも妙法蓮華経の五字七字を弘むる故也。釈迦仏多宝仏、未来日本国の一切衆生のためにとどめをき給ふ処の妙法蓮華経也と、かくの如く我も聞し故ぞかし。現在の大難を思つづくるにもなみだ、未来の成仏を思て喜にもなみだせきあへず。鳥と虫とはなけ(鳴)どもなみだをちず。日蓮はなかねどもなみだひまなし。此なみだ世間の事には非ず。但偏に法華経の故也。若しからば甘露のなみだとも云つべし。涅槃経には父母兄弟妻子眷属にわかれ(別)て流すところの涙は四大海の水よりもをゝしといへども、仏法のためには一滴をもこぼさずと見えたり。法華経の行者となる事は過去の宿習なり。同じ草木なれども仏とつくらるるは宿縁なるべし。仏なりとも権仏となるは又宿業なるべし。
此文には日蓮が大事の法門どもかきて候ぞ。よくよく見ほどかせ給へ。意得させ給べし。一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。あひかまへて、あひかまへて、信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給べし。行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給べし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。恐々謹言。 五月十七日 日蓮 花押
追申候。日蓮が相承の法門等前前かき進らせ候き。ことに此文には大事の事どもしるしてまいらせ候ぞ。不思議なる契約なるか。六万恒沙の上首上行等の四菩薩の変化歟。さだめてゆへあらん。総じて日蓮が身に当ての法門わたしまいらせ候ぞ。日蓮もしや六万恒沙の地涌の菩薩の眷属にもやあるらん。南無妙法蓮華経と唱へて日本国の男女をみちびかんとおもへばなり。経云一名上行乃至唱導之師とは説かれ候はぬか。まことに宿縁のをふところ予が弟子となり給。此文あひかまへて秘し給へ。日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ。とどめ畢。 最蓮房御返事