諸宗問答鈔
書下し
諸宗問答鈔
[1]問うて云く、法華宗の法門は天台・妙楽・伝教等の釈をば御用ひ候哉如何。答へて云く、最も此の御釈共を明鏡の助証として立て申す法門にて候。
[2]問うて云く、何を明鏡として〔立てられ〕候ぞや。彼の御釈共には爾前権教を〔簡び捨てらる事候わず〕。随つて或は「初後仏慧円頓義斉」とも、或は「此妙彼妙妙義〔ことなること無し〕」とも〔釈せられ〕、華厳と法華と、仏慧は同じ仏慧にて〔異なること無し〕と釈せられ候。通教別教の仏慧も法華と同じと見えて候。何を以て偏に法華勝れたりとは〔仰せられ候や〕。〔意得ず候如何〕。
[3]答へて云く、天台の御釈を〔引かれ〕候は定めて天台宗にて御坐候らん。
[4]然れば天台の御釈には教道・証道とて二筋を以て六十巻を〔作られ〕候。教道は即ち教相の法門にて候。証道は則ち内証の悟の方にて候。只今〔引かれ〕候釈の文共は教証の二の中には何れの文と御得意候て〔引かれ〕候や。
[5]若し教門の釈にて候はば、教相には三種の教相を立て候。爾前・法華を釈して勝劣を〔判ぜられ〕たり。三種の教相には何哉と〔これを尋ぬべし〕。
[6]若し三種の教相と申すは一には根性の融不融の相、二には化導の始終不始終の相、三には師弟の遠近不遠近の相也と答へば、さては只今〔引かるゝ〕御釈は何れの教相にて〔引かれ〕候哉と〔尋ぬべき〕也。
[7]根性の融不融の下にて〔釈せらる〕と答へば又押し返して〔問うべし〕。根性の融不融の下には約教・約部とて二法門あり、何れ哉と〔尋ぬべし〕。
[8]若し約教の下と答へば又〔問うべし〕。約教約部に付いて与奪の二の釈候。只今の釈は与の釈なる歟、奪の釈なる歟と〔これを尋ぬべし〕。
[9]若し約教約部をも与奪をも〔弁えず〕と云はば、さては天台宗の法門は堅固に御無沙汰にて候けり。
[10]尤も天台法華の法門は教相を以て諸仏の御本意を〔宣られ〕たり。若し教相に闇くして法華の法門をいへば「雖讃法華経還死法華心」とて、法華の心を殺すと云ふ事にて候。其の上「もし余経を弘むるに教相を明らめざるも義において傷ること無し。もし法華を弘むるに教相を明さざれば文義闕くること有り」と〔釈せられ〕て、殊更教相を本として天台の法門は建立せられ候。
[11]仰せられ候如く、〔次第も無く偏円をも簡ばず〕邪正も〔選ばず〕、法門申さん物をば〔信受せざれ〕と、天台堅く〔誡しめられ〕候也。是れ程に〔知食されず〕候けるに中々天台の御釈を〔引かれ〕候事浅猨き御事也と〔責むべき〕也。
[12]但し天台の教相を三種に〔立てらるる〕中に、根性の融不融の相の下にて相待妙絶待妙とて二妙を立て候。相待妙の下にて又約教約部の法門を釈して仏教の勝劣を〔判ぜられて〕候。
[13]約教の時は一代教を蔵・通・別・円の四教に分けて、〔これに付いて〕勝劣を判じける時は、前三為麤、後一為妙とは〔判ぜられ〕て、蔵通別の三教をば麤教と簡び、後一をば妙法と〔選び取られ〕候へども、此の時もなほ爾前権教の当分の得道を許し、且つ華厳等の仏慧と法華の仏慧とを〔等からしめ〕て、只今の「初後仏慧円頓義斉」等の与の釈を作られ候也。
[14]〔然りと雖も〕約部の時は一代の教を五時に分つて〔五味に当て〕、華厳部・阿含部・方等部・般若部・法華部と〔立てられ〕、前四味為麤、後一を為妙と判じて、奪の釈を〔作られ〕候也。
[15]然れば奪の釈に云く「細人麤人二倶犯過従過辺説倶名麤人」と立て了ぬ。此の釈の意は華厳経にも別円二教を説きて候間、円の方は仏慧と〔云わるる〕也。方等部にも蔵通別円の四教を説き候間、円の方は又仏慧也。般若部にも通別円の後三教を説ひて候間其れも円の方は仏慧也。〔然りと雖も〕華厳は別教と申す悪物を連れて説かれ候間、悪物連れたる仏慧なりとて〔簡わるる〕なり。方等の円も前三教の悪物を連れたる仏慧なり。般若の円も前二味のゑせ物を連れたる仏慧なり。然る間仏慧の名は〔同じといえども〕、過の辺に従つて麤と〔云われ〕て、わるき円教の仏慧と〔下され〕候也。
[16]〔これに依て〕四教にても真実の勝劣を判ずる時は、〔一往は三蔵を名て小乗となし再往は三教を名て小乗となす〕と釈して、一往の時は二百五十戒等の阿含三蔵教の法門を総じて小乗の法と〔簡ひ捨てらるれ〕ども、再往の釈の時は三蔵教と、大乗と云ひつる通教と、別教との三教皆小乗法と、本朝の智証大師も法華論の記と申す文を作つて〔判釈せられて〕候也。
[17]次に絶待妙と申すは開会の法門にて候也。此の時は爾前権教とて嫌ひ〔捨らるる〕所の教を皆法華の大海に収め入るゝ也。随つて法華の大海に入りぬれば爾前の権教とて〔嫌わるる者無き〕也。皆法華の大海の不可思議の徳として、南無妙法蓮華経と云ふ一味にたゝきなしつる間、念仏・戒・真言・禅とて別の名言を〔呼び出すべき〕道理かつて無きなり。随つて釈に云く「諸水入海同一鹹味諸智入如実智失本名字」等と釈して、本の名字を一言も〔呼び顕すべからずと釈せられ〕て候也。
[18]世間の天台宗は開会の後は相待妙の時斥い〔捨てられし〕所の前四味の諸経の名言を唱ふるも、又諸仏諸菩薩の名言を唱ふるも、皆是法華の妙体にて有る也。大海に入らざる程こそ各別の思なりけれ。大海に入りて後に見れば日来悪し善と斥ひ用ひけるは大僻見にて有りけり。〔斥は〕るゝ諸流も、用ひらるゝ冷水も、源はたゞ大海より出でたる一水にて有りけり。然れば何の水と呼びたりとても、ただ大海の〔一水において〕別々の名言をよびたるにてこそあれ各別々々の者と思ふてこそ過はあれ只大海の一水と思ふて何れをも心に任せて有縁に従ひて唱え持つに〔苦しかるべからず〕とて、念仏をも真言をも何れをも〔心に任せ〕て持ち唱ふるなり。
[19]今云ふ此の義は与へて云ふ時はさも〔有るべき〕歟と覚ゆれども、奪つて云ふ時は随分の堕地獄の義也。其の故は縦ひ一人〔此くの如く意得〕、何れをも持ち唱ふるとても、此の心子を〔得ざる〕時は、只例の偏見偏情にて持ち唱ふれば、一人成仏するとも万人は皆〔地獄に堕すべき〕邪見の悪義也。爾前に立つる所の法門の名言と其の法門の内に談ずる所の道理の所詮とは、皆是れ偏見偏情によりて「入邪見稠林、若有若無」等の権教也。
[20]然れば此等の名言を以て持ち唱へ、此等の所詮の理を観ずれば偏に〔心得たるも心得ざるも〕みな〔地獄に堕つべし〕。〔心得〕たりとて唱へ持つ者は牛蹄に大海を収むるもの、〔かくのごときは〕僻見の者也。何ぞ〔三悪道を免れん〕。又〔心得ざる者〕の唱へ持つは〔もとより〕迷惑の者なれば、邪見権教の執心に依つて無間大城に入らん事〔疑ひ無き〕者也。開会の後も麤教と斥ひ捨つるなり。悪法をば名言をも所詮の極理をも〔唱へ持つべからず〕。
[21]弘決二の釈に云く「相待絶待ともにすべからく悪を離るべし。円に著するなお悪なり。いわんやまた余をや」云云。此の文の心は相待妙の時も絶待妙の時も倶に須く悪法をばはなるべし。円に著する尚悪也。況や復余をやと云ふ文也。円とは満足の義也。余とは闕減の義なり。円教の十界平等に成仏する法をすら著したる方を悪ぞと斥ふ。況や復十界平等に〔成仏せざる〕の悪法の闕たるを以て執著をなして、朝夕受持読誦解説書写せんをや。
[22]仮令爾前の円を今の法華に開会し入るゝとも、爾前の円は法華と一味となる事無し。法華の体内に開会し入れられても、体内の権と云はれて実とは〔云わざる〕なり。体内の権を体外に取出して且く「於一仏乗分別説三」する時、〔権において〕円の名を付けて三乗の中の円教と〔云われ〕たるなり。
[23]〔これに依つて〕古へも金杖の譬を以て三乗にあてゝ沙汰する事あり。譬へば金の杖を三に打折りて一づゝ三乗の機根に与へて、何れも皆金なり、然らば何ぞ〔同じ金において〕差別の思を成して勝劣を判ぜんやと談合したり。此はうち聞く所はさもやと覚へたれども、悪く学ぶ者の〔心得〕なり。
[24]今云ふ此の義は、譬へば法華の体内の権の金杖を仏〔三根にあて〕て外に三度打振り給へる其の影を機根が見〔付けず〕して皆真実の思を成して、己が見に任せたるなり。其れ真実には金杖を打折て三になしたる事が有らばこそ、今の譬は合譬とは成らめ。仏は権の金杖を〔折らずして〕三度振り給へるを、機根有りて三に成りたりと執著し〔心得〕たるは、返す返す不得心の大邪見也、大邪見也。
[25]三度振りたるも法華の体内の権の功徳を体外の〔三根にあて〕て三度振りたるにてこそ有れ。全く妙体不思議の円実を振りたる事無きなり。然れば体外の影の三乗を体内の本の権の本体へ開会し入るれば、本の体内の権と〔云われ〕て、全く体内の円とは〔成らざる〕なり。此の心を以て体内体外の権実の法門をば得意弁ふべき物なり。
[26]次に禅宗の法門は或は教外別伝不立文字と云ひ、或は仏祖不伝と云ひ、修多羅の教は月をさす指の如しとも云ひ、或は即身即仏とも云ひ、文字をも立てず、仏祖にも〔依らず〕、教法をも〔修学せず〕、画像木像をも〔信用せず〕と云ふなり。
[27]反詰して云く、仏祖不伝と候こそ月氏二十八祖・東土六祖とて相伝はせられ候哉。其の上迦葉尊者は何ぞ一枝の花房を釈尊より〔授けられ〕、微笑して心の一法を霊山にして伝へたりとは自称する哉。又祖師無用ならば何ぞ達磨大師を本尊とする哉。修多羅の法無用ならば何ぞ朝夕の所作に真言陀羅尼をよみて、首楞厳経・金剛経・円覚経等を読誦する哉。又仏菩薩を〔信用せずん〕ば何ぞ南無三宝と行住坐臥に唱ふる哉と〔責むべき〕也。
[28]次に聞知せざる言を以て種々申し狂はば〔云ふべし〕。凡そ機には上中下の三根あり。随つて法門も三根に与へて説く事なり。禅宗の法門にも理致・機関・向上とて三根に宛て法門を〔示され〕候也。御辺は某が機をば三根の中には何れと知り分けて〔聞知せざる〕法門を〔仰せられ〕候ぞ哉。又理致の分歟、機関の分歟、向上の分に候歟、と〔責むべき〕なり。
[29]理致と云ふは下根に道理を云ひきかせて禅の法門を知らする名目なり。機関と者中根の者には何なるか本来の面目と問へ者、庭前の柏樹子なんど答へたることばづかひをして禅法を示す様なり。向上と云うは上根の者の事なり。此の機は祖師よりも〔伝えず〕、〔仏よりも伝えず〕、我として禅の法門を悟る機也。迦葉霊山微笑の花に依つて心の一法を得たりと云ふ時に是れなほ中根の機也。
[30]所詮の法門と云ふ事は迦葉一枝の花房を得たりしより以来出来せる法門也。抑も伝えし時の花房は木の花歟、草の花歟、五色の中には何様なる色の花ぞ哉。又花の葉は何重の葉ぞ哉。委細に〔之を尋ぬべき〕なり。此の花を有間に云ひ出したる禅宗有らば、実に心の一法をも一分得たる者と〔知るべき〕なり。たとひ得たりとは存知すとも真実の仏意には〔叶ふべからず〕。如何となれば〔法華経を信ぜざる〕が故也。此の心は法華経方便品の終りの長行に委く見へたり。委くは引いて〔拝見し奉るべき〕也。
[31]次に禅の法門は何としても物に著する所を離れよと教へたる法門にて有る也。さと云へば其れは情也。かふと云ふも其れも情也。あなたこなたへすべり、〔とどまらざる〕法門にて候也。夫れを〔責むべき〕様は、他人の情に著したらん計りをば沙汰して、己が情量に著し〔封せらる〕所をば〔知らざる〕也。〔云ふべき〕様は、御辺は人の情計りをば責むれども、御辺の人情ぞと執したる情をなど〔離れずと反詰すべき〕也。
[32]凡そ法として三世諸仏の説きのこしたる法は無き也。汝仏祖不伝と云ひて仏祖よりも〔伝えず〕となのらば、さては禅法は天魔の〔伝うる所〕の法門なり如何。然る間、汝断常の二見を〔出でず〕、〔無間地獄に堕せん事疑ひ無し〕と云ひて、何度もかれが云ふ言にて、やゝもすれば己がつまる語也。されども非学匠は理につまらずと云ひて、他人の道理をも自身の道理をも〔聞き知らざる間〕暗証の者とは云ふ也。都て理におれざる也。譬へば行く水にかすかく(書)が如し。
[33]次に即身即仏とは、即身即仏なる道理を立てよと〔責むべし〕。其の道理を〔立てずして〕、無理に唯即身即仏と云はば例の天魔の義也と〔責むべし〕。但し即身即仏と云ふ名目を聞くに、天台法華宗の即身成仏の名目づかひを盗み取りて、禅宗の家につかふと覚へたり。然れば法華に立つる様なる即身即仏なる歟如何とせめよ。
[34]若し〔その義無く〕押して名目をつかはば、つかはるゝ語は無障礙の法也。譬へば民の身として国王と名乗らん者の如く也。如何に国王と云ふとも、言には〔障り無し〕。己が舌の和かなるまゝに云ふとも、其の身は即ち土民の卑しく嫌はれたる身也。又瓦礫を玉と云ふ者の如し。石瓦を玉と云ひたりとも曾て石は玉にならず。汝が云ふ所の即身即仏の名目も〔かくのごとく〕有名無実也。不便也不便也。
[35]次に不立文字と云ふ。所詮文字と云ふ事は何なるものと〔心得〕、〔かくのごとく立てられ〕候哉。文字は是れ一切衆生の心法の顕れたる質也。されば人のかける物を以て其の人の心根を知りて相する事あり。凡そ心と色法とは不二の法にて有る間、かきたる物を以て其の人の貧福をも相する也。
[36]然れば文字は是れ一切衆生の色心不二の質也。汝若し文字を〔立てざれ〕ば汝が色心をも〔立つべからず〕。汝〔六根を離れて〕禅の法門一句答へよと〔責むべき〕也。さてと云ふも、かうと云ふも、有と無との二見をば〔離れず〕。無と云はば無の見也とせめよ。有と云はば有の見也とせめよ。何れも何れも〔叶はざる〕事也。
[37]次に修多羅の教は月をさす指の如しと云ふは、月を見て後は徒者と云ふ義なる歟。若し其の義にて候は者、御辺の親も徒者と云ふ義歟。又師匠は〔弟子のために〕徒者歟。又大地は徒者歟。又天は徒者歟。如何となれば父母は御辺を出生するまでの用にてこそあれ、御辺を出生して後はなにかせん。人の師は物を習ひ取るまでこそ用なれ、習い取つて後は無用也。夫れ天は雨露を下すまでこそあれ、雨ふりて後は天無用也。大地は草木を出生せんが為也、草木を出生して後は大地無用也と云はん者の如し。是れを俗の者の譬へに喉過ぎぬればあつさわすれ、病癒へぬれば医師をわすると云ふらん譬に少も〔違わず〕相似たり。
[38]所詮修多羅と云ふも文字也。文字は是れ三世諸仏の気命也と天台釈し給へり。天台は震旦の禅宗の祖師の中に入りたり。何ぞ祖師の言を嫌はん。其の上御辺の色心也。凡そ一切衆生の三世不断の色心也。何ぞ汝本来の面目を捨て不立文字と云ふ耶。是れ昔し移宅しけるに我が妻を忘れたる者の如し。真実の禅法をば何としてか知るべき。哀なる禅の法門かなと〔責むべし〕。
[39]次に華厳・法相・三論・倶舎・成実・律宗等の六宗の法門、いかに花をさかせても、申しやすく返事すべき方は、能能いはせて後、南都の帰伏状を唯よみきかすべき也。既に六宗の祖師が帰伏の状をかきて桓武天皇に〔奏し奉る〕。仍て彼の帰伏状を山門に納められぬ。其の外内裏にも〔記せられ〕たり。諸道の家家にも記し留めて今にあり。其れより已来、華厳宗等の六宗の法門、末法の今に至るまで一度も頭をさし出さず。何ぞ唯今事新しく捨られたる所の権教無得道の法にをいて真実の思をなし、〔かくのごとく仰せられ〕候ぞや。〔心得られず〕とせむべし。
[40]次に真言宗の法門は、先ず真言三部経は大日如来の説歟、釈迦如来の説歟と尋ね定めて、釈迦の説と言はば、釈尊五十年の説教にをいて已今当の三説を分別せられたり。其の中に大日経等の三部は何れの位にをさまり候ぞと〔これを尋ぬべし〕。三説の中にはいづくにこそおさまりたりと云はば、例の法門にてたやすかるべき問答也。
[41]若し法華と同時の説也、義理も法華と同じと云はば、法華は是れ純円一実の教にて曾て方便を交へて説く事なし。大日経等は四教を含用したる経也。何ぞ時も同じ義理も同じと云はんや、謬り也とせめよ。
[42]次に大日如来の説法と云はば、大日如来の父母と、生ぜし所と、死せし所を委く沙汰し問ふべし。一句一偈も大日の父母なし、説所なし、生死の所なし。有名無実の大日如来也。然る間殊に法門せめやすかるべき也。
[43]若し法門の所詮の理を云はば、教主の有無を定めて、説教の得不得をば〔極むべき〕事也。設ひ至極の理密・事密を沙汰すとも、訳者に〔虚妄有り〕、法華の極理を盗み取りて事密真言とか〔立てられ〕てあるやらん不審也。〔これに依り〕て法の所談は教主の有無に随つて〔沙汰有るべき〕也と〔責むべき〕也。
[44]次に大日如来は法身と云はば、法華よりは未顕真実と嫌ひ捨てられたる爾前権教にも法身如来と説かれたり、何ぞ不思議なるべきやと〔云ふべき〕也。若し無始無終の由を云ひていみじき由を立て申さば、必ず大日如来に〔限らず〕、我等一切衆生螻蟻蝱蝱等に至るまでみな無始無終の色心也。〔衆生において〕有始有終と思ふは外道の僻見也。汝外道に同ず、如何と〔云ふべき〕也。
[45]次に念仏は是れ浄土宗所用の義也。此れ又権教の中の権教也。譬へば夢の中の夢の如し。有名無実にして其の実無き也。一切衆生願て所詮なし、然れば〔云ふ所〕の仏も有為無常の阿弥陀仏也。何ぞ常住不滅の道理にしかんや。されば本朝の根本大師の御釈に云く、「有為の報仏は夢中の権果、無作の三身は覚前の実仏」と釈して、阿弥陀仏等の有為無常の仏をば大にいましめ、捨てをかれ候也。
[46]既に〔憑む所〕の阿弥陀仏有名無実にして、名のみ有りて其の体なからんには、〔往生すべき〕道理をば、委く〔須弥山の如く〕高く立て、大海の如くに深く云ふとも、何の所詮有るべきや。又経論に正しき明文ども有りと云はば、明文ありとも未顕真実の文也。
[47]浄土の三部経に〔限らず〕、華厳経等より初めて何の経教論釈にか成仏の明文無らん耶。然れども権教の明文なる時は汝等が所執の拙きにてこそあれ、〔経論に無き〕僻事也。何れも法門の道理を宣べ厳り、依経を立てたりとも夢中の権果にて無用の義に〔成るべき〕也。返す返す。
現代語訳
諸宗問答鈔
建長七年(一二五五)、三四歳、和漢混交文、定二二—三三頁。
法華宗の法門と天台法門との関係
[1]問うて言う。法華宗の法門は、天台大師・妙楽大師・伝教大師などの解釈をお用いになるのか。答えて言う。これらの方々のご解釈を釈尊の明鏡(法華経)の助証として用い、法門を立てている。
天台の法門と法華最勝
[2]問うて言う。何を明鏡として法門を立てられるのか。天台宗のご解釈には法華経以前の諸経を方便の教えだからとしてことさら捨てることはない。したがって、あるいは「初めに説かれた仏の智慧(悟りの境界)と後に説かれた仏の智慧(悟りの境界)とはともに円満にしてその義は同じである」(法華玄義巻一〇)とも、あるいは「此の経の妙も彼の経の妙も妙の義において異なることはない」(法華玄義巻二)とも解釈され、華厳経の仏の智慧と法華経の仏の智慧とは同じで異なることはないと説明されている。ましてや、通教(声聞・縁覚・菩薩に通じた教え)や別教(菩薩のための教え)の仏の智慧もまた法華経と同じと思われる。したがって、何をもってただひとえに法華経だけが勝れているとおっしゃるのか。納得がいかないことではないか。この点どうであろうか。
[3]答えて言う。天台大師のご解釈を引かれたところをみると、貴方はきっと天台宗の方であろう。
[4]すなわち、天台大師のご解釈には教道(仏の教えを秩序だてる法門。教相)と証道(仏の本意。経の意。仏の悟りの境地)の二本の柱があり、これに立脚して天台大師は法華玄義・法華文句・摩訶止観の三大部六十巻を作られた。教道とはすなわち教相の法門である。証道とはすなわち仏の心のうちの悟りの境界である。今、貴方が引かれた解釈の文章は教道と証道の二つのうちどちらの文章とお考えになり引かれたのか。
[5]もし教相の法門としての解釈文であるとすれば、教相には三種の教相を天台大師は立てられている。これは法華経以前の諸経と法華経とを解釈して勝劣を判定されたものである。そこで、その「三種の教相とは何か」と尋ねるべきである。
[6]もし三種の教相とは、一には根性の融不融の相、二には化導の始終不始終の相、三には師弟の遠近不遠近の相である、と答えれば、それでは、今、引かれたご解釈はそれら三種のうちいずれの教相として引かれたのか、と尋ねるべきである。
[7]根性の融不融の相のもとに引いたと解釈される、と答えれば、押し返して問うがよい。根性の融不融の相のもとには約教(教の立場に立つ与えての解釈)・約部(部の立場に立つ奪っての解釈)という二つの法門があるが、いずれであるか、と尋ねよ。
[8]もし、約教の意味で引いた、と答えれば、また問うがよい。約教と約部については与えた解釈と奪った解釈の二つがある。今の解釈は与えた解釈であるか奪っての解釈であるか、と。
[9]もし、約教・約部も与奪も弁えない、と言えば、それでは天台宗の法門をあまりにも知らないことになる。
[10]そもそも、天台法華宗の法門は教相によって諸仏のご本意を明確に示している。もし教相を弁えないで法華経の法門を論じれば、伝教大師最澄が法華秀句に「法華経を称讃しているようで、かえって法華経の心を死滅させている」と言われているように、法華経の正しい意味を殺すことになる。そのうえ、天台大師智顗は法華玄義に「もし法華経以外の経典を弘めるには、教相を明らかにしなくとも教義のうえで問題はないが、もし、法華経を弘めるには教相を明確にしないと経文を解釈したり教義を論じるうえで問題が生じる」と説明されている。このように、とくに教相を基本として天台の法門は立てられているのである。
[11](貴方が)おっしゃられるような、仏の教えに順序があることも無視し、教えに浅い深いがあることも考えず、誤った教えか正しい教えかも選別しないで法門を説く者の言葉を、信じ受けとめてはならないと、天台大師は強く誡めておられる。これほどのことさえ知らないで、どうどうと天台大師のご解釈を引かれることはあまりにも浅ましいことである、と責めるべきである。
[12]ところで、天台大師の立てられた三種の教相の中の根性の融不融の相のところで相待妙(粗法と妙法を相対し、粗法を破して妙法を顕わす)と絶待妙(粗法と妙法の相対を超絶し、粗法を開し妙法を顕わす)の二妙が立てられている。その相待妙のところで天台大師は約教と約部の法門を解釈し、釈尊が説かれたすべての教えの勝劣を明確にされた。
[13]教に約する時は、釈尊ご一代の教えを蔵教・通教・別教・円教の四つに分け、これについて勝劣を判定する時は「前の三を粗法とし、後の一を妙法とする」(妙楽大師湛然の法華玄義釈籤)と判別されて、蔵教・通教・別教の三教は粗教、後の一教である円教を妙法と選び取られているけれども、この時もなお法華経以前の方便の教えにそれぞれの成仏を認め、かつ華厳経などの仏の悟りと法華経の仏の悟りとを等しいとし、さきほど引かれた「初めに説かれた仏の智慧と後に説かれた仏の智慧とはともに円満にしてその義は同じである」(法華玄義)などの、与えての解釈を作られた。
[14]しかしながら、部に約する時は、釈尊ご一代の教えを五つの時期に分け、これを五つの味に配当し、華厳部(乳味)・阿含部(酪味)・方等部(生酥味)・般若部(熟酥味)・法華部(醍醐味)と立てられ、「前の四味を粗法とし、後の一味を妙法とする」(妙楽大師湛然の法華玄義釈籤)と判定して、奪っての解釈を作られた。
[15]したがって、奪っての解釈には「善人(法華経以前の経典に説く円満具足の教え)も悪人(蔵教・通教・別教)もともに過失を犯せば同じく悪人である」(法華玄義釈籤)と立てられている。この解釈の意味は、華厳経にも別教・円教の二教が説かれており、円教は仏慧(仏の智慧)と言われる。方等部にも蔵教・通教・別教・円教の四教が説かれており、円教はまた仏慧である。般若部にも通教・別教・円教の後の三教が説かれており、円教は仏慧である。しかしながら、華厳経は別教という悪物(にせもの)を連れているので、悪物を連れた仏慧として区別される。方等部の円教も蔵教・通教・別教の三教という悪物を連れた仏慧である。般若部の円教も通教・別教の悪物を連れた仏慧である。したがって、仏慧の名は同じであっても過失をともなっているゆえに粗法と言われ、悪い円教の仏慧と下されるのである。
[16]このようなわけから、四教においても真実の勝劣を判定する時は、「いちおうは三蔵教を小乗経とするが、さらに深く考えれば三蔵教だけでなく通教・別教をも含めて小乗教とする」と解釈し、いちおうの時は二百五十戒などを説く阿含経の三蔵教の教えを小乗教の法門と嫌い捨てるけれども、さらに深く考えれば、三蔵教と、大乗と言われる通教と別教との三教をすべて小乗の法とすると、日本国の智証大師円珍も法華論記という書のなかに判じ釈されている。
[17]つぎに絶待妙と言うのは開会の法門である。この立場では、相待妙で法華経以前の諸経は方便の教として嫌い捨てられていたのを、すべて法華経の大海に収め入れるのである。したがって、法華経の大海に入ってしまえば法華経以前の諸経も方便の教として嫌われることはない。すべて法華経の大海のなかの不可思議(妙)の徳分として南無妙法蓮華経という一味になるのであるから、念仏・戒律・真言・禅などという別の名称で呼びたてる道理はまったくないのである。よって、天台大師の法華玄義には「もろもろの水が海に入れば同じ一つの塩の味となるように、もろもろの智慧は真実の智慧に入ればもとの名称を失う(単独で存立することの意義がなくなる)」などと解釈し、もとの名称を一言も呼びあらわしてはならないと教示されている。
[18]世間一般の天台宗の人たちは、「絶待妙の開会の後は、相待妙の時に嫌い捨てられた前四味の諸経(法華経以前の諸経)の名前を唱えたり諸仏諸菩薩の名号を唱えたりするのも、すべてこれらは法華経の妙法のうちである。大海に注ぐ前の川の水は大小清濁などの異なりがあるが、ひとたび大海に入ってしまえば、日頃、濁水として嫌ったり清水として好んだりして区別していたことは大きな誤りであったことが分る。嫌われる川の流れも用いられる清水もその源はともに大海から出た一つの水である。したがって、何々の水と呼んでいてもただ大海の一つの水を別々の名前で呼んでいるにすぎないのであり、それを別々のものと思うことに誤りがある。ともに大海の一つの水と思い、どのような教えも心に任せ縁に触れるまま唱え持つ(信仰する)ことは悪いことではない」と、念仏でも真言でも、どのような教えでも心に任せて持ち唱えている。
[19]今、申し上げたこのような考え方は、与えた立場で考える時はもっとものように思われるが、奪った立場で(厳密に)考えると、重大な、地獄に堕落する邪義である。その理由は、たとえ一人がこのような開会の意味を心得て法華経以外の諸経を持ったり諸仏菩薩の名号を唱えても、世間一般の人びとは、開会の意味を心得ないで、ただ例のごとく偏った考えや思いで持ち唱えるのであるから、心得た人が一人成仏したとしても、他のほとんどの人びとはすべて地獄に堕ちてしまう誤った考えの教えとなるのである。法華経以前の諸経で説かれる法門の名称とその法門に説かれている道理の究極とは、すべて偏った考えや思いによるものであり、法華経方便品に説かれるように、「誤った考えの密林である有とか無とかの迷いのなかに入り込んだ」方便の教えである。
[20]そうであれば、法華経以外の諸経を持ったり名号を称えたりし、これらの教えの究極の道理を観念すれば、開会の法門を心得ている者も心得ていない者もすべて地獄に堕ちねばならない。心得ていると思い込んで唱え持つ者は、あたかも牛の蹄のあとの水たまりに大海の水を収められると思っているのと同じで、誤った考えの者である。このような者はどうして三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に堕ちることを免がれることができようか。また、開会の法門を心得ないで唱え持つ者は、もとから教えに誤っている者であるから、誤った考えや方便の教えに心を執われており、無間地獄に堕ちることはまちがいない者である。たとえ開会した後であっても、成仏を達成できない方便の教えとして区別し捨てるのである。悪法はその名称も、説くところの究極の道理も、唱え持ってはならない。
[21]妙楽大師の摩訶止観輔行伝弘決巻二の解釈によると「相待妙・絶待妙はともに悪を離れるべきである。たとえ円教であっても執著すれば悪となる。ましてその他については言うまでもない」とある。この文章の意味は、相待妙であろうと絶待妙であろうと必ず悪法を離れよ、たとえ円教であろうと円教に執著すると悪である、いわんや他の別教・通教・蔵教においてをや、というものである。円とは満足して欠けるものがないとの意味である。余とは欠けているものを意味している。円教の十界の衆生が平等に成仏するという教えに執著することさえ悪として嫌う。まして十界の衆生が平等に成仏するとは説かない不充分の悪法に執著して、朝夕に受持したり、読誦したり、解説したり、書写したりすることは悪のきわみである。
[22]たとえ法華経以前の諸経に説かれる円教を法華経の円教に開会して入れても、法華経以前の諸経に説かれる円教は法華経の円教と同一とはならない。法華経の中に開会して入れられても、体内の権(法華経の中の方便の教え)と言われ、実(真実の教え)とは言わないのである。法華経の中の権(方便の教え)を外に取り出して、「一仏乗において分別して三乗と説」かれる時は、方便の教えに円教の名を付けて三乗(方便の教え)の中の円教と言われるのである(法華円教の真実に立脚して方便の教えが説きあらわされるのであるから方便の教えも円教であるが、厳密には法華経の円教と諸経の円教は異なる。そこで方便の教えの円教は三乗の中の円教と言われる)。
[23]このことから、昔からよく金の杖の譬えによって三乗(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)について論じることがある。その譬えは、金の杖を三つに打ち折りその一つずつを三乗の機根の人たちに与え、すべて金であるから同じ金の中で異なりがあると思って優劣を論じる必要はない、と説いたのである。この譬えは聞いただけではもっともなように思われるが、これは悪く学ぶ者の思いちがいである。
[24]今言うところの意味は、譬えば、法華経のうちの方便の金の杖を仏が三乗の機根に対して法華経の教えからとり出して三度打ち振られた影を、三乗の機根の人たちが正しく見ぬくことができずに、皆、真実の金の杖であると思い込み、自分たちの考えを正しいと思っているのである。もし、実際に金の杖を打ち折って三つにしたのならば、今の譬えは法に合ったものとはならないであろう。仏は法華経のうちの方便の金の杖を折らないで三度振られたのを、迷った三乗の機根の人たちは三つになったと思い込んだのである。かえすがえすも不心得の大邪見である。大邪見である。
[25]三度振ったのは、法華経の中の方便の教えの功徳を、法華経から取り出して三乗の機根の人たちにあてはめて三度振ったのである。法華経円教の不可思議の真実(純正独妙の円)を振ったのではない。したがって、法華経から取り出した影の三乗を、法華経のうちにある本来の方便の教えの中に開会して入れれば、法華経のなかにおける方便の教えと言われ、法華経のなかの円(真実の円)とは決してならないのである。この心をもって、法華経の体内体外の方便と真実について正しく認識すべきである。
禅宗の誤り
[26]次に禅宗の法門は、あるいは教外別伝不立文字(仏の教えは経文などの文字によるのではなく坐禅を通して体験的に悟る)と言い、あるいは仏祖不伝(仏の悟りの境地は文字を絶するゆえに仏祖も伝えない)と言い、経典の教えは月をさす指のようなものである、とも言い、身に即してそのまま仏であるとも言い、文字も立てず仏祖にも依らず、仏の教えをも修学せず、画像や木像をも信用しない、と言うのである。
[27]反論して言う。仏祖も伝えないと言うのならば、なぜインドの二十八祖・中国の六祖を尊崇して相伝(仏法の伝承)の師とするのか。そのうえ、なぜ迦葉尊者は一枝の花房を釈尊から授かった時、微笑して仏の心を霊鷲山で悟ったと自ら称しているのか。また、祖師が必要ないのならば、なぜ達磨大師を本尊とするのか。また、経典の教えは無用であるならば、なぜ朝夕の勤行に真言陀羅尼を唱えたり、首楞厳経・金剛般若経・円覚経などを読誦するのか。また、仏菩薩を尊信しないのなら、どうして南無三宝(仏・法・僧への帰依)と日常の振舞い(行住坐臥)で唱えるのか、と詰問すべきである。
[28]次に聞きなれない言葉でいろいろと言いまぎらそうとしたならば言うべきである。およそ人の機根には上中下の三種がある。したがって仏の法門も三つの機根にあてはめて説かれねばならない。禅宗の法門でも理致(理は文義に精通した者、致は文義に暗い者)・機関(機根に応じた教化方法)・向上(絶待の大悟境に到達すること)と言って三種の機根に応じて法門を教示されている。貴方は、私が三種のなかのいずれの機根と思って、聞いたことのない法門をおっしゃるのか。それは理致の立場か、機関の立場か、向上の立場か、と詰問すべきである。
[29]理致と言うのは、下根(低い機根)の者に道理を言い聞かせて禅の法門を知らせる名称である。機関とは、中根(普通の機根)の者に「何が本来の面目(本当のもの)か」と問うた時に、「庭前の柏樹子(庭の柏の木)」などと答えるような言葉使いをして禅の法門を教示するようなものである。向上と言うのは、上根(勝れた機根)の者を教化することを言う。この人たちは祖師からも伝えず(法門を伝授せず)、仏からも伝えずして、自ら禅の法門を悟る。迦葉が霊山で華を拈ねられた仏の心を悟って微笑したというのはまだ中根の人である。
[30]禅宗の法門は迦葉が仏からこの一枝の花房を受得したことからできたものである。そもそも伝授された時の花房は木の花か草の花か、五色(青黄赤白黒)の中ではどのような色の花であったのか。また花弁は何重であったのか。詳細にこのことを尋ねるべきである。この花についてありのままに(真実のままに)答えることのできる禅宗の人がいたなら、確かに、心に仏の悟りの法を一分(少しは)得た者と考えてよい。しかしながら、たとえ悟りの法を得たと考えられても、それは真実の仏意には叶ったものではない。なぜならば法華経を信じないからである。このことの意味は法華経方便品の終りの長行の所に委しく説かれている。具体的にはその所を拝見すべきである。
[31]次に、禅の法門は何と言っても物への執著を止めよと教えているのである。右と言えばそれは迷いの情である。左と言ってもそれも迷いの情である。あちらやこちらに揺れ動き止まることのない法門である。このような禅の法門を責める時は、他人が迷情に執著していることばかりを言って、自分が迷情に執著して心を閉ざしていることを知らない。したがって、言うべきことは、貴方は人の迷情ばかりを責めるけれども、他人の迷情に執著している自分の迷情からどうして離れないのか、と反論すべきである。
[32]およそどのような法であっても、三世(過去世・現在世・未来世)の諸仏が説き残された法などはまったくないのである。貴方が、禅の法門は「仏祖不伝」と言って、仏や祖師から伝えたものではない、と言うならば、それではさては禅の法門は天魔の伝えた法門である。どうであろうか。したがって、貴方は断見(仏祖不伝の法を自ら悟ったとするなら外道の断見と同じ)・常見(仏祖不伝の法が自然に存在したとするなら外道の常見と同じ)の偏った考えにおちいっている、無間地獄に堕落することは疑いない、と言って責めるべきである。「仏祖不伝」は彼の禅宗の人たちが何度も言うことで、それでいて問いただすと自分で返答に詰まる言葉である。しかしながら、学問のない者は、道理に詰まることはない、と言って、他人の言う道理も自分の言う道理も、聞き入れることもなく、知ることもないので、暗証(道理に暗い)の者と言うのである。これらの人は何かにつけても道理を受け容れようとしない。たとえるならば、流れる水に絵を書くようなものである。
[33]次に禅宗で言う即身即仏(その身がそのまま仏であるとする法門)については、その身がそのまま仏であるという道理を証明しなさい、と責めるべきである。その道理を明らかにしないで、理由もなくただ即身即仏と言うのならば、それは例の天魔の教えである、と責めなさい。ただし、即身即仏と言う名称を聞くと、これは天台法華宗の即身成仏の名称を盗みとって禅宗で使用していると思われる。もしそうであるなら、天台法華宗で立てているような意味での即身即仏であるのか、と責めなさい。
[34]もしそのような意味も考慮に入れず、ただ名称だけを使うのであれば、使われている言葉は無障礙(さまたげのない)の法(都合によって自由に使いわけることのできる自分勝手な考え)である。たとえば民の身でありながら国王と名のる者のようである。どのように国王と言っても言葉に障げはない。自分の舌の軟かいことにまかせて言っても、その身は身分の低い民である。また、それは瓦石を宝玉と称する者と同じである。いくら石や瓦を玉と言ってもけっして石は玉にはならない。貴方が言うところの即身即仏の名称もまたこれと同じで有名無実である。困ったことである(あわれむべきことである)。
[35]次に禅宗では不立文字(文字に依らないで仏の悟りの法を体得する)と言う。いったい文字というものを何と心得てこのような教義を立てられるのか。文字はすべての人びとの心を顕わしたものである。したがって、人の書いたものによってその人の心の内を知ることができる。およそ心と身体とは不二であるから、書いたものをもってその人の貧福をも推察することができる。
[36]そうであれば、文字はすべての人びとの身体と心が不二であることを示したものである。貴方がもし文字を立てないと主張するなら、それは貴方自身の身体と心を容認しないことになる。貴方は六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を離れて禅の法門を一句なりとも答えてみなさい、と責めるべきである。どのように答えても有と無の偏った二つの考えから離れることはできない。無と言えば無の見(断見の思想)であると責めなさい。有と言えば有の見(常見の思想)であると責めなさい。どちらにしても道理にかなわないことである。
[37]次に禅宗で、「仏の説かれた経は月を示す指のようなものである」と言うのは、月(仏の悟り)さえ見てしまえば後の指(仏の教え=経)は無用なものという意味なのか。もしそのように考えるのであれば、貴方の親も無用という意味であろうか。また師匠も弟子にとって無用であるのか。また大地は無用か。また天は無用か。なぜならば、父母は貴方を産んだ後は何の必要もない。人の師はものごとを習い覚えるまでの用で、習い終れば無用である。また天は雨露を降らすまでは必要であるが降った後は無用である。大地は草木を生い繁らすものであり、草木を生い繁らした後は無用である、と言う者のようである。これは世俗の諺で「喉もと過ぎれば熱さを忘れ、病瘉ゆれば医者を忘れる」という譬えと少しも違わない。
[38]要するに、修多羅(経)と言っても文字である。「文字は実に三世諸仏の気命である」(法華玄義)と天台大師は解釈しておられる。天台大師は中国の禅宗の祖師の中に入っている。なぜ祖師の言葉を嫌うのか。そのうえ、文字は貴方の身体と心である。そしてすべての人びとの三世にわたる身体と心である。どうして貴方は本来の面目(本当のもの、本質的なもの)を捨てて不立文字と言うのか。これはあたかも転居の時に自分の妻を忘れた者と同じである。真実の禅の法門をどうして知ることができよう。はかなき禅の法門であることか、と責めるべきである。
南都六宗の誤り
[39]次に、華厳宗・法相宗・三輪宗・倶舎宗・成実宗・律宗などの南都六宗の人びとが、自らの法門をいかに花が咲くように飾り立てても、話のしやすい返答の仕方は、じゅうぶんに法門を言わせた後に、かつて南都六宗の学者が伝教大師最澄に論伏されて奏上した帰伏状をただ読み聞かせなさい。すでに南都六宗の祖師たちが天台法華宗に対する帰伏状を書いて桓武天皇に奏上している。そしてその帰伏状は比叡山に納められている。そのほか宮中の記録にもある。諸方面の記録にも留められており現存もしている。それ以来末法の今に至るまで、華厳宗などの六宗の法門は一度も頭角を現わしたことがない。どうしていまさら事新しく、すでに否定された成仏の道ではない方便の法を真実の教えのように思って、そのように申されるのか、納得できないことである、と責めるべきである。
真言宗の誤り
[40]次に、真言宗の法門は、まず、真言三部経(大日経・金剛頂経・蘇悉地経)は大日如来の説法か、釈迦如来の説法か、と尋ね明かし、釈迦如来の説である、と答えれば、釈尊は五十年間の説法を已に説いた教え(諸経)・今説いた教え(無量義経)・当に説こうとする教え(涅槃経)の三通りに区別されている。その中で大日経などの真言三部経はどの部分に入っているのか、と尋ねなさい。已今当の三説の中のどれかに入っている、と言えば、例の三説超過の法門(法華経は三説を超過した最勝の教え)でたやすく決着のつく問答となる。
[41]もし、真言三部経は法華経と同時の説法で教えの内容も法華経と同じである、と言えば、法華経は純円一実の教え(純粋に円教のみを説いたただ一つの真実の教え)であり方便を交えて説いたものではない。大日経などの真言の経は四教(蔵教・通教・別教・円教)を含んだ経典である。どうして説法の時も同じ教えの内容も同じと言うのか、誤りである、と責めなさい。
[42]次に、真言の経は大日如来の説法であると言えば、大日如来の父と母、生まれた場所と死んだ場所を委しく問いただしなさい。諸経典には一句も一偈も大日如来の父母については説かれていない。説法の場所も説かれていない。生まれ死んだ場所も説かれていない。大日如来は名ばかりで実体のない仏である。したがって、真言の法門は特に責め易いのである。
[43]もし、法門の内容について言うならば、教主である仏の有無を明らかにしてから、その仏が教えを説くことができるか否かを究めるべきである。たとえ最高の理密(心に曼陀羅を念じて法界を観察する)・事密(手に印を結び口に陀羅尼を称える)を説くゆえに真言の法門が勝れる、などと主張しても、真言の経典を漢訳した訳者に誤りがあるうえ、法華経の極理を盗み取って事密真言とか称して立てられているようであり、不審なことである。したがって、法門の内容を論じるにはまず教主である仏の有無を明確にしてからにすべきである、と責めるべきである。
[44]次に、大日如来は法身の仏であると言えば、法華経にいまだ真実を顕わしていない教えであると嫌い捨てられた法華経以前の方便の経にも、法身如来のことはすでに説かれている、どうして不思議なことがあろうか、と言うべきである。もし、大日如来は始めも終わりもない常住不滅の仏でありことさら勝れている、と主張したなら、それは大日如来だけに限るものではなく、わたしたちすべてのものは、おけら・蟻・蚊・虻などの虫にいたるまで、その本性は始めも終わりもない常住の身と心である。大日如来だけが常住で他のものは無常と思う貴方の考えは外道(仏教以外の教え)の誤った見解と同じである。どうであろうか、と言うべきである。
浄土宗の誤り
[45]次に、念仏(南無阿弥陀仏)は浄土宗で用いる法門である。この教えはまた方便の教えの中でもとくに方便の教えである。譬えるなら夢の中で夢を見ているようなものである。有名無実でその本質はなにもない。すべての人びとが救いを願っても何の意味もない。浄土教の教主である仏も有為無常(実体のない無常)の阿弥陀仏である。どうして常住不滅の道理を説く法華経に勝ることがあろうか。したがって、日本の根本大師最澄のご解釈には「諸経に説かれている無常の報身(修行によって得た仏身)は夢の中の方便の仏であり、本来常住の三身(法身・報身・応身)の仏は久遠実成の真実の仏である」(守護国界章)と、阿弥陀仏などの有為無常の仏を大いに誡め、否定されている。
[46]心の依り所としている阿弥陀仏はすでに有名無実で、名のみあってその実体がないうえは、念仏信仰によって往生するという道理を、どれほど詳しく須弥山のように高く立て、大海のように深く言っても、何の意味があろうか。また、仏の経説や人師の論釈に根拠となる正しい明文などがある、と言っても、その明文は未顕真実(いまだ真実を顕わしていない)の方便の文である。
諸宗不成仏の誡め
[47]浄土の三部経に限らず、華厳経などを初めとしてどのような経典や論釈にも成仏の明文の無いものがあろうか。しかしながら、方便の教えを明文とするのは、貴方たちがそれを知らずに執著する未熟さのゆえにそう思うのであり、真実を説く経論にはない誤りである。いずれの宗も自宗の法門の道理を飾り、依り所とする経典を立てているけれども、それらはすべて夢の中の方便の仏の悟りであり、意味のないことになる。かえすがえすもこの道理を違えてはならない。