二乗作仏事
書下し
二乗作仏事
[1]爾前得道の旨たる文。経に云く「見諸菩薩」等云云。又云く「始見我身」等。〔此等の文のごときは菩薩初地初住に叶う事有ると見たるなり。ゆえに見諸菩薩の文の下には〕「而我等不預斯事」。〔また始見の文の下には〕「除先修習」等云云。〔これは爾前に二乗作仏無しと見たる文なり〕。
[2]〔問う、顕露定教には二乗作仏を許すや。顕露不定教にはこれを許すか。秘密にはこれを許すか。爾前の円には二乗作仏を許すや。別教にはこれを許すか〕。
[3]〔答う、所詮は重重の問答有りといえども皆これを許さざるなり。所詮は二乗界の作仏を許さずんば菩薩界の作仏も許されざるか〕。衆生無辺誓願度の願の闕くるが故也。〔釈は菩薩の得道と見たる経文を消するばかりなり。所詮華・方・般若の円の菩薩も初住に登らず。また凡夫二乗は勿論なり。「化一切衆生皆令入仏道」の文の下にてこの事は意得べきなり〕。
[4]「問う、円の菩薩に向つては二乗作仏を説くか〕。
[5]〔答う、説かざるなり。「未曾向人説如此事」の釈に明かなり〕。
[6]問う、華厳経の三無差別の文は十界互具の正証なりや。
[7]〔答う、次下の経に云く、二十五「如来智慧の大薬王樹はただ二所を除かねば生長することを得ず。いわゆる声聞縁覚なり」等云云。二乗作仏を許さずと云う事分明なり〕。若し爾らば本文は十界互具と見へたれども〔実には二乗作仏無ければ十界互具を許さざるか。その上爾前の経は法華経を以て定むべし。すでに「除先修習」等云云と云う。華厳は菩薩に向つて二乗作仏無しと云う事分明なり。方等般若もまた以てかくのごとし〕。
[8]〔そうじて爾前の円に意得べき様二有り。一には阿難結集の已前に仏は一音に必ず別円二教の義を含ませ、一一の音に必ず四教三教を含ませたまえるなり。ゆえに純円の円は〕爾前経には無き也。故に円と云へども〔今の法華経に対すれば別に摂すと云うなり。籤の十に「また一一の位に皆普賢行布の二門有り、ゆえに知んぬ兼ねて円門を用いて別に摂す」〕と釈する也。此の意にて〔爾前に得道無しと云うなり。二には阿難結集の時多羅葉に注すに一段は純別、一段は純円に〕書ける也。〔方等般若もかくのごとし。この時は爾前の純円に〕書ける処は〔ほぼ法華に似たり〕。「住中多明円融之相」等と釈するは此の意也。
[9]〔天台智者大師はこの道理を得給いしゆえに、他師の華厳など惣じて爾前の経を心得〕しにはたがひ給へるなり。この二の法門をば如何として天台大師は〔心得〕給いしぞとさぐれば、法華経の信解品等を以て一一の文字、別円の菩薩及び四教三教なりけりとは〔心得〕給いしなり。
[10]〔又この智恵を得るの後彼等の経に向つて見る時は一向に別・一向に円等と〕見えたる処あり。阿難結集後のしはざなりけりと見給へる也。
[11]〔天台一宗の学者の中にこの道理を得ざるは〕、爾前の円と法華の円と始終同義と思う故に、〔一処のみ円教の経を見て〕一巻二巻等に純円の義を存ず故に、〔彼の経等において〕成仏往生の義理を許す人人是れ多きなり。華厳・方等・般若・観経等の本文に於て、阿難円教の巻を書くの日に即身成仏云云、即得往生等とあるを見て、一生乃至順次生に〔往生成仏を遂げんと〕思いたり。阿難結集已前の仏口より出す所の説教にて意を案ずれば、即身成仏・即得往生の裏に歴劫修行・永不往生の心を含めり。句の三に云く、摂論を引いて云く、「了義経依文判義」等と云う意なり。爾前の経を〔文の如く判ぜば仏意に乖くべし〕と云う事はこれ也。記の三に云く、法華已前は不了義なる故と云へり。〔この心を釈せるなり〕。籤の十に云く「唯この法華のみ前教の意を説き、今経の意を顕わすと」。〔釈の意はこれなり〕。
[12]抑も他師と天台との意の殊なる様は如何。他師は〔一一の経経に向つて彼の経経の意を得たり〕と謂へり。天台大師は法華経に仏四十余年の経経を説き給へる意をもて諸経を釈する故に、阿難尊者の書きし所の諸経の本文にたがひたる様なれども仏意に相叶いたる也。〔しばらく観経の疏のごとき経説には見えざれ〕ども〔一字において四教を釈す〕。本文は一処は別教、一処は円教、一処は通教に似たり。〔釈の四教に亘るは法華の意を以て仏意を知りたもう故なり〕。阿難尊者の結集する経にては一処は純別、一処は純円に書き、別円を一字に含する義をば法華にて書きけり。法華にして爾前の経の意を〔知らしむるなり〕。
[13]もし爾らば一代聖教は〔反覆すといえども法華経無くんば一字も諸経の心を知るべからざるなり〕。〔また法華経を読誦する行者もこの意を知らずんば法華経を読むにては有るべからず〕。爾前の経は深経なればと云つて〔浅経の意をば顕さず〕、浅経なればと云つて〔また深義を含まざるにも非ず〕。法華経の意は一一の文字は皆爾前の意を顕し、法華経の意をも顕す。〔ゆえに一字を読めば一切経を読むなり。一字を読まざるは一切経を読まざるなり。もし爾らば法華経無き国には諸経有りといえども得道は難かるべし。滅後に一切経を読むべきの様は華厳経にも必ず法華経を列ねて彼の経の意を顕し、観経にも必ず法華経を列ねてその意を顕すべし。諸経もまた以てかくの如し。
[14]しかるに月支の末の論師および震旦の人師この意を弁えず一経を講じて各我得たりと謂い、また超過諸経の謂いを成せるはかつて一経の意を得ざるのみに非ず、謗法の罪に堕するか〕。
[15]〔問う、天竺の論師・震旦の人師の中に天台の如く阿難結集已前の仏口の諸経〕を〔かくの如く意得〕たる論師人師〔これ有るか〕。〔答う、無著菩薩の摂論には四意趣を以て諸経を釈し、竜樹菩薩の大論には四悉檀を以て一代を得たり。これ等はほぼこの意を釈す〕とは見えたれども〔天台の如く〕分明には〔見えず〕。天親菩薩の法華論もまた以て〔かくの如し〕。〔震旦国においては天台以前の五百年の間には一向にこの義無し〕。玄の三に云く「天竺の大論なおその類に非ず」云云。籤の三に云く「一家の章疏は理に附し教に憑り、およそ立つる所の義、他人のその所弘に随い偏に己が典を讃するに同じからず。もし法華を弘むるに偏に讃せばなお失なり。況や復余をや」〈文〉。〔何となればすでに開権顕実と言う、何ぞ一向に権を毀るべきや〕。
[16]〔華厳経の「心仏及衆生是三無差別」の文は、華厳の人師この文において一心覚不覚の三義を立つるは、源起信論の名目を借りてこの文を釈するなり。南岳大師は妙法の二字を釈するにこの文を借りて三法妙の義を存せり。天台智者大師はこれを依用す。ここにおいて天台宗の人は華厳法華同等の義を存するか。また澄観「心仏及衆生」の文において一心覚不覚の義を存するのみに非ず、性悪の義を存して云く、澄観の釈に「彼の宗にはこれを謂つて実となす。この宗の立義、理通ぜざる無し」等云云。これ等の法門許すべきや不や。答えて云く、弘の一に云く「もし今家の諸の円文の意無くんば彼の経の偈の旨理実に消し難し」。同五に云く「今文を解せずんば如何ぞ心造一切三無差別を消解せん」〈文〉。記の七に云く「たちまちすべていまだ性悪の名を聞かず」〕と云へり。〔これ等の文の如くんば、天台の意を得ずんば彼の経の偈の意知り難きか。また震旦の人師の中には天台の外には性悪の名目〕あらざりけるか。〔また法華経に非ずんば一念三千の法門談ずべからざるか。天台已後の華厳の末師並びに真言宗の人性悪を以て自宗の依経の詮となすは天竺より〕伝わりたりけるか。〔祖師より伝わるか〕。また天台の名目を偸んで〔自宗の内証となす〕と云へるか。〔能く能くこれを験すべし〕。
[17]〔問う。性悪の名目は天台一家に限るべし。諸宗にはこれ無し。もし性悪を立てずんば九界の因果をいかんが仏界の上に現ぜん。答う、義例に云く、「性悪若断」等云云〕。
[18]〔問う、円頓止観の証拠と一念三千の証拠に華厳経の「心仏及衆生是三無差別」の文を引くは、彼の経に円頓止観および一念三千を説くというか。答えて云く、天台宗の人の中には爾前の円と法華の円と同の義を存す〕。
[19]〔問う、六十巻の中に前三教の文を引いて円の義を釈せるは文を借ると心得んや。爾前の円の文を引いて法華の円の義を釈するをば借らずと存ぜんや。もし爾らば三種の止観の証文に爾前の諸経を引く中に円頓止観の証拠に華厳の「菩薩於生死」等の文を引けるをば、妙楽釈して云く「還つて教味を借て以て妙円を顕す」と。この文は諸経の円の文を借ると釈し〕けるに非ずや。〔もし爾らば心仏及衆生の文を一念三千の証拠に引く事はこれを借れるにて〕有るべし。
[20]〔答う、当世の天台宗は華厳宗の見を出でざる事を云うか。華厳宗の心は法華と華厳と〕において〔同勝の二義を存す〕。同は法華・華厳の所詮の法門〔これ同じとす〕。勝には二義あり。〔古の華厳宗は教主と対菩薩衆等の勝の義を談ず。近代の華厳宗は華厳と法華と〕において〔同勝の二義有りと云云。その勝においてまた二義ありという。
[21]迹門は華厳と同勝の二義あり〕。華厳の円と法華迹門の相待妙の円とは同也。〔彼の円も判麤、この円も判麤のゆえなり。籤の二に云く「ゆえに二妙を須て以て三法を妙ならしむ。ゆえに諸味の中に円融有りといえどもまつたく二妙無きなり」。私志記に云く「昔の八の中の円は今の相待の円と同じ」〕と云へり。〔これは同なり。記の四に云く「法界を以てこれを論ずれば華厳に非ざる無し。仏恵を以てこれを論ずれば法華に非ざる無し」云云。又云く「まさに知るべし、華厳の尽未来際はすなわちこの経の常在霊山なり」云云。これ等の釈〕は爾前の円と法華の相待妙とを同ずる釈也。〔迹門の絶待開会は永く爾前の円と〕異なり。〔籤の十に云く「この法華経は開権顕実開迹顕本す。この両意は永く余経に異なれり」と云へり。記の四に云く「もし仏恵を以て法華となさば即ち等し」と云云。この釈は仏恵を明すは爾前法華に亘り、開会は唯法華に限ると〕見えたり。〔これは勝なり。爾前の無得道なる事は分明なり。そのゆえは二妙を以て一法を妙ならしむるなり。すでに爾前の円〕には〔絶待の一妙を闕く、衆生も妙の仏と成るべからざるゆえに。籤の三に云く「妙変為麤」等の釈これなり。華厳の円が変じて別〕と成ると云う意也。
[22]〔本門は相待絶待の二妙倶に爾前に分無し。また迹門にもこれ無し〕。爾前迹門は異なれども〔二乗は見思を断じ、菩薩は無明を断ず〕と申すことは、〔一往これを許して、再往はこれを許さず。本門寿量品の意は爾前迹門において一向に三乗倶に三惑を断ぜずと意得べきなり。
[23]この道理を弁えざるの間、天台の学者は爾前法華の一往同の釈を見て永異の釈を忘れ〕、結句名は天台宗にてその義分は華厳宗に堕ちたり。〔華厳宗に堕ちるがゆえに方等般若の円に〕堕ちぬ。〔結句は善導等の釈の見を出でず。結句、後には〕謗法の法然に同じて〔「師子の身中の虫の自ら師子を食うが如し」〈文〉。〈仁王経の下に〉「大王我が滅度の後、未来世の中に四部の弟子・諸の小国の王・太子・王子すなわちこれ三宝を任持し護る者、転たさらに三宝を滅破すること師子の身の中の虫自ら師子を食うが如し。外道には非ず、多く我が仏法を壊りて大罪過を得ん」云云。籤の十に云く「始め住前より登住に至るこのかたまつたくこれ円の義。第二住より次の第七住に至る文相次第してまた別の義に似たり。七住の中においてまた一多相即自在を弁ず。次の行向地またこれ次第差別の義なり。又一一の位に皆普賢行布の二門有り。ゆえに知んぬ、兼て円門を用いて別に摂す」。〕
現代語訳
二乗作仏事
正元二年(一二六〇)、三九歳、和漢混交文、定一五二—一五七頁。
爾前経における成仏
[1]爾前経(法華経以前に説かれた経)で成仏することができると説いた文をあげると次のとおりである。法華経譬喩品には「過去に仏に従って法を聞いていた時、もろもろの菩薩が記別を受け仏になるのを見たことがある」とあり、同じく法華経の従地涌出品には「もろもろの衆生は始めわが身を見、わが所説を聞いて信受し、如来の智慧に入る」と説かれている。これらの経文によれば、菩薩は初地や初住の位に至ることができる(別教では初地の位、円教では初住の位で無明を断じる)、と理解することができる。したがって、「もろもろの菩薩が記別を受けて仏になるのを見た」の文に続いて、「ところがわれら(舎利弗など)声聞はこのこと(受記)にあずからなかった」とあり、「始めてわが身を見る」の文に続いて、「すでに仏道を修して小乗を習学した者を除く」などと説かれている。これは爾前経においては二乗作仏(二乗の成仏)はない、との証文である。
諸経と二乗作仏
[2]問う。顕露定教(顕露とは、仏の説法の会座にいる聴衆が互いに相知っていること、定とは得益が定まっていること)には二乗作仏が許されているか。顕露不定教(会座の聴衆は互いに相知っているが仏の説法による得益はそれぞれによって異なる)には許されているか。秘密不定教(会座の聴衆は互いに相知らず、説法による得益もそれぞれによって異なる)には許されているか。爾前経に説かれている円教(円満具足の教え)に二乗作仏を許されているか。別教(菩薩のための教え)には許されているか。
[3]答える。結局はさまざまな考え方があるけれどもすべて二乗作仏を許していないのである。すると結局、二乗界の成仏を許さないのであれば菩薩界の成仏も許されないことになる。なぜなら菩薩の総願である衆生無辺誓願度(人々は数限りなく多くとも誓って救いとる)の誓願(四弘誓願)が欠けているからである。したがって、前にあげた経文によって菩薩の成仏と理解しているけれども、つまるところは華厳経・方等部の諸経・般若経に説かれている円教の菩薩も初住の位に登ることはできない。いわんや凡夫や二乗が成仏できないことは言うまでもない。このことは法華経方便品の「すべての人びとを教化して皆仏道に入らせる」という文によって了解すべきである(法華経によってのみ成仏することができる)。
爾前円教と二乗作仏
[4]問う。爾前の円教では菩薩に対して二乗作仏を説いているか。
[5]答える。説いていない。このことは法華経信解品の「いまだかつて人に向かってこのことを説かなかった」という経文についての天台大師の解釈文(法華文句第六巻上)に明確に示されている。
華厳経と二乗作仏
[6]問う。華厳経の「心と仏とおよび衆生、この三つに異なりはない」という文は十界互具(十界が互いに十界を具えていること)の正しい証文ではないか。
[7]答える。華厳経の続いての文に「如来の智慧の大薬王樹はただ二つの場所を除かないと生長することができない。その二つの場所とは声聞と縁覚である」と説かれている。この経文によると、華厳経では二乗作仏を許していないということは明瞭である。もしそうであれば、華厳経の文は十界互具を説いているように見えるけれども、実際には二乗作仏が説かれていないのであるから十界互具を許していないのである。まして、爾前経の内容は法華経をもって判断すべきであり、法華経にはすでに「先に仏道を修して小乗を習学した者を除く」とある。したがって、華厳経では菩薩に対して二乗作仏はない、と説かれていることは明確である。方等部の諸経や般若経もまたこれと同じである。
爾前経の円と法華経の円
[8]まとめて言えば、爾前の円について心得るべきことが二つある。一には、阿難が結集して経典を編集する以前に、仏は一つの教えにかならず別教と円教の義理を含ませ、一つ一つの教えにかならず四教(化儀の四教あるいは化法の四教)・三教(通教・別教・円教)を含ませられたのである。したがって純円の円教は爾前経には説かれていないのである。ゆえに爾前経で言う円は法華経に対比すると別教に摂入されるのである。法華玄義釈籤の第十巻には「一つ一つの位にすべて普賢(相即融通)と行布(隔歴次第。順序)の二つの法門がある。したがって、兼ねて円教の門(教え)を用いて別教に摂入することを知るべきである」と説かれている。この意味から爾前経には得道がない、と言うのである。二には、阿難は結集の時に多羅葉(多羅の木の葉)に書いたが、一段は純別、一段は純円に書いた。方等部の諸経や般若経もこのようにして書かれた。この時、爾前経の純円に書いた部分はほぼ法華経に似ている。法華玄義釈籤に「住の位(十住の位)の中には多く円融の相を明かす」(第十巻)などと解釈されているのはこの意味である。
[9]天台智者大師はこの道理を体得されたので、華厳宗などの他宗の諸師が、すべて爾前経の教えを心得た、としていることとは違っているのである。この二つの法門をどのようにして天台大師が心得られたのかと探ってみると、法華経の信解品などの教えによって、一つ一つの文字が別教や円教の菩薩の教えであり、四教や三教を含むものであることを体得されたのである。
[10]また、この智恵を得た後にそれらの経に対し見る時は、もっぱら別教とか、もっぱら円教などと見えるところもある。これは、阿難が結集して経典を編集した後の表現によるものであるとご覧になったのである。
[11]天台宗の学者の中でこの道理を心得ていない者は、爾前経の円と法華経の円とは始め(華厳経)から終わり(法華経・涅槃経)まで同じ教えであると思っているために、一箇所だけ円教が説かれている経を見て、その経典の一巻・二巻などに純円の教えが説かれていると思い、それらの経に成仏や往生の義理があると考える人びとが多いのである。華厳経・方等部の諸経・般若経・観無量寿経などの経文に、阿難が結集して円教の巻を書く時に「即身成仏」とか「即得往生」(阿弥陀仏を念ずることによって即ち往生することを得る)などと記したのを見て、一生、もしくは順次生(次から次へと生まれあわすこと)において往生・成仏を遂げたい、と思っているのである。阿難が結集する以前の、仏の口から説き出された説教によって教えの意味を考えてみると、「即身成仏」「即得往生」の裏には「歴劫修行」(多くの修行を積んで順次に位を登り成仏をめざす)・「永不往生」(永久に往生できない)の意図を含んでいるのである。法華文句の第三巻には摂大乗論を引いて「了義経(仏の真実の教えを説き明かした経)は依文判義(文に依って義を判ずる)」などと説かれているのはこの意味である。爾前経を経文のままに判断すると仏の御意に背く、というのはこのことである。法華文句記の第三巻に「法華経以前の経は不了義経(仏の真実の教えが説き明かされていない経)であるために」と言っているのは、この文の心を解釈したものである。法華玄義釈籤の第十巻には「ただこの法華経だけが爾前経の意を説き明かし、加えて釈尊の出世の本懐であるこの法華経の意を顕わしている」と解釈されている意味はこれである。
諸宗の師と天台大師との経典解釈の相異
[12]そもそも諸宗の師と天台大師との解釈の相異はどこにあるかと言えば、諸宗の師は一つ一つの経典において解釈し、それぞれの経典の意を得たと思っている。それに対し天台大師は、釈尊が法華経に四十余年間の諸経(爾前経)について説いておられるその意をもって、諸経を解釈しているので、阿難尊者の書いた諸経の文と違っているようであるけれども、仏の御意に叶っているのである。たとえば、天台大師が述作された観無量寿経疏では、経文にはなくとも一字を解釈するうえで四教をもって論じている。経文は、一箇所は別教、一箇所は円教、一箇所は通教に似ているけれども、それを四教にわたって解釈したのは法華経の意をもって仏の御意を知られたからである。阿難尊者が結集して編集した経では、一箇所は純別、一箇所は純円に書き、別と円を一字に含む義は法華経に書いたのである。それは、法華経で爾前経の意を知らせようとしたからである。
[13]もしそうであるならば、釈尊ご一代の聖教をいくら反復しても、法華経がなければ一字も諸経の心を知ることはできない。また、法華経を読誦する行者もこのことを知らなければ法華経を読んだことにはならない。爾前経は、深い法門の経であるからと言って浅い法門の経の意を説き顕わさず、浅い法門の経であるからと言って深い教えを含まない、ということは誤りである。法華経の意は一つ一つの文字にすべて爾前経の意を顕わし、法華経の意を顕わしている。したがって、法華経の一字を読めば一切経(仏のすべての教え)を読むことになり、法華経の一字をも読まないのは一切経を読まないことになる。もしそうであれば、法華経のない国ではいくら諸経があると言っても得道は困難である。仏のご入滅後における一切経の読みかたは、華厳経にもかならず法華経を用いて経意(経典の意)を顕わし、観無量寿経にもかならず法華経を用いて経意を顕わすべきである。他の諸経もまた同じである。
[14]ところが、インドの末流の論師や中国の人師たちはこの意を弁えず、ある一つの経典を講じてはそれぞれに自分は経の意を得たと思ったり、またその経が他の諸経よりも勝れていると思い込んでいるのは、まったくその一つの経典の意を得ていないばかりか、謗法の罪を犯し地獄に堕ちるものである。
一代聖教の意と天台大師
[15]問う。インドの論師や中国の人師のなかに、天台大師のように、阿難が結集して経典を編集する以前の、仏が直接説かれた諸経を、このように理解した論師や人師がいたであろうか。答える。無著菩薩の摂大乗論には四意趣(仏が法を説かれる上での意向。平等意趣=仏身は異なってもその本体は平等で説かれる法門も同じであると説くこと、別時意趣=怠惰な衆生に菩提心を発させるためにそれぞれの仏において成仏往生できると説くこと、別義意趣=法を聞くことと義理を体得することとは異なると説くこと、衆生意楽意趣=衆生の執着を払うために衆生の考え方によって仏の説法に異なりがあること)をもって諸経を解釈し、竜樹菩薩の大智度論では四悉檀(仏が衆生を導く四つの方法。世界悉檀=一般世間の楽欲に応じて法を説く、為人悉檀=人びとの能力に応じて法を説く、対治悉檀=煩悩悪業を断破して善業をさせる、第一義悉檀=仏法の第一義を説いて帰信させる)をもって仏ご一代の教えの心を得ようとしている。これらはおよそ一代聖教の意を解釈しているように見えるけれども、天台大師のように明確には解釈していない。天親菩薩の法華論もまたこれと同じである。中国においては天台大師以前の五百年間には、一代聖教の意を得た立義はまったくなかったのである。法華玄義の第三巻には「インドの大智度論でさえも天台大師の章疏には比較にならない」と述べられている。法華玄義釈籤の第三巻には「天台宗の章疏は仏法の理により仏の教えに基づいている。立てるところの法義は、他宗の人びとが自分の宗を弘めるために自宗の経典を称讃しているのと同じではない。もし法華経を弘めるために偏って称讃すれば、それは過失となる。ましてまた他のことにおいても同じである」と説かれている。なぜならば、法華経ではすでに「開権顕実」(方便の教えを開いて真実の教えを顕わす)の教えが説かれているのであるから、どうしてもっぱら権教(方便の教え)を毀ることがあろうか。
華厳宗と天台宗
[16]華厳経の「心と仏とおよび衆生、この三つに異なりはない」の文から、華厳宗の人(澄観)が「一心覚不覚」の三義(華厳宗の澄観がその著華厳経疏に説いた心は即ち総相、仏は即ち本覚、衆生は即ち不覚、とする法義)を立てたのは、大乗起信論から名称を借用して華厳経の文を解釈したからである。南岳大師は妙法の二字を解釈する時、華厳経のこの文を借用して三法妙(心法妙・衆生法妙・仏法妙)の義を立てた。天台智者大師は南岳大師のこの法義を用いている。そのために天台宗の人たちは「華厳経と法華経とは同等である」との考えを持ったのであろうか。また華厳宗の澄観は華厳経の「心と仏とおよび衆生」の文によって「一心覚不覚」の法義を立てただけではなく、性悪(本来、悪を具えている)の義を立てている。そこで澄観の解釈文には「天台宗では性悪の法門を真実としている。華厳宗の立義はそれと理において通じないことはない」などと述べている。これらの法門を許すべきであろうか。答えて言う。摩訶止観輔行伝弘決の第一巻には「もし天台宗のあらゆる円教の文の意図するところがなければ、華厳経の偈文の法理を解釈することはとてもできない」とあり、同書の第五巻には「法華経の文を理解することができなければ、どうして華厳経の『心は工みな絵師のようなものであり世界のすべてのものを造る。したがって心と仏と衆生の三つに異なりはない』の文を解釈することができようか」と説かれている。法華文句記の第七巻には「天台宗よりほかではいまだまったく性悪の名を聞いたことがない」と述べられている。これらの文のとおりであれば、天台大師の法門を心得なければ華厳経の偈文の意味を知ることはできない。また、中国の人師のなかには天台大師のほかに性悪の名称を説き示した者はいないことになる。さらに、法華経でなければ一念三千の法門も談ずることはできないことになる。天台大師以後の華厳経の末流の師や真言宗の人が、性悪の法門を自宗の依経(心の依りどころとする経)の肝要な法門としているのはインドから伝わったのか、祖師から伝えたものか、あるいはまた天台宗の名称を盗んで自宗の内証(心中の証悟)である、と言うのか。このことはよくよく調べるべきである。
性悪の法門と天台宗
[17]問う。性悪の法門は天台宗だけに限るもので他の諸宗にはない。もし性悪の法門を立てなければ九界の因果をどうして仏界のうえに現わすことができようか。答える。摩訶止観義例には「もし仏が性悪を断じればいったいどのようにして仏の種々の身を普く現じることができようか」と説かれている。
天台宗の法門と華厳経
[18]問う。天台宗の法門である円頓止観(ただちに実相を体得する法華円教の観法)と一念三千の証拠として華厳経の「心と仏とおよび衆生、この三つに異なりはない」の文を引くのは、華厳経に円頓止観や一念三千が説かれているということか。答えて言う。天台宗の人のなかには爾前経の円と法華経の円とは同じであると考えている者がいる。
[19]問う。天台三大部本末六十巻(天台大師の法華玄義十巻・法華文句十巻・摩訶止観十巻と妙楽大師の法華玄義釈籤十巻・法華文句記十巻・摩訶止観輔行伝弘決十巻)のなかに前三教(蔵教・通教・別教)の文を引いて円教の義を解釈しているのは文を借用していると考え、爾前経の円教の文を引いて法華経の円教の義を解釈しているのは借用していないと考えているのか。もしそうであるならば、天台大師が三種の止観(漸次止観=浅きから深きへ順序を追って実相を観ずる、不定止観=時と所に応じて浅深・前後・理事を交互に行じて実相を観ずる、円頓止観=ただちに実相を観じて中道を悟る観法)を論じる証文に爾前の諸経を引くなかで、円頓止観の証拠として華厳経の「菩薩、生死において最初に発心する時、もっぱら菩提を求め、(略)彼の一念の功徳は深く広くしてきわまりない」等の文を引いているのを、妙楽大師が解釈して「かえって爾前経の教味(教えの内容)を借用して法華経の円を顕わす」と述べている。この文は法華経に諸経の円教の文を借用したものであると解釈したものではないのか。もしそうであるならば、華厳経の「心と仏とおよび衆生、この三つに異なりはない」という文を一念三千の証拠として引くことは、華厳経の文を借用したものである。
華厳宗の同勝二義
[20]答える。今の世の天台宗は華厳宗の考えかたを出ていないことを言うのか。華厳宗の考えでは法華経と華厳経とについて同と勝の二義がある。同とは、法華経と華厳経との究極の法門は同じであるとする。勝については二つの義がある。古の華厳宗は教主である仏と対告者である菩薩衆などとの間に勝の義を論じる。最近の華厳宗は華厳経と法華経とについて同と勝の二義があると言う。その華厳宗の勝においてまた二つの義があると言う。
法華経迹門と華厳経
[21]法華経迹門と華厳経とを比較すると同・勝の二義がある。華厳経の円と法華経迹門の相待妙(他と比較相対して妙法を顕わす。破粗顕妙)の円とは同じである。なぜなら、華厳経の円も粗法(方便の教え)と妙法(真実の教え)とを判別し、法華経の円も粗法と妙法とを判別するからである。法華玄義釈籤の第二巻には「法華経は相待妙と絶待妙の二妙をもって三法(心法・仏法・衆生法)を真実の妙としている。したがって爾前の諸経には円融(円満に融通して欠けたものがない)は説かれていても、相待妙・絶待妙の二妙は説かれていない」と述べられている。智雲の法華文句私志記には「法華経以前に説かれた八教(頓・漸・秘密・不定の化儀四教と蔵・通・別・円の化法四教)のなかの円は、法華経迹門の相待妙の円と同じである」と言われている。これは華厳経と法華経の同じ点である。法華文句記の第四巻には「法界(宇宙の森羅万象)について論ずれば華厳経の法門でつくされているが、仏慧(仏の智慧)について論ずれば法華経を超えるものはない」とあり、同じく「まさに知るべきである。華厳経で説く『尽未来際』(限りなき未来の時がつきるまで。永遠の時間)とは法華経に説く『常在霊鷲山』(いつの時代においても、仏は常に法華経説法の場所である霊鷲山におられる)のことである」とも記されている。これらの釈文は爾前経の円と法華経の相待妙とを同じとする解釈である。迹門の絶待開会(他との比較相対を超絶して妙法を顕わす。開粗顕妙)は爾前経の円とはまったく異なっている。法華玄義釈籤の第十巻には「この法華経には開権顕実(権を開いて実を顕わす。諸経の方便の教えを開いて法華経の真実を顕わす。法華経迹門の教え)・開迹顕本(迹を開いて本を顕わす。垂迹の仏身を開いて久遠の本地身を顕わす。法華経本門の教え)の二つが説かれており、この二点で法華経は他の諸経とまったく異なっている」と述べられている。法華文句記の第四巻には「もし仏慧をもって法華経の特色とするならば、法華経と諸経とは等しい教えである」とある。この解釈文の意味は、仏慧を説き明かすことは爾前諸経も法華経も共通しているが、開会(開顕会入。真実を開き顕わして帰一せしめる)はただ法華経だけに限る、ということであると思われる。これは法華経迹門の絶待妙の勝れた点である。爾前の諸経が無得道(成仏できない)の教えであることは明瞭である。その理由は、相待妙と絶待妙の二妙をもって三法(心法・仏法・衆生法)のそれぞれを妙としなければならないにもかかわらず、もとより爾前諸経の円は絶待妙を欠いており、衆生も妙の仏と成ることができないからである。法華玄義釈籤の第三巻の「妙が変じて粗となる」という解釈文はこのことを言っているのである。すなわち、華厳経の円が変じて別教となる、という意味である。
法華経本門の二妙
[22]法華経本門の相待妙・絶待妙の二妙はともに爾前諸経には説かれていないし、また法華経迹門にもない。爾前諸経と法華経迹門とは異なっているけれども、二乗は見思の惑(かたよった見解の見惑と物事を見て起こす妄想の思惑)を断じ、菩薩は無明(すべての煩悩の根本となる迷い)を断じるということは、一往は認めているけれどもさらに深い立場からは認めていない。本門寿量品の意に立てば、爾前諸経も法華経迹門もともに三乗(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)はこぞって三惑(見思惑・塵沙惑=衆生救済のための無数の法門を知ることを障げる迷い・無明惑)を断じていない、と心得るべきである。
天台宗の学者の誤り
[23]この道理を弁えないために、天台宗の学者は、爾前諸経と法華経とは一往は同じであるとの解釈だけを見て、さらに深い立場ではまったく異なるとの解釈があることを忘れ、その結果、名称は天台宗でもその実質は華厳宗に堕ちてしまっている。華厳宗に堕ちたために方等部の諸経や般若経の円に堕ち、結局、浄土教の善導などの解釈による見解を出ることなく、そのあげく、後には謗法者の法然と同じになって、獅子の身体の中の虫が獅子の身を食べて殺してしまうように、仏法を破壊する者となってしまったのである。仁王経の下巻には「大王よ、わたし(仏)が入滅した後の未来の世の中において、四衆(比丘=男子の出家者、比丘尼=女子の出家者、優婆塞=男子の在家信者、優婆夷=女子の在家信者)の弟子、もろもろの小国の王、太子、王子などの三宝(仏宝・法宝・僧宝)を受け持ち守護すべき者が、ますます三宝を滅亡させることあたかも獅子の身体の中の虫が獅子の身を食べて殺してしまうようなものである。外道(仏教以外の教え)ではなく、多くの仏の弟子たちが仏法を破壊し大罪を犯すであろう」と説かれている。法華玄義釈籤の第十巻には「修行者の階位の中で、始め十住の前の位(十信の位)から十住の位(初住位)に入るまでの経文の意はすべて円教の義である。第二住から第七住にいたるまでの経文の説相(教えの内容)は別教の義に似ている。第七住のなかにおいては一と多が相即して自在である教えの境地を説いている。次の十行・十回向・十地はまた次第順序を追った教えである。したがってその位の一つ一つにそれぞれ普賢(相即融通)と行布(隔歴次第。順序)の二つの法門がある。ゆえに知るべきである、華厳経は円教の法門を説いているけれども兼ねて別教を説いた教えであるから、結局は別教に摂入される経である」と説明されている。