慈覚大師事
書下し
慈覚大師事
[1]鵞眼三貫・絹の袈裟一帖給び了ぬ。法門の事は秋元太郎兵衛尉殿御返事に少々注して候。御覧有るべく候。
[2]なによりも〔受け難き人身、値い難き仏法〕に値いて候に、五尺の身に一尺の面あり。其面の中に三寸の眼二つあり。〔一歳より六十に及ん〕で多くの物を見る中に、悦ばしき事は法華最第一の経文なり。
[3]あさましき事は慈覚大師の金剛頂経の頂の字を釈して云く「〔言う所の頂とは諸の大乗の法の中において最勝にして無過上なるゆえに、頂を以てこれに名づく。乃至、人の身の頂もつともこれ勝るるがごとし。乃至、法華に云く、是法住法位と。今正しくこの秘密の理を顕説す。ゆえに金剛頂と云うなり〕」云云。又云く「〔金剛は宝の中の宝なるがごとく、この経もまたしかなり。諸の経法の中に最もこれ第一にして、三世の如来の髻の中の宝なる故に〕」等云云。
[4]此釈の心は法華最第一の経文を奪い取りて、金剛頂経に付くるのみならず、如人之身頂最為勝の釈の心は法華経の頭を切りて真言経の頂とせり。此即ち鶴の頸を切つて蝦の頸に付けけるか。真言の蟆も死にぬ。法華経の鶴の御頸も切れぬと見え候。此れこそ人身うけたる眼の不思議にては候へ。三千年に一度花開くなる優曇花は転輪聖王此を見る。究竟円満の仏にならざらんより外は法華経の御敵は見しらざんなり。一乗のかたき夢のごとく勘へ出して候。慈覚大師の御はかはいづれのところに有ると申す事きこへず候。世間に云う、御頭は出羽国立石寺に有り云云。いかにも此事は頭と身とは別の所に有るか。
[5]明雲座主は義仲に頭を切られたり。天台座主を見候へば、伝教大師はさてをきまいらせ候ぬ。第一義真・第二円澄、此両人は法華経を正とし、真言を傍とせり。第三の座主慈覚大師は真言を正とし、法華経を傍とせり。其已後代々の座主は相論にて思い定むる事無し。第五十五並びに五十七の二代は明雲大僧正座主なり。此座主は安元三年五月日、院勘を蒙りて伊豆国え配流、山僧大津にて奪い取る。後、治承三年十一月に座主となりて源右将軍頼朝を調伏せし程に、寿永二年十一月十九日義仲に打たれさせ給う。此人生きると死と二度大難に値えり。生の難は仏法の定例、聖賢の御繁盛の花なり。死の後の恥辱は悪人・愚人・誹謗正法の人の招くわざはいなり。所謂大慢ばら門・須利等也。粗此を勘えたるに、明雲より一向に真言の座主となりて後、今三十余代一百余年が間、一向真言座主にて法華経の所領を奪えるなり。
[6]しかれば此等の人々は釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵、梵しやく・日月・四天・天照太神・正八幡大菩薩の御讎敵なりと見えて候ぞ。我弟子等此旨を存じて法門を案じ給うべし。恐々謹言。
[7]<日>正月二十七日日>
[8]<人>日 蓮 <花押>花押花押>人>
[9]<先>大田入道殿御返事先>
現代語訳
慈覚大師事
弘安三年(一二八〇)一月二七日、五九歳、於身延、大田入道宛、和文、定一七四一—一七四三頁。
供養の礼と法門閲覧の指示
[1]供養の金銭三貫文と絹の袈裟一帖とを確かに受けとりました。法門のことは、秋元太郎兵衛殿への返信に少々書き記しておきました。あなたもそれをご覧になってください。
法華経との出会い
[2]なによりも受けがたい人間に生を受け、しかも会いがたい仏法に出会うことは、たいへん喜ばしいことである。五尺の身体に一尺の顔があり、その顔のなかに三寸の眼が二つある。この世に生を受け、一歳の時から六十歳にいたるまで多くのものを見てきたが、その中で一番悦ばしかったことは、諸経のなかで法華経はもっとも第一に勝れている、との経文(法華経薬王菩薩本事品など)を拝した時である。
慈覚大師の誤り
[3]これに反してもっとも嘆かわしいと思ったことは、慈覚大師(円仁)が金剛頂経の「頂」の字を解釈して、「この頂とは、もろもろの大乗の教えの中でもっとも勝れ、これより上の経典はないということであり、このゆえに頂の字を経典名につけたのである。あるいは、このことは、あたかも人間の身体の中で頂(頭)がもっとも勝れているようなものである。あるいは、法華経方便品に『この法は法そのものとしてある』と説かれている。今、まさしくこの秘密の理(法が法としてあること。宇宙の真理)をこの経は説き明かしているのである。よって経名を金剛頂と称するのである」(金剛頂経疏)と述べていることである。慈覚大師はまた次のように言っている。「金剛石が宝の中の宝であるように、この金剛頂経もまた同じである。もろもろの経法の中でもっとも第一であり、三世(過去世・現在世・未来世)の如来の髻の中に秘せられている宝珠と同じである」と。
[4]この解釈文の精神は、釈尊が法華経に明示された「法華最第一」の経文を奪い取って、金剛頂経の最勝を論証するために用いているだけでなく、「人の身体の中で頂(頭)がもっとも勝れている」という解釈のしかたは、法華経の頭を切り取って真言の経典の頂につけたようなものである。これはまるで鶴の首を切り取って蛙の首につけたことと同じである。けっきょく、真言の蛙も死に、法華経の鶴の首も切れてしまい、法華経を謗るだけでなく、自ら尊重している真言の経典も亡ぼすことになる。このような慈覚大師の誤った解釈を世間の人びとが見究めることができないのは、人間の眼の不思議な点である。三千年に一度花が咲く優曇華は転輪聖王(正義に立脚して世界を治める理想的な王)でなければ見ることができないように、完全で円満な智徳をそなえた仏にならなければ、法華経の御敵は見ることができない。日蓮は一乗(法華経)の敵を夢のように知ることができた。慈覚大師の墓はいったいどこにあるのかわからない。世間の人びとは「慈覚大師の御頭は出羽国の立石寺にある」と言う。そうであるならば、慈覚大師の頭と身体とは別の所に有るのであろうか。
明雲座主の誤り
[5]比叡山の明雲座主は義仲に頭を切られた。代々の天台宗座主を見ると、開祖の伝教大師はさておいて、第一代の義真と第二代の円澄は法華経を正意(中心の教えとして信仰)とし、真言を傍意(かたわらの教えとして信仰)とした。第三代の座主慈覚大師は真言を正意とし、法華経を傍意とした。それ以降、代々の座主は両経をともに論じて、どちらとも勝劣を決めなかった。第五十五代と第五十七代の二代は明雲大僧正が座主となった。この明雲座主は安元三年(<暦>一一七七暦>)五月五日に御白河院の御勘気(おとがめ)を受け、伊豆国に流された。ところが、比叡山の僧徒が大津において明雲の身柄を取り返してしまった。その後、明雲は治承三年(<暦>一一七九暦>)十一月に再び座主となった。源平の戦いのおり、源右将軍頼朝を調伏(討伐)する祈禱を修したために、寿永二年(<暦>一一八三暦>)十一月十九日、義仲に殺され、その首は六条河原にさらされたという。この明雲座主は、生きていた時と死んでからと二度大きな難にあっている。生きている時の難は、仏法の上では常のことで、聖人や賢人の活躍を表わすもので、花が咲きほこっていることと同じである。ところが、死後の恥辱(はずかしめ)は悪人や愚人、あるいは仏の正しい教えを謗った人が受ける禍である。すなわち、インドの大慢婆羅門(外道の僧。三宝を謗り地獄に堕ちた)や須利(涅槃経に説く須那刹多羅か、あるいは数論外道の阿修利仙人か、あるいは西域記に説く室利毬多か。未詳)などと同じである。およそこのことを考えてみると、叡山の座主は、明雲から後はもっぱら真言の座主となり、今日までの三十余代、一百余年の間はもっぱら真言の座主が法華経の所領を奪っているのである。
弟子への誡め
[6]したがって、これらの人びとは釈迦牟尼仏・多宝仏・十方分身諸仏の大怨敵であり、梵天・帝釈天・日天・月天・四天王・天照太神・正八幡大菩薩の敵であると思われる。日蓮の弟子たちは、この道理をよく心得て法門をお考え下さい。恐々謹言。
[7]<日>正月二十七日日>
[8]<人>日 蓮 <花押>花押花押>人>
[9]<先>大田入道殿御返事先>