諸宗問答鈔
5 諸宗問答鈔
問云法華宗の法門は天台・妙楽・伝教等の釈をば御用候哉如何。答云最此御釈共を明鏡の助証として立申法門にて候。
問云何明鏡として被立候ぞや。彼御釈共には爾前権教を被簡捨事不候。
随而て或は初後仏慧円頓義斉とも、或は此妙彼妙妙義無殊とも被釈、華厳と法華と、仏慧同仏慧にて無異と釈せられ候。
通教別教の仏慧も法華と同と見えて候。何以て偏に法華勝たりとは被仰候哉。不得意候如何。
答云天台の御釈を被引候は定て天台宗にて御坐候らん。
然ば天台の御釈には教道・証道とて二筋を以て六十巻を被作候。
教道は即教相の法門にて候。証道は則内証の悟の方にて候。
只今被引候釈の文共は教証二の中には何の文と御得意候て被引候や。
若教門の釈にて候者、教相には三種の教相を立て候。
爾前・法華を釈して勝劣を被判たり。
三種の教相には何哉可尋之。
若三種の教相と申は一根性融不融相、二化導始終不始終相、三師弟遠近不遠近相也と答へば、さては只今被引御釈は何の教相にて被引候哉可尋也。
根性融・不融の下にて被釈と答へば又押返して可問。
根性の融不融の下には約教・約部とて二法門あり何哉可尋。
若約教の下と答へば又可問。約教約部に付て与奪の二の釈候。只今の釈は与の釈歟、奪釈歟と可尋之。
若約教約部をも与奪をも不弁云者、さては天台宗の法門は堅固に御無沙汰にて候けり。
尤も天台法華の法門は教相を以て諸仏の御本意を被宣たり。
若教相に闇して法華の法門をいへば雖讃法華経還死法華心とて、法華の心を殺すと云事にて候。
其上若弘余経不明教相於義無傷。若弘法華不明教相者文義有闕と被釈、殊更教相を本として天台の法門は被建立候。
仰せられ候如く、無次第不簡偏円邪正も不選、法門申物をば不信受、天台堅く被誡候也。
是程不被知食候けるに中々天台の御釈を被引候事浅援御事也と可責也。
但天台の教相を三種に被立中に、根性融不融相の下にて相待妙絶待妙とて二妙を立候。
相待妙下にて又約教約部法門を釈して仏教の勝劣を被判候。
約教の時は一代教を蔵・通・別・円の四教に分て、付之勝劣を判ける時は、前三為麁、後一為妙とは被判、
蔵通別の三教をは麁教と簡び、後一をは妙法と被選取候ども、此時もなほ爾前権教の当分の得道を許し、且つ華厳等の仏慧と法華の仏慧とを令等、只今の初後仏慧円頓義斉等の与の釈を被作候也。
雖然約部の時は一代の教を五時に分て当五味、華厳部・阿含部・方等部・般若部・法華部と被立前四味為麁後一を為妙と判じて、奪の釈を被作候也。
然者奪の釈に云細人麁人二倶犯過従過辺説倶名麁人立了。
此釈の意は華厳経にも別円二教を説て候間、円の方は仏慧と被云也。
方等部にも蔵通別円の四教を説候間、円の方は又仏慧也。
般若部にも通別円の後三教を説て候間其も円の方は仏慧也。
雖然華厳は別教と申悪物を連て説候間、悪物に連たる仏慧なりとて被簡なり。
方等の円も前三教の悪物を連たる仏慧なり。
般若の円も前二味ゑせものを連たる仏慧なり。
然間仏慧の名は雖同、過辺に従て麁と被云、わるき円教の仏慧と被下候也。
依之四教にても真実の勝劣を判ずる時は、一往三蔵名為小乗再往三教名為小乗釈て、
一往の時は二百五十戒等の阿含三蔵教の法門を総小乗の法と被簡捨ども、
再往の釈の時は三蔵教と、大乗と云つる通教と、
別教との三教皆小乗法と、本朝の智証大師も法華論記と申文を作て被判釈候也。
次に絶待妙と申は開会の法門にて候也。
此時は爾前権教とて嫌ひ被捨所の教を皆法華の大海に収入るゝ也。
随て法華の大海に入ぬれば爾前の権教とて無被嫌者也。
皆法華の大海の不可思議の徳として、南無妙法蓮華経と云一味にたゝきなしつる間、念仏・戒・真言・禅とて別の名言を可呼出道理かつて無なり。
随て釈云諸水入海同一鹹味諸智入如実智失本名字等釈して、本の名字を一言も不可呼顕被釈候也。
世間の天台宗は開会の後は相待妙の時斥被捨所の前四味の諸経の名言を唱るも、又諸仏諸菩薩の名言を唱るも、皆是法華の妙体にて有也。
大海に入ざる程こそ各別の思なりけれ。
大海に入て後に見れば日来悪し善と斥ひ用ひけるは大僻見にて有けり。
被斥はるゝ諸流も、用ひらるゝ冷水も、源はたゞ大海より出たる一水にて有けり。
然ば何水と呼たりとても、ただ大海の於一水別々の名言をよびたるにてこそあれ各別々々の者と思てこそ過はあれ只大海の一水と思て
何をも心に任て有縁に随て唱持に不可苦とて、念仏をも真言をも何をも任心持唱なり。
今云此義は与て云時はさも可有歟と覚れども、奪て云時は随分の堕地獄の義也。
其故は縦ひ一人如此得意、何をも持ち唱るとても、此心子を不得時は、只例の偏見偏情にて持ち唱れば、一人成仏するとも万人は皆可堕地獄邪見の悪義也。
爾前に立所法門の名言と其法門の内に談所の道理の所詮とは、皆是偏見偏情によりて入邪見稠林、若有若無等の権教也。
然は此等の名言を以て持ち唱、此等の所詮の理を観ずれば偏に得心不得心みな可堕地獄。
得心たりとて唱持者は牛蹄に大海を収もの、如是僻見者也。何免三悪道。
又不得心者の唱持は自本迷惑者なれば、邪見権教の執心に依て無間大城に入ん事無疑者也。
開会の後も麁教と斥捨なり。
悪法をば名言をも所詮の極理をも不可唱持。
弘決二釈云相待絶待倶須離悪。円著尚悪。況復余耶[云云]。
此文の心は相待妙の時も絶待妙の時も倶に須く悪法をばはなるべし。円に著する尚悪也。況復余耶と云文也。
円者満足の義也。余者闕滅の義なり。
円教の十界平等に成仏する法をすら著したる方を悪ぞと斥ふ。
況復十界平等に不成仏の悪法の闕たるを以て執着をなして、朝夕受持読誦解説書写をや。
仮令爾前の円を今の法華に開会し入るゝとも、爾前の円は法華一味となる事無し。
法華の体内に開会し入られても、体内の権と云れて実とは不云なり。
体内の権を体外に取出て且く於一仏乗分別説三する時、於権円の名を付て三乗の中の円教と被云たるなり。
依之古へも金杖の譬を以て三乗にあてゝ沙汰する事あり。
譬へば金の杖を三に打折て一づゝ三乗の機根に与へて、何も皆金なり、然ば何於同金差別の思を成て勝劣を判やと談合たり。
此はうち聞く所はさもやと覚たれども、悪く学者の得心なり。
今云此義は譬へば法華の体内の権の金杖を仏宛三根外に三度打振給へる其影を機根が見不付して皆真実の思を成て、己見に任せたるなり。
其真実には金杖を打折て三になしたる事が有ばこそ、今の譬は合譬とは成。
仏は権の金杖を不折三度振給へるを、機根有て三に成たりと執著し得心、返返不得心の大邪見也、大邪見也。
三度振たるも法華の体内の権の功徳を体外の宛三根三度振たるにてこそ有れ。全く妙体不思議円実を振たる事無なり。
然ば体外の影の三乗を体内の本の権の本体へ開会し入れば、本の体内の権と被云、全く体内の円とは不成なり。此心を以て体内体外の権実の法門をば得意弁ふべき物なり。
次に禅宗の法門は或は教外別伝不立文字と云、或は仏祖不伝と云、修多羅教は月をさす指の如しとも云、或は即身即仏とも云、文字をも不立、仏祖にも不依、
教法をも不修学、画像木像をも不信用云なり。
反詰云仏祖不伝と候こそ月氏二十八祖・東土六祖とて相伝はせられ候哉。
其上迦葉尊者何一枝の花房を釈尊より被授、微笑して心の一法を霊山にして伝たりとは自称する哉。又祖師無用ならば何ぞ達磨大師本尊とする哉。
修多羅法無用ならば何ぞ朝夕の所作に真言陀羅尼よみて、首楞厳経・金剛経・円覚経等を読誦する哉。
又仏菩薩不信用者何南無三宝と行住坐臥唱哉可責也。
次聞知ざる言を以て種々申狂はば可云、凡機には上中下の三根あり。随て法門も三根に与へて説事なり。
禅宗の法門にも理致・機関・向上とて三根に宛て法門を被示候也。
御辺は某が機をば三根の中には何と知分て不聞知法門を被仰候哉。又理致の分歟、機関の分歟、向上の分に候歟、と可責なり。
理致と云は下根に道理を云きかせて禅の法門を知する名目なり。
機関と者中根者には何なるか本来の面目と問者、庭前の柏樹子なんど答たることばづかひをして禅法を示す様なり。
向上と云は上根者事なり。此機は祖師よりも不伝、自仏不伝、我として禅法門悟機也。
迦葉霊山微咲の花に依て心の一法を得たりと云時に是なほ中根機也。所詮の法門と云事は迦葉一枝の花房を得たりしより以来出来せる法門也。
抑伝時花房は木の花歟、草の花歟。五色の中には何様色花哉。又花葉は何重の華哉。委細に可尋之なり。
此花を有間に云出たる禅宗有ば、実に心の一法をも一分得たる者と可知なり。たとひ得たりとは存知すとも真実の仏意には不可叶。
如何となれば不信法華経故也。此心法華経方便品の終長行に委見たり。委は引て可奉拝見也。
次に禅の法門何としても物に著する所を離よと教たる法門にて有也。さと云へは其情也。かうと云も其も情也。あなたこなたへすべり、不止法門にて候也。
夫を可責様は、他人の情に著したらん計をば沙汰して、己が情量に著し被封所をば不知也。
可云様は、御辺人情計をば責れども、御辺の人情ぞと執したる情をなど不離可反詰也。
凡法として三世諸仏の説のこしたる法は無也。
汝仏祖不伝と云て仏祖よりも不伝となのらば、さては禅法は天魔の所伝法門なり如何。
然間、汝断常の二見を不出、堕無間地獄事無疑云て、何度もかれが云言にて、やゝもすれば己がつまる語也。
されども非学匠は理につまらずと云て、他人の道理をも自身の道理をも不聞知間暗証の者とは云也。都て理におれざる也。
譬ば行水にかずかく(書)が如し。
次に即身即仏とは、即身即仏なる道理を立よと可責。
其道理を不立、無理に唯即身即仏と云ば例の天魔の義也と可責。
但即身即仏と云名目を聞に、天台法華宗の即身成仏の名目づかいを盗取て、禅宗の家につかふと覚へたり。
然者法華に立る様なる即身即仏歟如何とせめよ。
若無其義押て名目をつかはば、つかはるゝ語は無障礙の法也。譬ば民の身として国王と名乗者の如く也。
如何国王と云とも、言には無障。己が舌の和かなるまゝに云とも、其身は即土民の卑しく嫌れたる身也。又瓦礫を玉と云者の如し。
石瓦を玉と云たりとも曽て石は玉にならず。汝が所云即身即仏の名目も如此有名無実也。不便也不便也。
次に不立文字と云。所詮文字と云事は、何なるものと得心、如此被立候哉。文字は是一切衆生の心法の顕れたる質也。されば人のかける物を以て其人の心根を知て相する事あり。
凡心と色法とは不二の法にて有間、かきたる物を以て其人の貧福をも相する也。
然ば文字は是一切衆生の色心不二の質也。汝若文字を不立者汝が色心をも不可立。汝離六根禅の法門一句答へよと可責也。
さてと云も、かうと云も、有と無との二見をば不離。無と云ば無の見也とせめよ。有と云ば有の見也とせめよ。何も何も不叶事也。
次に修多羅の教は月をさす指の如しと云は、月を見て後は徒者と云義歟。若其義にて候者、御辺の親も徒者と云義歟。又師匠は為弟子徒者歟。又大地は徒者歟。又天は徒者歟。
如何となれば父母は御辺を出生するまでの用にてこそあれ、御辺を出生して後はなにかせん。
人の師は物を習取までこそ用なれ、習取て後は無用也。
夫天は雨露を下すまでこそあれ、雨ふりて後は天無用也。
大地は草木を出生せんが為也、草木を出生して後は大地無用也と云ん者の如し。
是を世俗の者の譬に、喉過ぬればあつさわすれ、病癒ぬれば医師をわすると云らん譬に少も不違相似たり。
所詮修多羅と云も文字也。文字是三世諸仏気命也と天台釈し給へり。
天台は震旦禅宗の祖師の中に入たり。何祖師の言を嫌はん。
其上御辺の色心也。凡一切衆生の三世不断の色心也。何汝本来の面目を捨て不立文字と云耶。
是昔し移宅しけるに我妻を忘たる者の如し。真実の禅法をば何としてか知べき。哀なる禅の法門かなと可責。
次に華厳・法相・三論・倶舎・成実・律宗等の六宗の法門、いかに花をさかせても、申やすく返事すべき方は、能能いはせて後、南都の帰伏状を唯よみきかすべき也。
既に六宗の祖師が帰伏の状をかきて桓武天皇に奉奏。
仍彼帰伏状を山門に納められぬ。其外内裏にも被記。諸道の家家にも記し留て今にあり。
其より已来、華厳宗等の六宗の法門、末法の今に至るまで一度も頭をさし出さず。
何ぞ唯今事新く捨られたる所の権教無得道の法にをいて真実の思をなし、如此被仰候ぞや。不得心とせむべし。
次に真言宗の法門は、先真言三部経は大日如来の説歟、釈迦如来の説歟と尋定て、釈迦の説と云はば、釈尊五十年の説教にをいて已今当の三説を分別せられたり。
其中に大日経等の三部は何れの分にをさまり候ぞと可尋之。三説の中にはいづくにこそおさまりたりと云はば、例の法門にてたやすかるべき問答也。
若法華と同時の説也、義理も法華と同と云はば、法華は是純円一実の教にて曽て方便を交へて説事なし。
大日経等は四教を含用したる経也。何ぞ時も同じ義理も同じと云んや、謬也とせめよ。
次に大日如来の説法と云はば、大日如来の父母と、生ぜし所と、死せし所を委く沙汰し問べし。
一句一偈も大日の父母なし、説所なし、生死の所なし。有名無実の大日如来也。然間殊に法門せめやすかるべき也。
若法門の所詮の理を云はば、教主の有無を定て、説教の得不得をば可極事也。
設ひ至極の理密・事密を沙汰すとも、訳者に有虚妄、法華の極理を盗取て事密真言とか被立あるやらん不審也。依之法の所談は教主の有無に随て可有沙汰也と責也。
次に大日如来は法身と云はば、法華よりは未顕真実と嫌捨られたる爾前権教にも法身如来と説たり。何ぞ不思議なるべきやと可云也。
若無始無終の由を云ていみじき由を立申さば、必大日如来に不限、我等一切衆生螻蟻蝱蝱等に至までみな無始無終の色心也。
於衆生有始有終と思ふは外道の僻見也。汝外道に同ず、如何と可云也。
次に念仏は是浄土宗所用の義也。此又権教の中の権教也。譬ば夢の中の夢の如し。有名無実にして其実無也。一切衆生願て所詮なし。
然ば所云仏も有為無常の阿弥陀仏也。何ぞ常住不滅の道理にしかんや。
されば本朝の根本大師の御釈云、有為報仏夢中権果、無作三身覚前実仏と釈して、阿弥陀仏等の有為無常の仏をば大にいましめ、捨をかれ候也。
既に所憑阿弥陀仏有名無実にして、名のみ有て其体なからんには、可往生道理をば、委く如須弥山高く立、大海の如くに深く云とも、何の所詮有べきや。
又経論に正き明文ども有と云はば、明文ありとも未顕真実の文也。
浄土の三部経に不限、華厳経等より初て何の経教論釈にか成仏の明文無耶。然ども権教の明文なる時は汝等が所執の拙きにてこそあれ、無経論僻事也。
何も法門の道理を宣厳り、依経を立たりとも夢中の権果にて無用の義に可成也。返返。