爾前二乗菩薩不作仏事
書下し
爾前二乗菩薩不作仏事
[1]問うて云く、二乗永不成仏の教に菩薩の作仏を許すべきや。
[2]答えて云く、楞伽経第二に云く、「大慧、何者か無性乗なる、謂く一闡提なり。大慧、一闡提とは涅槃の性無し。何をもつての故に解脱の中において信心を生ぜず、涅槃に入らず。大慧、一闡提とは二種あり。何等をか二となす。一には一切の善根を梵焼す。二には一切衆生を憐愍して尽一切衆生界の願を作す。大慧、いかんが一切の善根を梵焼する。謂く菩薩蔵を謗じてかくのごときの言を作す。彼の修多羅毗尼解脱の説に随順するにあらず、諸の善根を捨つと。この故に涅槃を得ず。大慧、衆生を憐愍して衆生界を尽さんとの願を作す者これを菩薩となす。大慧、菩薩は方便して願を作す。もし諸の衆生涅槃に入らざれば我もまた涅槃に入らずと。この故に菩薩摩訶薩涅槃に入らず。大慧、これを二種の一闡提と名く。涅槃の性なし。この義をもつての故に決定して一闡提の行を取る。大慧菩薩、仏に白して言く、世尊、この二種の一闡提何等の一闡提か常に涅槃に入らざる。仏、大慧に告げたまわく、菩薩摩訶薩の一闡提は常に涅槃に入らず。何をもつての故に。よく一切諸法本来涅槃なりと知るをもつてこの故に涅槃に入らず。一切の善根を捨つる闡提には非ず。何をもつての故に。大慧、彼の一切の善根を捨つる闡提はもし諸仏善知識等に値いたてまつれば菩提心を発し諸の善根を生じ、すなわち涅槃を証す」等と云云。この経文に「もし諸の衆生涅槃に入らざれば我もまた涅槃に入らじ」等云云。
[3]前四味の諸経に二乗作仏を許さず。これをもつてこれを思うに、四味諸経の四教の菩薩の作仏も有り難きか。華厳経に云く「衆生界尽きざれば我が願もまた尽きず」等と云云。一切の菩薩必ず四弘誓願を発すべし。その中の衆生無辺誓願度の願これを満ぜざれば無上菩提誓願証の願また成じ難し。これをもつてこれを案ずるに、四十余年の文二乗に限らば菩薩の願また成じ難きか。
[4]問うて云く、二乗成仏これ無ければ菩薩の成仏もこれ無き正しき証文いかん。
[5]答えて云く、涅槃経三十六に云く「仏性はこれ衆生に有りと信ずといえども必ず一切皆ことごとくこれ有らず。この故に名けて信不具足となす」と〈三十六本三十二〉。
[6]この文のごとくんば先四味の諸菩薩皆一闡提の人なり。二乗作仏を許さず。二乗の作仏を成ぜざるのみにあらず、はたまた菩薩の作仏もこれを許さざる者なり。これをもつてこれを思うに、四十余年の文二乗作仏を許さざれば菩薩の成仏もまたこれ無き者なり。
[7]一乗要決の中に云く「涅槃経三十六に云く、『仏性はこれ衆生に有りと信ずといえども必ず一切皆ことごとくこれ有らず。この故に名けて信不具足となす』と〈三十六本三十二〉。第三十一に説く『一切衆生および一闡提にことごとく仏性有りと信ずるを菩薩の十法の中の第一の信心具足と名く』と〈三十六本第三十〉。一切衆生悉有仏性を明すはこれ少分に非ず。もしなお堅く少分の一切なりと執せばただ経に違するのみにあらずまた信不具なり。何によつてか楽つて一闡提と作るや。これに由つて全分の有性を許すべし。理また一切の成仏を許すべし。慈恩の心経玄賛に云く『大悲の辺に約すれば常に闡提となる。大智の辺に約すればまたまさに作仏すべし』。宝公云く『大悲闡提は是れ前経の所説なり。前説をもつて後説を難ずべからざるなり』。諸師の釈意大途これに同じ」文。
[8]金錍の註に云く「境は謂く四諦なり。百界三千の生死はすなわち苦なり。この生死すなわちこれ涅槃なりと達するを衆生無辺誓願度と名く。百界三千に三惑を具足す。この煩悩すなわちこれ菩提なりと達するを煩悩無辺誓願断と名く。生死即涅槃なれば円の仏性を証するは即ち仏道無上誓願成なり。惑即菩提にして般若にあらざること無ければすなわち法門無尽誓願知なり。惑智無二なれば生仏体同じ、苦集唯心、四弘融摂、一即一切なり。この言徴有り」文。
[9]慈覚大師の速証仏位集に云く「第一にただ今経の力用仏の下化衆生の願を満ず。故に世に出でてこれを説く。いわゆる諸仏の因位・四弘の願・利生断惑・知法作仏なり。しかるに因円果満なれば後の三願は満ず。利生の一願はなはだ満じ難しとなす。彼の華厳の力十界皆仏道を成ずること能わず。阿含・方等・般若もまた爾なり。後番の五味、皆成仏道の本懐なることあたわず。今この妙経は十界皆成仏道なること分明なり。彼の達多無間に堕するに天王仏の記を授け、竜女成仏し、十羅刹女も仏道を悟り、阿修羅も成仏の総記を受け、人天・二乗・三教の菩薩、円妙の仏道に入る。経に云く『我が昔の所願のごときはいますでに満足しぬ。一切衆生を化して皆仏道に入らしむ』と云云。衆生界尽きざるが故にいまだ仏道に入らざる衆生有りといえども、しかれども十界皆成仏することただ今経の力に在り。故に利生の本懐なり」と云云。
[10]また云く「第一に妙経の大意を明さば、諸仏はただ一大事の因縁をもつての故に世に出現し、一切衆生悉有仏性と説く。聞法観行皆まさに作仏すべし。そもそも仏何の因縁をもつて十界の衆生ことごとく三因仏性有りと説きたもうや。天親菩薩の仏性論縁起分の第一に云く『如来五種の過失を除き五種の功徳を生ずるがための故に一切衆生悉有仏性と説きたもう』。謂く五種の過失とは一には下劣心・二には高慢心・三には虚妄執・四には真法を謗じ、五には我執を起す。五種の功徳とは一には正勤・二には恭敬・三には般若・四には闍那・五には大悲なり。生ずること無しと疑うが故に菩提心を発すことあたわざるを下劣心と名け、我に性有つてよく菩提心を発すと謂えるを高慢と名け、一切の法無我の中において有我の執を作すを虚妄執と名け、一切諸法の清浄の智慧巧徳を違謗するを謗真法と名け、意ただ己を存して一切衆生を憐むことを欲せざるを起我執と名く。この五に翻対して定めて性有りと知りて菩提心を発す」と。
[11]<人>日 蓮 <花押>花押花押>人>
現代語訳
爾前二乗菩薩不作仏事
正元元年(一二五九)あるいは康元(一二五六)頃、三八歳あるいは三五歳、原漢文、定一四四—一四七頁。
諸経の菩薩成仏論
[1]問うて言う。二乗はとても成仏できないと説かれている諸経の教えで、菩薩は成仏することができるであろうか。
[2]答えて言う。楞伽経第二に「大慧菩薩よ、どのような者を仏性(仏となる可能性)がないと言うのか。大慧菩薩が言うには、それは一闡提(善根を断った者)であります。大慧菩薩よ、一闡提とは悟りを得る可能性をもっていない。なぜならば、一闡提は生死の迷いを離れる道を信じないから、悟りの境地に入ることができないのだ。大慧菩薩よ、一闡提には二種類の人がいる。どのような二種類の人がいるかと言えば、一にはすべての善根(よい果報をもたらす徳)を焼きつくした者、二にはすべての人びとを愍み一人残らず成仏させたいとの誓願を発す者である。大慧菩薩よ、すべての善根を焼きつくした者は、菩薩の教えを謗り、次のように言う。彼の、経と律による解脱(生死の迷いを離れる)の教えに随いはしない、もろもろの善根は捨ててしまう、と。このために悟りを得ることができないのである。大慧菩薩よ、人びとを愍み一人残らず成仏させたいとの誓願を発す者は菩薩である。大慧菩薩よ、菩薩は人びとを救うための方便(導くための手段)として一闡提の姿を示し、次のような誓願を発す。もし、もろもろの人びとが、悟りの境地に到らなければ、私もまた悟りの境地に入らない、と。このために菩薩は悟りの境地に入らないで一闡提の姿を示すのである。大慧菩薩よ、これを二種類の一闡提と言うのであり、このような意味から、一闡提は悟りを得る可能性がなく、決定的に一闡提としての行い(善根を断つ)をする。そこで大慧菩薩は仏に次のように尋ねた。世尊よ、この二種類の一闡提のうち、いつまでも涅槃(悟りの境地)に入らないのはどちらでしょうか、と。仏は大慧菩薩に答えられた。菩薩の一闡提は常に涅槃には入らない。なぜなら、菩薩は、存在するありとあらゆるものは本来涅槃(すべてのものは本来あるべくしてある)であることをよく知っているからである。菩薩の一闡提は、方便として姿を現じているだけで、じっさいにすべての善根を断ち切ったのではないからである、と。大慧菩薩よ、すべての善根を断ち切った一闡提は、もし諸仏などのよき指導者に会うことができれば、菩提心(発心、善に向かう心)を発してもろもろの善根(よい功徳)を積み、ついには涅槃(悟りの境地)に入る」と説かれている。この経文に「もしもろもろの人びとが涅槃に入らなければ、自分も涅槃に入らない」とある。
[3]華厳経・阿含経・方等経(諸大乗経)・般若経などの法華経以前の諸経には、二乗(声聞・縁覚)の成仏が説かれていない。二乗の成仏が説かれていない以上、それら法華経以前の諸経では菩薩の成仏もありえない。華厳経には「すべての人びとがことごとく成仏しなければ、わたしの願は終わらない」と説かれている。すべての菩薩はかならず四つの広大な誓願を発す。その中の第一にある「すべての人びとを救いとる」という誓願が成就しなければ、「この上ない仏の道を悟りたい」という願いも成就しない。このことから考えると、法華経以前の四十余年の間に説かれた諸経は、二乗の成仏を説かないので、菩薩の誓願も成就しないのである。
菩薩不成仏の証文
[4]問うて言う。声聞と縁覚の二乗が成仏しなければ菩薩も成仏しない、という確かな証拠となる文があるか。
[5]答えて言う。涅槃経第三十六巻に「仏性が人びとにあると信じていても、すべての人びとにことごとくあるのではない、と考えている者を、信不具足(信がそなわっていない)という」(迦葉菩薩品)〈三十六本三十二〉と説かれている。
[6]この経文のとおりであるならば、法華経以前の諸経の菩薩はすべて一闡提(信がそなわっていない者、善を断じた者、不成仏者)である。これらの経では二乗の成仏を許さないだけでなく、菩薩の成仏もまた許さないのである。これらのことをもって思うに、法華経以前の四十余年間の諸経では、二乗の成仏を許さないかぎり菩薩の成仏もまた無いのである。
仏性と成仏
[7]慧心の一乗要決の中巻に「涅槃経第三十六巻に『仏性が人びとにあると信じても、すべての人びとにことごとくあるのではない、と考えている者を信不具足という』〈三十六本三十二〉とある。第三十一巻には『すべての人びとと一闡提にことごとく仏性があると信じることを、菩薩の十種の行法の中の第一である信心具足(信心がそなわっている)という』〈三十六本第三十〉と説かれている。『すべての人びとに仏性がある』ということを明確にするのは、限られた人びとだけの仏性を言うのではない。もし強く、限られた人びとだけの仏性であると固執すれば、涅槃経の教えに違背するばかりでなく、信心のない者(一闡提)となる。どうして好んで一闡提となる者がいようか。このゆえにすべての人びとに仏性があることを容認すべきである。仏法の道理から考えてもすべての人びとの成仏が許されなければならない。慈恩大師の心経玄賛には『菩薩は、大慈悲の立場に立てば、人びとを救うために常に一闡提となる。もし大智慧の立場に立てば、かならず成仏する』とある。法宝(中国唐代の僧。玄奘の弟子)は『人びとを救うために大慈悲をもって一闡提となる、というのは以前に説かれた経典(楞伽経)である。以前の教えをもって後に説かれた教え(涅槃経)を非難してはならない』と言っている。諸師の解釈の意図するところはほぼ同じである」と述べている。
菩薩の誓願と成仏
[8]伝教大師の『註金剛錍論』には「菩薩が四つの広大な誓願(四弘誓願)を発す原因となる真理とは苦・集・滅・道の四諦(四つの真理)である。宇宙に存在するすべてのものがくり返す生死の迷いが苦諦(すべては苦であるという真理)である。この迷いの生死がそのまま涅槃(悟り)であると体達(心身ともに悟りきる)することを『すべての人びとを救いとる誓い(衆生無辺誓願度)』と言う。宇宙のすべてに見思(かたよった見解と誤った思惑)・塵沙(法門の体得と衆生教化を障げる迷い)・無明(根本の真理をおおい隠す迷い)の三つの煩悩があることを集諦(苦の原因は煩悩であるとする真理)と言う。この煩悩がそのまま菩提(仏道、仏の悟り)であると体達することを、『煩悩は限りないけれども断じ尽すことを誓う(煩悩無辺誓願断)』と言うのである。生死の苦を消滅させることを滅諦(煩悩を消滅させる真理)と言い、生死(迷苦)がそのまま涅槃(悟り)であるから、円教(すべてのものを円満にそなえた最高の教え)の仏性を悟ることを『仏の道は無上であり、これを成就することを誓う(仏道無上誓願成)』と言う。迷いがそのまま菩提であり、それがそのまま仏の智慧にほかならないので『仏の法門は限りないが、覚知したいと誓う(法門無尽誓願知)』のである。このように、迷いと仏の智慧とが別のものではないゆえに、人びとと仏とは一体であり、苦諦・集諦の煩悩も滅諦・道諦の悟りもただ心にあり、菩薩の四つの広大な誓願も自分の心に融和し摂まり、一がそのまま一切となる。この仏の教えは大変大切である」と、述べられている。
法華経の成仏論
[9]慈覚大師の速証仏位集には「第一に、法華経の用は、人びとを教化し救いとりたいという仏の願いを満足させる。したがって、仏はこの世に出現し法華経を説かれるのである。すなわち、もろもろの仏は成仏以前の修行時代に、四つの広大な誓願を発し、人びとを利益(救い導く)し迷いを断じさせ、法門を覚知して成仏することを願う。ところが、成仏以前の修行もそれによる果徳(功徳)も円満にそなわることができれば後の三願(四弘誓願のうちの後の三願)は満足することができるが、人びとを利益し迷いを断じさせるという最初の一願はなかなか満足(成就)することができない。かの華厳経の力(力用。はたらき)でさえ十界(仏界から地獄界まで)の人びとを成仏させることはできないのである。阿含経・方等経(諸大乗経)・般若経においてもまた同じである。法華経の後に説かれた涅槃経では、すべての教えを追説(再び説く)されたけれども、すべての人びとを成仏させたいという仏の本懐を成就する教えにならなかった。ところが、今、この妙法蓮華経は十界のすべてがことごとく成仏する教えであることは明瞭である。法華経においては、極悪人として著名なかの提婆達多が無間地獄に堕ちながら天王如来となる記別(未来成仏の保証)を授けられ、八歳の竜女が成仏し、十羅刹女も仏道を悟り、阿修羅も成仏の記別を受け、人間界・天上界・二乗(声聞・縁覚)界・通別円の三教の菩薩(法華経以外の教えを受けた菩薩)もすべて円妙(純粋に円教を説く法華経)な仏の世界に入ることができた。法華経の方便品には『わたしのかつての誓願のとおり、今、すでに満足した。すべての人びとを教化(教え導く)して、皆、ことごとく仏の道に入れることができた』と説かれている。人びとの世界は限りがないために、いまだ仏の道に入らない人びとがいるにしても、十界のすべての人びとが成仏するということは、ただ、この法華経だけの力用(はたらき)である。したがって、法華経は、すべての人びとを救いとりたいという仏の本懐を満足した教えである」と述べられている。
[10]また、「第一に法華経の大意を述べると、諸仏はもっとも大切な因縁(原因、理由)があってこの世に出現し、すべての人びとはことごとく仏性がある、と説かれた。法華経を聞いても修行してもすべて成仏することができる。そもそも、仏は何のために十界のすべてのものに正因仏性(真理)・了因仏性(真理を悟る智慧)・縁因仏性(仏道を成ずる修行)の三因仏性があると説かれたのであろうか。天親菩薩の仏性論の縁起分の第一には『仏は五種の過失を除き五種の功徳を生ずるために、すべての人びとにはことごとく仏性がある、と説かれた』とある。その五種の過失とは、一には下劣な心、二には高慢な心、三には虚妄(不実)に執する、四には真実の法を謗る、五には我執(我欲に執着)を起こすことである。五種の功徳とは、一には正しく努力する、二には敬う、三には智慧、四には智、五には大悲である。自分には生ずるものがないと疑い菩提心(仏道への志)を発すことができないことを下劣な心と言い、自分には仏性がありよく菩提心を発すと思うことを高慢と言い、すべては無我(そのものとしての実体的な存在はない)であるにもかかわらず我という実体があると思いこみ執着することを虚妄に執すると言い、すべての法の清浄な智慧や功徳を謗ることを真実の法を謗ると言い、心にただ自分のことばかりを考えてすべての人びとを憐むことを望まないことを我執を起こすと言う。この五つの過失をひるがえし、もとより仏性があることを知って菩提心を発すべきである」と述べられている。
[11]<人>日 蓮 <花押>花押花押>人>