顕謗法鈔
書下し
顕謗法鈔
[1]本朝沙門 日 蓮 撰
[2]第一に八大地獄の因果を明し、第二に無間地獄の因果の軽重を明し、第三に問答料簡を明し、第四に行者の弘経の用心を明す。
[3]第一に八大地獄の因果を明さば、第一に等活地獄とは此の閻浮提の地の下一千由旬にあり。此の地獄は縦広斉等にして一万由旬なり。此の中の罪人はたがいに害心をいだく。若したまたま相見れば犬と猨とのあえるがごとし。各鉄の爪をもて互につかみさく。血肉既に尽きぬれば唯骨のみあり。或は獄卒手に鉄杖を取りて頭より足にいたるまで皆打くだく。身体くだけて沙のごとし。或は利刀をもて分々に肉をさく。然れども又よみがへりよみがへりするなり。
[4]此の地獄の寿命は、人間の昼夜五十年をもて第一四王天の一日一夜として、四王天の天人の寿命五百歳なり。四王天の五百歳を此の等活地獄の一日一夜として、其の寿命五百歳なり。
[5]此の地獄の業因をいはゞ、ものゝ命をたつもの此の地獄に堕つ。螻蟻蚊蝱等の小虫を殺せる者も懺悔なければ必ず地獄に堕つべし。譬へばはり(鍼)なれども水の上にをけば沈まざることなきがごとし。又懺悔すれども懺悔の後に重ねて此の罪を作れば後の懺悔には此の罪きえがたし。譬へばぬすみをして獄に入りぬるものゝ、しばらく経て後に御免を蒙りて獄を出ずれども、又重ねて盗をして獄に入りぬれば出でゆるされがたきがごとし。
[6]されば当世の日本国の人は上一人より下万民に至るまで、此の地獄をまぬがるゝ人は一人もありがたかるべし。何に持戒のおぼへをとれる持律の僧たりとも、蟻虱なんどを殺さず、蚊蝱をあやまたざるべきか。況や其の外、山野の鳥鹿、江海の魚鱗を日々に殺すものをや。何に況や牛馬人等を殺す者をや。
[7]第二に黒縄地獄とは、等活地獄の下にあり、縦広は等活地獄の如し。獄卒、罪人をとらえて熱鉄の地にふせ(伏)て、熱鉄の縄をもて身にすみうて、熱鉄の斧をもて縄に随つてきりさきけづる。又鋸を以てひく。又左右に大なる鉄の山あり。山の上に鉄の幢を立て、鉄の縄をはり、罪人に鉄の山ををゝせて、縄の上よりわたす。縄より落てくだけ、或は鉄のかなえ(鑊)に堕し入れてに(煮)らる。此の苦は上の等活地獄の苦よりも十倍なり。
[8]人間の一百歳は第二の忉利天の一日一夜也。其の寿一千歳なり。此の天の寿一千歳を一日一夜として、此の第二の地獄の寿命一千歳なり。
[9]殺生の上に偸盗とて、ぬすみをかさねたるもの此の地獄にをつ。当世の偸盗のもの、ものをぬすむ上、物の主を殺すもの此の地獄に堕つべし。
[10]第三に衆合地獄とは黒縄地獄の下にあり。縦広は上の如し。多くの鉄の山二つづゝに相向へり。牛頭・馬頭等の獄卒、手に棒を取つて罪人を駈りて山の間に入らしむ。此の時両の山迫り来て合せ押す。身体くだけて血流れて地にみつ。又種々の苦あり。
[11]人間の二百歳を第三の夜摩天の一日一夜として此の天の寿二千歳なり。此の天の寿を一日一夜として此の地獄の寿命二千歳なり。
[12]殺生・偸盗の罪の上、邪婬とて他人のつま(妻)を犯す者此の地獄の中に堕つべし。而るに当世の僧尼士女、多分は此の罪を犯す。殊に僧にこの罪多し。士女は各々互にまほり、又人目をつゝまざる故に此の罪ををかさず。僧は一人ある故に、婬欲とぼ(乏)しきところに、若し有身ば、父ただされてあらはれぬべきゆへに、独ある女人をばをかさず。もしやかくる(隠)ると、他人の妻をうかゞひ、ふかくかくれんとをもうなり。当世のほかたうと(貴)げなる僧の中に、ことに此の罪又多かるらんとをぼゆ。されば多分は当世たうとげなる僧此の地獄に堕つべし。
[13]第四に叫喚地獄とは、衆合の下にあり。〔縦広前に同じ〕。獄卒悪声出して弓箭をもて罪人をいる。又鉄の棒を以て頭を打つて、熱鉄の地をはしらしむ。或は熱鉄のいりだな(煎架)にうちかへしうちかへし此の罪人をあぶる。或は口を開てわける銅のゆ(湯)を入るれば、五臓やけて下より直に出ず。
[14]寿命をいはば人間の四百歳を第四の都率天の一日一夜とす。又都率天の四千歳也。都率天の四千歳の寿を一日一夜として、此の地獄の寿命四千歳なり。
[15]此の地獄の業因をいはゞ、殺生・偸盗・邪婬の上、飲酒とて酒のむもの此の地獄に堕つべし。当世の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆の大酒なる者、此の地獄の苦免れがたきか。大論には酒に三十六の失をいだし、梵網経には酒盃をすゝめる者、五百生に手なき身と生るととかせ給う。人師の釈にはみみず(蚯蚓)ていの者となるとみへたり。況や酒をうりて人にあたえたる者をや。何に況や酒に水を入れてうるものをや。当世の在家の人人この地獄の苦まぬがれがたし。
[16]第五に大叫喚地獄とは叫喚の下にあり。縦広前に同じ。其の苦の相は上の四の地獄の諸の苦に十倍して重くこれをうく。
[17]寿命の長短を云わば、人間の八百歳は第五の化楽天の一日一夜なり。此の天の寿八千歳なり。此の天の八千歳を一日一夜として、此の地獄の寿命八千歳なり。
[18]殺生・偸盗・邪婬・飲酒の重罪の上に妄語とてそらごとせる者此の地獄に堕つべし。当世の諸人は設い賢人上人なんどいはるゝ人人も、妄語せざる時はありとも、妄語をせざる日はあるべからず。設い日はありとも月はあるべからず。設い月はありとも、年はあるべからず。設い年はありとも、一期生妄語せざる者はあるべからず。若ししからば当世の諸人一人もこの地獄をまぬがれがたきか。
[19]第六に焦熱地獄とは、大叫喚地獄の下にあり。縦広前にをなじ。此の地獄に種々の苦あり。若し此の地獄の豆計りの火を閻浮提にをけ(置)らんに、一時にやけ尽きなん。況や罪人の身の耎なることわたのごとくなるをや。此の地獄の人は前の五つの地獄の火を見る事雪の如し。譬へば人間の火の薪の火よりも鉄銅の火の熱きが如し。
[20]寿命の長短は人間の千六百歳は第六の他化天の一日一夜として此の天の寿千六百歳也。此の天の千六百歳を一日一夜として、此の地獄の寿命一千六百歳なり。
[21]業因を云はば、殺生・偸盗・邪婬・飲酒・妄語の上、邪見とて因果なしという者此の中に堕つべし。邪見とは、有人の云く、人飢えて死ぬれば天に生るべし等と云云。総じて因果をしらぬ者を邪見と申すなり。世間の法には慈悲なき者を邪見の者という。当世の人々此の地獄を免れがたきか。
[22]第七に大焦熱地獄とは、焦熱の下にあり。縦広前の如し。前の六つの地獄の一切の諸苦に十倍して重く受るなり。其の寿命は半中劫なり。
[23]業因を云はば、殺生・偸盗・邪婬・飲酒・妄語・邪見の上に浄戒の比丘尼ををかせる者、此の中に堕つべし。又比丘、酒を以て不邪婬戒を持てる婦女をたぼらかし、或は財物をあたへて犯せるもの此の中に堕つべし。当世の僧の中に多く此の重罪あるなり。大悲経の文に、末代には士女は多くは天に生じ、僧尼は多くは地獄に堕つべしととかれたるはこれていの事か。心あらん人々ははづべしはづべし。
[24]総じて上の七大地獄の業因は諸経論をもて勘え見るに当世日本国の四衆にあて見るに、此の七大地獄をはなるべき人を見ず。又きかず。涅槃経に云く、末代に入りて人間に生ぜん者は爪上の土の如し。三悪道に堕つるものは十方世界の微塵の如しと説かれたり。若爾らば、我等が父母兄弟等の死ぬる人は皆上の七大地獄にこそ堕ち給いては候らめ。あさましともいうばかりなし。竜と蛇と鬼神と仏・菩薩・聖人をば〔いまだ見ず〕。たゞをとにのみこれをきく。当世に上の七大地獄の業を造らざるものをば〔いまだ見ず〕。又をとにもきかず。
[25]而るに我が身よりはじめて、一切衆生七大地獄に堕つべしとをもえる者一人もなし。設ひ言には堕つべきよしをさえづれども、心には堕つべしとをもわず。又僧尼士女、地獄の業をば犯すとはをもえども、或は地蔵菩薩等の菩薩を信じ、或は阿弥陀仏等の仏を恃み、或は種々の善根を修したる者もあり。皆をもはく、我はかゝる善根をもてればなんどうちをもひて地獄をもをぢず。或は宗々を習へる人々は、各々の智分をたのみて、又地獄の因ををぢず。而るに仏菩薩を信じたるも、愛子夫婦なんどをあいし、父母主君なんどをうやまうには雲泥なり。仏・菩薩等をばかろくをもえるなり。
[26]されば当世の人々の、仏菩薩を恃ぬれば、宗々を学したれば地獄の苦はまぬがれなんどをもえるは僻案にや。心あらん人々はよくよくはかりをもうべきか。
[27]第八に大阿鼻地獄とは、又は無間地獄と申すなり。欲界の最底大焦熱地獄の下にあり。此の地獄は縦広八万由旬なり、外に七重の鉄の城あり。地獄の極苦は且く之を略す。前の七大地獄並びに別処の一切の諸苦を以て一分として、大阿鼻地獄の苦一千倍勝れたり。此の地獄の罪人は大焦熱地獄の罪人を見る事、他化自在天の楽みの如し。此の地獄の香のくさゝを人かぐ(嗅)ならば、四天下・欲界の六天の天人皆しゝなん。されども出山・没山と申す山、此の地獄の臭き気ををさえて、人間へ来らせざる故に、此の世界の者死せずと見へぬ。若し仏此の地獄の苦を具に説かせ給はば、人聴いて血をはいて死すべき故に、くわしく仏説き給はずとみへたり。
[28]此の無間地獄の寿命の長短は一中劫なり。一中劫と申すは、此の人寿無量歳なりしが百年に一寿を減じ、又百年に一寿を減ずるほどに、人寿十歳の時に減ずるを一減と申す。又十歳より百年に一寿を増し、又百年に一寿を増する程に、八万歳に増するを一増と申す。此の一増一減の程を小劫として、二十の増減を一中劫とは申すなり。此の地獄に堕ちたる者、これ程久しく無間地獄に住して大苦をうくるなり。
[29]業因を云はば、五逆罪を造る人此の地獄に堕つべし。五逆罪と申すは一に殺父、二に殺母、三に殺阿羅漢、四に出仏身血、五に破和合僧なり。今の世には仏ましまさず。しかれば出仏身血あるべからず。和合僧なければ破和合僧なし。阿羅漢なければ殺阿羅漢これなし。但殺父殺母の罪のみありぬべし。しかれども王法のいましめきびしくあるゆへに、此の罪をかしがたし。若爾らば、当世には阿鼻地獄に堕つべき人すくなし。
[30]但し相似の五逆罪これあり。木画の仏像・堂塔等をやき、かの仏像等の寄進の所をうばいとり、率兜婆等をきりやき、智人を殺しなんどするもの多し。此等は大阿鼻地獄の十六の別処に堕つべし。されば当世の衆生十六の別処に堕つるもの多きか。又謗法の者この地獄に堕つべし。
[31]第二に無間地獄の因果の軽重を明さば、問うて云く、五逆罪より外の罪によりて無間地獄に堕んことあるべしや、答えて云く、誹謗正法の重罪なり。問うて云く、証文如何。答えて云く、法華経第二に云く、「もし人信ぜずしてこの経を毀謗せば乃至その人命終して阿鼻獄に入らん」等と云云。此の文に謗法は阿鼻地獄の業と見へたり。
[32]問うて云く、五逆と謗法と罪の軽重如何。答へて云く、大品経に云く「舎利弗に白して言く、世尊五逆罪と破法罪と相似するや。仏舎利弗に告はく、相似と言うべからず。ゆえはいかん、もし般若波羅蜜を破ればすなわち十方諸仏の一切智一切種智を破るになんぬ。仏宝を破るがゆえに、法宝を破るがゆえに、僧宝を破るがゆえに。三宝を破るがゆえにすなわち世間の正見を破す。世間の正見を破れば○すなわち無量無辺阿僧祇の罪を得るなり。無量無辺阿僧祇の罪を得おわつてすなわち無量無辺阿僧祇の憂苦を受くるなり」文。
[33]又云く、「破法の業・因縁集るがゆえに無量百千万億歳大地獄の中に堕つ。この破法人の輩一大地獄より一大地獄に至る。もし劫火起る時は他方の大地獄の中に至る。かくのごとく十方徧くしてかの間に劫火起る。ゆえに彼より死し、破法の業・因縁いまだ尽きざるがゆえに、この間の大地獄の中に還来す」等と云云。法華経第七に云く「四衆の中に瞋恚を生じ心不浄なる者有り。悪口罵詈して言く、これ無智の比丘と。あるいは杖木瓦石をもつてこれを打擲す。乃至千劫阿鼻地獄において大苦悩を受く」等と云云。此の経文の心は法華経の行者を悪口し、及び杖を以て打擲せるもの、其の後に懺悔せりといえども、罪いまだ滅せずして、千劫阿鼻地獄に堕ちたりと見えぬ。
[34]懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり。況や懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出ずる期かたかるべし。故に法華経第二に云く、「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん。乃至その人命終して阿鼻獄に入り、一劫を具足して劫尽きなばまた生まれん。かくのごとく展転して無数劫に至らん」等と云云。
[35]〔第三に問答料簡を明さば〕、問うて云く、五逆罪と謗法罪との軽重はしんぬ。謗法の相貌如何。答へて云く、天台智者大師の梵網経の疏に云く「謗とは背なり」等と云云。法に背くが謗法にてはあるか。天親の仏性論に云く「もし憎は背くなり」等と云云。この文の心は正法を人に捨てさするが謗法にてあるなり。
[36]問うて云く、委細に相貌をしらんとをもう。あらあらしめすべし。答へて云く、涅槃経第五に云く「もし人有りて如来は無常なりと言わん、いかんぞこの人舌堕落せざらん」等云云。此の文の心は仏を無常といはん人は舌堕落すべしと云云。
[37]問うて云く、諸の小乗経に仏を無常と説かるる上、又所化の衆皆無常と談じき。若爾らば、仏並に所化の衆の舌堕落すべしや。答へて云く、小乗経の仏を小乗経の人が無常ととき談ずるは舌たゞれざるか。大乗経に向つて仏を無常と談じ、小乗経に対して大乗経を破するが舌は堕落するか。此れをもてをもうに、をのれが依経には随えども、すぐれたる経を破するは破法となるか。若し爾らば、設ひ観経・華厳経等の権大乗経の人々、所依の経の文の如く修行すとも、かの経にすぐれたる経経に随はず、又すぐれざる由を談せば、謗法となるべきか。されば観経等の経の如く法をえたりとも、観経等を破せる経の出来したらん時、其の経に随はずば破法となるべきか。小乗経を以てなぞらえて心うべし。
[38]問うて云く、双観経等に乃至十念即得往生なんどとかれて候が、彼のけう(経)の教への如く十念申して往生すべきを、後の経を以て申しやぶらば、謗法にては候まじきか。答へて云く、仏、観経等の四十余年の経々を束て未顕真実と説かせ給ひぬれば、此の経文に随うて乃至十念即得往生等は実には往生しがたしと申す。此の経文なくば謗法となるべし。
[39]問うて云く、或人云く、無量義経の四十余年未顕真実の文はあえて四十余年の一切の経経並に文々句々を皆未顕真実と説き給うにはあらず。但四十余年の経々に処々に決定性の二乗を永不成仏ときらはせ給ひ、釈迦如来を始成正覚と説き給ひしを、其の言ばかりをさして未顕真実とは申すなり。あえて余事にはあらず。而るをみだりに四十余年の文を見て、観経等の凡夫のために九品往生なんぞを説きたるを、妄りに往生はなき事なり、なんど押し申すはあにをそろしき謗法の者にあらずや、なんど申すはいかに。答へて云く、此の料簡は東土の得一が料簡に似たり。得一が云く、未顕真実とは決定性の二乗を、仏爾前の経にして永不成仏ととかれしを未顕真実とは嫌はるゝなり。前四味の一切には亘るべからずと申しき。伝教大師は前四味に亘りて文々句々に未顕真実と立て給ひき。さればこの料簡は古の謗法の者の料簡に似たり。但し且く汝等が料簡に随て尋ね明らめん。
[40]問う、法華已前に二乗作仏を嫌いけるを今未顕真実というとならば、先づ決定性の二乗を仏の永不成仏と説かせ給ひし処々の経文ばかりは、未顕真実の仏の妄語なりと承伏せさせ給うか。さては仏の妄語は勿論なり。若し爾らば、妄語の人の申すことは有無共に用いぬ事にてあるぞかし。決定性の二乗永不成仏の語ばかり妄語となり、若し余の菩薩凡夫の往生成仏等は実語となるべきならば、信用しがたき事なり。譬へば東方を西方と妄語し申す人は西方を東方と申すべし。二乗を永不成仏と説く仏は余の菩薩の成仏をゆるすも又妄語にあらずや。五乗は但一仏性なり。二乗の仏性をかくし、菩薩凡夫の仏性をあらはすは、返つて菩薩凡夫の仏性をかくすなり。
[41]有人云く、四十余年未顕真実とは、成仏の道ばかり未顕真実なり。往生等は未顕真実にはあらず。又難じて云く、四十余年が間の説の成仏を未顕真実と承伏せさせ給はば、双観経に云う「不取正覚成仏已来凡歴十劫」等の文は未顕真実と承伏せさせ給うか。若し爾らば、四十余年の経々にして法蔵比丘の阿弥陀仏になり給はずば、法蔵比丘の成仏すでに妄語なり。若し成仏妄語ならば何の仏か行者を迎へ給うべきや。
[42]又かれ此の難を通じて云ん、四十余年が間は成仏はなし。阿弥陀仏は今の成仏にはあらず、過去の成仏なり等と云云。今難じて云く、今日の四十余年の経々にして実の凡夫の成仏を許されずば、過去遠々劫の四十余年の権経にても成仏叶ひがたきか。三世の諸仏の説法の儀式皆同きがゆえ也。
[43]或は云く、「不得疾成無上菩提」ととかるれば、四十余年の経々にては疾くこそ仏にはならねども、遅く劫を経てはなるか。難じて云く、次下の大荘厳菩薩等の領解に云く、「不可思議無量無辺阿僧祇劫を過るともついに無上菩提を成ずることを得ず」等と云云。此の文の如くならば劫を経ても爾前の経計りにては成仏はかたきか。
[44]有は云う、華厳宗の料簡に云く、四十余年の内には華厳経計りは入るべからず。華厳経にすでに往生成仏此あり。なんぞ華厳経を行じて往生成仏をとげざらん。答へて云く、四十余年の内に華厳経入るべからずとは華厳宗の人師の義也。無量義経には正く四十余年の内に華厳海空と名目を呼び出して、四十余年の内にかずへ入れられたり。人師を本とせば仏を背くになりぬ。
[45]問うて云く、法華経をはなれて往生成仏をとげずば、仏世に出させ給ひては但法華経計をこそ説き給はめ。なんぞわづらはしく四十余年の経々を説かせ給うや。答へて云く、此の難は仏自ら答へ給へり。「もし但仏乗を讃せば衆生苦に没在して法を破して信ぜざるがゆえに三悪道に堕ちなん」等の経文これなり。
[46]問うて云く、いかなれば爾前の経をば衆生謗ぜざるや。答へて云く、爾前の経々は万差なれども、束ねて此を論ずれば随他意と申して衆生の心をとかれてはんべり。故に違する事なし。譬へば水に石をなぐるにあらそう(争)ことなきがごとし。又しなじなの説教はんべれども、九界の衆生の心を出でず。衆生の心は皆善につけ悪につけて迷を本とするゆへに、仏にはならざるか。
[47]問うて云く、衆生謗ずべきゆへに仏最初に法華経をとき給はずして、四十余年の後に法華経をとき給はば、汝なんぞ当世に権経をばとかずして、左右なく法華経をといて人に謗をなさせて悪道に堕すや。
[48]答へて云く、仏在世には仏菩提樹の下に坐し給ひて機をかゞみ給うに、当時法華経を説くならば、衆生謗じて悪道に堕ちぬべし。四十余年すぎて後にとかば、謗ぜずして初住不退乃至妙覚にのぼりぬべし、と知見しましましき。末代濁世には当機にして初住の位に入るべき人は万に一人もありがたかるべし。又能化の人も仏にあらざれば、機をかゞみん事もこれかたし。されば逆縁順縁のために、先づ法華経を説くべしと仏ゆるし給へり。但し又滅後なりとも、当機衆になりぬべきものには、先づ権経をとく事もあるべし。又悲を先とする人は先づ権経をとく、釈迦仏のごとし。慈を先とする人は先づ実経をとくべし、不軽菩薩のごとし。又末代の凡夫はなにとなくとも悪道を免れんことはかたかるべし。同じく悪道に堕ちるならば、法華経を謗ぜさせて堕すならば、世間の罪をもて堕ちたるにはにるべからず。「聞法生謗堕於地獄勝於供養恒沙仏者」等の文のごとし。此の文の心は、法華経をはう(謗)じて地獄に堕ちたるは、釈迦仏・阿弥陀仏等の恒河沙の仏を供養し帰依渇仰する功徳には百千万倍すぎたりととかれたり。
[49]問うて云く、上の義のごとくならば、華厳・法相・三論・真言・浄土等の祖師はみな謗法に堕すべきか。華厳宗には華厳経は法華経には雲泥超過せり。法相三論もてかくのごとし。真言宗には日本国に二の流あり。東寺の真言は法華経は華厳経にをとれり。何に況や大日経にをいてをや。天台の真言には大日経と法華経とは理は斉等なり。印・真言等は超過せりと云云。此等は皆悪道に堕つべしや。
[50]答へて云く、宗をたて、経々の勝劣を判ずるに二の義あり。一は似破、二は能破なり。一に似破とは、他の義は吉とをもえども此をは(破)す。かの正義を分明にあらはさんがためか。二に能破とは、実に他人の義の勝れたるをば弁えずして、迷うて我が義すぐれたりとをもひて、心中よりこれを破するをば能破という。されば彼の宗々の祖師に似破・能破の二の義あるべし。心中には法華経は諸経に勝れたりと思えども、且く違して法華経の義を顕さんとをもひて、これをはする事あり。提婆達多・阿闍世王・諸の外道が仏のかたきとなりて仏徳を顕し、後には仏に帰せしがごとし。又実の凡夫が仏のかたきとなりて悪道に堕つる事これ多し。されば諸宗の祖師の中に回心の筆をかゝずば、謗法の者悪道に堕ちたりとしるべし。三論の嘉祥・華厳の澄観・法相の慈恩・東寺の弘法等は回心の筆これあるか。よくよく尋ねならうべし。
[51]問うて云く、まことに今度生死をはなれんとをもはんに、なにものをかいとひ、なにものをか願うべきや。
[52]答う、諸の経文には女人等をいとうべしとみへたれども、双林最後の涅槃経に云く、「菩薩この身に無量の過患具足充満すと見るといえども涅槃経を受持せんとほつするをもつてのゆえになおよく将護して乏少ならしめず。菩薩悪象等においては心に恐怖することなかれ。悪知識においては怖畏の心を生ぜよ。なにをもつてのゆえに、これ悪象等はただよく身を壊りて心を壊ること能わず。悪知識は二倶に壊るがゆえに。悪象のごときはただ一身を壊る。悪知識は無量の身無量の善心を壊る。悪象のために殺されては三趣に至らず。悪友のために殺されてはかならず三趣に至る」等と云云。此の経文の心は、後世を願はん人は一切の悪縁を恐るべし。一切の悪縁よりは悪知識ををそるべしとみえたり。
[53]されば大荘厳仏の末の四の比丘は、自ら悪法を行じて、十方の大阿鼻地獄を経るのみならず、六百億人の檀那等をも十方の地獄に堕しぬ。鴦崛摩羅は摩尼跋陀が教に随つて、九百九十九人の指をきり、結句、母並に仏をがいせんとぎ(擬)す。善星比丘は仏の御子、十二部経を受持し、四禅定をえ欲界の結を断じたりしかども、苦得外道の法を習うて生身に阿鼻地獄に堕ちぬ。提婆が六万蔵八万蔵を暗じたりしかども、外道の五法を行じて現に無間に堕ちにき。阿闍世王の父を殺し、母を害せんと擬せし、大象を放つて仏をうしないたてまつらんとせしも悪師提婆が教なり。倶伽利比丘が舎利弗・目連をそしりて、生身に阿鼻に堕せし、大族王の五竺の仏法僧をほろぼせし、大族王の舎弟は加溼弥羅国の王となりて、健駄羅国の率都婆・寺塔一千六百所をうしなひし、金耳国王の仏法をほろぼせし、波瑠璃王の九千九十万人の人をころして血ながれて池をなせし、設賞迦王の仏法を滅し菩提樹をきり根をほりし、周の宇文王の四千六百余所の寺院を失ひ、二十六万六百余の僧尼を還俗せしめし、此等は皆悪師を信じ悪鬼其の身に入りし故也。
[54]問うて云く、天竺・震旦は外道が仏法をほろぼし、小乗が大乗をやぶるとみえたり。此の日本国もしかるべきか。答へて云く、月支・尸那には外道あり、小乗あり。此の日本国には外道なし。小乗の者なし。紀典博士等これあれども、仏法の敵となるものこれなし。小乗の三宗これあれども、彼の宗を用て生死をはなれんとをもはず。但大乗を心うる才覚とをもえり。但し此の国には大乗の五宗のみこれあり。人々皆をもえらく、彼の宗々にして生死をはなるべしとをもう故にあらそいも多くいできたり、又檀那の帰依も多くあるゆへに利養の心もふかし。
[55]第四に、弘法用心抄。夫れ仏法をひろめんとをもはんものは必ず五義を存して正法をひろむべし。五義とは、一には教、二には機、三には時、四には国、五には仏法流布の前後なり。
[56]第一に教とは、如来一代五十年の説教は大小権実顕密の差別あり。
[57]華厳宗には五義を立て一代ををさめ、其の中には華厳・法華を最勝とし、華厳・法華の中に華厳経を以て第一とす。南三北七並に華厳宗の祖師・日本国の東寺の弘法大師此の義なり。
[58]法相宗は三時に一代ををさめ、其の中に深密・法華経を一代の聖教にすぐれたりとす。深密・法華の中法華経は了義経の中の不了義経、深密経は了義経の中の了義経なり。
[59]三論宗に又二蔵・三時を立つ。三時の中の第三、中道教とは般若・法華なり。般若・法華の中には般若最第一なり。
[60]真言宗には日本国に二の流あり。東寺流は弘法大師十住心を立て、第八法華・第九華厳・第十真言。法華経は大日経に劣るのみならず猶華厳経に下るなり。天台の真言は慈覚大師等、大日経と法華経とは広略の異。法華経は理秘密、大日経は事理倶密なり。
[61]浄土宗には聖道浄土、難行易行、雑行正行を立てたり。浄土の三部経より外の法華経等の一切経は難行・聖道・雑行なり。
[62]禅宗には二の流あり。一流は一切経・一切の宗の深義は禅宗なり。一流は如来一代の聖教は皆言説、如来の口輪の方便なり。禅宗は如来の意密、言説にをよばず教外の別伝なり。
[63]倶舎宗・成実宗・律宗は小乗宗なり。天竺震旦には小乗宗の者、大乗を破する事これ多し。日本国には其の義なし。
[64]問うて云く、諸宗の異義区なり。一々に其の謂れありて得道をなるべきか。又諸宗皆謗法となりて一宗計り正義となるべきか。
[65]答へて云く、異論相違ありといえども皆得道なるか。仏の滅後四百年にあたりて健駄羅国の迦貳色迦王、仏法を貴み一夏、僧を供し仏法をといしに一々の僧異義多し。此の王不審して云く、仏説は定て一ならん、終に脇尊者に問う。尊者答へて云く、金杖を折つて種種の物につくるに、形は別なれども金杖は一なり。形の異なるをば諍うといへとも、金たる事をあらそはず。門々不同なれば、いりかどをば諍へども、入理は一なり等と云云。又求那跋摩云く「諸論各異端なれども修行の理は二無し。偏執に是非ありとも達者は違諍無し」等と云云。又五百羅漢の真因各異なれども同じく聖理をえたり。大論の四悉檀の中の対治悉檀、摂論の四意趣の中の衆生意楽意趣、此等は此の善を嫌ひ、此の善をほむ。檀戒進等一々にそしり、一々にほむる、皆得道をなる。
[66]此等を以てこれを思うに、護法・清弁のあらそい、智光・戒賢の空・中、南三北七の頓漸不定、一時・二時・三時・四時・五時、四宗・五宗・六宗、天台の五時、華厳の五教、真言教の東寺・天台の諍、浄土宗の聖道・浄土、禅宗の教外・教内、入門は差別せりというとも実理に入る事は但一なるべきか。
[67]難じて云く、華厳の五教、法相・三論の三時、禅宗の教外、浄土宗の難行・易行、南三北七の五時等、門はことなりといへども入理一にして、皆仏意に叶ひ謗法とならずといはば、謗法という事あるべからざるか。謗法とは法に背くという事なり。法に背くと申すは小乗は小乗経に背き、大乗は大乗経に背く。法に背かばあに謗法とならざらん。謗法とならばなんぞ苦果をまねかざらん。此の道理にそむくこれひとつ。大般若経に云く「般若を謗ずる者は十方の大阿鼻地獄に堕つべし」。法華経に云く「もし人信ぜずして乃至その人命終して阿鼻獄に入らん」と。涅槃経に云く「世に難治の病三あり。一には四重、二には五逆、三には謗大乗なり」。此等の経文あにむなしかるべき。此等は証文なり。
[68]されば無垢論師・大慢婆羅門・熈連禅師・嵩霊法師等は正法を謗じて、現身に大阿鼻地獄に堕ち、舌口中に爛れたり。これは現証なり。天親菩薩は小乗の論を作つて諸大乗経をはしき。後に無著菩薩に対して此の罪を懺悔せんがために舌を切らんとくい給ひき。謗法もし罪とならずんば、いかんが千部の論師懺悔をいたすべき。闡提とは天竺の語、此には不信と翻ず。不信とは、一切衆生悉有仏性を信ぜざるは闡提の人と見へたり。
[69]不信とは謗法の者なり。恒河の七種の衆生の第一は一闡提謗法常没の者なり。第二は五逆謗法常没等の者なり。あに謗法ををそれざらん。
[70]答へて云く、謗法とは只由なく仏法を謗ずるを謗法というか。我が宗をたてんがために余法を謗ずるは謗法にあらざるか。摂論の四意趣の中の衆生意楽意趣とは、仮令人ありて一生の間一善をも修せず但悪を作る者あり。而るに小縁にあいて何れの善にてもあれ一善を修せんと申す。これは随喜讃歎すべし。又善人あり。一生の間たゞ一善を修す。而るを他の善えうつさんがためにそのぜんをそしる。「一事の中においてあるいは呵しあるいは讃す」という、これなり。大論の四悉檀の中の対治悉檀又これをなじ。浄名経の弾呵と申すは阿含経の時ほめし法をそしるなり。
[71]此等を以てをもふに、或は衆生多く小乗の機あれば、大乗を謗りて小乗経に信心をまし、或は衆生多く大乗の機なれば、小乗をそしりて大乗経に信心をあつくす。或は衆生弥陀仏に縁あれば、諸仏をそしりて弥陀に信心をまさしめ、或は衆生多く地蔵に縁あれば諸菩薩をそしりて地蔵をほむ。或は衆生多く華厳経に縁あれば、諸経をそしりて華厳経をほむ。或は衆生大般若経に縁あれば、諸経をそしりて大般若経をほむ。或は衆生法華経、或は衆生大日経等、同じく心うべし。機を見て或は讃め或は毀る、共に謗法とならず。而るを機をしらざる者、みだりに或は讃め或は呰るは謗法となるべきか。例せば華厳宗・三論・法相・天台・真言・禅・浄土等の諸師の諸経をはして我が宗を立つるは謗法とならざるか。
[72]難じて云く、宗を立てんに諸経諸宗を破し、仏菩薩を讃むるに仏菩薩を破し、他の善根を修せしめんがためにこの善根をはする、くるしからずば、阿含等の諸の小乗経に華厳経等の諸大乗経をはしたる文ありや。華厳経に法華・大日経等の諸大乗経をは(破)したる文これありや。
[73]答へて云く、阿含小乗経に諸大乗経をはしたる文はなけれども、華厳経には二乗・大乗・一乗をあげて二乗・大乗をはし、涅槃経には諸大乗経をあげて涅槃経に対してこれをはす。密厳経には一切経中王と説き、無量義経には四十余年未顕真実ととかれ、阿弥陀経には念仏に対して諸経を小善根ととかる。これらの例一にあらず。故に又彼の経々による人師、皆此の義を存せり。此等をもて思うに、宗を立つる方は我が宗に対して諸経を破るはくるしからざるか。
[74]難じて云く、華厳経には小乗・大乗・一乗とあげ、密厳経には一切経中の王ととかれ、涅槃経には是諸大乗とあげ、阿弥陀経には念仏に対して諸経を小善根とはとかれたけれども、無量義経のごとく四十余年と年限を指して、其の間の大部の諸経、阿含・方等・般若・華厳等の名をよびあげて勝劣をとける事これなし。涅槃経の是諸大乗の文計りこそ、双林最後の経として是諸大乗ととかれたれば、涅槃経には一切経は嫌はるかとをぼう(覚)れども、是諸大乗経と挙げて、次下に諸大乗経を列ねたるに、十二部修多羅・方等・般若等とあげたり。無量義経・法華経をば載せず。
[75]但し無量義経に挙ぐるところは四十余年の阿含・方等・般若・華厳経をあげたり。いまだ法華経・涅槃経の勝劣はみへず。密厳に一切経中王とはあげたれども、一切経をあぐる中に華厳・勝鬘等の諸経の名をあげて一切経中王ととく。故に法華経等とはみへず。阿弥陀経の小善根は時節もなし小善根の相貌もみへず。たれかしる、小乗経を小善根というか。又人天の善根を小善根というか。又観経・双観経の所説の諸善を小善根というか。いまだ一代を念仏に対して小善根というとはきこえず。
[76]又大日経・六波羅蜜経等の諸の秘教の中にも、一代の一切経を嫌うてその経をほめたる文はなし。
[77]但し無量義経計りこそ前四十余年の諸経を嫌ひ、法華経一経に限りて、已説の四十余年・今説の無量義経・当説の未来にとくべき涅槃経を嫌うて法華経計りをほめたり。釈迦如来・過去現在未来の三世の諸仏、世にいで給ひて各々一切経を説き給うに、いづれの仏も法華経第一なり。例せば上郎下郎不定なり。田舎にしては、百姓郎従等は侍を上郎といふ。洛陽にして、源平等已下を下郎といふ。三家を上郎といふ。又主を王といはば百姓も宅中の王なり。地頭・領家等も又村郷郡国の王なり。しかれども大王にはあらず。
[78]小乗経には無為涅槃の理が王なり。小乗の戒定等に対して智慧は王なり。諸大乗経には中道の理が王なり。又華厳経は円融相即の王、般若経は空理の王、大集経は守護正法の王、薬師経は薬師如来の別願を説く経の中の王、双観経は阿弥陀仏の四十八願を説く経の中の王、大日経は印真言を説く経の中の王、一代一切経の王にはあらず。法華経は真諦俗諦・空仮中・印真言・無為の理・十二大願・四十八願、一切諸経の所説の所詮の法門の大王なり。これ教をしれる者なり。
[79]而るを善無畏・金剛智・不空・法蔵・澄観・慈恩・嘉祥・南三北七・曇鸞・道綽・善導・達磨等の、我が所立の依経を一代第一といえるは教をしらざる者なり。
[80]但し一切の人師の中には天台智者大師一人教をしれる人なり。
[81]曇鸞・道綽等の聖道浄土・難行易行・正行雑行は、源と十住毘婆沙論に依る。彼の本論に難行の内に法華真言等を入ると謂は僻案なり。論主の心と論の始中終をしらざる失あり。慈恩が深密経の三時に一代ををさめたる事、又本経の三時に一切経の摂らざる事をしらざる失あり。法蔵・澄観等が五教に一代ををさむる中に、法華経・華厳経を円教と立て、又華厳経は法華経に勝れたりとをもえるは、所依の華厳経に二乗作仏・久遠実成をあかさざるに記小・久成ありとをもひ、華厳超過の法華経を我経に劣ると謂うは僻見也。三論の嘉祥の二蔵等、又法華経に般若経すぐれたりとをもう事は僻案也。善無畏等が大日経は法華経に勝れたりという。法華経の心をしらざるのみならず、大日経をもしらざる者なり。
[82]問うて云く、此等皆謗法ならば悪道に堕ちたるか如何。
[83]答へて云く、謗法に上中下雑の謗法あり。慈恩・嘉祥・澄観等が謗法は上中の謗法か。其の上自身も謗法としれるかの間、悔還す筆これあるか。
[84]又他師をはするに二あり。能破・似破これなり。教はまさりとしれども、是非をあらはさんがために、法をはす、これは似破なり。能破とは、実にまされる経を劣とをもうてこれをはす、これは悪能破なり。又現にをとれるをはす、これ善能破なり。
[85]但し脇尊者の金杖の譬は、小乗経は多しといえども同じ苦・空・無常・無我の理なり。諸人同じく此の義を存じて、十八部・二十部相ひ諍論あれども、但門の諍にて理の諍にはあらず。故に共に謗法とならず。外道が小乗経を破するは、外道の理は常住なり、小乗経の理は無常なり空なり。故に外道が小乗経をはするは謗法となる。大乗経の理は中道なり。小乗経は空なり。小乗経の者が大乗経をはするは謗法となる。大乗経の者が小乗経をはするは破法とならず。
[86]諸大乗経の中の理は未開会の理、いまだ記小久成これなし。法華経の理は開会の理、記小久成これあり。諸大乗経の者が法華経をはするは謗法となるべし。法華経の者の諸大乗経を謗ずるは謗法となるべからず。大日経真言宗は未開会、記小久成なくば法華経已前なり。開会・記小・久成を許さば涅槃経とをなじ。
[87]但し善無畏三蔵・金剛智・不空・一行等の性悪の法門・一念三千の法門は天台智者の法門をぬすめるか。若し爾らば、善無畏等の謗法は似破か又雑謗法か。
[88]五百羅漢の真因は小乗十二因縁の事なり。無明・行等を縁として空理に入ると見へたり。門は諍へども謗法とならず。摂論の四意趣・大論の四悉檀等は、無著菩薩・竜樹菩薩滅後の論師として、法華経を以て一切経の心をえて四悉・四意趣等を用つて爾前の経々の意を判ずるなり。未開会の四意趣・四悉檀と開会の四意趣・四悉檀を同ぜば、あに謗法にあらずや。此等をよくよくしるは教をしれる者なり。
[89]〔四句あり。一に信而不解、二に解而不信、三に亦信亦解、四に非信非解〕。
[90]〔問うて云く、信而不解の者は謗法なるか。答えて云く、法華経に云く「信を以つて入ることを得」等と云云。涅槃経の九に云く。
[91]難じて云く、涅槃経三十六に云く「我れ契経の中において説く、二種の人有り、仏法僧を謗ずと。一には不信にして瞋恚の心あるがゆえに、二には信ずといえども義を解せざるがゆえに。善男子、もし人信心あて智慧有ることなき、この人はすなわちよく無明を増長す。もし智慧有つて信心あることなき、この人はすなわちよく邪見を増長す。善男子、不信の人は瞋恚の心あるがゆえに説いて仏法僧宝有ることなしと言わん。信にして慧無く顛倒して義を解するがゆえに法を聞く者をして仏法僧を謗ぜしむ」等と云云。この二人の中には信じて解せざる者を謗法と説く、いかん〕。〔答えて云く、この信而不解の者は涅槃経の三十六に恒河の七種の衆生の第二の者を説くなり。この第二の者は涅槃経の一切衆生悉有仏性の説を聞いてこれを信ずといえどもまた不信の者なり〕。
[92]〔問うて云く、いかんぞ信ずといえども不信なるや。答えて云く、一切衆生悉有仏性の説を聞きてこれを信ずといえども、また心を爾前の経に寄する一類の衆生をば無仏性の者と云うなり。これ信而不信の者なり。
[93]問うて云く、証文いかん。答えて云く、恒河第二の衆生を説いて云く、経に云く「かくのごとき大涅槃経を聞くことを得て信心を生ず。これを名けて出となす」と〕。〔また云く「仏性は是れ衆生に有りと信ずといえども必ずしも一切皆悉くこれ有らず。このゆえに名けて信不具足となす」文。この文のごとくんば口には涅槃を信ずといえども心に爾前の義を存する者なり。またこの第二の人を説いて云く「信ずる者にして慧無くば顛倒して義を解するがゆえに」等と云云。顛倒解義とは実経の文を得て権経の義を覚る者なり〕。
[94]〔問うて云く、信而不解得道の文いかん。答えて云く、涅槃経の三十二に云く「この菩提の因はまた無量なりといえども、もし信心を説けばすでに摂尽す」文。九に云く「この経を聞きおわつてことごとく皆菩提の因縁と作る。法声光明毛孔に入る者は必ず定んでまさに阿耨多羅三藐三菩提を得べし」等と云云。法華経に云く「信を以て入ることを得」等と云云〕。
[95]〔問うて云く、解而不信の者はいかん。答う、恒河の第一の者なり〕。
[96]〔問うて云く、証文いかん。答えて云く、涅槃経の三十六に第一を説いて云く「人有りてこの大涅槃経の如来常住無有変易常楽我浄を聞くとも、ついに畢竟して涅槃の一切衆生悉有仏性に入らざるは一闡提の人なり。方等経を謗じ五逆罪を作り四重禁を犯すとも、必ずまさに菩提の道を成ずることを得べし。須陀洹の人・斯陀含の人・阿那含の人・阿羅漢の人・辟支仏等必ずまさに阿○菩提を成ずることを得べし。この語を聞きおわつて不信の心を生ず」等と云云〕。
[97]〔問うて云く、この文不信とは見えたり。解而不信とは見えず、いかん。答えて云く、第一の結文に云く「もし智慧有つて信心有ることなくんば、この人はすなわちよく邪見を増長す」文〕。
現代語訳
顕謗法鈔
弘長二年(一二六二)、四一歳、於伊豆国伊東、和漢混交文、定二四七—二七三頁。
[1]日本国の僧 日 蓮 撰述す
論述項目をあげる
[2]この書は、第一に八大地獄に堕落する原因とその地獄の有様を明らかにし、第二に無間地獄に堕落する原因に軽いものと重いものとがあることを示し、第三に問答形式で謗法の意味について論述し、第四に仏の教えを弘める者の心がまえについて述べる。
等活地獄の有様と堕落の原因
[3]第一に八大地獄に堕落する原因とその地獄の有様について明らかにする。八大地獄の第一は等活地獄で、この地獄は閻浮提(宇宙)の大地の下一千由旬もの深いところにあり、縦横がともに一万由旬もある。この地獄に堕ちた罪人は互いに憎しみあっているので、もし出会ったりすると犬と猿のように争う。鉄の爪でつかみ合い、血を出し肉を裂いてただ骨だけとなる。あるいは、獄卒(地獄の罪人を苦しめる鬼の番人)が鉄杖を手にとり、罪人の頭から足まで、身体全体を打ち砕く。身体は微塵に打ち砕かれて砂のようになる。あるいはまた、鋭利な刀で細かく切り裂かれる。このような責め苦を受けて死んでも、また生き返り、くり返して残忍な苦しみを受けるのである。
[4]この地獄に堕ちた罪人の寿命は、人間の五十年間を欲界の第一四王天の一日とし、さらに、この四王天に住む天人の寿命である五百歳を等活地獄の一日として、五百年間である。
[5]あらゆる生物の命を断った者はこの地獄に堕ちる。螻・蟻・蚊・虻などの小さな虫を殺した者でも、懺悔(過ちを悔い改める)しなければかならずこの地獄に堕ちる。譬えれば、針のような小さなものでも、水の上に置くとかならず沈むことと同じである。また、一度は懺悔しても、その後に再びこの罪を犯すと、今度は懺悔しても罪は消えない。譬えれば、盗みをして獄舎に入れられた者が、後に赦免されて出獄しても、再び盗みをして獄舎に入れられると、今度は容易に赦免されないことと同じである。
[6]そうであれば、今の世の日本国の人びとは、上から下まですべてこの地獄に堕ちることを免れることはできないであろう。いかに戒律を堅く持っていると称讃されている僧であっても、蟻や虱などを殺さず、蚊や虻を殺さないことがあるであろうか。ましてそのほかの、山や野で鳥や鹿を殺したり、あるいはむやみに河や海で魚を殺したり、牛馬や人間を殺したりする者など、日本国中の人びとはすべてこの地獄へ堕ちる罪を犯している。
黒縄地獄の有様と堕落の原因
[7]第二に黒縄地獄とは、等活地獄の下にあり、縦横の大きさは等活地獄と同じである。この地獄では、獄卒が罪人を捉えて熱鉄の大地に押し伏せ、熱鉄の縄で罪人の身体に墨縄を打って計量し、熱鉄の斧で線にそって身体を切り裂いたり削ったりする。あるいはまた、鋸で罪人の身体を挽き切る。また、左右に大きな鉄の山があり、その頂上に鉄の幢を立て、鉄の縄を張り、罪人に鉄の山を背負わせてその鉄の縄を渡らせる。罪人は縄から落ちて身体が微塵に砕ける。あるいはまた、鉄の鑊(食物を煮る容器)に堕し入れられ煮られる。この苦しみは等活地獄の十倍である。
[8]この地獄に堕ちた罪人の寿命は、人間の百歳を欲界の第二忉利天の一日とし、さらにこの忉利天の天人の寿命である千歳を黒縄地獄の一日として、千年間である。
[9]この地獄には、殺生のうえに盗みなどの罪を犯したものが堕ちる。今の世で、物を盗んだうえにその物主を殺したりする者は、この地獄に堕ちるのである。
衆合地獄の有様と堕落の原因
[10]第三に衆合地獄とは、黒縄地獄の下にあり、縦横の大きさは黒縄地獄と同じである。この地獄には多くの鉄の山が二つずつ向きあっていて、牛頭(牛の頭をした地獄の番人)・馬頭(馬の頭をした地獄の番人)などの獄卒が、手に棒を持ち、罪人を駈りたてて山と山との間に追い込む。すると両方の山が押し迫ってきて罪人の身体は砕け、血が流れて大地に溢れる。そのほか種々の苦しみがある。
[11]この地獄に堕ちた罪人の寿命は、人間の二百歳を欲界の第三夜摩天の一日とし、さらにこの夜摩天の天人の寿命である二千歳を衆合地獄の一日として、二千年間である。
[12]殺生と盗みの罪のうえに邪婬と言って他人の妻と関係する者はこの地獄に堕ちる。しかも、今の世の僧や尼、男性や女性の多くはこの罪を犯している。とくに僧にこの罪を犯す者が多い。世間の男性や女性はそれぞれ互いに社会の道徳や習慣を守り、またとくに人目を避ける必要もないからこの罪を犯すことは少ないが、僧は独身であるために婬欲が思いに任せない。もし妊娠すればその父親を糺明されて露顕してしまうので独身の女性とは関係しない。よもや知られないであろうと他人の妻をうかがい、どこまでも隠そうとするのである。今の世には、とくに貴く見える僧の中にこの罪を犯す者が多いように思われる。したがって、おそらくそのような僧はこの地獄に堕ちるであろう。
叫喚地獄の有様と堕落の原因
[13]第四に叫喚地獄とは、衆合地獄の下にあり、縦横の大きさは衆合地獄と同じである。この地獄では、獄卒が恐ろしい声を出して弓箭をもって罪人を射る。または、鉄の棒で罪人の頭を打ち、熱鉄の大地を走らせる。あるいは、熱鉄の焙台で罪人をひっくり返しひっくり返し焙る。あるいはまた、罪人の口を開けて煮えたぎった銅の湯を注ぎ込み、五臓は焼けて下から出る。
[14]この地獄に堕ちた罪人の寿命は、人間の四百歳を欲界の第四都率天の一日とし、さらにこの都率天の天人の寿命である四千歳を叫喚地獄の一日として、四千年間である。
[15]殺生・盗み・邪婬のうえに飲酒の罪を犯した者はこの地獄に堕ちる。今の世の僧や尼、仏教を信仰する在家の男性や女性などのなかで大酒を飲む者は、この地獄の苦しみを免れることはできないであろう。大智度論には酒によって三十六の過失が生ずることを指摘し、梵網経には、他人にむやみに酒盃を勧める者は五百回生まれかわる間、身体の不自由な身となる、と説かれている。また、ある人師の注釈には、蚯蚓のような身に生まれる、とも示されている。まして、むやみに酒を人に売る者や、さらに酒に水を入れて売る者はさらに罪が重い。今の世の在家の人びとはこの地獄の苦を免れることはできないであろう。
大叫喚地獄の有様と堕落の原因
[16]第五に大叫喚地獄とは、叫喚地獄の下にあり、縦横の大きさは叫喚地獄と同じである。この地獄の苦しみは前にあげた四つの地獄のもろもろの苦しみより十倍も重い。
[17]この地獄に堕ちた罪人の寿命の長さは、人間の八百歳を欲界の第五化楽天の一日とし、さらにこの化楽天の天人の寿命である八千歳を大叫喚地獄の一日として、八千年間である。
[18]殺生・盗み・邪婬・飲酒の重罪に加えて妄語の罪を犯した者はこの地獄に堕ちる。今の世の人びとは、たとえ賢人や上人などと言われる人びとであっても、一時や二時は妄語を吐かなくとも、一日中妄語を口にしない人はいないであろう。たとえ妄語を口にしない日はあっても一ケ月に一度もないという人はいないであろう。たとえ妄語を口にしない月はあっても一年に一度もないという人はいないであろう。たとえ妄語を口にしない年はあっても一生のうちに一度も妄語を口にしない人はいないであろう。もし、そうであれば、今の世の人びとは一人もこの地獄に堕ちることを免れることはできないであろう。
焦熱地獄の有様と堕落の原因
[19]第六に焦熱地獄とは、大叫喚地獄の下にあり、縦横の大きさは大叫喚地獄と同じである。この地獄にもいろいろな苦しみがあるが、もしこの地獄の豆粒ほどの火を閻浮提(世界)に置くと、閻浮提はたちまちのうちに焼きつくされてしまう。まして罪人の綿のように軟らかい身体などはすぐさま焼きつくされてしまう。それほど強烈な火であることから、この地獄に堕ちた罪人の目には前の五つの地獄の火などは雪のようなものに思える。たとえば人間の世界でも、薪の火よりも鉄や銅の火のほうが熱いのと同じである。
[20]この地獄に堕ちた罪人の寿命の長さは、人間の千六百歳を欲界の第六他化自在天の一日一夜とし、さらにこの他化自在天の寿命である千六百歳を焦熱地獄の一日一夜として一千六百歳である。
[21]殺生・偸盗・邪婬・飲酒・妄語の重罪に加えて邪見(誤った考え)と称して因果の道理を信じない者はこの地獄に堕ちる。邪見とは、たとえばある人が「人が飢えて死ねば天に生まれる」などと言うようなことで、つまりは因果の道理を知らない者のことを言うのである。世間では慈悲心のない者を邪見の者と言う。今の世の人びとはすべて邪見におちいっているのであるからこの地獄に堕ちることを免れることはできないであろう。
大焦熱地獄の有様と堕落の原因
[22]第七に大焦熱地獄とは、焦熱地獄の下にあり、縦横の大きさは焦熱地獄と同じである。この地獄の苦しみは前の六つの地獄のすべての苦しみより十倍も重い。この地獄に堕ちた罪人の寿命は半中劫(一中劫の半分)である。
[23]殺生・偸盗・邪婬・飲酒・妄語・邪見の重罪に加えて浄戒(清浄な戒律)を持っている比丘尼(尼僧)を犯した者はこの地獄に堕ちる。また、比丘(出家して具足戒を受けた男子の僧)が不邪婬戒を持つ婦人を酒に酔わして誑したり、あるいは財物(高価な品物)を与えて犯した者はこの地獄に堕ちる。今の世の僧侶の中には大勢この重罪を犯している者がいる。大悲経の文に「末代には、在家の男女は多く天に生まれるが、出家の男女は多く地獄に堕ちる」と説かれているのはこのことを言われたものであろうか。心ある人びとは深く恥じるべきである。
七大地獄の業因と人びとへの誡告
[24]これらの七大地獄に堕ちる業因を、諸経論にもとづき、今の日本国の人びとにあてはめて考えてみると、七大地獄への堕落を免れる者は一人もいない。涅槃経には「末の世になると人間に生まれる者は爪の上の土のように少なく、三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に堕ちる者は十方世界の塵のように多い」と説かれている。もしそうであれば、わたしたちの父母兄弟などで死んだ人たちは、すべてこの七大地獄に堕ちられたことであろう。たいへん嘆かわしいことである。竜・蛇・鬼神・仏・菩薩・聖人などはその名を聞くだけで姿を見たことがない。同じように、今の世でこの七大地獄へ堕ちる業因をつくらない者はいまだ聞いたことも見たこともない。
[25]ところが、自分をはじめすべての人びとのなかで地獄に堕ちるなどと思っている者は一人もいない。たとえ言葉では「地獄に堕ちる」と言っていても心の内では地獄に堕ちるなどとは思っていない。また、出家や在家の男女は、地獄に堕ちる悪業を犯しても、地蔵菩薩などの菩薩を信じたり阿弥陀仏などの仏を恃んだり、あるいはそのほか種々の善根(善い行い)を積んだりして、「自分はこのような善根を持っているので地獄に堕ちることはない」などと確信して地獄を恐れない。または各宗の学問を積んだ人びとは、各自が自分の智恵を確信して地獄へ堕ちる業因を恐れることがない。しかし、仏菩薩を信じていても、わが子や夫や妻などを愛したり父母や主君を敬うこととは雲泥の違いがあり、仏・菩薩などを軽く考え心から信仰していないのである。
[26]したがって、今の世の人びとが、仏菩薩を恃んだり、各宗の学問を積んだりしたことによって、地獄に堕ちて苦しむようなことはない、と思っているのは誤りである。心ある人びとはよく考えるべきである。
大阿鼻地獄の有様と堕落の原因
[27]第八に大阿鼻地獄とは苦しみが絶え間なく続くことから無間地獄とも称し、欲界の一番下にある。縦横の大きさは八万由旬で、外側に七重の鉄の城がある。この地獄の極苦(極めて苦しいこと)についての詳しいことは省略するが、前にあげた七大地獄やそのほか別の所にあるすべての苦しみよりも一千倍勝っている。この地獄に堕ちた罪人が大焦熱地獄に堕ちて苦しんでいる罪人を見ると、他化自在天(欲界の最上位である第六天。自在に遊楽する)で遊び楽しんでいるようなものである。この地獄の臭気を嗅ぐと、四天下(須弥山の四方にある国。東方の弗婆提・西方の瞿耶尼・南方の閻浮提・北方の鬱単越)や欲界の六天(四天王天・忉利天・夜摩天・兜率天・化楽天・他化自在天)に居住している天人や人間はすべて死んでしまう。けれども出山と没山という二つの山があってこの地獄の臭気を遮って人間の世界に来ないようにしているので、この世の人たちは死なないのである。もし仏がこの地獄の苦を詳しくお説きになると、人は聴いてそのあまりの惨苦に忍えられず血を吐いて死んでしまう。そのゆえに仏は詳しくはお説きにならなかったと思われるのである。
[28]この地獄に堕ちた罪人の寿命は一中劫である。一中劫とは、人間の寿命が無量歳から百年ごとに一歳ずつ減少していって十歳になるまでを一減といい、また十歳から百年ごとに一歳ずつ増加していって八万歳になるまでを一増といい、この一増一減を一小劫として、二十の増減(二十小劫)をくり返す間をいうのである。この地獄に堕ちた者はこれほど久しい間無間地獄にとどまって大苦を受けるのである。
[29]五逆罪を犯した人はこの地獄に堕ちる。五逆罪とは一に殺父(父を殺す)、二に殺母(母を殺す)、三に殺阿羅漢(阿羅漢を殺す)、四に出仏身血(仏の身から血を出す)、五に破和合僧(和合僧を破壊する。仏教教団に対する迫害)のことをいう。今の世には仏はおられない。したがって出仏身血の逆罪はない。和合僧もなければ破和合僧の逆罪はないし、阿羅漢がいなければ殺阿羅漢の逆罪もない。ただ殺父と殺母との二つの逆罪だけが今の世にはあるのである。しかしながら、国王(国家)の禁めが厳しく制定されているのでこの罪を容易に犯すことはできない。もしそうであれば、今の世においては阿鼻地獄に堕ちる人は少ない。
[30]ただし、相似の五逆罪(五逆罪によく似た罪)ということがある。木像・画像の仏や堂塔などを焼いたり、それらの仏像などに寄進されている所領(堂塔などの領地)を奪い取ったり、率兜婆などを切ったり焼いたり、智徳のある人を殺害したりする者は多い。これらの罪を犯した人びとは大阿鼻地獄の付属である十六の別の場所の地獄に堕ちるのである。したがって、今の世の人びとは大阿鼻地獄の付属である十六の別の場所の地獄(正法念処経によると、烏口・一切向地・無彼岸長受苦悩・野干吼・鉄野干食・黒肚・身洋・夢見畏・身洋受苦・両山聚・吼生閻婆叵度・星鬘・苦悩急・臭気覆・鉄鍱・十一焔に堕ちる者が多いであろう。また謗法(仏の正しい教えを謗る)の重罪を犯した者はこの地獄に堕ちるのである。
無間地獄に堕落する因果の軽重
[31]第二に無間地獄に堕落する原因に軽いものと重いものとがあることを明らかにする。問うて言う。五逆罪以外の罪によって無間地獄に堕ちることがあるであろうか。答えて言う。正法(仏の正しい教え)を誹謗する重罪である。問うて言う。その証拠となる文は何か。答えて言う。法華経第二巻の譬喩品には「もし人が信じないでこの経を謗れば、その人は命が終わると阿鼻地獄に堕ちるであろう」と説かれている。この経文に謗法の重罪を犯すことは阿鼻地獄に堕ちる業因であると明瞭に示されている。
五逆罪と謗法罪との軽重
[32]問うて言う。五逆と謗法との罪の軽重はどうか。答えて言う。大品般若経(摩訶般若波羅蜜経)には「舎利弗が仏に、『世尊、五逆罪と破法罪(仏法を破る罪)とは同じでありましょうか』と申し上げると、仏は舎利弗に『同じではない。なぜなら、もし般若波羅蜜(道理を正しく見抜く智慧によって悟りの境界を体得する。六波羅蜜の一つ)の智慧を破る者は十方諸仏の一切智(諸法は平等にして空であると悟る智慧)・一切種智(種々の法門を観じて迷いを破る智慧)を破ることになるからである。そうなれば仏宝(仏)・法宝(仏の教え)・僧宝(仏の教えを持ち弘める僧)の三宝を破ることになり、三宝を破るゆえに世間の正見(正しい考え)を破ることになる。世間の正見を破れば、すなわち数限りない罪を犯すことになる。数限りない罪を得てそのために数限りない苦しみを受けるのである』とおっしゃった」と説かれている。
[33]また同経には「破法の業(行為)や因縁が集まるので数知れない長い年月の間大地獄の中に堕ちる。この破法の人びとはある一つの大地獄からまた他の大地獄へと転々と移り、もし劫火(すべてを焼きつくす大火災。壊劫の末に起こる三災のうちの一つ)が起こり世界中が滅尽しても、また他方の世界の大地獄の中に移って苦を受ける。このように十方世界の大地獄を残りなく回っている間にくり返し劫火が起こる。そのためにあちこちで死んでも破法の悪業や因縁が消滅しないために、またこの世界の大地獄に帰ってくる」と説かれている。法華経第七巻の常不軽菩薩品には「四衆(出家の男女と在家の男女)のなかに煩悩によって心がよごれ瞋恚(怒り)を生じる者がいて、常不軽菩薩を罵って『無智の比丘』と言ったり、杖木や瓦石で打ちたたいた。これらの人びとは命が終わると千劫もの長い間阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受ける」と説かれている。この経文の意味は、法華経の行者を罵ったり杖で打ちたたいたりした者は、その後に懺悔(罪を悔い改める)しても罪は消えることなく、千劫もの長い間阿鼻地獄に堕ちた、ということである。
[34]懺悔した者の謗法の罪でさえ五逆罪より千倍も重いのである。まして懺悔しない者の謗法の罪は阿鼻地獄を出ることはできないであろう。したがって法華経第二巻の譬喩品には「この経を読誦したり書写したりして信仰する者を見て、軽んじたり賤しめたり憎んだり嫉んだりして恨みをいだく人は、命が終わると阿鼻地獄に堕ち、一劫が過ぎるとまた阿鼻地獄に生まれる。このようにくり返して数限りない長い間苦しむのである」と説かれている。
謗法の意味
[35]第三に問答形式で謗法について明らかにする。問うて言う。五逆罪と謗法罪の軽重については知ることができたが、謗法の具体的内容はどのようなことか。答えて言う。天台智者大師の梵網経の疏(梵網菩薩戒経義疏)には「謗とは背くことである」と説明されている。仏の法に背くことが謗法であると言えよう。天親の仏性論には「憎むとは背くことである」と説かれている。この文の意味は正法を人に捨てさせることが謗法である、ということである。
[36]問うて言う。もっと詳しく謗法の内容について知りたいと思うので、具体的に説明していただきたい。答えて言う。涅槃経第五巻の如来性品には「もし人が、『如来は無常(移り変わる有限の存在)である』と言うならば、その人の舌はかならず爛れて落ちてしまうであろう」と説かれている。この文の意味は、仏を無常の存在であると言う人は舌が爛れて落ちてしまう、ということである。
[37]問うて言う。もろもろの小乗経では仏を無常の存在であると説かれているうえに、弟子たちもすべて仏は無常の存在であると論じている。もしそうであるならば、仏や弟子たちの舌は落ちたのであろうか。答えて言う。小乗経の仏を小乗経の人が無常と説いても舌は爛れないが、大乗経の仏に対して無常と言ったり、小乗経を称讃して大乗経を破折すると舌が落ちる。このことから考えるに、自分が信ずる経典の教えに随っていても、それより勝れた経を破折すれば破法の罪を犯すことになるであろう。もしそうであれば、たとえ観無量寿経や華厳経などの権大乗経(方便の大乗経)を信ずる人びとが、それぞれ依り所としている経典の教えのとおりに修行しても、それらの経より勝れた経に随わなかったり、その経よりも勝れているなどと語れば、謗法の罪を犯すことになるであろう。したがって観無量寿経などを経文のとおりに受け持っていても、それら観無量寿経などの教えをうち破った勝れた経が説き顕わされた時は、その勝れた経に随わなければ破法の罪を犯すことになるであろう。このことは小乗経の例によって心得るべきである。
無量寿経の往生説と謗法
[38]問うて言う。無量寿経などに「あるいは十念(一心に念仏)すればすなわち往生することができる」などと説かれているのであるから、それらの経の教えのとおり十念して往生すべきであるのに、後に説かれた経によってこれを破折することは謗法の罪を犯すことではないであろうか。答えて言う。仏は観無量寿経などの四十余年間に説かれた経をすべてまとめて、無量義経(法華経の開経)に「未顕真実」(いまだ真実を顕わしていない)と説かれたのであるから、この無量義経の文に随えば「あるいは十念すればすなわち往生することができる」などということも、実際には往生することができないと言えるのである。この無量義経の文がなければ四十余年間の経を破折することは謗法の罪を犯すことになるであろう。
得一の謗法
[39]問うて言う。ある人が言うには「無量義経の『四十余年未顕真実』(四十余年の間いまだ真実を顕わさなかった)の文は、あえて四十余年間のすべての経やすべての文々句々にいたるまでを、仏が未顕真実(真実を説き顕わしていない)とお説きになったのではない。ただ四十余年間の経のあちらこちらに決定性の二乗(二乗の果徳を得ることが決まっている者。法相宗の五性各別の法門)は永不成仏(いつまでたっても成仏できない)であると嫌ったり、釈迦如来を始成正覚(この世に出現し始めて悟りを開いた)の仏であると説かれたので、そのような説法だけを指して未顕真実と言うのである。けっしてそのほかのことを指しているのではない。ところが、軽率に四十余年未顕真実と説かれた文を見て、観無量寿経などに凡夫のために九品往生(機根の異なりに応じた九種の往生のしかた。上品・中品・下品にそれぞれ上生・中生・下生がある)などが説かれているのを、みだりに往生できないなどと強く言い張ることはなんと恐ろしい謗法の罪を犯す者ではないか」などと言うけれども、これについてはどうであろうか。答えて言う。このような考えかたは東国の得一(徳一とも書く。法相宗の僧で伝教大師最澄と権実について論争した)の解釈に似ている。得一が言うには、「未顕真実とは、仏が爾前の経(法華経以前に説かれた諸経)で決定性の二乗は永不成仏(二乗の性分が決まっている者はながく成仏しない)と説かれたことについて、いまだ真実を説き顕わしていないと否定されたものであり、前四味(法華経以前に説かれた諸経。乳味=華厳経・酪味=阿含経・生酥味=方等部の諸経・熟酥味=般若経)のすべての経を指したものではない」と。伝教大師はこのような得一の考えかたを破折して、前四味(法華経以前の諸経)にわたり文々句々にいたるまですべての教えが未顕真実であると法門を立てられた。したがって、ある人の考えかたとは、過去の謗法者得一の考えかたとよく似ている。ただし、今はしばらく貴方の考えかたに随ってことの真実を明らかにしていこう。
未顕真実の意味
[40]問う。法華経以前に説かれた経で二乗作仏(二乗の成仏)を嫌われた文を、今、未顕真実というのであれば、決定性の二乗は永不成仏(二乗の性分が決まっているものはながく成仏できない)と説かれたあちこちの経文だけは、未顕真実であり仏の妄語(虚妄の説法)であると承伏(承認)されるのか。そうであれば仏の説法に妄語があることは確実である。もしそうなら、妄語を吐くような人の言うことは、有ると言っても無いと言ってもどちらも信用できないことである。決定性の二乗が永不成仏であるという言葉ばかりが妄語で、他の菩薩や凡夫が往生成仏することは実語(真言の言葉)であると言うのならば、たいへん信用しがたいことである。譬えれば、東方を西方をいつわって言う人はかならず西方を東方と言う。このように、二乗を永不成仏(ながく成仏できない)と説いた仏が、こんどは他の菩薩の成仏を説いてもそれは妄語ではないのか。五乗(人乗・天乗・声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)はすべて同一に仏性(仏の性分)が具わっている。二乗はながく成仏できないなどと二乗だけは仏性がないかのように説き、菩薩や凡夫は成仏できると仏性を説き顕わすことは、同一仏性を否定することになり、かえって菩薩や凡夫の仏性さえも無いことになる。
[41]ある人が言う。四十余年未顕真実とは成仏についての未顕真実をいうのであって往生などの法門については未顕真実ではない、と。これについて論難して言う。四十余年間の経に説かれた成仏の法門を未顕真実であると承伏されるのなら、無量寿経に説く「十方の衆生がもしくは十念してわが浄土に往生できなければわたしは正覚を取らない(成仏しない)と法蔵比丘のときに誓願を立て、その後、仏になってからこのかたおよそ十劫を経過している」という文は未顕真実であると承伏されるのか。もしそうであれば、四十余年間の諸経において法蔵比丘が阿弥陀仏にならなかったとするならば、法蔵比丘が成仏したということはすでに妄語である。もし成仏が妄語であればどのような仏が念仏の行者を極楽浄土に迎えてくださるのであろうか。
[42]また、その人はこの論難を釈明し言うであろう。四十余年の間は成仏ということはなかった。阿弥陀仏の成仏は今の成仏(今日の釈尊の説法における成仏)ではなく過去世の成仏である、と。そこで、今、この考えを論難して言う。今日の釈尊が四十余年間にわたって説かれた諸経において、実際には凡夫の成仏が許されないとするならば、無限の過去から四十余年の権経(方便の経)では成仏することはできないことになる。なぜなら三世(過去世・現在世・未来世)の諸仏の説法の儀式(説法の順序や方法)はすべて同じであるからである。
[43]あるいは言う。無量義経には「速やかに最高の悟りを開くことはできない」と説かれているので、四十余年の諸経ではすぐには成仏できなくとも、長い年月を経過すれば成仏することができるのではないか、と。これについて論難して言う。今、引いた無量義経の文の続きには大荘厳菩薩の領解(了解。理解)の言葉として「無限の時が過ぎてもついに最高の悟りを得ることができなかった」とある。この文によれば、いかに長い年月を経ても、爾前の経(法華経以前に説かれた諸経)だけでは成仏することはできないのである。
[44]また、あるいは華厳経の人びとは次のように考えて言うであろう。四十余年間の仏の説法の中には華厳経だけは入らない。その華厳経にすでに往生成仏が説かれているのであるから、どうして華厳経を修行して往生成仏することができないと言えようか、と。答えて言う。四十余年間の仏の説法の中に華厳経が入らないというのは華厳経の人師の考えである。無量義経には明らかに「華厳海空」(華厳経の法門が海や空のように一切を包みこむことから華厳経を譬える)と名前をあげて四十余年間の仏の説法のうちに数え入れられている。華厳経の人師の考えを根本と考えると仏の教えに背くことになる。
[45]問うて言う。法華経を離れては往生成仏ができないのならば、どうして仏は世に出現されてただ法華経だけを説かれなかったのか。なぜ煩わしく四十余年の間諸経を説かれたのであろうか。答えて言う。この難問については仏が自らお答えになっている。法華経方便品に「もしわたしが仏に成ることのできる法華経ばかりを称讃して説けば、人びとは苦しみの中に沈淪し正法を信じないで破り、そのために三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に堕ちるであろう」と説かれている文がこれである。
爾前諸経を謗らない理由
[46]問うて言う。どうして爾前の経を人びとは謗らないのか。答えて言う。爾前の諸経には多くの違いがあるけれども、まとめて論ずれば随他意(仏が人びとの能力や考えかたに応じて法を説かれること。相手の心に随って説くために方便によって真実に誘引しようとされる)と言って人びとの心に随って説かれている。したがって爾前の諸経は人びとの心と相違することがないのである。譬えば水に石を投げても争うことがないようなものである。爾前の諸経にはいろいろな教えがあるけれども、その内容は九界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩)の衆生の心に相応している。衆生の心は善につけ悪につけすべて迷いを根本としているので仏にはなれないのである。
法華経弘通の理由
[47]問うて言う。人びとが誹謗するので仏は最初に法華経をお説きにならないで四十余年を経た後に説かれたのならば、どうして貴方は今の世においてまず権経を説くことをしないで、いきなり法華経を説き示して人びとに誹謗させて悪道に堕とすようなことをするのか。
[48]答えて言う。仏は御在世に菩提樹の下に坐って人びとの機根についてお考えになり、今の時代に法華経を説けば人びとは謗って悪道に堕ちるであろう、四十余年間が過ぎた後に説けば謗ることもなく、初住不退の位(菩薩の修行の位である五十二位のなかの初住位。一分の中道の理を証得し不退転の境地に入る)に入り、やがて妙覚の位(五十二位の最高位。すべての煩悩を断じつくして仏果を得た位)にまで登るであろう、と見とおされたのである。ところが末代の濁悪世においては仏の教えによって救われるべき能力を備えた機根で初住の位に入ることのできるような人は万人に一人もいない。また教化する人びとも仏ではないので機根を判断することもできない。したがって逆縁(仏の教えに違背することを縁として仏道に入る)・順縁(仏の教えに随順して仏道に入る)いずれの人びとのためにもまず最初から法華経を説くべきであると、仏がお許しになったのである。ただし、仏の滅後であっても法華経を受けるべき機根ではない人びとには、まず最初に権経(方便の教え)を説くこともある。また、慈悲のうち悲(悲とは人びとに楽を与えること)を先とする人はまず最初に権経を説く。釈迦牟尼仏がその例である。慈(慈とは人びとの苦を取り除くこと)を先とする人はまず最初に実経(真実の経。法華経)を説く。常不軽菩薩がその例である。また、末代の凡夫はどのようにしても悪道を免れることはできない。同じ悪道に堕ちるのであれば、法華経を謗らせて堕ちたほうが世間の罪によって堕ちるよりも比較にならないほど幸いである。善住天子経に「法を聞いて誹謗し地獄に堕ちることはガンジス河の砂の数ほどの計り知れない仏を供養することよりも勝れている」と説かれているとおりである。この経文の意味は、法華経を謗って地獄に堕ちることは、釈迦仏や阿弥陀仏などのガンジス河の砂の数ほど計り知れない仏を供養し信仰を捧げる功徳よりも、百千万倍も勝れている、ということである。
諸宗諸師の謗法堕獄
[49]問うて言う。前に示された内容のとおりであるならば、華厳宗・法相宗・三論宗・真言宗・浄土宗などの祖師がたはすべて謗法の罪によって地獄に堕ちると言うのか。華厳宗では、華厳経は法華経とは雲泥の違いがありはるかに勝れている、と言う。法相宗や三論宗もまた同じである。真言宗は日本国に二つの流れがある。東寺の真言宗(空海の開いた真言宗)では、法華経は華厳経にさえ劣っており、まして大日経より劣っていることは当然である、とする。天台宗の真言(天台密教)では、大日経と法華経とは理においては同じであるが、印(印契)と真言(仏の真実の言葉。仏の密語)などにおいて大日経が勝れている、と言う。これらの人びとはすべて悪道に堕ちるのであろうか。
[50]答えて言う。宗旨を立てて諸経の勝劣を判別するのに二つの考えかたがある。一には似破(他の教えの正しさを知りながらあえて論難する)、二には能破(他の教えの正しさを知らないで本心から論難する)である。一に似破とは、他の考えかたを正しいと知りながらあえて破折する。これはその正しい考えを明瞭にするためであろうか。二に能破とは、実際に他人の考えかたが勝れていることを知らないで、迷って自分の考えかたが勝れていると思い心から破折することである。したがって、それらの宗の祖師がたにもそれぞれ似破と能破との二つの考えかたがあるであろう。心の中では法華経は諸経に勝れていると思っていながら、形式的に違うことを言い、法華経の正義(正しい教え)を顕わそうとして、破折することがある。提婆達多・阿闍世王・もろもろの外道が仏の敵となって、かえって仏の徳を明らかにし、後には仏に帰依したようなものである。また、実際に凡夫が仏の敵となって悪道に堕ちることも多い。したがって、諸宗の祖師の中でも法華経誹謗を悔い改める文章を書かない人たちは、謗法の罪によって悪道に堕ちたと知るべきである。三論宗の嘉祥大師吉蔵・華厳宗の澄観・法相宗の慈恩大師・東寺(真言宗)の弘法大師空海などに悔い改めた文章があるかどうか、よくよく調べてみるべきである。
謗法の悪知識
[51]問うて言う。このたび、本当に生死の迷いを離れたいと思うけれども、そのためには何を厭い、何を願ったらよいであろうか。
[52]答える。もろもろの経文には女性などを厭うべきであると説いてあったりするけれども、仏が入滅に臨んで沙羅双樹の下で説かれた涅槃経には「菩薩よ、仏道修行の身に多くの過失や苦患が満ちていると思っても、涅槃経を受持しようとしているのであるからその身を護り足らないことがないようにしなければならない。菩薩よ、悪い象などは恐れることはないが、悪知識(邪悪な考えをもった指導者)に対しては怖れを懐かなければならない。なぜかと言えば、悪い象はただ身を破壊するだけで心を破壊することがない。ところが、悪知識は身も心もともに破壊するからである。悪い象はただ一人の身を破壊するだけであるが、悪知識は多くの身と多くの善なる心を破壊する。悪い象に殺されても三趣(三悪道)に堕ちることはないが、悪友(悪知識)に誑惑されると心が邪悪になり悪業を犯して殺されかならず三趣(三悪道)に堕ちる」などと説かれている。この経文の意味は、後世(後生の安穏。死後、善処に生まれること。死後の世の安らぎ)を願う人は一切の悪縁(悪い縁)を恐れるべきであり、さらに一切の悪縁より悪知識を怖れるべきである、ということである。
[53]したがって、大荘厳仏の末の代に四人の比丘(苦岸・薩和多・将去・跋難陀)は、自ら悪法を行じて十方の大阿鼻地獄を経めぐったばかりでなく、帰依した六百億人の檀那(信徒)などまでも十方の地獄に堕した(仏蔵経の所説)。鴦崛摩羅は摩尼跋陀の教えに随って九百九十九人の指を切り、最後には母親や釈尊までも殺害しようとした(鴦崛摩羅経の所説)。善星比丘は仏の御子であり、十二部経(一切経。一切経を形式や内容から十二種類に分類)を受け持ち、四禅定(欲界の迷いを断じ色界の四禅天に生ずる四種類の禅定)を得て欲界の煩悩を断じたけれども、苦得外道に法門を習い、邪見を起こして生きながら阿鼻地獄に堕ちた(涅槃経の所説)。提婆達多は六万、八万もの法門を暗誦したけれども、外道の五法(外道が行う天眼通・天耳通・他心通・宿命通・神足通の五神通)を行じて現身に無間地獄に堕ちた(大智度論の所説)。阿闍世王は父を殺し母をも殺害しようとし、さらには大きな象を放って釈尊を亡きものにしようとしたけれども、これは悪師の提婆達多の教えを信じたからである(涅槃経・観無量寿経の所説)。釈尊の弟子であった倶伽利は舎利弗と目連を誹謗したために生きながら阿鼻地獄に堕ちた(中本起経・大智度論の所説)。大族王は五天竺(全インド)の仏法僧を滅ぼし、大族王の弟は加溼弥羅国の王となって健駄羅国の率都婆(塔廟)や寺塔を一千六百箇所も破壊し、金耳国王は外道を信じて仏法を弾圧し、舎衛国の波瑠璃王は九千九十万人の釈迦族の人びとを殺し血を流して池とし、設賞迦王(金耳国王のこと)は仏法を破滅し菩提樹を切り倒して根を掘り返して焼いた(大唐西域記の所説)。後周の宇文王(北周の第三代武帝)は四千六百余箇所の寺院を破壊し、二十六万六百余人の僧や尼を還俗させた(武帝の廃仏。中国における三武一宗の廃仏と称されるうちの一つ)。これらはすべて悪師を信じたために、悪鬼がその人たちの身に入ったためである。
日本国と仏法
[54]問うて言う。インドや中国では外道が仏法を滅ぼし、小乗の者が大乗を破ったように思われる。この日本国もまた同じであろうか。答えて言う。インドや中国には外道もあり小乗もあったが、この日本国には外道もなく小乗の者もいない。紀典博士(中国の史書や詩文をつかさどり、紀典道を教授する平安時代の役職)などはいたけれども、仏法の敵となる者はいなかった。小乗の三宗(倶舎宗・成実宗・律宗)はあるけれどもこれらの宗によって生死の迷いを離れようなどとはだれも思わず、ただ大乗を修学するための手段であると考えている。そこで、この日本国には大乗の五宗(法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・天台宗)だけがあり、人びとは皆、これらの宗によって生死の迷いを離れようと思うために争いが多く起こるようになり、また檀那(信徒)の帰依(帰信)も多くあるために利欲の心も深くなったのである。
弘通者の心得と五義
[55]第四に仏法を弘める者の心得について述べる。そもそも、仏法を弘めようと思う者はかならず五義(題目五字七字こそが末法の人びとを救済する唯一絶対の教えであることを必然づける法門)を弁えて正法を弘めなければならない。五義とは、一には教、二には機、三には時、四には国、五には仏法流布の前後(仏法の弘まる順序)である。
教の意味と諸宗の教判
[56]第一に教とは、如来御一代の五十年間にわたる説教に大乗と小乗、権教(方便の教え)と実教(真実の教え)、顕教(顕露に説かれた釈尊の教え)と密教(大日如来の秘密の教え)の異なりがある。
[57]華厳宗では五教(小乗教・大乗始教・大乗終教・一乗頓教・一乗円教)の教判を立て、釈尊御一代の聖教を判別し、その中で華厳経と法華経をもっとも勝れた経とし、さらに華厳経と法華経とを比較して華厳経を第一の経としている。南三北七(中国南北朝時代の十流の学派)の諸師や華厳宗の祖師、さらに日本国の東寺(真言宗)の弘法大師はともにこのように華厳経は法華経より勝れた経である、としている。
[58]法相宗は三時教(有教・空教・中道教)の教判を立てて、釈尊御一代の聖教を判別し、その中で深密経と法華経を釈尊御一代の聖教の中では勝れているとし、さらに深密経と法華経とを比較して、法華経は了義経(真実を説き顕わした経)の中の不了義経(いまだ真実を説き顕わしていない方便の経)であり、深密経は了義経の中の了義経である、としている。
[59]三論宗では二蔵(声聞蔵・菩薩蔵)や三時(初時心境倶有・二時境空心有・三時心境倶空)の教判を立て、三時の中の第三である空を悟る中道教を般若経と法華経であるとし、さらに般若経と法華経とを比較して、般若経をもって最第一の経である、としている。
[60]真言宗は日本国に二つの流れがある。東寺流(真言宗)では弘法大師が十住心(異生羝羊住心・愚童持斎住心・嬰童無畏住心・唯蘊無我住心・抜業因種住心・他縁大乗住心・覚心不生住心・如実一道住心・極無自性住心・秘密荘厳住心)の教判を立て、第八に法華経、第九に華厳経、第十に真言密教経典をそれぞれ位置づけた。この教判によると法華経は大日経よりも劣るばかりでなく、さらに華厳経よりも劣るということになる。天台宗の真言(天台密教)では、慈覚大師などが、大日経と法華経とは広略(仏の教えを広く説くことと一部分だけを説くこと)の異なりであり、法華経は略して理秘密(仏法の道理を説く秘密一乗の教え)だけが説かれた経であるが、大日経は広く事理倶密(理秘密に加えて身語意の三密事相があわせ説かれた秘密一乗の教え)が説かれた経である、としている。
[61]浄土宗では釈尊御一代の聖教を聖道門と浄土門とに分け、仏道修行を自力の難行道と他力の易行道とに大別し、さらに修行の内容を雑行と正行とに分類した法門を立て、浄土三部経(阿弥陀経・無量寿経・観無量寿経)以外の法華経などのすべての経は、難行であり聖道門であり雑行である、としている。
[62]禅宗には二つの流れがある。一つの流れではすべての経やすべての宗のもっとも深い教えは禅にある、としている。もう一つの流れでは、仏御一代の聖教はすべて衆生を教化するための言説であり、仏の口をとおした方便にすぎず、その本旨は、仏の意密(秘密の本意。仏の内証。仏の心中の悟り)であり、言葉では表現することができない教外別伝(経文をこえて心から心に伝える)にある、としている。
[63]倶舎宗・成実宗・律宗は小乗宗である。インドや中国では小乗宗の者が大乗を破ることが多いけれども、日本国ではそのようなことはない。
諸宗の異義と邪見者の解答
[64]問うて言う。諸宗の法義はそれぞれ異なっている。各宗ともそれぞれに根拠があって成仏することができるであろうか。あるいは諸宗はすべて謗法でありただ一宗だけが正しい教えであるということになろうか。
[65]答えて言う。異なった考えかたはあってもすべて成仏できるであろう。仏の入滅後四百年にあたって、健駄羅国の迦貳色迦王は仏法を尊信して一夏(雨の多い四月中旬から七月中旬の夏季九十日間。僧が室内で修行する夏安居)の間僧を供養し、仏法について問うたところ、一人一人の僧の考えが異なっていた。王は不審に思い「仏の教えはかならず一つにちがいない」とついに脇尊者に質問した。すると脇尊者は「金の杖を折っていろいろな物を作るに、形は異なっても金の杖は一つである。形が異なっていることを論争しても、金であることは変わらないのであるから論争にはならない。教えの門はそれぞれ同じではないので、入口の異なりで論争しても、中に入って得るところの真理は一つである」と答えた。また、求那跋摩は「諸論はそれぞれ異なっているけれども、修行して得るところの真理に二つはない。各自の偏った思いで論じ合えば是非の争いが起きるが、深い教えに通達した者には異なった考えによる争いなどはない」と言われている。さらにまた、五百の比丘が阿羅漢(修行者の最高位で煩悩を断じ人びとから施を受けるに値する聖者)になることのできた真因(五百の比丘は無明・愛・五欲の身因を観じて阿羅漢果を得た)はそれぞれ異なるけれども、皆、同じように聖理(聖なる真理。阿羅漢の証果)を得た。大智度論に説かれている四悉檀(世界悉檀・為人悉檀・対治悉檀・第一義悉檀)のうち、人びとの悪見(邪悪な考え)を断破して善業をさせる対治悉檀や、摂大乗論に説かれている四意趣(平等意趣・別時意趣・別義意趣・衆生意楽意趣)のうち、人びとの願いに応じて法を説き教化する衆生意楽意趣などは、ある時は善を否定しある時は善を称讃する。布施(檀波羅蜜)・持戒(尸羅波羅蜜)・精進(毘梨耶波羅蜜)などの六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の修行のそれぞれにおいて謗ったり称讃したりするけれども、いずれも皆成仏することができるのである。
[66]これらのことから考えると、法相宗の護法と三論宗の清弁との空・有の論争、三論宗の智光と法相宗の戒賢との空理・中道の論争、南三北七の頓教・漸教・不定教、一時教・二時教・三時教・四時教・五時教、四宗・五宗・六宗などの教判、天台大師の五時教判、華厳宗の五教の教判、真言密教における東寺(真言宗)と天台宗(天台密教)との争い、浄土宗の聖道門と浄土門の教判、禅宗の教外と教内との教判など、これらは入る門は異なっていても悟るところの実理(真実の理)はただ一つであると言えよう。
謗法の意味と堕地獄
[67]論難して言う。華厳宗の五教の教判、法相宗と三論宗の三時教判、禅宗の教外別伝、浄土宗の難行道と易行道との判別、南三北七の五時教判などは、仏道に入る門が異なっているだけで中に入って体得する真理は一つであり、それぞれがすべて仏の本意にかなっていて謗法にはならない、と言うのであれば、謗法ということはありえないことになるのではないか。謗法とは法に背くことである。法に背くとは、小乗の者が小乗経に背き、大乗の者が大乗経に背くことである。いずれであっても法に背けばかならず謗法となる。謗法の罪を犯せば苦の報いを受けない者はない。前の解答はこの道理に反している。これが論難する理由の第一である。大般若経には「般若経を謗る者は十方の大阿鼻地獄に堕ちるであろう」と説かれ、法華経には「もし人がこの経を信じなければ、その人は命終わった後阿鼻地獄に堕ちる」(譬喩品)と説かれ、さらに、涅槃経には「世の中に治し難い三つの病がある。一には四重禁戒(殺生・偸盗・邪婬・妄語)を犯すこと、二には五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅漢・破和合僧・出仏身血)、三には謗大乗(大乗教を謗る)である」と説かれている。これらの経文がどうして空しいことがあろうか。これらは謗法についての仏の証文である。
[68]したがって、無垢論師(小乗の論師。世親に論破され怨念をいだいた)・大慢婆羅門(諸学に通達し慢心を起こし外道の三天と釈尊の像を高座の足にしてこれに登った)・熈連禅師(天台大師の法門を誹謗した)・嵩霊法師(仏法を誹謗した)などは正法(仏の正しい教え)を謗ったために現身に大阿鼻地獄に堕ち、舌が口の中で爛れた、と伝えられている。これらの例は謗法によって罪を得ることの現証(現実的な証拠)である。天親菩薩(無著の弟)は最初小乗の論を作って諸大乗経を破した。ところが、後に兄の無著菩薩に導かれて大乗に帰し、兄にむかい大乗誹謗の罪を懺悔(悔い改める)し、自らの舌を切ろうとされた。謗法がもし罪にならないとすれば、どうして千部の論師(千部もの論書を著して仏教を論じた師)が懺悔するようなことがあろうか。闡提とはインドの言葉で、漢訳では不信と翻訳されている。不信とは「すべての人びとにはことごとく仏性(仏の性分)がそなわっている」(涅槃経)ということを信じないことで、これを闡提の人と言うのである。
[69]不信とは謗法の者である。このような人びとを涅槃経では生死の河を渡る七種の衆生に譬えて、「第一は善根を断じ(一闡提)謗法の罪を犯して常に生死の河の中に水没している者であり、第二は五逆罪を犯し仏法を誹謗して常に生死の河の中に水没している者である」と説かれている。どうして謗法を恐れないでいられようか。
謗法についての諸宗の見解
[70]答えて言う。謗法とは理由もなくただ仏法を謗ることを言うのであり、自分の信じる宗旨を立てるために他の法義を謗ることは謗法にはならないであろう。摂大乗論に説かれている四意趣の中の衆生意楽意趣とは、たとえばある人がいて一生の間に一善も行わずただ悪事ばかり行っていたが、少しの縁によってどのような内容であれ、わずかでも善を行うというならば、これに対して喜んで讃めたたえるべきである、ということであり、あるいはまた、ある善人がいて一生の間にただ一つの善だけを行ったが、その人にさらに他の善を修めさせるために前に行った善を謗ることがあるのであり、これを「一つのことにおいてある時は呵り、ある時は讃める」という、このようなことである。大智度論に説かれている四悉檀の中の対治悉檀もまたこれと同じである。浄名経(維摩経)で二乗(声聞乗・縁覚乗)を「成仏できない」と呵ったのは、阿含経の時に説かれた法(四諦・十二因縁など)を謗ることによって二乗の心を大乗に向けさせるためである。
[71]これらのことから考えると、人びとの多くが小乗経を聞くにふさわしい機根であれば大乗経を謗って小乗経の信心を増長させ、あるいは人びとの多くが大乗経を聞くにふさわしい機根であれば小乗経を謗って大乗経の信心を厚くさせる。あるいはまた、人びとが阿弥陀仏に縁があれば他の諸仏を謗って阿弥陀仏に対する信心を増長させ、あるいは人びとの多くが地蔵菩薩に縁があれば他の諸菩薩を謗って地蔵菩薩を讃めたたえる。あるいはまた、人びとの多くが華厳経に縁があれば他の諸経を謗って華厳経を讃めたたえ、あるいは人びとが大般若経に縁があれば他の諸経を謗って大般若経を讃めたたえる。あるいは人びとが法華経に縁がある時も、あるいは大日経に縁がある時なども同じである。このように人びとの機根(能力や思考内容)にしたがって諸経を讃めたり謗ったりするけれども、ともに謗法にはならない。ところが、人びとの機根を知らない者がみだりに諸経を讃めたり謗ったりすれば謗法となるのである。たとえば、華厳宗・三論宗・法相宗・天台宗・真言宗・禅宗・浄土宗などの諸師が諸経を破折してそれぞれの宗を立てたことは謗法にはならないのである。
諸宗の見解に対する論難
[72]論難して言う。宗を立てるために他の諸経や諸宗を破折し、自分の信ずる仏や菩薩を讃めるために他の仏や菩薩を批判し、ある善行を修めさせるためにこの善行を破壊してもよいと言うのであれば、阿含経などのもろもろの小乗経に華厳経などの諸大乗経を破折した文があるであろうか。また、華厳経に法華経や大日経などの諸大乗経を破折した文があるであろうか。
諸宗の師の解答
[73]答えて言う。阿含経などの小乗経には諸大乗経を破折した文はないけれども、華厳経では小乗の二乗・菩薩の大乗・華厳の一乗をあげて二乗と大乗を破折し、涅槃経では諸大乗経をあげて涅槃経よりも劣ると破折している。密厳経には「すべての経の中の王」と説かれ、無量義経には「仏は成道してから今日にいたるまでの四十余年の間、いまだ真実を説き顕わしていない」と説かれ、阿弥陀経には念仏に対比して諸経を小善であると説かれている。このような例は一つだけではない。したがってこれらの経に依って宗を立てている人師は皆これらの経文の教えを知っている。これらのことから考えると、宗を立てる者が自分の宗旨に対して他の諸経を破折することはさしつかえないことであろう。
法華経は経王であることを明かす
[74]論難して言う。華厳経には二乗の小乗・菩薩の大乗・華厳の一乗をあげて華厳一乗を最勝と説き、密厳経には「すべての経の中の王」と説かれ、涅槃経には「このもろもろの大乗経」といって他の諸大乗経よりも勝れていると説き、阿弥陀経には念仏に対比して諸経は小善であると説かれているけれども、無量義経のように四十余年と年限を指し示してその間に説かれた阿含経・方等部の諸経・般若経・華厳経などの多くの経典の名を呼びあげ、勝劣を説かれているものはない。ただ涅槃経の「このもろもろの大乗経」と説かれている文だけは、釈尊が入滅に臨んで最後の説法に「このもろもろの大乗経」と説いて涅槃経以外のすべての経を破折されたように思えるけれども、「このもろもろの大乗経」の文に続いて諸大乗経を連ねて十二部修多羅(十二部経)・方等経・般若経などとあげているだけで、無量義経と法華経の名は記載されていない。
[75]ただし、無量義経には仏の四十余年間の説法である阿含経・方等経・般若経・華厳経をあげて「いまだ真実を説き顕わしていない」と説かれているが、法華経と涅槃経との勝劣は説き示されていない。密厳経にも「すべての経の中の王」とはあるけれども、「すべての経」として華厳経や勝鬘経などの諸経の名をあげて「王」と説くのみで、法華経の名はあげられていない。阿弥陀経にも諸経を小善と破折されているが説法の時期も説かれていないし小善の内容についても示されていない。いったいだれが知っているであろうか。小乗経を小善と言うのであろうか。または、人天の善を小善と言うのであろうか。あるいはまた、観無量寿経や大無量寿経に説かれているもろもろの善を小善と言うのであろうか。どのように見ても仏の御一代の諸経を念仏に対比して小善と言ったとは思えない。
[76]また、大日経や六波羅蜜経などのもろもろの秘密教の中にも、仏御一代のすべての経を破折してその経だけを讃めている文はない。
[77]ただし、無量義経だけには仏が成道されてから四十余年間にわたって説かれた諸経を嫌って、法華経一経だけを讃め、すでに説かれた四十余年間の諸経と今説かれた無量義経とまさに説かれるであろう涅槃経を嫌って、法華経こそが真実の教えであると説き顕わされている。釈迦如来をはじめ過去・現在・未来の三世の諸仏はそれぞれに世に出現してあらゆる経を説かれるけれども、いずれの仏も法華経を第一とされるのである。たとえば、世間では身分が高いとか低いとか言うけれどもそれは時と場合によって変わるものである。田舎では、百姓や従者などは侍のことを上郎(身分の高い者)と言うけれども、都では源氏や平氏などの侍をも下郎(身分の低い者)と言い、中院(村上源氏の流れをくむ家名)・閑院(藤原氏の流れをくむ家名)・華山院(清和源氏などの流れをくむ家名)の公家三家を上郎と言う。また、主を王と言うのであれば百姓も一家の王であり、地頭(鎌倉幕府が全国の荘園に置いた職名)や領家(荘園領主)などもまた村・郷・郡・国などの王である。しかしながらそれらは大王ではない。
[78]小乗経では無為涅槃(空寂の理を悟る小乗経の究極の境地)の理が王であり、小乗の戒律と禅定などに対して智慧が王である。諸大乗経では中道(両極端を離れた不偏中正の道)の理が王である。また、華厳経では円融相即(諸法は円満にして欠けるものはなく互いに融通し合い相即している)を説くことにおいて王であり、般若経は空理(諸法はすべて空である)を説くことにおいて王であり、大集経は正法(正しい教え)の守護を説くことにおいて王であり、薬師経は薬師如来の別願(特別の誓願)を説く経の中の王であり、大無量寿経は阿弥陀仏の四十八願を説く経の中の王であり、大日経は印相と真言を説く経の中の王であり、これらすべては仏御一代のすべての経のなかの王というのではない。法華経はあらゆる経に説かれた真諦(仏教的真理)と俗諦(世間的真理)、空(諸法は本来空寂)・仮(諸法は因縁によって存在する)・中(中正絶対の真理)、印(仏・菩薩の誓いや悟りを示す印相)や真言(仏の真実の言葉。陀羅尼)、無為(諸法は本来空寂)の理、十二大願(薬師如来が立てた衆生救済の誓願)、四十八願(阿弥陀仏が法蔵比丘として修行していた時に立てた衆生救済の誓願)などの法門を集約し統括した大王である。このことを正しく弁える者こそが教を知った者と言える。
諸宗の人師の誤り
[79]ところが、真言宗の善無畏・金剛智・不空、華厳宗の法蔵・澄観、法相宗の慈恩、三論宗の嘉祥、南三北七の諸師、浄土宗の曇鸞・道綽・善導、禅宗の達磨などが、自分が宗を立てるにおいて依りどころとする経こそ仏御一代のなかで第一に勝れている、と言うのは教を知らない者である。
[80]ただし、人師の中では、天台智者大師一人だけは正しく教を知る人である。
[81]曇鸞や道綽などの説く聖道門・浄土門、難行道・易行道、正行・雑行は、その根拠は十住毘婆沙論によっている。その論の所説を解釈して、難行の中に法華経や真言経典などが入ると思ったのが大きな誤りである。論を書いた竜樹菩薩の心と論の全体にわたる内容を知らないという過失がある。慈恩が深密経によって仏の説法を三時教(初・昔・今)に分けたことも、この経の説く三時教には仏の説かれたすべての経が摂まっていないことを知らないという過失がある。法蔵や澄観などが五教(小・始・終・頓・円)を立てて仏御一代の経を判じた中に、法華経と華厳経とを円教とし、そのなかでも華厳経が法華経よりも勝れていると思ったのは、自分の依りどころとする華厳経には二乗作仏(二乗の成仏)と久遠実成(仏の久遠過去世の成道)が説き顕わされていないにもかかわらず、二乗に対する記別(未来成仏の保証)や仏の久遠実成が説かれていると思いこみ、華厳経より勝れている法華経を華厳経より劣っているとしたことは誤った見解である。三論宗の嘉祥が二蔵(声聞蔵・菩薩蔵)を立てて法華経より般若経が勝れていると思うことは誤った考えである。善無畏などが大日経は法華経よりも勝れていると言うのも、法華経の心を知らないばかりか大日経をも知らない者である。
諸師の謗法堕獄
[82]問うて言う。このような人たちがすべて謗法であるとするならば悪道に堕ちたのであろうか。どうであろう。
[83]答えて言う。謗法には上(上邪見による謗法)・中(中邪見による謗法)・下(下邪見による謗法)・雑(雑邪見による謗法)の四種がある。慈恩・嘉祥・澄観などの謗法は上か中の謗法であろう。そのうえ自分自身でも謗法であることを知ったようで、後に悔い改めた文章を残しているようである。
[84]また、他の人師を破折するのに二種類の方法がある。すなわち能破と似破である。教の勝れていることを知りながら真偽を明確にするためにわざと批判するのは似破である。能破には、真実には勝れている経を劣っていると思って批判する悪能破と、実際劣っている経を批判する善能破とがある。
[85]ただし、脇尊者の説いた金杖の譬は、小乗経典は多くあってもすべて同じ苦・空・無常・無我の理を説いており、人びとはすべてこのことを知っていたので、十八部・二十部などに分れて互いに論争しあったけれども、それは仏法に入る門についての論争であって仏法の理についての論争ではなかった、という意味である。したがって、このような小乗の部派間の論争は謗法にはならない。外道の者が小乗経を破折する時は、外道の理は常住で小乗経の理は無常とか空であるから、理の相違を争うことになるゆえに、外道の者が小乗経を批判することは謗法となる。大乗経の理は中道であり小乗経の理は空である。したがって小乗経の者が大乗経を批判すれば謗法となる。ただし、大乗経の者が小乗経を破折しても破法にはならず、したがって謗法罪を犯したことにはならない。
[86]諸大乗経に説かれている理は未開会(すべてのものを真実の世界に導き入れることを説き明かしていない)の理であるため、いまだ二乗の成仏と仏の久遠実成が説き顕わされていない。法華経の理は開会(すべてのものを真実の世界に導き入れる)の理であるため、二乗の成仏と仏の久遠実成が説き顕わされている。したがって、諸大乗経の者が法華経を批判することは謗法となり、法華経の者が諸大乗経を謗っても謗法とはならない。真言宗の依りどころとする大日経は未開会の経であり二乗の成仏も仏の久遠実成も説かれていないので法華経以前に説かれた方便の教えである。たとえ、大日経に開会や二乗の成仏、仏の久遠実成が説かれているとしても涅槃経と同じで、法華経よりも劣る経である。
[87]ただし、真言宗の善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・一行阿闍梨などの立てた性悪の法門(法性にはほんらい悪がそなわっている)や一念三千の法門(一念心に三千の法界がそなわるという仏教実践の法門)は、天台智者大師の法門を盗んだものであろうか。もしそうであれば、善無畏たちの謗法は似破か、あるいは雑謗法(雑邪見による謗法)であろう。
[88]五百人の阿羅漢はこの身の真因について説いたが、それは小乗の十二因縁(迷いの原因を追求した十二の相関事項。無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死)のことであり、無明(迷いの根本となる煩悩)や行(無明によってつくられる善悪の行業)などを縁として空理(空寂の理)に入ったようである。これらは仏法の理を得るための門について論争したものであるから謗法とはならない。摂大乗論の四意趣や大智度論の四悉檀などは、無著菩薩と竜樹菩薩が仏滅後の論師として、法華経によってすべての経の心を知り四悉檀・四意趣などを用いて爾前の諸経(法華経以前の諸経)の教えの意味を解釈されたものである。未開会(すべてのものを真実の世界に導き入れることを説き明かさない諸経)の四意趣・四悉檀と開会(すべてのものを真実の世界に導き入れることを明かした法華経)の四意趣・四悉檀とを混同するならば、どうして謗法にならないことがあろうか。これらのことをよく知るのが教を知る者である。
信而不解の者
[89]信と解について四つの句がある。一には信而不解(信ずるが理解のない者)、二には解而不信(理解はしても信じない者)、三には亦信亦解(信も理解もともにある者)、四には非信非解(信も理解もともにない者)である。
[90]問うて言う。信而不解の者は謗法であろうか。答えて言う。法華経譬喩品には「信をもって仏の悟りの境界に入ることができる」と説かれている。涅槃経巻九如来性品には「この経を聞きおわればことごとく菩提の因となる」と記されている。
[91]論難して言う。涅槃経巻三十六迦葉菩薩品には「仏は経の中で、二種類の僧があって仏法僧の三宝を謗る、と説いた。それは、一には信じないで瞋恚(いかり)の心を生じる者、二には信じるけれども教えを理解しない者である。善男子よ、もし人が信心はあっても智慧がなければ無明(根本の煩悩)を増し、もし人が智慧はあっても信心がなければ邪見(誤った考え)を増す。善男子よ、信じない人は瞋恚の心があるために『仏法僧などはない』と言い、信じても智慧のない者は誤って教えを理解するために、自ら法を謗るだけでなく、仏法を聞く者にも仏法僧を謗らせるであろう」と説かれている。この二人の中で信じても理解しない者は謗法であると説かれているが、これについてはどうであろうか。答えて言う。ここでいう信而不解の者とは涅槃経巻三十六に説かれている恒河七種の衆生(恒河を渡る七種の衆生)のなかの第二の者(水のなかから出てもすぐにまた水没してしまう者)をいうのである。この第二の者は涅槃経に説かれる「一切衆生悉有仏性」(すべての衆生にはことごとく仏性がある)の教えを聞いて一度は信じるけれども再び信じなくなる者を指している。
信而不信の意味
[92]問うて言う。どうして信ずるけれども信じないと言うのか。答えて言う。「一切衆生悉有仏性」の教えを聞いて信ずるけれども、心を爾前経(法華経以前の経)に寄せる一類の人びと(二乗不成仏や五性各別などを説いていまだすべての衆生の成仏を説き明かさない方便の教えに心を奪われている人びと)のことを無仏性の者(すべての衆生に仏性があることを信じていながら、すべての衆生に仏性があることを説かない経に心を奪われている者)と言うのである。これが信而不信の者(信じながら信じない者)である。
[93]問うて言う。その証拠となる文は何か。答えて言う。涅槃経に恒河を渡る第二の衆生のことを説いて、「このような大涅槃経を聞くことができて信心を生ずる。これを恒河の水から出るという」とある。また同じく涅槃経に「仏性が衆生にあると信じながらもかならずしもすべての衆生にあるのではない、と思う者は信不具足(本当の信心がそなわっていない)という」と説かれている。この経文のとおりであれば、口では涅槃経を信じていると言っても心には爾前経の教えを抱いている者である。また涅槃経では恒河を渡る第二の人のことを説いて、「信じる者でも智慧がなければ誤って教えを理解するために」とある。「誤って教えを理解する」とは実経(真実の経)の文を見ても権経(方便の経)の教えの意味に理解する者のことである。
信而不解者の得道
[94]問うて言う。信ずるけれども理解しない者が得道(成仏)することができるという証文はあるであろうか。答えて言う。涅槃経巻三十五(北本は巻三十五、南本は巻三十二)迦葉菩薩品には「悟りを得るための原因は多くあるけれども、もし信心を言えばすべてが包摂される」とあり、同じく涅槃経巻九如来性品には「この経を聞けばすべての悟りの因縁となる。仏の説法の声や仏の放つ光明が毛孔から入りかならず悟りを得ることができる」と説かれている。また、法華経譬喩品には「信心によって仏道に入ることができる」と説き示されている。
解而不信の者
[95]問うて言う。理解しても信じない者はどうであろうか。答える。恒河を渡る七種の衆生のうちの第一の者(常に生死の河のなかに没している者)である。
[96]問うて言う。その証拠となる文は何か。答えて言う。涅槃経巻三十六迦葉菩薩品には恒河を渡る第一の者について、「ある人がいて、この大涅槃経に説く『如来は常にましまして変化することなく、常(常住不変)・楽(安穏寂滅)・我(我執を離脱して自在)・浄(迷妄に汚されず清浄)の四徳をそなえられている』という教えを聞いても、ついに涅槃経の『すべての衆生はことごとく仏性がある』という道理を信じることができない者は一闡提(善根を断った人。信心をそなえない者)の人である。平等なる教えを説く大乗経を謗り、五逆罪をつくり、四重禁戒(殺生・偸盗・邪婬・妄語)を犯すことがあっても、かならず成仏することができる。また、須陀洹の人(三界の見惑を断じて空理を悟った人)・斯陀含の人(欲界の思惑のうち前六品を断じた人)・阿那含の人(欲界の思惑のうち残り三品を断じて再び欲界に還ることのない人)・阿羅漢の人(いっさいの見惑と思惑を断じた声聞の最高位)・辟支仏(縁覚。縁にふれて自ら悟りを得る人)などはかならず無上の悟りを得ることができる。恒河を渡る第一の者(解而不信の者)はこのような教えを聞いて不信の心を生ずるのである」と説かれている。
[97]問うて言う。この経文には不信とあるだけで解而不信(理解しても信じない)とは説かれていない。このことはどうであろうか。答えて言う。涅槃経巻三十六の恒河を渡る第一の者について説いた結びの文に「もし智慧があっても信心がなければ、この人は邪見の心を増す」と説かれている。