妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

祈祷鈔

全集 第4巻 2段 定本: #113(定本の該当ページへ)

書下し

きとうしよう


[1]<人>本朝沙門 日蓮 
[2]問うて云く、華厳宗けごんしゆう法相宗ほつそうしゆう三論宗さんろんしゆう・小乗の三宗・真言宗・天台宗のいのりをなさんに、いづれかしるしあるべきや。答て云く、仏説なればいづれも一往いちおうは祈となるべし。ただ法華経をもていのらむ祈は、必ず祈となるべし。
[3]問うて云く、その所以ゆえはいかん。答て云く、二乗は大地微塵劫みじんこうを経て、先四味せんしみの経を行ずとも成仏すべからず。法華経は、須臾しゆゆの間これを聞て仏になれり。もししからば、舎利弗・葉等の千二百・万二千、じて一切の二乗界の仏は、必ず法華経の行者の祈をかなふべし。また行者の苦にもかわるべし。故に信解品に云く、〔「世尊は大恩まします。希有けうを以て、憐愍教化りんみんきようけして、我等を利益りやくしたもう。無量億劫むりようおつこうにも、誰か能報よくほうする者あらん。手足しゆそくをもて供給くきゆうし、頭頂づちようをもて礼敬らいきようし、一切をもて供養すとも、みな報することあたわず。もしは以て頂戴ちようだいし、両肩りようけん荷負かふして、恒河沙劫こうがしやこうにおいて、心を尽して恭敬くぎようし、また美膳みぜん、無量の宝衣ほうえ、及び諸の臥具がぐ、種種の湯薬とうやくを以てし、牛頭栴檀ごづせんだん、及び諸の珍宝ちんぽう以てとうみようたて、宝衣を地にきかくのごとき等の事を以用もつて供養すること、恒沙劫においてすとも、また報することあたわじ」〕等云云。
[4]この経文は、四大声門しだいしようもんが譬諭品を聴門ちようもんして、仏になるべきよし心得こころえて、仏と法華経の恩の報じがたき事を説けり。されば二乗の御ためには、この経を行ずる者をば、父母よりも愛子よりも、両眼よりも身命よりも、大事にこそおぼしめすらめ。舎利弗・目連等の諸大声聞しよだいしようもんは、一代聖教いちだいしようぎよういづれもさんたんせん行者を、すておぼす事はあるべからずとは思へども、爾前にぜんの諸経は、すこしうらみおぼす事もあるらん。「於仏法中おぶつぽうちゆう已如敗種いによはいしゆ」なんど、したゝかにいましめられ給し故なり。今の華光如来・名相如来・普明如来なんどならせ給ひたる事は、おもはざる外の幸なり。例せば崙山*こんろんざんのくづれて、宝の山に入りたる心地してこそおはしぬらめ。されば領解りようげの文に云く「無上宝珠むじようほうじゆ不求自得ふぐじとく」等云云。されば一切の二乗界、法華経の行者をまほり給はん事は疑あるべからず。あやしの畜生なんども、恩をば報ずる事に候ぞかし。かりと申す鳥あり、必ず母の死なんとする時孝ときこうをなす。狐はつかあとにせず。〔畜生すら、なおかくのごとし〕。いはんや人類をや。
[5]されば王寿と云ひし者道を行きしに、うえつかれたりしに、みちほとりに梅の樹あり。その多し、寿とりて食してうへやみぬ。我この梅の実を食して気力をます。その恩を報ぜずんばあるべからずと申して、きぬをぬぎて梅にけてさりぬ。王尹おういんと云ひし者は道を行くに水に渇しぬ。河をすぐるに、水をのんで銭を河に入て、これを水のあたえとす。竜は必ず袈裟けさけたる僧を守る。仏より袈裟をたびて、竜宮城の愛子に懸させて、こんじちようの難をまぬがるるゆえなり。金鳥は、必ず父母孝養の者を守る。竜は須弥山しゆみせんを動かして、金鳥の愛子を食す。金鳥は、仏の教によて父母の孝養をなす者、僧のとるさんば(生飯)を須弥のいただきにをきて、竜の難をまぬがるる故なり。
[6]天は必ず戒を持ち善を修する者を守る。人間界に戒を持たず善を修する者なければ、人間界のひと死して多く脩羅道しゆらどうに生ず。脩羅多勢なれば、をごりをなして、必ず天ををかす。人間界に戒を持ち善を修するの者多ければ、人死して必ず天に生ず。天多ければ脩羅をそれをなして、天ををかさず。故に戒を持ち善を修する者をば、〔天必ずこれを守る〕。いかにいはんや二乗は、六凡より戒徳も勝れ、智慧賢ちえかしこき人人なり。いかでか我成仏を遂げたらん法華経を行ぜん人をば捨つべきや。
[7]また一切の菩並に凡夫は、仏にならんがために、四十余年の経経を無量劫があいだ行ぜしかども、仏に成る事なかりき。しかるを法華経を行じて、仏と成て今十方世界におはします。仏仏の十二そう八十種好しゆごうをそなへさせ給て、九界の衆生にあをがれて、月を星のめぐれるがごとく、須弥山を八山のめぐるがごとく、日輪を四州の衆生の仰ぐがごとく、王を万民の仰ぐがごとく、仰がれさせ給ふは、法華経の恩徳にあらずや。
[8]されば仏は法華経にいさめて云く〔「また舎利しやりを安することをもちいざれ」〕。涅槃経に云く〔「諸仏の師とする所は、いわゆる法なり。この故に如来、恭敬くぎよう供養す」〕等云云。法華経には我舎利を法華経にならぶべからず。涅槃経には諸仏は法華経を恭敬供養すべしと説かせ給へり。仏この法華経をさとりて仏になり、しかも人に説き聞かせ給はずば、仏種ぶつしゆをたゝせ給ふとがあり。この故に釈如来は、この娑婆しやば世界に出でて説かんとせさせ給ひしを、元品*がんぽんの無明と申す第六天の魔王まおうが、一切衆生の身にいりて、仏をあだみて説かせまいらせじとせしなり。
[9]いはゆる波瑠璃王*はるりおうの五百人の釈人を殺し、鴦崛摩羅*おうくつまらが仏をおい、提婆が大石をはなち旃遮婆羅門女*せんしやばらもんによが鉢を腹にふせて仏の御子みこと云ひし、婆羅門城には、仏を入れ奉る者は五百両の金をひきき。されば道にはうばらをたて、いどにはふんを入れ、門にはさかむき(逆木)をひけり、食には毒を入れし、皆この仏をにくむ故に。華色*けしき比丘尼を殺し、目連は外道*ちくじようげどうに殺され、留陀夷*かるだい馬糞ばふんうもれし、皆仏をあだみし故なり。
[10]しかれども仏さまざまの難をまぬかれて、御年七十二歳、仏法を説き始られて、四十二年と申せしに、中天竺王舎城ちゆうてんじくおうしやじよう丑寅耆闍崛山うしとらぎしやくつせんと申す山にして、法華経を説き始られて、八年まで説かせ給て、東天竺尸那とうてんじくくしな跋提河ばつだいがの辺にして、御年八十と申せし、二月十五日の夜半に御涅槃に入らせ給ひき。しかりといへども、御悟おんさとりをば法華経と説きをかせ給へば、この経の文字はすなわち釈如来の御魂みたまなり。一一の文字は仏の御魂なれば、この経を行ぜん人をば、釈如来我御眼わがおんまなこのごとくまほり給ふべし。人の身に影のそへるがごとく、そはせ給ふらん。いかでかいのりとならせ給はざるべき。
[11]一切の菩は、また始め華厳経より四十余年の間、仏にならんと願ひ給ひしかどもかなはずして、法華経の方便品の略開三顕一*りやくかいさんけんいちの時、〔「仏を求むる諸の菩大数だいしゆ八万あり。また諸の万億国の転輪聖王の至れる、合掌して敬心を以て、具足ぐそくの道を聞んと欲す」〕と願いしが、広開三顕一*こうかいさんけんいちを聞て、〔「菩この法を聞て疑網ぎもうすでちぬ」〕と説かせ給ぬ。
[12]その後自界他方じかいたほうの菩雲のごとく集り、星のごとくつらなり給ひき。宝塔品の時、十方の諸仏各各おのおの無辺の菩を具足して集り給ひき。殊は海より無量の菩を具足し、また八十万億那由陀なゆたの諸菩、また過八恒河沙かはちごうがしやの菩、地涌千界の菩、分別功徳品の六百八十万億那由陀恒河沙の菩、また千倍の菩、また一世界の微塵数みじんじゆの菩、また三千大千世界の微塵数の菩、また二千中国土の微塵数の菩、また小千国土の微塵数の菩、また四四天下ししてんげの微塵数菩、三四天下・二四天下・一四天下の微塵数の菩、また八世界微塵数の衆生、王品の八万四千の菩、妙音品の八万四千の菩、また四万二千の天子てんじ、普門品の八万四千、陀羅尼品の六万八千人、妙荘厳王品の八万四千人、勧発品の恒河沙等の菩、三千大千世界微塵数等の菩、これ等の菩くわしく数へば、十方世界の微塵のごとし。十方世界の草木のごとし。十方世界の星のごとし。十方世界の雨のごとし。これ等は皆法華経にして仏にならせ給ひて、この三千大千世界の地上・地下・虚空こくうの中にまします。
[13]葉尊者かしようそんじや足山けいそくざんにあり、文殊師利は清涼山*せいりようざんにあり、地蔵菩伽羅陀山からださんにあり、観音は補陀落山*ふだらくさんにあり、弥勒みろく兜率天*とそつてんに、難陀なんだ等の無量の竜王・阿脩羅王*あしゆらおう海底海畔かいていかはんにあり。帝釈たいしやく利天とうりてんに、梵王ぼんのう有頂天*うちようてんに、摩醯脩羅*まけいしゆらは第六の他化天たけてんに、天王は須弥しゆみの腰に、日月衆星は我等がまなこに見へて、頂上を照し給ふ。江神・河神・山神等も、皆法華経の会上えじようの諸尊なり。
[14]仏、法華経をとかせ給ひて年数二千二百余年なり。人間こそ寿いのちも短き故に、仏をも見たてまつそうろう人も侍らぬ。天上は日数は永く寿も長ければ、しかしながら仏をおがみ法華経を聴聞せる天人かぎり多くおはするなり。人間の五十年は四王天の一日一夜なり。この一日一夜をはじめとして、三十日は一月、十二月は一年にして五百歳なり。されば人間の二千二百余年は四天王の四十四日なり。されば日月並に毘沙門天王びしやもんてんのうは、仏におくれたてまつりて四十四日、いまだ二月にたらず。帝釈梵天なんどは仏におくれ奉りて、一月一時にもすきず。わづかの間にいかでか仏前の御誓おんちかひ、並びに自身成仏の御経の恩をばわすれて、法華経の行者をば捨てさせ給ふべき、なんど思いつらぬればたのもしき事なり。
[15]されば法華経の行者のいのいのりは、ひびきおとに応ずるがごとし。影のかたちにそえるがごとし。すめる水に月のうつるがごとし。方諸ほうしよの水をまねくがごとし。磁石の鉄をすうがごとし。琥珀こはくちりをとるがごとし。あきらかなる鏡の物の色をうかぶるがごとし。
[16]世間の法には、我がおもはざる事も、父母・主君・師匠・妻子・をろかならぬ友なんどの申す事は、はじある者はこころにはあはざれども、名利みようりをもうしなひ、寿いのちともなる事も侍るぞかし。いかにいはんや我心からをこりぬる事は、父母・主君・師匠なんどの制止を加ふれどもなす事あり。さればんよき(范於期)と云いし賢人は、我くびを切てだにこそ、けいか(軻)と申せし人には与へき。季札*きさつと申せし人は、約束のつるぎじよきみが塚の上に懸けたりき。
[17]しかるに霊山りようぜん会上にして身成仏せし竜女は、小乗経には五障ごしようの雲厚く三従さんじゆうのきづな強しと嫌はれ、四十余年の諸大乗経には、あるい歴劫りやくこう修行にたへずと捨てられ、或は初発心時しよほつしんじ便成正覚べんじようしようがくことばも、有名無実なりしかば、女人成仏もゆるさざりしに、たとい人間天上の女人なりとも成仏の道には望みなかりしに、竜畜下賤りゆうちくげせんの身たるに、女人とだに生れ、年さへいまだたけず、わづかに八歳なりき。かたがた思ひもよらざりしに、文殊の教化によりて、海中にして法師・提婆の中間、わづかに宝塔品を説かれし時刻に、仏になりたりし事はありがたき事なり。一代超過いちだいちようかの法華経の御力にあらずば、いかでかかくは候べき。
[18]されば妙楽は「行浅功深以顕経力ぎようせんくじんいけんきようりき」とこそ書かせ給へ。竜女は我が仏になれる経なれば、仏の御諫おんいさめなくとも、いかでか法華経の行者を捨てさせ給べき。されば自讚じさんたんぶつの偈には、〔「われ大乗の教をひらいて、苦の衆生を度脱とだつせん」〕等とこそ、すゝませさせ給しか。竜女の誓は、その所従しよじゆうの「非口所宣非心所測ひくしよせんひしんしよしき」の一切の竜畜の誓なり。婆竭羅しやから竜王は龍畜の身なれども、子をおもこころざし深かりしかば、大海第一の宝如意宝珠たからによいほうじゆをもむすめにとらせて、即身成仏そくしんじようぶつの御布施ふせにせさせつれ。このたまあたい三千大千世界にかふる珠なり。
[19]提婆達多は師子*ししきようおうには孫、釈如来には伯父たりし斛飯こくぼん王の御子、阿難尊者の舎兄あになり。善聞*ぜんもん長者のむすめの腹なり。転輪聖王てんりんじようおうの御一門、南閻浮提には〔いやしからざる人なり〕。在家にましましし時は、夫妻となるべきすたら女を悉達太子しつたたいしし取られ、宿世しゆくせかたきと思しに、出家の後に人天大会にんでんだいえの集まりたりし時、仏に汝は癡人唾ちじんつばきくらへる者とのられし上、名聞利養深かりし人なれば、仏の人にもてなされしをそねみて、我身には五法を行じて、仏よりたつとげになし、くろがねをのして千輻輪せんぷくりんにつけ、蛍火を集めて白毫びやくごうとなし、六万宝蔵ほうぞう・八万宝蔵を胸にうかべ、象頭*ぞうづ山に戒場を立て、多くの仏弟子をさそひとり、爪に毒を塗り仏の御足おんあしにぬらむと企て、蓮華比丘尼を打殺し、大石をはなつて仏の御指おんゆびをあやまちぬ。
[20]つぶさ三逆さんぎやくを犯し、結句けつくは五天竺の悪人を集め、仏並びに御弟子檀那おでしだんな等にあだをなすほどに、頻婆娑羅びんばしやら王は仏の第一の御檀那なり。一日に五百りようの車を送り、日日に仏並に御弟子を供養し奉りき。提婆そねむ心深くして、阿闍世あじやせ太子をかたらいて、父を終に一尺の釘七つをもてはりつけになし奉りき。終に王舎城の北門の大地われて、阿鼻大城あびだいじようちにき。三千大千世界の人、一人もこれを見ざる事なかりき。されば大地微塵劫みじんこうは過ぐるとも、無間むげん大城をば出つべからずとこそ思候おもいそうろうに、法華経にして天王てんのう如来とならせ給けるにこそ不思議に尊けれ。提婆達多、仏になり給はば、語らはれし所の無量の悪人、一業所感いちごうしよかんなればみな無間地獄の苦ははなれぬらん。これひとえに法華経の恩徳なり。されば提婆達多並びに所従の無量の属は、法華経の行者の室宅いへにこそ、住ませたもうらめとたのもし。
[21]諸の大地微塵のごとくなる諸菩は等覚の位までせめて、元品*がんぽん無明むみようばかりもちて侍るが、釈如来に〔値い奉て〕、元品の大石をわらんと思ふに、教主釈尊四十余年が間は、因分可説果分不可説いんぶんかせつかぶんふかせつと申て、妙覚みようがくの功徳を説き顕し給はず。されば妙覚の位に登る人、一人もなかりき。本意ほんいなかりし事なり。
[22]しかるに霊山りようぜん八年が間に、唯一仏乗名為果分ゆういつぶつじようみよういかぶんと説き顕し給しかば、諸の菩みな妙覚の位にのぼりて、釈如来と悟り等しく、須弥山のいただきのぼりて、四方を見しがごとく、長夜に日輪の出てたらんがごとく、あかなくならせ給たりしかば、仏の仰せ無くとも法華経を弘めじ、また行者にかわらじ、とはおぼしめすべからず。されば「我不愛身命がふあいしんみよう但惜無上道たんじやくむじようどう。不惜身命、当広説此経」等とこそ誓ひ給しか。
[23]その上慈父じふの釈仏・悲母ひも宝仏・慈悲の父母等、同く助証じよしようの十方の諸仏一座につらならせ給て、月と月とを集めたるがごとく、日と日とを並べたるがごとくましましし時、〔「諸の大衆に告ぐ、我滅度わがめつどのち、誰れかよくこの経を護持し読誦せんものなる。今仏前ぶつぜんにおいて、自誓言みづからせいごんを説け」〕と三度までいさめさせ給しに、八方四百万億那由陀の国土に充満せさせ給し諸大菩、身を曲低頭合掌まげていづがつしようし、ともに同時に声をあげて、〔「世尊のみことりのごとく、まさにつぶさ奉行ぶぎようしたてまつるべし」〕と三度まで声を惜まずよばわりしかば、いかでか法華経の行者にはかわらせ給はざるべき。
[24]はんよき(范於期)と云しもの、けいか(軻)に頭をとらせ、きさつ(季札)と云しもの徐君じよのきみが塚に刀をかけし、約束をたがへじがためなり。これ等は震旦辺土しんたんへんどのえびすのごとくなるものどもだにも、友の約束に命をもほろぼし、身に代へて思ふ刀をも塚にかけるぞかし。まして諸大菩は、本より大悲代受苦だいひだいじゆくの誓ひ深し。仏の御諫おんいさめなしとも、いかでか法華経の行者を捨て給べき。その上我うえわが成仏の経たる上、仏慇懃おんごんに諫め給しかば、仏前の御誓い丁寧なり。行者を助けたまふ事疑ふべからす。
[25]仏は人天のしゆ、一切衆生の父母なり。しかも開導かいどうの師なり。父母なれどもいやしき父母は主君の義をかねず。主君なれども父母ならざれば、おそろしきへんもあり。父母・主君なれども、師匠なる事はなし。諸仏はまた世尊にてましませば、主君にてはましませども、娑婆世界に出させ給はざれば、師匠にあらず。また「其中衆生悉是吾子ごちゆうしゆうじようしつぜごし」とも名乗なのらせ給はず。釈独主師親ひとりしゆししんの三義をかね給へり。
[26]しかれども四十余年の間は、提婆達多をのり給ひ、諸の声聞をそしり、菩果分かぶんの法門を惜み給しかば、仏なれども、よりよりは天魔破旬ばしの、我等をなやますかの疑い、人にはいはざれども、心の中には思ひしなり。この心は四十余年より法華経のはじまるまでせず。
[27]しかるを霊山八年の間に宝塔虚空に現じ、二仏日月のごとく並び、諸仏大地だいじつらなり、大山をあつめたるごとく、地涌千界じゆせんがいの菩が虚空に星のごとく列り給ひて、諸仏の果分かぶんの功徳をはき給しかば、宝蔵をかたふけて、貧人ひんにんにあたうるがごとく、崙山こんろんざんのくづれたるににたりき。諸人このたまをのみひろうがごとく、この八ケ年が間めずらしく貴き事、心髄しんずいにもとをりしかば、諸菩身命しんみょうも惜まず、ことばをはぐくまず誓ひをなせし程に、属累品ぞくるいほんにして釈如来宝塔をいでさせ給て、とびらを押たて給しかば、諸仏は国国へ返り給き。諸の菩等も諸仏に随ひ奉りて返らせ給ぬ。
[28]やうやく心ぼそくなりし程に、郤後きやくご三月まさに般涅槃はつねはんとなえさせ給し事こそ、心ぼそく耳をどろかしかりしかば、二乗人天等ことごとく法華経を聴聞して、仏の恩徳心肝おんとくしんかんにそみて、身命をも法華経の御ためになげて、仏に見せまいらせんと思しに、仏の仰せのごとく、もし涅槃せさせ給はば、いかにあさましからんと胸さはぎしてありし程に、仏の御年おんとし満八十と申せし二月十五日の寅卯とらうの時、東天竺舎衛とうてんじくしやえい尸那くしな跋提ばつだい河のほとりにして、仏御入滅ごにゆうめつなるべき由の御音おんこえかみ有頂うちよう、横には三千大千界までひびきたりしこそ、目もくれ心もきえはてぬれ。五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国・無量の粟散国ぞくさんこく等の衆生、一人も衣食えじき調ととのへず、上下をきらはず、牛馬狼狗ごめろうくしゆじゆみんもう等の五十二類の、一類の数、大地微塵をもつくしぬべし。いはんや五十二類をや。この類皆華香みなけこう衣食をそなへて、最後の供養とあてがひき。一切衆生の宝の橋をれなんとす。一切衆生のまなこぬけなんとす。一切衆生の父母主君師匠なんとす。なんど申すこえひびきしかば、身の毛のいよたつのみならず涙を流す。なんだをながすのみならず、頭をたゝき胸ををさへこえも惜まず叫びしかば、血の涙血のあせ尸那城に大雨よりもしげくふり、大河よりも多く流れたりき。これひとへに法華経にして仏になりにしかば仏の恩の報じがたき故なり。
[29]かゝるなげきのにわにても、法華経のてきをば舌をきるべきよし、座につらなりし人々のゝしり侍りき。かしよう童子菩は、法華経の敵の国には霜雹そうばくとなるべしと誓ひ給き。その時ほとけは、ふしよりをきてよろこばせ給て、善哉ぜんざい善哉とめ給き。諸菩は仏の御心をすいして、法華経の敵をうたんと申さば、しばらくもい(生)き給ひなんとおもいて、一一のちかいはなせしなり。されば諸菩・諸天人等は、法華経の敵の出来しゆつらいせよかし、仏前ぶつぜん御誓おんちかいはたして、しやかそん並びに多宝仏・諸仏如来にも、げに仏前にして誓しがごとく、法華経の御ためには、名をも身命をも惜まざりけりと思はれまいらせん、とこそおぼすらめ。いかに申す事はをそきやらん。
[30]大地はさゝばはづるるとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西よりづるとも、法華経の行者の、いのりのかなはぬ事はあるべからず。法華経の行者を諸の菩・人天・八部はちぶ等、二聖にしよう・二天・十羅刹じゆうらせつ等、千に一も来りてまほり給はぬ事侍らば、かみは釈諸仏をあなづり奉り、しもは九界をたぼらかすとがあり。行者は必ず不実なりとも、智慧はをろかなりとも、身は不浄なりとも、戒徳かいとくは備へずとも、南無妙法蓮華経と申さば、必ず守護し給べし。袋きたなしとて、こがねを捨つる事なかれ、伊蘭いらんをにくまば、栴檀あるべからず。谷の池を不浄なりと嫌はば、はちすを取るべからず。行者を嫌ひ給はば、ちかいを破り給ひなん。
[31]正像*しようぞう既に過ぎぬれば、持戒じかいは市の中の虎のごとし、智者は麟角りんかくよりもまれならん。月をまつまではともしびたのむべし。宝珠ほうじゆのなきところには金銀も宝なり。白烏*はくうの恩をば黒烏こくうに報ずべし。聖僧の恩をば凡僧に報ずべし。とくとく利生りしようをさづけ給へと強盛ごうじように申すならば、いかでかいのりのかなはざるベき。
[32]問て云く、かみにかゝせ給ふ道理文証もんしようを拝見するに、まことに日月の天におはしますならば、大地に草木のおふるならば、昼夜の国土にあるならば、大地だにも反覆はんぷくせずば、大海のしほだにもみちひるならば、法華経を信ぜん人、現世げんぜのいのり後生ごしよう善処ぜんしよは疑ひなかるべし。〔しかりといえども〕、この二十余年が間の天台・真言等の名匠、多く大事のいのりをなすに、はかばかしく、いみじきいのりありともみえず。なお外典げてんの者どもよりも、つたなきやうに、うちをぼへて見ゆるなり。恐らくは経文のそらごとなるか、行者のをこなひのをろかなるか、時機じきのかなはざるかと、うたがはれて、後生もいかんとをぼう。
[33]それはさてをきぬ。御房ごぼう山僧さんそう御弟子みでしとうけ給はる。父の罪は子にかゝり、師の罪は弟子にかゝるとうけ給はる。叡山の僧徒の薗城山門*おんじようさんもんの堂塔・仏像・経巻数千万をやきはらはせたまうが、ことにおそろしく、世間の人人もさわぎうとみあへるはいかに。前にも少少うけ給はり候ぬれども、今度くわしくきゝひらき候はん。ただし不審なることは、かゝる悪僧どもなれば、三宝の御意みこころにもかなはず、天地にもうけられ給はずして、いのりかなはざるやらんとをぼへ候はいかに。
[34]答て云く、せんぜんも少少申しぬれども、今度またあらあら申すべし。日本国にをいては、この事大切なり。これをしらざる故に多くの人、口に罪業ざいごうをつくる。づ山門はじまりし事は、この国に仏法わたりて二百余年、桓武かんむ天皇の御宇ぎように、伝教大師立て始め給しなり。当時の京都みやこは、昔聖徳太子王気おうきありとそうし給しかども、天台宗の渡らん時を待ち給し間、都をたて給はず。
[35]また上宮じようぐう太子の記に云く〔「我滅度わがめつど二百余年に、仏法日本に弘まるべし」〕云云。伝教大師延暦年中えんりやくねんちゆうに叡山を立て給ふ。桓武天皇はたいら京都みやこをたて給き。太子の記文きもんたがはざる故なり。されば山門と王家おうけとは、松とかしわとのごとし、らんしばとににたり。松かるればかならず栢かれ、らんしぼめば、またしばしぼむ。王法おうほうさかへは山の悦び、王位の衰へは山の歎きと見えしに、既に関東に移りし事、なにとか思食おぼしめしけん。
[36]〔秘法四十一人の行者。承久じようきゆう三年辛巳かのとみ四月十九日京夷乱きよういみだれし時、関東調伏ちようぶくのため、隠岐の法皇の宣旨によって、始めておこなわる御修法十五壇の秘法
[37]一字金輪法いちじこんりんほう〈天台座主慈円僧正。伴僧十二口。関白殿基通の御沙汰〉
[38]四天王法してんのうほう〈成興寺の宮僧正。伴僧八口。広瀬殿において修明門院の御沙汰〉
[39]不動明王法ふどうみようおうほう〈成宝僧正。伴僧八口。花山院禅門の御沙汰〉
[40]大威徳法だいいとくほう〈観厳僧正。半僧八口。七条院の御沙汰〉
[41]転輪聖王法てんりんじようおうほう〈成賢僧正。伴僧八口。同院の御沙汰〉
[42]十壇大威徳法じゆうだんだいいとくほう〈伴僧六口。覚朝僧正。俊性法印。永信法印。豪円法印。円僧都。慈賢僧正。賢乗僧都。仙尊僧都。行遍僧都。実覚法眼。已上十人大旨本坊においてこれを修す〉
[43]如意輪法によいりんほう〈妙高院僧正。伴僧八口。宜秋門院の御沙汰〉
[44]毘沙門法びしやもんほう〈常住院僧正。伴僧六口。資賃の御沙汰〉
[45]御本尊一日ごほんぞんいちにちこれをつくらる。調伏の行儀は如法愛染王法によほうあいぜんおうほう〈仁和寺御室の行法。五月三日これを始め、紫宸殿において二七日これを修せらる〉
[46]仏眼法ぶつげんほう〈大政僧正。三七日これを修す〉
[47]六字法ろくじほう〈快雅僧都〉
[48]愛染王法あいぜんおうほう〈観厳僧正。七日これを修す〉
[49]不動法ふどうほう〈勧修寺の僧正。伴僧八口。皆僧綱〉
[50]大威徳法だいいとくほう〈安芸僧正〉
[51]金剛童子法〈同人〉
[52]已上いじよう十五壇法了だんほうおわれり〕。五月十五日伊賀太郎判官光季いがのたろうはんがんみつすえ京にしてうたれ、おなじく十九日鎌倉にきこえ、同二十一日大勢軍兵上だいせいのぐんびようのぼると聞えしかば、〔のこるところの法六月八日これをおこない始めらる。
[53]尊星王法そんしようおうほう〈覚朝僧正〉
[54]太元法たいげんほう〈蔵有僧都〉
[55]五壇法ごだんほう〈大政僧正。永信法印。全尊僧都。円僧都。行遍僧都〉
[56]守護経法〈御室これを行わる。我朝二度これを行う〉〕
[57]五月二十一日武蔵の守殿海道かみどのかいどうより上洛し、甲斐源氏は山道さんどうのぼる、式部殿しきぶどのは北陸道をのぼり給ふ。六月五日大津をかたむる、甲斐源氏に〔破られおわんぬ〕。おなじく六月十三日十四日宇治橋の合戦、同十四日に京方きようがた〔破られおわんぬ〕。同十五日に武蔵守殿六条へ入給いりたまふ。諸人入りおわんぬ。七月十一日に本院は隠岐の国へ〔流され給い〕、中院は阿波の国へ〔流され〕給ひ、第三院は佐渡の国へ〔流され〕給ふ。殿上人てんじようびと七人〔誅殺せられおわんぬ〕。
[58]かゝる大悪法、年を経て漸漸ようように関東に落ちくだりて、諸堂の別当供僧くそうとなり連連れんれんと〔これをおこなう〕。もとより教法きようぼう邪正勝劣じやしようしようれつをば知食しろしめさず。ただ三宝をばあがむべき事とばかりおぼしめす故に、自然じねんとしてこれを用ひきたれり。関東の国国くにぐにのみならず、叡山・東寺・薗城寺*おんじようじの座主・別当、みな関東の御計おんはからいと成りぬる故に、かの法の檀那と成り給ぬるなり。
[59]問て云く、真言のおしえあながちに邪教と云ふ心いかん。答て云く、弘法大師云く第一大日経・第二華厳経・第三法華経と能能よくよくこの次第を案すベし。仏はいかなる経にかこの三部の経の勝劣を説き判じ給へるや。もし第一大日経・第二華厳経・第三法華経と説き給へる経あるならば、もっともしかるべし。その義なくんば、はなはだもつ依用えようしがたし。法華経に云く〔「薬王いま汝に告ぐ、我所説わがしよせつの諸経、しかもこの経の中において、法華最も第一なり」〕云云。仏まさしく諸教をあげて、その中において法華第一と説き給ふ。仏の説法と弘法大師の筆とは水火の相違そういなり。尋ね究むべき事なり。この筆を数百年が間、凡僧・高僧これをがくし、貴賤きせん・上下これを信じて、大日経は一切経の中に第一とあがめける事、仏意に叶はず。心あらん人は能能よくよく思ひ定むべきなり。
[60]もし仏意に相叶あいかなはぬ筆ならば、信ずともあに成仏すべきや。またこれを以て国土を祈らんに、〔まさに不祥を起さざるべきか〕。また云く〔震旦しんたんの人師等あらそつ醍醐*だいごを盗む」〕云云。文のこころは天台大師等真言教の醍醐をぬすみて法華経の醍醐と名づけ給へる事は、この筆さい第一の勝事しようじなり。法華経を醍醐と名づけ給へる事は、天台大師涅槃ねはん経の文をかんがへて、一切経の中には法華経を醍醐と名づくと判じ給へり。真言教の天竺てんじくより唐土とうどへ渡る事は、天台出世の以後二百余年なり。
[61]されば二百余年の後に渡るべき真言の醍醐を盗みて、法華経の名づけ給ひけるか。この事不審なり、不審なり。真言〔いまだわたらざる〕以前の二百余年の人人を盗人ぬすびととかき給へる事、証拠いずれぞや。弘法大師の筆をや信ずべき。涅槃経に法華経を醍醐と説けるをや信ずべき。もし天台大師盗人ぬすびとならば、涅槃経の文をばいかがこゝろうべき。さては涅槃経のもん真実にして、浄法の筆邪義じやぎならば、邪義のおしえを信ぜん人人はいかん。ただ弘法大師の筆と仏の説法と勘へ合せて、正義しようぎを信じ侍るべしと申すばかりなり。
[62]疑て云く、大日経は日如来の説法なり。もししからば釈尊の説法を以て大日如来の教法を打ちたる事、すべて道理に相叶はずいかん。
[63]答て云く、大日如来はいかなる人を父母として、いかなる国に出て、大日経を説き給けるやらん。もし父母なくして出世し給ふならば、釈尊入滅以後、慈尊じそん出世以前、五十六億七千万歳が中間ちゆうげんに、仏出て説法すべしと云ふ事、いかなる経文ぞや。もし証拠なくんば誰人だれびとか信ずべきや。かゝる僻事ひがごとをのみかまへ申す間、邪教とは申すなり。そのめいみようつくしがたし。わずか一二を出すなり。しかのみならず並びに禅宗・念仏等をこれをもちいる。これ等の法は皆未顕真実みけんしんじつ権教ごんきよう、不成仏の法、無間地獄の業なり。彼行人かのぎようにんまた謗法の者なり。いかてか御祈叶ふべきや。
[64]しかるに国主と成り給ふ事は、過去に正法をたもち、仏につかふるによりて、大小の王みな梵王・帝釈・日月・四天等の御計おんはからひとして、郡郷ぐんごうを領し給へり。いはゆる経に云く、〔「我今五眼われいま*ごげんをもて、あきらかに三世を見るに、一切の国王、皆過去世かこせに五百の仏にするによりて、帝王主ていおうしゆとなることを得たり」〕等云云。しかるに法華経をそむきて、真言・禅・念仏等の邪師じやしに付て、諸の善根ぜんごんしゆせらるるとも、あえて仏意に叶はず、神慮にもする者なり。能能よくよく案あるべきなり。
[65]人間に生を得る事すべれなり。適生たまたましよううけて、法の邪正を極めて、未来の成仏をせざらん事、返返かえすがえす本意にあらざる者なり。また慈覚大師御入唐以後、本師伝教大師に背かせ給ひて、叡山に真言を弘めんがために御祈請ごきしようありしに、日をるに日輪にちりん動転すと云ふ夢想を御覧じて、四百余年のあいだ諸人これを吉夢きつむと思へり。日本国はことに忌むべき夢なり。いん紂王ちゆうおう、日輪をまとにしてゆみいるにより身亡みほろびたり。この御夢想は権化ごんげの事なりとも、能能思惟よくよくしゆいあるべきか。よって九牛くぎよう一毛いちもう、〔ちゆうする所くだんのごとし〕。
現代語訳


文永九年(一二七二)、五一歳、於佐渡一谷、和文、定六六七—六八六頁。

[1]<人>日本の僧侶である日蓮が執筆

一 諸宗の祈について利益りやくの有無を論ず


[2]お尋ねするが華厳宗・法相宗・三論宗、それにくしや成実じようじつりつといった小乗の三宗と、真言宗・天台宗といった諸宗が祈をおこなった場合、どの宗の祈がもっとも霊験を現わすであろうか。お答えしよう、どの宗の祈も一応は仏説にもとづいているので祈ということができるが、しかし法華経によっておこなう祈こそがまことの祈であり、必ず祈も成就するであろう。
[3]重ねてお尋ねするが、それはどうしてであろうか。お答えしよう、そのわけはまず声聞・縁覚の二乗についてみるに、この人たちは大地を微塵にくだいた数よりもさらに多くの年数を修行したとしても、法華経以前の四味の諸経では、成仏することができないでいる。ところが法華経で制はほんのわずかな間に仏になることができたのである。したがって、舎利弗や葉等の千二百人、あるいは一万二千人をはじめ、すべての二乗界にありながら仏になれたものたちは、法華経の行者の祈りを必ずかなえさせるべきである。また行者の苦しみを代わってやるべきである。ゆえに信解品には、「世尊は大恩のあるかたである。これまでにさまざまな不思議な力をもって、われら衆生をあわれみ教化して利益を与えられた。この大恩には無量億の永年にわたっても、だれも報いることはできないであろう。手や足でお仕えしても、頭を下げて敬礼しすべての物を供養し尊敬しても、この大恩に報いることはできない。あるいは仏の両足を自分の掌にのせて拝伏し、両肩に背負って無量の永い間にわたり、心を尽くして恭敬し、また美味の料理やすばらしい着物や、そのほか上等の調度品や医薬品等を数多く供養し、さらに名香の栴檀や珍しい宝物をもって塔を建立し、宝を散りばめた衣を大地に敷いて供養することが永い間に及んでも、とうてい仏の恩に報いることは不可能なことである」と説かれている。
[4]この経文は四大声聞が譬品を聞いて仏になれるということを知り、仏と法華経の恩に報じがたいことを説いたものである。だから二乗の人人のためには、この法華経を修行し受持する者は、父母よりも愛しい子よりも両眼よりも、さらに命よりも大事に考えられたことであろう。舎利弗や目連等の諸大声聞は、仏一代の聖教についてどれでも讃する行者を見捨てるようなことはないと思うが、法華経以前に説かれた諸経の場合は、少し恨みをおぼえていることであろう。そのわけは諸経の中では二乗のことを、「仏法の中のおいては、すでに二乗の者は仏になるべき種子たねをくさらせてしまっている」などと強く成仏を否定されてしまっているからである。ところが今、法華経において舎利弗は華光如来、須菩提しゆぼだいは名相如来、その他の千二百の声聞衆は普明如来等と仏に成られたことは、思いもしなかった幸せである。例えば崙山が崩れて宝の山へ入ることができたような心持ちであったことだろう。だから二乗の人たちの領解した文の中に「このうえない宝の珠を求めずして、おのずと得ることができた」といっている。したがってすべての二乗界の者は、法華経の行者を守ることは疑いのないことである。卑しい畜生などでさえも受けた恩を忘れずに報いようとするものである。雁という鳥は、必ず母鳥が死にそうになったとき孝養をおこなう。また狐も死ぬときは自分の塚に背を向けないという。畜生でさえもこのように恩を忘れないのである。まして人間が恩を忘れてもよいといえるであろうか。
[5]それゆえに王寿という人は旅をしていて、飢え疲れてしまったので、路のわきに梅の木があり、実がたくさんついていたので、王寿はこれを食べて飢えをいやした。そこで彼は「私はこの梅の実を食べたおかげで気力を増すことができた。その恩を報じなくてはならない」といって、着ていた着物をぬいで、その梅の木に掛けてやって去って行ったという。また王尹という人は、道を歩いていて喉がかわき困っていたところ、ちょうど川に出たので、その水をのみかつをいやすことができたが、立ち去る時に川へ銭を入れてその代金としたという。さらに竜は必ず袈裟をかけた僧を守るといわれている。それは昔仏から袈裟をいただいて、これを竜宮城の愛しいわが子にかけさせ、おかげで金鳥に食われそうになった難をまぬがれることができたからである。金鳥は必ず父母に孝養する者を守る。その理由は竜は須弥山を動かして金鳥の愛しい子をたべてしまうので、金鳥は、仏の教えによって父母に孝養するものが僧を供養するために捧げる生飯さんばの残りを須弥山の頂上に置いて、竜の難からまぬがれることができたからである。
[6]天は必ず戒律をたもち善事をおこなう人を守るが、人間界に戒律をたもち善事をおこなう者がいないので、人間界の人は死んでから多くの者は修羅道に落ちることになる。修羅道の者が多くなると、その勢力に乗じて、必ず天上界を侵すことになる。人間界に戒律をたもち善事をおこなう者が多い場合は、人が死んだあと必ず天上界に生まれ、天上界が多くなれば、修羅は天上界をおそれてこれを侵すことをしない。だから戒律をたもち善事をおこなう者を、天は必ず守るのである。ましてや二乗は六道の者たちよりも戒徳も優れており、智も賢い人々ばかりである。どうして自分が成仏することのできた法華経を修行する人を見捨てたりなどすることがあろうか。

二 法華経の文字は仏の御魂みたましいである


[7]またすべての菩ならびに凡夫は仏に成ろうと思って、仏が四十余年の間に説かれた経々を無量の永きにわたって修行したけれども、ついに仏になることはできなかった。それなのに今、法華経を修行したことにより、ただちに仏になることができて、十方の世界におられる。また諸仏が三十二相や八十種好といった荘厳な姿を備えて、九界の衆生から拝まれて月の回りを星がめぐるように、須弥山を八つの山がめぐらしているように、太陽を東西南北の四州の衆生が仰ぐように、転輪聖王を万民が仰ぐように、みんなで仰ぎ見られていることは、ひとえに法華経の恩徳によるものというべきではないか。
[8]だから仏は法華経の法師品の中で、「この法華経を安置し仰ぎ見て供養するところには、また特別に仏の舎利を安置しなくともよろしい」と衆生を誡しめている。涅槃経では「諸仏の師とするところは、すなわち法である。ゆえに如来は法を恭敬し供養するのである」とも説かれている。また法華経では、仏が「わが舎利を法華経と並べてはいけない」と説き、涅槃経では「諸仏は法華経を恭敬し供養すべきである」と説かれている。仏はこの法華経を悟って仏になられたのである。しかもその法華経を他の人々に説き聞かせることをしなかったならば、仏になるべき種子を途中で断絶してしまう、という過失を犯してしまうことになるのである。そこで釈如来は、この娑婆世界に出生されて、法華経を説こうとされたところ、元品の無明という第六天の魔王がこれに反対して、一切衆生の身体の中に入りこみ、仏をかたきのごとくに思わせて、説くことを妨害しようとしたのである。
[9]すなわち波瑠璃王が五百人もの釈子の一族を殺し、鴦崛摩羅が仏を追いかけて危害を加えようとしたり、提婆が大石を放って仏を傷付けたり、旃遮婆羅門の女が鉢を腹に伏せて仏の御子を身ごもったといいふらして悪宣伝をおこない、婆羅門城の王が、もし仏を城内に入れた者がいたら五百両の罰金を取るといったので、城内の人々は道路にトゲの出たバラを立てて歩けないようにし、井戸には糞を入れて飲めないようにしたり、門には逆木を置いて入らないようにし、さらに食物には毒を入れて、仏の通行を妨害した。これらのことはすべて魔王が仏を憎んでやらせたことである。また仏の弟子であった華色比丘尼を殺したのも、目連が竹外道に殺害されたのも、留陀夷が馬糞の中へ埋められたのも、みな仏を憎んでのしわざであった。
[10]しかし仏はさまざまな難をまぬがれて、御年七十二歳のとき、仏法を説き始めてから四十二年目に、中インドの王舎城から北東の方向にある耆闍崛山という山で法華経を説き始められてから八年間をへて、東インドの尸那城跋提河のほとりで、御年八十歳の二月十五日夜半に、御涅槃に入られたのである。しかしながらその仏のお悟りの内容は、法華経にすべて説かれていると示されているので、法華経の文字はすなわち釈如来の御魂である。一字一字の経文は仏の御魂であるので、この経を修行する人を釈如来はわが御眼のように大切に守ってくださるのである。ちょうど人の身体に影が添って離れないように、守ってくださるであろう。だからどうして祈りが成就しないことがあろう。

三 諸菩や諸天諸神は法華経によって成仏


[11]またすべての菩は、始めの華厳経から四十余年間にわたって、仏になろうと願って努力してきたが果すことができず、法華経の方便品において略開三顕一の説法をされたとき、「仏になろうとするもろもろの菩と八万の人々、また万億という数の国の転輪聖王が、仏に対して合掌し、敬いの心をもって、具足の道をお聞きしたい」と願い出た。そこで仏はさらに広く開三顕一の法門を説かれたのである。「菩たちはこの法門を聞いて、みな疑問に思っていたことがことごとく理解できた」と説かれているのである。
[12]その後、この国土や他方の国土から、続々と菩が雲のように集まり、星の数のごとく列席した。すなわち宝塔品のとき、十方の諸仏が各自無辺の菩をしたがえて集合された。提婆品のときは文殊菩が海中より無量の菩をしたがえて現われ、勧持品の時は八十万億那由他の諸菩が、さらに涌出品では八恒河沙に過ぎた菩と、大地から涌出した千界を微塵にした数ほどの菩、分別功徳品では六百八十万億那由陀恒河沙の菩、またその千倍の菩、一世界を微塵にしたほどの数の菩、三千大世界を微塵にしたほどの数の菩、また二千の中国土を微塵の数にしたほどの菩、小千国土を微塵にしたほどの数の菩、さらに四つの四天下・三つの四天下・二つの四天下・一つの四天下をそれぞれ微塵にしたほどの菩、また八世界を微塵にしたほどの数の衆生、さらに薬王品の八万四千の菩、妙音品の八万四千の菩、また四万二千の天子、普門品の八万四千人、陀羅尼品の六万八千人、妙荘厳王品の八万四千人、勧発品の恒河沙等の菩、三千大千世界微塵数等の菩、これらの菩を詳しく数えれば、十方世界を微塵にした数ほどであり、十方世界の草木のごとくである。また十方世界の星の数のごとくであり、雨のつぶのごとくである。これらの数えきれないほどの菩は、みな法華経によって仏になられたのであり、この三千大千世界の地上や地下、さらの虚空の中におられるのである。
[13]すなわち葉尊者は鶏足山におられ、文殊師利は、清涼山に、地蔵菩は伽羅陀山に、観音は補陀落山に、弥勒菩は兜率天に、難陀等の無量の竜王や阿修羅王は海底か海畔にあり、帝釈は利天に、梵王は有頂天に、そして摩醯修羅は第六の他化天に、四天王は須弥山の中腹に、日月衆星はわれらの眼で見ることができるように、天空の頂上にあってあたりを照らしておられる。そのうえさらに江神も河神も山神等も、みな法華経を説法された会座の諸尊である。
[14]仏が法華経をお説きになられて、二千二百年余りも経過しているが、人間は寿命が短いので、仏を実際に見ることのできた人はすでにこの世にはいないが、天上界では日数も永く寿命も長いので、法華経を聴聞した天人は数かぎりなくおられる。人間の五十年は四天王の一日一夜にあたる。したがってこの一日一夜をもととして三十日で一か月、十二か月で一年となり、五百歳の寿命があるから人間の二千二百年余りの年月は四天王の四十四日に相当する。だから日月ならびに毘沙門天王は、仏におくれていること四十四日であって、まだ仏が入滅されてから二か月もたっていないことになる。帝釈や梵天などは仏の入滅後まだ一月か一時しかすぎていないことになる。このようなわずかな間に、どうして仏の前でのお誓いや、ならびに自分が成仏することのできたお経のご恩を忘れて、法華経の行者を捨ててかえりみないなどということができえようか、などと思いつづけると頼もしいことである。
[15]したがって、法華経の行者の祈る祈りは、響きの音に応じ、影の体に添うように、また澄んだ水に月がうつるように、水の精が水を招きよせるように、磁石が鉄を吸い付けるように、また琥珀が塵をとるように、明鏡があらゆる物の色をうつし出すようなものであり、祈りは必ず成就されるのである。

四 竜女と提婆の成仏とその守護


[16]一般世間の法においても、自分が考えていないことであっても、父母・主君・師匠・妻子ならびに親しい友達などから依頼されたことには、恥を知る者ならば、わが心に合わないことであっても、名誉や利益を失うようなことになっても、さらに命に及ぶようなことであっても、実行するのである。ましてやわが心から良いことなので実行しようと決めて行なうことは、たとえ父母・主君・師匠などの制止や妨害にあったとしても、断行することがある。たとえば中国の范於期という賢人は、約束を守ってわが頸を切り、軻という人に与えた。また季札という人は約束した剣を徐の君の墓にかけたという物語があるほどである。
[17]このように一般世間のことでも、一度決めたことは必ず守ることになっている。ましてや仏道においてはなおさらのことである。すなわち霊山の法華の会座において即身成仏することが決まった竜女は、たとえ小乗の経典で、五つのさわりがあり、三つの従うべきことがあって、強く嫌われ、また法華以前に説かれた諸経では、女は永い間の修行には耐えられないからといって捨てられ、あるいは華厳経で「最初に菩提心をおこしたとき、すなわち正覚を成ずることができる」と説かれたものの、名だけあって実際には成仏ができなかったので、女人が仏になることは許されていないのであった。たとえ人間界や天上界の女人であっても成仏することの望みはありえなかったのに、竜という畜生界動物の女として生まれ、年齢もわずかに八歳という。まったく成仏は思いもよらないことだったのに、文殊菩の教化を受け、海中において法華経を聞き、仏が法師品と提婆品の中間に説かれた宝塔品の時刻において仏になられたことは、いまだかつてないありがたい事であった。仏一代の中で諸経に越えた法華経の御力でなければ、どうしてもかなうことのできないことである。
[18]だから妙楽大師はこの竜女成仏について、「修行は浅くして功徳は深く、もって経力を顕わす」と書かれている。竜女は自分が仏になることのできたお経なのだから、仏の命令がなくても、どうして法華経の行者を見捨てるようなことができようか、そのようなことは決してできないであろう。だからみずから仏を讃した偈文の中に、「われは大乗の教えをひらいて苦しみの衆生を救いましょう」といわれているのである。この竜女の誓いはただちにその従っている他のすべての竜畜の誓いであって、言葉や心で測ることのできない深いものである。竜女の父である娑竭羅竜王は、竜畜の身であるが子を思う志が深かったので、大海の中で第一の宝である如意宝珠を娘に与えて、即身成仏のための御布施とされたのである。この珠は価値が三千大世界のすべての物に相当するほどの珠である。
[19]提婆達多は師子王の孫であり、釈如来には伯父である斛飯王の御子で、かの阿難尊者の兄にあたる。善聞長者の娘の子であり、転輪聖王のご一門であってこの南閻浮提の中では身分の賤しくない人物である。在家にいた時は、夫妻となるべきはずであった耶輸多羅女を悉達太子に取られてしまい宿世の敵と思い込んでいたが、出家のあとは人間や天人の多数集まった席上、仏から「お前は痴人で他人の唾を食べた者」とののしられたうえに、人一倍名誉や欲望の深い人だったので、仏が他の人人から手厚くもてなされているのを見て、ねたみそねみの心が湧きでてきた。そしてわが身に五つの修行を積み、仏よりも尊げなふるまいをし、鉄をのばして足の裏に千輻輪という仏の三十二相の一つである福相を焼き付け、さらに蛍を集めて眉間の白毫相のように見せかけ、六万宝蔵や八万宝蔵といわれる仏教を自分の説のごとくに説き、象頭山には戒場をこしらえて、多くの仏弟子たちを誘い取り、さらに爪に毒を塗って仏の御足に塗り込めようと考えたりした。そのうえ、蓮華比丘尼を打ち殺し、大石をなげて仏の足の指から血を流させたりしたのである。
[20]こうして三逆罪、すなわち仏の身から血を出させ、僧団の和合を乱し、仏弟子を殺してしまったのである。結局は全インドの悪人を集めて、仏やその弟子および檀信徒にまで被害をおよぼしたのであった。ときに仏の第一番の檀信徒であった頻婆娑羅王は、一日に五百輛の車にご供養の品物を積んで仏に奉っていたが、これを見た提婆はそねむ心が深く起こり、阿闍世太子をそそのかし、父王をついに一尺の釘七本で、張りつけにしてしまったのである。こうした悪事を重ねたので、ついに王舎城の北門の大地が破れて阿鼻地獄に落ちてしまった。三千大千世界の人々は一人のこらずこの様子を見て知っている。だから大地を微塵にしたほどの永い年月を過ぎても、無間地獄の大城から出ることはできないであろうと思っていたのに、法華経において天王如来となられたことは、まことにもって不思議に尊いことである。提婆達多が仏にならなかったとしたら、誘われて悪の道へ入った数多くの悪人たちも、同じ悪の仲間同志なので、みな無間地獄の苦しみを離れることはできないであろう。悪人の仲間もともに仏になれることになったのもひとえに法華経のおかげである。だから提婆達多とそれに付き従った数多くの属たちは、その法華経の行者の住む家に居られて守護することであろうと、頼もしく思う次第である。

五 諸大菩の行者守護


[21]大地を微塵にしたほどの数多くの諸菩らは、無量の煩悩を攻め破って仏の次の位にまで昇り、最後の一番もとになる無明という煩悩だけを残しているが、釈如来にお会いして、この元品の無明という大石を割ってしまおうとしたのだが、教主釈尊は始めの四十余年の間は、因位の修行方法については説かれているが、証果の法門についてはお説きになっておられないので、妙覚という悟りの功徳はまだ説きあらわされていない。したがって妙覚の位に登る人は一人もいなかったのである。これは本意のないことであった。
[22]しかるに霊鷲山で八年にわたり、仏は法華一仏乗をお説きになり、諸菩はみな妙覚の位に到達して、釈如来と悟りが等しくなった。ちょうど須弥山の頂に登って四方を眺めたように、長い夜が明けて太陽が出たように、すべてが明るくなったのであるから、仏のお言葉がなくとも、法華経を弘めないようにしようとか、または行者の苦難を替わってやることをしないでいようなどとは、思わないであろう。だから「私は身命に愛着せず、ただ一つ無上の道である妙法を惜しみ守ります」といい、「自分の身命を惜しまず、ひたすらこの法華経を広く説くことにつとめます」と誓願を立てられてのであった。
[23]そのうえ、慈父の釈仏・悲母の多宝仏、及び慈悲の父母とひとしく法華の真実たることの証明を助けた十方の諸仏が、一座につらなって月や日を集め並べたように明るく輝やく時、仏がその場の大衆に向かって、「私が滅度したのちに、だれかよくこの法華経を護持し読誦して弘める者はいないか。今仏前においてみずから誓いの言葉をのべてみよ」(宝塔品)と三度もおっしゃった。そのとき八方の四百万億那由陀もの国土に充満していたもろもろの大菩たちは、身を曲げ頭を下げて合掌し、ともに同時に声をあげて、「世尊のおっしゃった通りに、私どもは一所懸命に実行いたします」(嘱累品)と三回にわたって声も惜しまずお答えしたのだから、どうして法華経の行者の苦難に替わってやることができないでおられようか。
[24]中国の范於期という人は軻という人に自分の頭をとらせ、また季札という人は徐君の塚に刀をかけて、それぞれに約束を果たしている。これらは中国における辺境の身分の低い人々であるが、それでさえもきちんと友人との約束を命がけで守り、身にかえても実行した人たちである。ましてやもろもろの大菩といわれる人々は、本来より大悲の心を持って人々の苦難に替わってやるべき誓いを立てた人たちである。仏からのご命令がなくとも、どうして法華経の行者を見捨てるようなことができようか。そのうえ、自分たちが成仏することのできた経であり、仏からはおごそかにご命令が下されているので、仏前での御誓いはていねいなものであった。したがって法華経の行者を助け守ることは疑いのないところである。

六 法華経行者の祈りは必ず成就する


[25]仏は人間界や天上界の主君であって、一切衆生の父母にあたる。しかも悟りへの道を切り開き導いてくださった師匠である。たとえ父母であっても、相性のいやしい父母は主君としての徳義を備えていない。また主君ではあっても父母として親の徳を欠いていると、恐ろしく親しめない。さらに父母や主君の徳は備えていても、師匠としての徳を持っていない者もある。諸仏はまた世尊であるから主君ではあるが、この娑婆世界に出現されないので師匠ではない。また「その中の衆生はことごとくこれわが子なり」とも名乗っていない。ただひとり釈仏だけが主・師・親の三義を兼ね備えているのである。
[26]しかしながら、成道してから四十余年間は、提婆達多をののしり、もろもろの声聞をそしり、菩の果分たる仏の法門を惜しんで説かなかったので、仏ではあるけれども、ときに天魔や仏道を妨げて人心を乱す者たちが仏の身にとりついてわれらを悩ますのかと疑う人々も出始め、口に出しては言わないまでも、心の中で思う者もいた。こうした思いは四十余年間続き、法華経が説かれるまでつきまとったのである。
[27]しかるに霊鷲山における八年間の法華の会座で、宝塔が虚空に現われ、釈・多宝の二仏が日月のように並び、諸仏は大地につらなり、大山を集めたように大地から湧き出た数多くの菩たちが、虚空に星のごとくつらなりたもうたのである。その前で仏は諸仏が悟りを得ることのできた功徳のこもった法門をお説きになられたのである。ちょうど宝蔵を開いて貧人に宝を与えたように、また崑崙山が崩れて宝が現われ、人々はこの玉だけを拾って大いに嬉しがったように、この八年の間、珍しく貴いことを心髄にまで深く感じとったのである。もろもろの菩たちは身命を惜しまず、言葉も飾らず素直に誓願を立てたので、属累品で釈如来は宝塔から出られ扉を閉められたので、集まってこられた諸仏もみなそれぞれの国土へお帰りになられたのである
[28]さて、みんなが帰り心細くなった頃、仏は「これより三か月後に、私は涅槃に入るであろう」といわれて、一同を驚かせた。二乗や人間・天上界のことごとくの者が、法華経を聴聞して仏になれることを聞き、仏の恩徳を肝に命じてありがたく思い、身命を投げ出しても法華経のために尽くし、仏にも見ていただこうと思ったのに、仏のいわれるごとくもしも涅槃に入られたならば、どのようにか淋しく悲しいことであろうと胸さわぎがしていたときに、仏の御年満八十歳という年の二月十五日の朝、東インドの舎衛国尸那城にある跋提河のほとりにおいて、仏がご入滅なされるという知らせが、上は有頂天から横には三千大千世界にまで響きわたり、人々は目もくらみ心も消えうせる思いであったろう。全インドの十六の大国・五百の中国・十千の小国・数えきれないほどの粟散国等の衆生は、悲しみのあまり一人も衣食をとらず、上下の区別もなく、人間ばかりではなく牛馬や狼・狗・たかわしかあぶなどに至るまで、五十二類の一類の数が大地を微塵にしたほどの数もあり、そのすべてが集まって、それぞれに供華やお香・衣食等をお供えし、最後のご供養としてさしあげた。「一切衆生の宝の橋と頼む仏が折れようとしている。一切衆生の眼にあたる仏が抜けようとしている。一切衆生の父母であり主君であり師匠である仏が死のうとしている」という声が響きわたると、身の毛も立ってみな涙を流した。涙を流しただけでなく、頭をたたき胸を押さえ、声も惜しまずに泣き叫び、血の涙や血の汗が尸那城に大雨よりも激しく降り、大河よりも多量に流れ出したのであった。これはひとえに法華経によって仏になれたのであるが、その大恩に報ずることができなかったためである。
[29]このような嘆きの場所においてさえも、法華経の敵がいたならば、その舌を切るといって、座につらなっている人同志が叫び合っていた。また葉童子菩は「法華経に敵する国があったならば、自分は霜雹となってこらしめてやる」と誓いを立てた。そのとき仏は横になっていた身体を起こしてよろこばれ、「よいかな、よいかな」とおほめになられた。もろもろの菩がたも仏の御心を推しはかって、私たちも法華経に敵対する者を討ちますと申し上げると、仏はしばらくの間でも生きのびられることであろうと思い、一人一人がお誓いを立てられた。したがって諸菩やもろもろの天人らは、みな法華経の敵が出現したときは、この仏前でのお誓いをはたして、釈尊を始め多宝仏や諸仏如来に、まことに仏前で誓約したとおり、法華経の御ためには名も身命も惜しまなかった者たちであると思われるようにしたいと考えられていることであろう。このようにいうことは守護のしるしが遅いからである。
[30]たとえば大地を指してはずれることがあっても、虚空をつないで結ぶことができたとしても、大海の潮が満ちたり干き潮にならぬことがあったとしても、また日が逆に西から昇るようなことがあったとしても、法華経の行者の祈りが叶わぬということはありえないことである。万一法華経の行者をもろもろの菩や人天・八部等、二聖・二天・十羅刹女等が、千のうち一つでも守らないことがあったならば、上は釈諸仏を始めとして、下は九界をだました罪を犯すことになる。法華経の行者はたとえ不実であったとしても、智はおろかであっても、また不浄の身であったとしても、さらに戒徳は備えていないにしても、南無妙法蓮華経と唱えたならば、必ず守護し給うべきである。たとえば袋がきたないからといって中の金を捨てるようなことをしないのと同様である。また伊蘭の臭いを嫌っていては栴檀の香りをうることができないように、あるいは谷の濁った池を不浄であるといやがっていては蓮を採ることができないのと同様である。法華経の行者を嫌うようなことがあれば、仏前での誓いを破ることになる。
[31]現代は正法・像法の二時代はすでに過ぎ去っているので、戒律をたもつ者はなく、市中で虎をさがすようなものである。また智者は麒麟きりんつのを求めるのと同じでまったく困難なことである。月が出るまでは燈火を頼りとするように、宝珠のないところでは金銀も宝として尊重されるのと同様である。昔白烏に恩を受けた人が黒烏に恩がえしをしたように、今の世にあっては聖僧から受けた恩を凡僧にかえすべきである。すみやかに利益りやくを現わしたまえと強く申すならば、どうして祈りのかなわぬことがあるであろうか。

七 他宗の祈が効を現わさないのはなぜか


[32]お尋ねするが、これまでに書かれた道理や文証を拝見して見ると、実際に日や月が天に輝き、大地に草木が生い茂り、昼夜が国土に存在し、大地がひっくり返ったりせずに、大海の潮がいつもの通り満ちたり干いたりしているならば、法華経を信ずる人の祈りが現世に叶い後生も善処に生まれることは疑いのないものとわかった。しかし、この二十余年間、天台宗や真言宗の名僧や学匠が数多くの祈を行なったけれども、はかばかしくなく効果も上がっていない。それどころか仏教以外の外典を信仰している者よりも劣っているように見えるのである。これは一体どうしたことなのか。恐らくは経文がうそであるのか、または行者の行ないが間違っているのか、あるいは時機が適切でないのかと疑問に思えて、後生のこともおぼつかないことである。
[33]それはさておき、御房は比叡山で修行を積まれたお弟子だと承わっている。父の罪は子にかかわり、師匠の罪は弟子にかかわると聞いている。比叡山の僧らが薗城寺の山門・堂塔・仏像・経巻数千万巻を焼き払ってしまったことは、実に恐ろしいことであり、世間の人々もこのことをさわぎ立て、比叡山の僧たちを疎略に思うようになったことについてどのように思うか。今までにも少々承ったが、今一度くわしくお聞きしたいと思う。ただし不思議に思うことは、このような悪僧たちなので仏法僧の三宝の御意にも合致せず、天地の神にも叶わず、ましてや祈も叶うことはないと思われるが、いかがなものか。

八 聖徳太子の記文


[34]お答えしよう、前にも少しお話ししたけれども、今ここでまた改めて申し上げよう。わが日本の国においてこのことは大切なことである。このことを知らないために多くの人々は、口にさまざまな罪業をつくるのである。まず山門すなわち比叡山延暦寺が創建されたのは、わが国に仏法が伝来されてから二百余年たった桓武天皇の御宇に、伝教大師が立て始められたのである。その当時の京都は、昔聖徳太子が王たる者の都とすべき所であると申されたが、天台宗の渡ってくるのを待っておられ、それまでは都と定められなかったのである。
[35]また聖徳太子の記された御文に、「我が滅後二百余年に仏法は日本に弘まるであろう」とあり、その通りに伝教大師は、延暦年中に比叡山延暦寺を建てられた。また桓武天皇は京都の平安に都を定められたのである。太子の記文に間違いがなかったからである。だから比叡山と京都の王家とは松と栢のごとくであり、蘭と芝との関係である。すなわち松が枯れると必ず栢も枯れ、蘭がしぼめばまた芝もしぼむのである。王法が栄えれば比叡山もよろこび、王位が衰えれば比叡山も歎くことになる。このような関係にありながら、すでに世間は関東になびき王法は衰えてしまっている。この点を朝延ではどのように思われたのだろうか。

九 承久の乱と祈


[36]ところで真言宗の秘法を修した四十一人の行者が、承久三年(<暦>一二二一)辛巳四月十九日に京都と関東とで争いが起きたとき、関東の北条氏を降伏させるために、隠岐の法皇(後鳥羽上皇)の宣旨によって初めて十五壇の秘法を実施したのである。その十五壇の秘法というのは、
[37]一字金輪法〈天台座主慈円僧正が、伴僧十二名とともに修したもので、関白殿基通の御沙汰によっておこなったものである〉
[38]四天王法〈成興寺の宮僧正が、伴僧八人と広瀬殿において修したもので、修明門院の御沙汰でおこなったものである〉
[39]不動明王法〈成宝僧正が、伴僧八人とともにおこなったもので、花山院禅門の御沙汰によるものである〉
[40]大威徳法〈観厳僧正が、伴僧八人とともに実施したものであり、七条院の御沙汰によるものである〉
[41]転輪聖王法〈成賢僧正が、伴僧八人とともに実施したものであり、同院の御沙汰によるものである〉
[42]十壇大威徳法〈伴僧六人で、覚朝僧正、俊性法印、永信法印、豪円法印、円僧都、慈賢僧正、賢乗僧都、仙尊僧都、行遍僧都、実覚法眼の以上十人が、おおむね本坊において修した〉
[43]如意輪法〈妙高院僧正が、伴僧八人で実施したものであり、宜秋門院の御沙汰によっておこなった〉
[44]毘沙門法〈常住院僧正が、三井で伴僧六人とともにおこなったもので、資賃の御沙汰によっておこなった〉
[45]御本尊を一日の中に造って実施した調伏のための行儀は、如法愛染王法〈仁和寺御室の行法で、五月三日から二週間にわたって、紫宸殿でおこなわれたものである〉
[46]仏眼法〈大政僧正が、三週間にわたって修したものである〉
[47]六字法〈快雅僧都が修したもの〉
[48]愛染王法〈観厳僧正が、七日間にわたって修したもの〉
[49]不動法〈勧修寺の僧正が、伴僧八人とともにおこなった。皆僧綱という位を持ったものであった〉
[50]大威徳法〈安芸僧正が修したもの〉
[51]金剛童子法〈同人がおこなったもの〉
[52]以上の十五壇法を実施したが、五月十五日に京都守護の伊賀太郎伴官光季が京都で討たれた。このことが同十九日に鎌倉に伝えられた。そこで同二十一日に幕府の大軍が京都へ攻め上ると報道されたので、残ったところの修法を六月八日から実施された。すなわち、
[53]尊星王法〈覚朝僧正によって実施された〉
[54]太元法〈蔵有僧都によって実施された〉
[55]五壇法〈大政僧正、永信法印、全尊僧都、円僧都、行遍僧都らによっておこなわれた〉
[56]守護経法〈御室がおこなわれ、日本では二度実施されたことになる〉
[57]こうした修法を実施したが、五月二十一日も武蔵守殿は東海道から京都に上り、甲斐源氏は東山道を上った。また式部北条朝時殿は北陸道から上られた。かくして六月五日には大津を守っていた武士たちが、甲斐源氏によって破られてしまった。同じく六月十三日と十四日は宇治橋の合戦が始まり、同十四日に京都方は関東軍に破られてしまった。そして同十五日には武蔵守殿は六条へ入られ、諸人も続いて入られた。七月十一日には本院(後鳥羽上皇)はもったいなくも隠岐の国へ流され、中院(土御門上皇)は阿波国へ流され、第三院(順徳上皇)は佐渡国へ流されたのである。そして殿上人七人は死罪に処せられてしまったのである。
[58]このように祈願してもかえって逆の効果をもたらした大悪法が、年とともに次第に関東へも弘まり、諸堂の別当や供養僧らにより、帰依を得ていつまでも続けられた。人々はもとより教法の邪正勝劣を少しもわきまえておらず、ただ仏法僧の三宝を崇め尊ぶことだとばかり思い込んでしまっていたので、何の疑問も感じずにこの悪法を信用してしまっていた。関東の国々だけではなく、比叡山も東寺も薗城寺でも座主や別当が、みな関東の支配下となったので、かの悪法の檀那信徒となってしまったのである。

十 まこと醍醐味だいごみはどちらか


[59]お尋ねするが、真言の教えをしいて邪教というのはどうしてか。お答えしよう。弘法大師は「第一に優れた教えは大日経、第二は華厳経、第三は法華経である」といっているが、よくこの順序を考えてみる必要がある。いったい仏はどの経典にこの三部の経の勝劣を判定されているか。もしも第一大日経、第二華厳経、第三法華経と説かれた経典があるならばなるほどとも思うが、その経がないならば、弘法大師の説は、はなはだもって信用できないものである。法華経には、「薬王よ、我が説くところの諸経の中で、この法華経が最も優れた第一の教えである」と法師品に記されている。仏はまさしく諸教との対比のうえで、法華経を第一と説かれておられる。仏の説法と弘法大師の書かれたものとでは、水と火のようにまったく違っている。これはよく尋ねて究むべきことである。この数百年の間、弘法大師の書かれたものを凡僧も高僧もみなこれを学び信じて、貴賤・上下の別なく信仰し、大日経はすべての経の中で第一であると尊び崇めてきたことは、まことにもって仏の意に反することである。心ある人々はよくよくこの道理を考えて、どちらが正しいかを定めるべきである。
[60]もしも仏の心の反しているとしたならば、いくら信仰してみてもとても成仏することはできないであろう。またいくら国土の安穏を祈願してみても、まさに不祥事ばかりが生起して、安穏にはとてもならないことであろう。また弘法大師は顕密二教論けんみつにきようろんの中で、「中国の人師らは競って最も優れた醍醐味の教えを盗み取った」といっているが、この文章の意とするところは、天台大師らが真言の教えの醍醐味を盗み取って、法華経の醍醐味であると名づけられたことは、最も重要なことなので、慎重に考えなくてはならないことである。そもそも法華経を醍醐味であると名づけたのは、天台大師が涅槃経の文から勘えて、すべての経の中では法華経こそが醍醐であると名づけ判定なされたものである。真言の教えがインドから中国へ渡ってきたのは、天台大師が世に出られて以後、二百余年ものちのことであった。
[61]したがって二百余年の後に渡ってきた真言の醍醐を盗み取って、法華経の醍醐と名づけられたことになる。このことはまずもって不思議なことといえる。すなわち真言がいまだ渡ってこない前の二百余年の人々を盗人であると書いた証拠はどこにあるのであろうか。弘法大師が真言を醍醐であるといったことを信ずべきか、涅槃経に仏が法華経をもって醍醐であると説かれていることを信ずべきであるのか。もしも天台大師が盗人ならば、涅槃経の文をどのように理解したらよいのであろうか。また涅槃経の文が真実であって、弘法大師の説が邪義であったとしたら、邪義の教えを信じている人々はいったいどういうことになるのであろうか。ただ弘法大師の説と、仏の説法とを考え合わせてみて、どちらか正義のほうを信じて従っていくべきであると申すのみである。

十一 権教の祈は無間地獄の業


[62]疑問に思うことがあるが、大日経は大日如来の説法である。もしそうだとしたら、釈尊の説法をもって大日如来の教法を打ち破ることになる。これはすべて道理にかなわぬことであるがどのように思うか。
[63]お答えしよう。大日如来はいったいどのような人を父母として、どのような国に出生され、大日経を説き給えるのか。もしも父母がなくて出世されたとしたのなら、釈尊入滅以後に弥勒菩が世に出られる以前の五十六億七千万歳の中間に、他の仏が出られて説法されるということは、どのような経文に出ているのか、もしも証拠がないとしたら、だれも信じはしないであろう。このような非歴史的な道理に合わないことのみをこしらえて言うから邪教というのである。その間違いは多くて数えきれないほどである。わずかに一二を例として出してみたにすぎない。これに加えてさらに禅宗や念仏宗等を用いているが、これらの法門はみないまだ真実をあらわしていない権教であり、不成仏の法門であって、無間地獄の業となるものである。またかの行者たちは正法たる法華経を誹謗した謗法の者たちであり、どうして祈が成就するわけがあろうか。

十二 早く教法の正邪に目覚めよ


[64]そもそも一国の主となるということは、過去に正法をたもち、仏にお仕えした功徳によってなれるのである。大小の王はみな梵王・帝釈・日月・四天等の御計らいとして、郡や郷を領有しているのである。すなわち仁王経には、「われ今五眼をもって明らかに三世を見るのに、すべての国王はみな過去の世に、五百の仏に仕えたことにより、帝王主となることができたのである」とある。それなのに法華経にそむき、真言・禅・念仏等の邪師について、さまざまに善根をおさめてみても、結局は仏の意にかなわず、神慮にも相違する者となる。この点をよくよく考えるべきである。
[65]人間としてこの世に生まれてくることは希のことである。その希の人生を与えられて、教法の邪正を極め、未来に仏になることを期待することができないとしたら、かえすがえすも残念であり本意とするところではない。また慈覚大師は唐の国へ入られて帰朝以後、本師である伝教大師にそむいて、比叡山に真言を弘めようとし御祈請されたが、そのおりに夢で太陽を射たところ、太陽が動転したのを見られて吉夢だと思いこみ、周囲の諸人らもまたこれを吉夢であると思って、四百余年の間そのように思い続けてきた。しかし、これは日本国にとっては大変に忌むべき夢であった。昔、中国の殷の紂王という人は太陽を的として弓を射かけたところ、その身が亡びてしまった。いまこの慈覚大師の夢は権化のことではあるが、よくよく考えなければならないことである。以上のごとくお尋ねに答えて、九牛の一毛、ほんの一端を記したまでである。