一代聖教大意
書下し
一代聖教大意
[1]四教は一には三蔵教・二には通教・三には別教・四には円教なり。
[2]始に三蔵とは阿含経の意なり。この経の意は六道より外を明さず。但し六道〈地餓畜修人天〉の内の因果の道理を明す。ただし正報は十界を明すなり。地・餓・畜・修・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏なり。依報が六にて有れば六界と申すなり。この教の意は六道より外を明さざれば三界より外に浄土と申す生処ありと云わず。また三世に仏は次第々々に出世すとは云へども、横に十方に並べて仏有りとも云わず。
[3]三蔵とは一には経蔵〈亦定蔵とも云う〉二には律蔵〈亦戒蔵とも云う〉三には論蔵〈亦慧蔵とも云う〉なり。ただし経律論の定戒慧・戒定慧・慧定戒と云う事あるなり。戒蔵とは五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒なり。定蔵とは味禅〈定と名づく〉・浄禅・無漏禅なり。慧蔵とは苦・空・無常・無我の智慧なり。
[4]戒定慧の勝劣と云うはただ上の戒ばかりを持つ者は三界の内の欲界の人天に生を受くる凡夫なり。ただし上の定ばかりを修する人は、戒を持たざれども定の力に依つて上の戒を具するなり。この定の内に味禅・浄禅は三界の内の色無色界へ生ず。無漏禅は声聞・縁覚と成つて見思を断じ尽し灰身滅智するなり。慧はまた苦・空・無常・無我と我色心を観ずれば、上の戒・定を自然に具足して声聞・縁覚とも成るなり。ゆえに戒より定勝れ、定より慧は勝れたり。しかれどもこの三蔵教の意は戒が本体にてあるなり。されば阿含経を総結する遺教経には戒を説けるなり。
[5]この教の意は依報には六界、正報には十界を明せども依報に随つて六界を明す経と名づくるなり。また正報に十界を明せども、縁覚・菩薩・仏も声聞の覚に過ぎざれば、ただ声聞教とも申す。されば仏も菩薩も縁覚も灰身滅智する教なり。
[6]声聞に付いて七賢七聖の位あり。六道は凡夫なり。
[7]
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<kw>七賢 智と云う事なり 三賢 一に五停心 二に別想念処 三に総想念処 四善根 一に煗法 二に頂法 三に忍法 四に世第一法kw>
[8]この七賢の位は六道の凡夫より賢く、生死を厭ひ煩悩を具しながら煩悩を発さざる賢き人なり。例せば外典の許由・巣父が如し。
[9]
<図版ID>k0301121図版ID><図版タイトル>図版タイトル><キャプション>キャプション>
<kw>五停心 一に数息 息を教えて散乱を治す 二に不浄 身の不浄を観じて貪欲を治す 三に慈悲 慈悲を観じて嫉妬を治す 四に因縁 十二因縁を観じて愚癡を治す 五に界方便〈または念仏と云う〉 地水火風空識の六界を観じて障道を治すkw>
[10]
<図版ID>k0301130図版ID><図版タイトル>図版タイトル><キャプション>キャプション>
<kw>別想念処 一に身 外道は身を浄と云い、仏は不浄と説き給う 二に受 外道は三界を楽と云い、仏は苦と説き給う 三に心 外道は心を常と云い、仏は無常と説き給う 四に法 外道は一切衆生に我有りと云い、仏は無我と説き給うkw>
[11]外道は常心楽受我法浄身、仏は苦・不浄・無常・無我と説く。
[12]総想念処——先の苦・不浄・無常・無我を調練して観ずるなり。
[13]煗法——智慧の火、煩悩の籬を蒸せば煙の立つなり。ゆえに煗法と云う。
[14]頂法——山の頂に登つて四方を見るに雲無きが如し。世間出世間の因果の道理を委く知つて闇無き事に譬えたるなり。始め五停心よりこの頂法に至るまで退位と申して、悪縁に値へば悪道に堕つ。しかれどもこの頂法の善根は失せずと習うなり。
[15]忍法——この位に入る人は永く悪道に堕ちず。
[16]世第一法——この位に至るまでは賢人なり。ただし今聖人と成るべきなり。
[17]
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<kw>七聖三 正と云う事なり 一に見道 二に修道 三に無学道 阿羅漢
二 随信行 鈍根 随法行 利根
三 一、信解 鈍根 二、見得 利根 三、身証 利鈍に亘る
二 慧解脱 鈍根 倶解脱 利根kw>
[18]見思の煩悩を断ずる者を聖と云う。この聖人に三道あり。
[19]見道とは見思の内の見惑を断じ尽す。この見惑を尽す人をば初果の聖者と申す。この人は欲界の人天には生るとも、永く地餓畜修の四悪趣には堕ちず。天台云く「見惑を破るがゆえに四悪趣を離る」文。この人はいまだ思惑を断ぜず、貪瞋癡身に有り。貪欲あるゆえに妻を帯す。しかれども他人の妻を犯さず。瞋恚あれども物を殺さず。鋤を以て地をすけば虫自然に四寸去る。愚癡なるゆえに我が身初果の聖者と知らず。婆沙論に云く「初果の聖者は妻を八十一度一夜に犯すと」〈取意〉。天台の解釈に云く「初果地を耕すに虫四寸を離るるは道共の力なり」と。
[20]第四果の聖者阿羅漢を無学と云い、または不生と云う。永く見思を断じ尽して三界六道にこの生の尽きて後生ずべからず。見思の煩悩無きがゆえなり。
[21]またこの教の意は三界六道より外に処を明さざれば外の生処有りと知らず。身に煩悩有りとも知らず。また生因なくただ灰身滅智と申して、身も心もうせ虚空の如く成るべしと習う。法華経にあらずば永く仏になるべからずと云うは二乗これなり。
[22]この教の修行の時節は声聞は三生〈鈍根〉六十劫〈利根〉。また一類の最上利根の声聞一生の内に阿羅漢の位に登る事あり。縁覚は四生〈鈍根〉百劫〈利根〉。菩薩は一向凡夫にて見思を断ぜず。しかも四弘誓願を発し、六度万行を修し、三僧祇百大劫を経て、三蔵教の仏と成る。仏と成る時始めて見思を断尽するなり。
[23]見惑とは一には身見〈また我見とも云う〉・二には辺見〈また断見常見とも云う〉・三には邪見〈また撥無見とも云う〉・四には見取見〈また劣謂勝見とも云う〉・五には戒禁取見〈また非因計因非道計道見とも云うなり〉。見惑は八十八有れどもこの五が本にて有るなり。思惑とは一には貪・二には瞋・三には癡・四には慢なり。思惑は八十一有れどもこの四が本にて有るなり。
[24]この法門は阿含経四十巻・婆沙論二百巻・正理論・顕宗論・倶舎論に具に明せり。別して倶舎宗と申す宗有り。また諸の大乗にこの法門少々明す事あり。謂く方等部の経・涅槃経等なり。ただし華厳・般若・法華にはこの法門無し。
[25]次に通教とは〈大乗の始なり〉また戒定慧の三学あり。この教のおきて大旨は六道を出でず。少分利根なる菩薩六道より外を推し出すことあり。声聞・縁覚・菩薩共に一の法門を習い、見思を三人共に断じ、しかも声聞・縁覚は灰身滅智の意に入る者もあり、入らざる者もあり。
[26]この教に十地あり。
[27]
<図版ID>k0301190図版ID><図版タイトル>図版タイトル><キャプション>キャプション>
<kw>十地 一 乾慧地 三賢 賢人 二 性地 四善根 三 八人地 聖人 見道位 見惑断 四 見地 初果の聖人 五 薄地 思惑を断ず 六 離欲地 七 已弁地 阿羅漢 見思を断じ尽す 八 辟支仏地 見思を尽す 九 菩薩地 十 仏地 見思を断じ尽すkw>
[28]この通教の法門は別して一経に限らず、方等経・般若経・心経・観経・阿弥陀経・双観経・金剛般若等の経に散在せり。この通教の修行の時節は動踰塵劫を経て仏に成ると習うなり。又一類疾く成ると云う辺もあり。
[29]已上、上の蔵通二教には六道の凡夫本より仏性ありとも談ぜず。始めて修すれば声聞・縁覚・菩薩・仏とおもひおもひに成ると談ずる教なり。
[30]次に別教。又戒定慧の三学を談ず。この教は但菩薩計りにて声聞縁覚を雑えず。
[31]菩薩戒とは三聚浄戒なり。五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒。梵網の五十八の戒・瓔珞の十無尽戒・華厳の十戒・涅槃経の自行の五支戒・護他の十戒・大論の十戒。是等は皆菩薩の三聚浄戒の内摂律儀戒なり。摂善法戒とは八万四千の法門を摂す。饒益有情戒とは四弘誓願なり。定とは観・練・薫・修の四種の禅定なり。慧とは心生十界の法門なり。
[32]五十二位を立つ。五十二位とは一に十信・二に十住・三に十行・四に十回向・五に十地、等覚〈一位〉妙覚〈一位〉なり。已上五十二位。
[33]
<図版ID>k0301210図版ID><図版タイトル>図版タイトル><キャプション>キャプション>
<kw>五十二位 十信 退位 凡夫菩薩未だ見思を断ぜず 十住 不退位 十行 十回向 見思塵沙を断ぜる菩薩 十地 無明を断ぜる菩薩 等覚 妙覚 無明を断じ尽せる仏なりkw>
[34]この教は大乗なり。戒定慧を明す。戒は前の蔵通二教に似ず、尽未来際の戒金剛宝戒なり。
[35]この教の菩薩は三悪道をば恐とせず。二乗道を三悪道と云て地・餓・畜等の三悪道は仏の種子を断ぜず、二乗の道は仏の種子を断ず。大荘厳論に云く「恒に地獄に処すといえども大菩薩を障えず。もし自利の心を起さばこれ大菩薩の障なり」と。この教の習は真の悪道とは三無為の火阬なり。真の悪人とは二乗を立るなり。されば悪をば造るとも二乗の戒をば持たじと談ず。
[36]故に大般若経に云く「もし菩薩設い殑伽沙劫に妙なる五欲を受くるとも菩薩戒において猶犯と名けず。もし一念二乗の心を起さば即ち名けて犯となす」文。この文に妙なる五欲とは色声香味触の五欲なり。色欲とは青黛・珂雪・白歯等。声欲とは絲竹管絃。香欲とは沈檀芳薫。味欲とは猪鹿等の味。触欲とは輭膚等なり。この五欲には殑伽沙劫の間著すとも菩薩戒は破れず。一念の二乗の心を起すに菩薩戒は破ると云える文なり。
[37]太賢の古迹に云く「貪に汙さるるといえども大心尽きず、無余の犯無きが故に無犯と名く」文。二乗戒に趣くを菩薩の破戒とは申すなり。華厳・般若・方等総じて爾前の経にはあながちに二乗をきらうなり。定慧これを略す。
[38]梵網経に云く「戒をば謂いて平地と為し定をば謂いて室宅と為す。智慧は為灯明なり」文。この菩薩戒は人・畜・黄門・二形の四種を嫌わず、ただ一種の菩薩戒を授く。
[39]この教の意は五十二位を一々の位に多倶低劫を経て衆生界を尽して仏に成るべし。一人として一生に仏に成る物無し。又一行を以て仏に成る事無し。一切行を積んで仏と成る。微塵を積んで須弥山と成るが如し。華厳・方等・般若・梵網・瓔珞等の経にこの旨分明なり。
[40]ただし二乗界のこの戒を受くる事を嫌う。妙楽の釈に云く「遍く法華已前の諸経を尋ぬるに実に二乗作仏の文無し」文。
[41]次に円教はこの円教に二有り。一には爾前の円・二には法華涅槃の円なり。爾前の円に五十二位、また戒定慧あり。
[42]爾前の円とは華厳経の法界唯心の法門。文に云く「初発心の時便ち正覚を成ず」と。また云く「円満修多羅」文。浄名経に云く「無我無造にして受者無けれども善悪の業敗亡せず」文。般若経に云く「初発心より即ち道場に坐す」文。観経に云く「韋提希時に応じて即ち無生法忍を得」文。梵網経に云く「衆生仏戒を受くれば位大覚位に同じ、即ち諸仏の位に入り、真にこれ諸仏の子なり」文。これは皆爾前の円の証文なり。
[43]この教の意はまた五十二位を明す。名は別教の五十二位の如し。ただし義はかはれり。そのゆえは五十二位が互に具して浅深も無し勝劣も無し。凡夫も位を経ずとも仏にも成る。また往生するなり。煩悩も断ぜざれども仏に成るに障り無く、一善一戒を以ても仏に成る。
[44]少々開会の法門を説く処もあり。所謂浄名経には凡夫を会す。煩悩悪法も皆会す。ただし二乗を会せず。般若経の中には二乗の所学の法門をば開会して二乗の人と悪人をば開会せず。観経等の経に凡夫一毫の煩悩をも断ぜずして往生すと説くは皆爾前の円教の意なり。
[45]法華経の円経は後に至つて書くべし〈已上四教〉。
[46]次に五時。五時とは一には華厳経〈結経ハ梵網経〉別円二教を説く。二には阿含〈結経ハ遺教経〉ただ三蔵教の小乗の法門を説く。三には方等経・宝積経・観経等の説時を知らざる大乗経なり〈結経ハ瓔珞経〉。蔵通別円の四教を皆説く。四には般若経〈結経ハ仁王経〉通教・別教・円教の後三教を説く、三蔵教を説かず。
[47]華厳経は三七日の間の説。阿含経は十二年の説。方等般若は三十年の説。已上、華厳より般若に至る四十二年なり。山門の義には方等は説時定まらず、説処定まらず、般若経三十年と申す。寺門の義には方等十六年般若十四年と申す。秘蔵の大事の義には方等般若は説時三十年。ただし方等は前、般若は後と申すなり。仏は十九出家、三十成道と定むる事は大論に見えたり。一代聖教五十年と申す事は涅槃経に見えたり。法華経已前四十二年と申す事は無量義経に見えたり。法華経八箇年と申す事は涅槃経の五十年の文と無量義経の四十二年の文の間を勘うれば八箇年なり。已上、十九出家、三十成道、五十年の転法輪、八十入滅と定むべし。
[48]これ等の四十二年の説教は皆法華経の汲引の方便なり。そのゆえは無量義経に云く「我先に道場菩提樹下に端坐すること六年、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり○方便力を以てす。四十余年にはいまだ真実を顕さず。初に四諦を説き〈阿含経なり〉次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説く」文。
[49]私に云く、説の次第に順ずれば華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃なり。法門の浅深の次第を列ぬれば阿含・方等・般若・華厳・法華涅槃と列ぬべし。されば法華経・涅槃経には爾くの如く見えたり。
[50]華厳宗と申す宗は智厳法師・法蔵法師・澄観法師等の人師華厳経に依つて立てたり。倶舎宗・成実宗・律宗は宝法師・光法師・道宣等の人師阿含経に依つて立てたり。法相宗と申す宗は玄奘三蔵・慈恩法師等、方等部の内に上生経・下生経・成仏経・深密経・解深密経・瑜伽論・唯識論等の経論に依つて立てたり。三論宗と申す宗は般若経・百論・中論・十二門論・大論等の経論に依つて吉蔵大師立て給へり。
[51]華厳宗と申すは華厳と法華涅槃は同じく円教と立つ。余は皆劣と云うなるべし。法相宗には深密・解深密経と華厳・般若・法華・涅槃は同じ程の経と云う。三論宗とは般若経と華厳・法華・涅槃は同じ程の経なり。ただし法相の依経の諸の小乗経は劣なりと立つ。
[52]これ等は皆法華已前の諸経に依つて立てたる宗なり。爾前の円を極として立てたる宗どもなり。宗々の人々の諍は有れども、経々に依つて勝劣を判ぜん時は、いかにも法華経は勝れたるべきなり。人師の釈を以て勝劣を論ずる事無し。
[53]五には法華経と申すは開経には無量義経〈一巻〉法華経八巻結経には普賢経〈一巻〉。
[54]上の四教四時の経論を書き挙ぐる事はこの法華経を知らん為なり。法華経の習としては前の諸経を習わずしては永く心を得ること莫きなり。爾前の諸経は一経一経を習うにまた余経を沙汰せざれども苦しからず。
[55]ゆえに天台の御釈に云く「もし余経を弘むるには教相を明さざれども義において傷むこと無し。もし法華を弘むるには教相を明さずんば文義闕くること有り」文。法華経に云く「種種の道を示すといえどもそれ実には仏乗の為なり」文。「種種道」と申すは爾前一切の諸経なり。「為仏乗」とは法華経の為に一切の経を説くと申す文なり。
[56]問う、諸経の如きはあるいは菩薩の為、あるいは人天の為、あるいは声聞・縁覚の為、機に随つて法門もかわり益もかわる。この経は何なる人の為ぞや。答う、この経は相伝に有らざれば知り難し。悪人善人・有智無智・有戒無戒・男子女人・四趣八部。総じて十界の衆生の為なり。
[57]所謂悪人は提婆達多・妙荘厳王・阿闍世王、善人は韋提希等の人天の人。有智は舎利弗、無智は須利槃特。有戒は声聞・菩薩、無戒は竜・畜なり。女人は竜女なり。総じて十界の衆生円の一法を覚るなり。この事を知らざる学者、法華経は我等凡夫の為には有らずと申す。仏意恐れ有り。
[58]この経に云く「一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は皆この経に属せり」文。この文の菩薩とは九界の衆生、善人悪人女人男子、三蔵経の声聞・縁覚・菩薩、通教の三乗、別教の菩薩、爾前の円教の菩薩、皆この経の力に有らざれば仏に成るまじと申す文なり。
[59]またこの経に云く、「薬王、多く人有りて在家出家の菩薩の道を行ぜんに、もしこの法華経を見聞し読誦し書持し供養することを得ること能わずんば、まさに知るべし、この人はいまだ善く菩薩の道を行ぜず。もしこの経典を聞くことを得ること有らば、すなわち能く菩薩の道を行ずるなり」と。この文は顕然に権教の菩薩の三祇百劫・動踰塵劫・無量阿僧祇劫の間の六度万行四弘誓願は、この経に至らざれば菩薩の行には有らず、善根を修したるにも有らず、と云う文なり。また菩薩の行無ければ仏にも成らざる事も顕然なり。
[60]天台妙楽の末代の凡夫を勧進する文。文句に云く「好堅地に処して牙すでに百囲せり。頻伽殻に在つて声衆鳥に勝れたり」文。この文は法華経の五十展転の第五十の功徳を釈する文なり。仏苦に五十転々にて説き給う事権教の多劫の修行、また大聖の功徳よりもこの経の須臾結縁の愚人の随喜の功徳百千万億勝れたる事経に見えつれば、この意を大師譬を以て顕し給えり。好堅樹と申す木は一日に百囲にて高くをう。頻伽と申す鳥は幼だも諸の大小の鳥の声に勝れたり。権教の修行の久きに諸の草木の遅く生長するを譬へ、法華の行の速に仏に成る事を一日に百囲なるに譬う。権教の大小の聖をば諸鳥に譬へ、法華の凡夫のはかなきを殻の声の衆鳥に勝るに譬う。
[61]妙楽大師重ねて釈して云く「恐らくは人謬りて解せる者、初心の功徳の大なることを測らずして功を上位に推り、この初心を蔑る故に今彼の行浅く功深きことを示して以て経力を顕す」文。末代の愚者は法華経は深理にしていみじけれども、我が下機に叶わずと言つて法を挙げ機を下して退する者を釈する文なり。
[62]また妙楽大師末代にこの法の捨てられん事を歎いて云く「この円頓を聞きて崇重せざる者は良に近代に大乗を習える者の雑濫するに由るが故なり。況や像末に情澆く信心寡薄に円頓の教法蔵に溢れ、函に盈れども暫くも思惟せず。便ち目を瞑ぐに至る。徒に生じ徒に死す。一に何ぞ痛ましきや。有る人云く、聞いて行ぜずんば汝において何ぞ預らん。これはいまだ深く久遠の益を知らず。善住天子経の如き、文殊舎利弗に告ぐ、法を聞き謗を生じて地獄に堕つるは恒沙の仏を供養する者に勝れたり。地獄に堕つといえども地獄より出でて還つて法を聞くことを得ると。これは仏を供し法を聞かざる者を以て校量と為り。聞いて謗を生ずるなお遠種となる。いわんや聞いて思惟し勤めて修習せんをや」と。
[63]又云く「一句も神に染ぬればことごとく彼岸を資く、思惟修習永く舟航に用たり。随喜見聞恒に主伴となる。もしは取もしは捨、耳に経て縁と成り、あるいは順あるいは違、終にこれによつて脱す」と、文。私に云く「若取若捨或順或違」の文は肝に銘ずるなり。
[64]法華翻経の後記に云く〈釈僧肇記〉「什〈羅什三蔵なり〉姚興王に対して曰く、予昔天竺国に在りし時遍く五竺に遊びて大乗を尋討し大師須梨耶蘇摩に従つて理味を飡受するに頂を摩でてこの経を属累して言く、仏日西に隠れ遺光東北を照らす。玆の典東北諸国に有縁なり。汝慎んで伝弘せよ」と、文。私に云く、天竺よりはこの日本は東北の州なり。
[65]慧心の一乗要決に云く「日本一州円機純熟。朝野遠近同じく一乗に帰し、緇素貴賤ことごとく成仏を期す。ただ一師等あつてもし信受せざれば権とやせん実とやせん。権となさば貴むべし。浄名に云く『衆の魔事を覚知してその行に随わず、善力方便を以て意に随つて度すと。実となさば憐むべし』。この経に云く『当来世の悪人は仏説の一乗を聞いて迷惑して信受せず、法を破して悪道に堕つ』」文。
[66]妙法蓮華経。妙は天台玄義に云く「言う所の妙とは、妙は不可思議に名くるなり」と。又云く「秘密の奥蔵を発く、これを称して妙となす」。又云く「妙とは最勝修多羅甘露の門なり、ゆえに妙と言うなり」と。法は玄義に云く「言う所の法とは十界十如権実の法なり」。又云く「権実の正軌を示す、ゆえに号して法となす」と。蓮華は玄義に云く「蓮華とは権実の法に譬うるなり」。又云く「久遠の本果を指す、これを喩うるに蓮を以てし、不二の円道に会す、これを譬うるに華を以てす」文。経は又云く「声仏事をなすこれを称して経と為す」文。
[67]私に云く、法華以前の諸経に小乗は心生ずれば六界、心滅すれば四界なり。通教以てかくの如し。爾前の別円の二教は心生の十界なり。小乗の意は六道四生の苦楽は衆生の心より生ずと習うなり。されば心滅すれば六道の因果は無きなり。大乗の心は心より十界を生ず。華厳経に云く「心は工なる画師の如く種種の五陰を造る。一切世間の中に法として造らざること無し」文。「造種種五陰」とは十界の五陰なり。仏界をも心法をも造ると習う。心が過去・現在・未来の十方の仏と顕ると習うなり。華厳経に云く「もし人三世一切の仏を了知せんと欲せば、まさにかくの如く観ずべし、心は諸の如来を造ると」。
[68]法華已前の経のおきては上品の十悪は地獄の引業、中品の十悪は餓鬼の引業、下品の十悪は畜生の引業、五常は修羅の引業、三帰五戒は人の引業、三帰十善は六欲天の引業なり。有漏の坐禅は色界・無色界の引業、五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒・五百戒の上に苦・空・無常・無我の観は声聞・縁覚の引業。五戒・八戒・乃至三聚浄戒の上に六度四弘の菩提心を発すは菩薩なり。仏界の引業なり。蔵通二教には仏性の沙汰なし。ただ菩薩の発心を仏性と云う。別円二教には衆生に仏性を論ず。ただし別教の意は二乗に仏性を論ぜず。爾前の円教は別教に附して二乗の仏性の沙汰無し。これ等は皆麤法なり。
[69]今の妙法とはこれ等の十界を互に具すと説く時妙法と申す。十界互具と申す事は十界の内に一界に余の九界を具し、十界互に具すれば百法界なり。玄義二に云く「又一法界に九法界を具すれば即ち百法界有り」文。法華経とは別の事無し。十界の因果は爾前の経に明す。今は十界の因果互具をおきてたる計りなり。
[70]爾前の経意は菩薩をば仏に成るべし、声聞は仏に成るまじなんど説けば、菩薩は悦び声聞はなげき、人天等はおもひもかけずなんとある経もあり。あるいは二乗は見思を断じて六道を出でんと念い、菩薩はわざと煩悩を断ぜずして六道に生れて衆生を利益せんと念う。あるいは菩薩の頓悟成仏を見、あるいは菩薩の多倶低劫の修行を見、あるいは凡夫往生の旨を説けば菩薩声聞の為には有らずと見て、人の不成仏は我が不成仏、人の成仏は我が成仏、凡夫の往生は我が往生、聖人の見思断は我等凡夫の見思断とも知らずして四十二年は過ぎしなり。
[71]しかるに今の経にして十界互具を談ずる時、声聞の自調自度の身に菩薩界を具すれば、六度万行も修せず、多倶低劫も経ぬ声聞が、諸の菩薩のからくして修したりし無量無辺の難行道が声聞に具する間、をもはざる外に声聞が菩薩と云わる。人をせむる獄卒慳貪なる凡夫もまた菩薩と云わる。仏もまた因位に居して菩薩界に摂せられ妙覚ながら等覚なり。薬草喩品に声聞を説いて云く「汝等が所行はこれ菩薩の道なり」と。また我等六度をも行ぜざるが六度満足の菩薩なる文。経に云く「いまだ六波羅蜜を修行することを得ずといえども六波羅蜜自然に在前す」。我等一戒をも受けざるが持戒の者と云わるる文。経に云く「これ則ち勇猛なり、これ則ち精進なり、これを戒を持ち頭陀を行ずる者と名く」文。
[72]問うて云く諸経にも悪人が仏に成る。華厳経の調達の授記、普超経の闍王の授記、大集経の婆籔天子の授記。また女人が仏に成る。胎経の釈女の成仏。畜生が仏に成る。阿含経の鴿雀の授記。二乗が仏に成る。方等だらに経・首楞厳経等なり。菩薩の成仏は華厳経等。具縛の凡夫の往生は観経の下品下生等。女人の女身を転ずるは双観経の四十八願の中の三十五の願。これ等は法華経の二乗・竜女・提婆・菩薩の授記に何なるかわりめかある。また設いかわりめはありとも諸経にても成仏はうたがひなし、如何。
[73]答う、予の習い伝うる処の法門、この答に顕るべし。この答に法華経の諸経に超過し、また諸経の成仏を許し許さぬは聞うべし。秘蔵のゆえに顕露に書さず。
[74]問うて曰く、妙法を一念三千と云う事如何。
[75]答う、天台大師この法門を覚り給うて後、玄義十巻・文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処・次第禅門等の多くの法門を説き給いしかども、この一念三千をば談義し給はず。ただ十界百界千如の法門ばかりにておはしまししなり。御年五十七の夏四月の比、荊州の玉泉寺と申す処にて、御弟子章安大師と申す人に説ききかせ給いし止観十巻あり。上の四帖になおをしみ給いてただ六即・四種三昧等ばかりの法門にてありしに、五の巻より十境十乗を立てて一念三千の法門を書し給へり。これを妙楽大師末代の人に勧進して言く「並に三千を以て指南となす○請うらくは尋ね読まん者心に異縁無かれ」文。六十巻三千丁の多くの法門も由無し。ただこの初の二三行を意得べきなり。
[76]止観の五に云く「それ一心に十法界を具す、一法界にまた十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば百法界にはすなわち三千種の世間を具す。この三千一念の心に在り」文。妙楽承け釈して云く「まさに知るべし身土一念三千なり。ゆえに成道の時この本理に称うて一身一念法界に徧ねし」文。
[77]日本の伝教大師比叡山建立の時根本中堂の地を引き給いし時、地中より舌八つある鑰を引き出したりき。この鑰を以て入唐の時に天台大師より第七代妙楽大師の御弟子道邃和尚に値い奉りて天台の法門を伝えし時、天機秀発の人たりし間、道邃和尚悦んで天台の造り給える十五の経蔵を開き見せしめ給いしに、十四を開いて一の蔵を開かず。その時伝教大師云く、師この一蔵を開き給えと請い給いしに、邃和尚云く「この一蔵は開くべき鑰無し。天台大師自ら出世して開き給うべし」と云云。その時伝教大師日本より随身の鑰を以て開き給いしに、この経蔵開きたりしかば、経蔵の内より光室に満ちたりき。その光の本を尋ぬればこの一念三千の文より光を放ちたりしなり。ありがたかりし事なり。その時邃和尚は返つて伝教大師を礼拝し給いき。天台大師の後身と云云。依つて天台の経蔵の所釈は遺り無く日本に亘りしなり。天台大師の御自筆の観音経、章安大師の自筆の止観、今比叡山の根本中堂に収めたり。
[78]
<図版ID>k0301430図版ID><図版タイトル>図版タイトル><キャプション>キャプション>
<kw>四性計 一自性 自力 迦毗羅外道 二他性 他力 漚楼僧伽外道 三共性 共力 勒娑婆外道 四無因性 無因力 自然外道kw>
[79]外道に三人あり。一には仏法外の外道〈九十五種の外道〉・二には学仏法成の外道〈小乗〉・三には附仏法の外道〈妙法を知らざる大乗の外道なり〉。
[80]今の法華経は自力も定めて自力にあらず。十界の一切衆生を具する自なるゆえに。我が身に本より自の仏界、一切衆生の他の仏界我が身に具せり。されば今仏に成るに新仏にあらず。また他力も定めて他力に非ず。他仏も我等凡夫の自ら具せるゆえに。また他仏が我等の如き自に現同するなり。共と無因は略す。
[81]法華経已前の諸経は十界互具を明さざれば仏に成らんと願うには必ず九界を厭う。九界を仏界に具せざるゆえなり。されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず。凡夫の身を仏に具すと云わざるがゆえに。されば人天悪人の身をば失いて仏に成ると申す。これをば妙楽大師は厭離断九の仏と名く。されば爾前の経の人々は仏の九界の形を現ずるをばただ仏の不思議の神変と思ひ、仏の身に九界が本よりありて現ずるとは云はず。
[82]されば実を以てさぐり給うに、法華経已前にはただ権者の仏のみ有つて、実の凡夫が仏に成りたりける事は無きなり。煩悩を断じ九界を厭うて仏に成らんと願うは、実には九界を離れたる仏無きゆえに、住生したる実の凡夫も無し。人界を離れたる菩薩界も無きゆえに、ただ法華経の仏の爾前にして十界の形を現じて、所化とも能化とも悪人とも善人とも外道とも云われしなり。実の悪人善人外道凡夫は方便の権を行じて真実の教とうち思いなしてすぎし程に、法華経に来つて方便にてありけり、実には見思無明も断ぜざりけり、住生もせざりけりなんと覚知するなり。一念三千は別に委く書すべし。
[83]この経には二妙あり。釈に云く「この経はただ二妙を論ず」と。一には相待妙・二には絶待妙なり。相待妙の意は前の四時の一代聖教に法華経を対して爾前とこれを嫌い、爾前をば当分と云い法華を跨節と申す。絶待妙の意は一代聖教は即ち法華経なりと開会す。また法華経に二事あり。一には所開・二には能開なり。開示悟入の文、あるいは皆已成仏道等の文。一部八巻二十八品六万九千三百八十四字。一一の字の下に皆妙の文字あるべし。これ能開の妙なり。この法華経は知らずして習い談ずる物はただ爾前の経の利益なり。
[84]阿含経開会の文は経に云く「我がこの九部の法は衆生に随順して説く、大乗に入るに為本なり」と云云。華厳経開会の文は「一切世間天人および阿修羅は皆謂えり、今の釈迦牟尼仏」等の文。般若経開会の文は安楽行品の十八空の文。観経等の住生安楽開会の文は「ここにおいて命終してすなわち安楽世界に往く」等の文。散善開会の文は「一たび南無仏と称せし皆已に仏道を成じき」文。一切衆生開会の文は「今この三界は皆これ我が有なり、その中の衆生はことごとくこれ吾が子なり」。外典開会の文は「もし俗間経書治世語言資生の業等を説かんも皆正法に順ぜん」文。兜率開会の文、人天所開会の文しげきゆへにいださず。
[85]この経を意得ざる人は経の文にこの経を読んで人天に生ずと説く文を見、あるいは兜率忉利なんどにいたる文を見、あるいは安養に生ずる文を見て、穢土において法華経を行ぜば経はいみじけれども行者不退の地に至らざれば、穢土にして流転し久しく五十六億七千万歳の晨を期し、あるいは人畜等に生れて隔生する間自の苦しみ限り無しなんと云云。あるいは自力の修行なり難行道なり等云云。
[86]これは恐らくは爾前法華の二途を知らずして自ら癡闇に迷うのみに非ず一切衆生の仏眼を閉ずる人なり。兜率を勧めたる事は小乗経に多し。少しは大乗経にも勧めたり。西方を勧めたる事は大乗経に多し。これ等は皆所開の文なり。法華経の意は兜率に即して十方仏土中、西方に即して十方仏土中、人天に即して十方仏土中と云云。法華経は悪人に対しては十界の悪を説くは悪人五眼を具しなんどすれば悪人のきわまりを救い、女人に即して十界を談ずれば十界皆女人なる事を談ず。何にも法華円実の菩提心を発さん人は迷の九界へ業力に引かるる事無きなり。
[87]この意を存じ給いけるやらん。法然上人も一向念仏の行者ながら、選択と申す文には雑行・難行道には法華経・大日経等をば除かれたる処も有り。委見よ。また慧心の往生要集にも法華経を除きたり。
[88]たとい法然上人・慧心、法華経を雑行難行道として末代の機に叶わずと書し給うとも、日蓮はまつたくもちゆべからず。一代聖教のおきてに違い、三世十方の仏陀の誠言に違するゆえに。いわうやそのぎ無し。しかるに後の人々の消息に法華経を難行道、経はいみじけれども末代の機に叶わず、謗ぜこそ罪にても有らめ、浄土に至って法華経をば覚るべしと云云。日蓮の心はいかにもこの事はひが事と覚ゆるなり。かう申すもひが事にや有らん。能く能く智人に習うべし。
[89]正嘉二年<日>二月十四日日>
[90]<人>日 蓮 撰人>
現代語訳
一代聖教大意
正嘉二年(一二五八)二月一四日、三七歳、和漢混交文、定五七—七五頁。
四教の標示
[1]四教とは、一には三蔵教、二には通教、三には別教、四には円教である。
三蔵教
[2]始めの三蔵教とは小乗教の阿含経の意味である。この経典の趣旨は六道の世界を説くことにある。六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)のうちの因果の道理(善悪の業因により苦楽の果報を受ける道理)を明かす。ただし、正報(五陰世間・衆生世間の有情界)については六道界に限らず十界を明かす。すなわち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏である。依報(国土世間の非情界)については六道に限られているために六界(界内の教)と言うのである。この三蔵教の教えは六道界以外のことを説かないので、三界(欲界・色界・無色界)の凡聖同居の穢土のほかに方便・実報・寂光などの浄土という、功徳を積むことによって生まれる場所があることを説かない。また仏は過去・現在・未来と三世にわたり次々と世に出現するとは言うが、同時に十方世界に仏がおられるとは言わない。
[3]三蔵とは一には経蔵(または定蔵とも言う)、二には律蔵(または戒蔵とも言う)、三には論蔵(または慧蔵とも言う)のことで、経・律・論に文理を含蔵することを意味する。三蔵は戒・定・慧の三学に配当することができ、これを仏の説法の順に並べると定・戒・慧、修行の順に並べると戒・定・慧、法門のうえからは慧・定・戒と言うこともある。戒蔵には五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒などがあり、定蔵には味禅(禅とは定と名づける)・浄禅・無漏禅などがある。慧蔵とは苦・空・無常・無我などの仏の智慧を言う。
[4]戒・定・慧の三学に勝劣を立てると、戒学だけを持つ者は三界のうちの欲界の人間界や天界に生まれる凡夫である。ただし、三学のうち定学だけを修する人は戒学を持たなくとも定学を修する功徳力により戒学を具えることができる。この定学のなかでも味禅や浄禅を修する者は三界のうちの色界や無色界に生ずる。無漏禅を修する者は声聞や縁覚となり、見惑・思惑を断じつくして灰身滅智(肉体を焼き心智を滅失して寂滅に帰す)する。慧学を修する者は自分の身や心を苦・空・無常・無我と観察することによって、前の戒学と定学とを自然に具え、声聞や縁覚ともなる。したがって、戒学より定学が勝れ、定学より慧学が勝れている。しかしながら、この三蔵教の本意は戒学が本体となっている。そのために阿含経を総結する遺教経には戒が説かれているのである。
[5]三蔵教の本意は、依報の世界では六道界を明かし、正報の世界では十界を明かしているが、依報を論じる立場から六道界を明かす経と名づけるのである。また、正報に十界を明かすけれども、十界のうちの縁覚・菩薩・仏の悟りと言えども声聞の悟りにすぎないことから、三蔵教のことを声聞教とも言う。そこで、仏も菩薩も縁覚も灰身滅智することを最高の悟りとする教えである。
[6]声聞には七賢七聖の位がある。ただし、そのうちの七賢の位までは凡夫である。
[7]
[8]この七賢の位は六道の凡夫よりも賢く、煩悩を具えながらも生死の迷苦を嫌い、煩悩を発さない賢人である。例えば中国の外典(外道の書籍、仏教以外の書物)に記載されている許由や巣父(許由が賢者であると伝え聞いた堯王は九州の長に補任しようとしたが、これを聞いた許由は耳を汚したとして穎川で耳を洗った。ちょうどそこで牛に水を飲ませようとしていた巣父はその話を聞いてその水を牛に飲ませなかった、という故事)のような賢人である。
[9]三賢のうち第一の五停心(五法を修して五つの過りを停止する)とは次の五つをいう。<改行>
一に数息。息を数えて心の散乱をしずめる。<改行>
二に不浄。身の不浄を観察して貪欲心を離れる。<改行>
三に慈悲。すべてのものに慈悲の心をおこし、瞋恚や嫉妬の心をなくす。<改行>
四に因縁。十二因縁などの道理を観察して愚癡の心を離れる。<改行>
五に界方便(または念仏観とも言う)。すべてのものは地・水・火・風・空・識の六大から成り立っていることを観察して修行の障りを除く。<改行>
[10]第二に別想念処(四境を各別に観念して外道の四つの過りを破す)とは次の四つをいう。<改行>
一に身。外道(婆羅門)は肉体を清浄と言い、仏は不浄と説かれる。<改行>
二に受。外道(婆羅門)は三界を楽と言い、仏は苦と説かれる。<改行>
三に心。外道(婆羅門)は心を常住と言い、仏は無常と説かれる。<改行>
四に法。外道(婆羅門)はすべての衆生に我が有ると言い、仏は無我と説かれる。<改行>
[11]外道(婆羅門)は常(心は常住)楽(三界は楽)我(一切衆生に我が有る)浄(身は清浄)と言い、仏はこの邪見を破して苦(三界は苦)不浄(身は不浄)無常(心は無常)無我(一切衆生は無我)と説かれた。
[12]第三に総想念処(一々の境において四つの観念をし、一々の観をもって四つの境を観念し、四つの観念で四つの境を観ずる)とは前の別想念処で示した苦・不浄・無常・無我を修練し総括的に観ずる。
[13]次に四善根のうちの第一煗法とは、薪に火をつければ暖気を発し煙が出るように、智慧によりまさに煩悩を破ろうとすることである。煗は暖の意味から煗法と言う。
[14]第二に頂法とは、山の頂上に登って四方を見ると雲もなく明瞭に見渡せるように、世間や仏法上の因果の道理を委細に知ることから、譬えて名づけたものである。三賢の始めの五停心からこの頂法の位に至るまでを退位と言い、悪縁に値って悪事をすれば悪道に堕ちる。しかし、悪道に堕ちてもこの頂法の位の善根は消失することがない。
[15]第三の忍法とは、四諦の理を忍可した位であり、山の頂を越えているので、この位に入った人はけっして悪道に堕ちない。
[16]第四の世第一法とは、世間で第一の法を意味し煩悩のある凡夫のなかでは最勝の位であり、この位までは賢人であるが、聖位に隣接するのでこの位からさらに進めばまさに聖人となるのである。
[17]
[18]見思の煩悩を断ずる者を聖人という。この聖人に見道・修道・無学道の三道の位がある。
[19]見道とは見惑・思惑のうち、見惑を断じ尽す位で、この行者を初果の聖者と言う。この行者は欲界の人間界や天上界に生まれ、けっして地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣(四悪道)には堕ちない。ゆえに天台大師は「見惑を断ずるゆえに四悪趣を離れる」(妙楽大師の摩訶止観輔行伝弘決の文)と言われている。この位の行者はいまだ思惑を断じていないので貪りの心・瞋りの心・愚癡の心がその身にある。貪る心があるから妻を帯す。しかしながら他人の妻を犯すことはしない。瞋る心はあるが生物を殺さない。この位の行者が鋤をもって地を耕すと地中の虫は自然に四寸離れる。愚癡のために自分が初果の聖者であることを知らない。婆沙論には「初果の聖者は妻を一夜に八十一度犯す」(取意)と説いてある。天台大師は「初果の聖人が地を耕すと地中の虫は四寸離れる、とは、見惑を断じて空の智慧を得ることによって悪を止める戒徳(道共戒)を身に備えているからである」と解釈されている。
[20]第四果の聖者である阿羅漢を無学(迷いを断じ学習をつくした者)と言い、不生(生死の苦を脱し三界に生ずることがない者)とも言う。すでに見思の惑を断じつくして三界六道に生まれる因縁がないので、今の生がつきれば再び三界に生まれることはない。見思の煩悩がないからである。
[21]また、この三蔵教の趣旨は三界六道の解脱を目的としているために、三界以外の解脱の場所を明かさないので菩薩の生まれる浄土などの世界があることを知らない。また、自らの身に見思以外の煩悩があるということも知らない。また、見思の惑を断ずれば、三界に生まれ変る因がなく、灰身滅智と言って、身も心も無くなり虚空のようになると考えている。このように二乗は三蔵教では真の救いを得ることができないので、「二乗は法華経の教えでなければ永久に成仏できない」と言うのである。
[22]この三蔵教の修行の期間は、鈍根の声聞は三生、利根の声聞は六十劫である。また、とくに勝れた一部の声聞は一生のうちに阿羅漢の位に登ることがある。鈍根の縁覚は四生、利根の縁覚は百劫の間修行して菩提を証する。菩薩は衆生済度のためにもっぱら凡夫の位のままで、見思の煩悩を伏するのみで断じない。しかも、四弘誓願(衆生救済のための四つの誓願)を発し、六度(六波羅蜜)の修行を積み、三阿僧祇劫・百大劫を経過して三蔵教の仏(劣応身の仏)となる。三蔵教の菩薩は仏となる時、始めて見思の煩悩を断じつくすのである。
[23]見惑とは、一に身見(または我見とも言う)で、自分の身に執着することによって起こる煩悩、二には辺見(または断見常見とも言う)で、死とともに肉体も精神も断滅するとか、死後、なお精神は永続すると考える迷い、三には邪見(または撥無見とも言う)で、邪妄の見解に執着して正しい道理を認めない迷い、四には見取見(または劣謂勝見とも言う)で、劣った考えを勝れていると思う迷い、五には戒禁取見(または非因計因非道計道見とも言う)で、天上界に生まれる原因ではないものを生天の因と思い、解脱の道ではないものを解脱の道と思う迷いである。見惑には八十八の煩悩があるが、ここにあげた五つがその根本となるものである。思惑とは、一に貪(貪る心)、二には瞋(瞋りの心)、三には癡(愚癡の心)、四には慢(高慢な心)である。思惑には八十一の煩悩があるが、ここにあげた四つがその根本となるものである。
[24]このような三蔵教の法門は、阿含経四十巻・婆沙論二百巻・正理論・顕宗論・倶舎論に詳しく説き明かされている。とくに倶舎宗と言う宗があってこれらの法門を整束して説いている。また、諸大乗経にもこの法門を少々説き明かすことがある。すなわち、方等部の経典や涅槃経などである。ただし、華厳経・般若経・法華経にはこの法門は説かれていない。
通教
[25]次に通教は大乗教の始めで、また戒・定・慧の三学がある。この教の説くところも大旨は三界六道を出ない。ただ、少しの利根の菩薩がこの教の理を聞いて三界六道以外の法を量り知ることもある。声聞・縁覚・菩薩ともに同じ法門を習い、ともに見思の惑を断じる。しかも、声聞や縁覚には灰身滅智の境界に入る者もあるし、入らない者もある。
[26]この通教の修行に十地の位がある。
[27]
[28]この通教の法門は一つの経典に限って説かれているのではなく、方等部や般若部に説かれた般若経・般若心経・観無量寿経・阿弥陀経・大無量寿経・金剛般若経などの諸経典に説かれている。この通教の修行期間は動踰塵劫(ややもすれば塵劫をこえるほどの長い時間)もの長い劫数を経てようやく仏に成るのである。また、少数のとくに勝れた機根の菩薩はただちに仏に成る、ということもある。
[29]以上のように、前にあげた三蔵教と通教の二教では、六道の凡夫に本来仏性があるとは説かない。始めて修行することによって、声聞・縁覚・菩薩・仏に、各自各様の思いによってそれぞれに成ると説く教えである。
別教
[30]次に別教。また、戒・定・慧の三学を説く。この教はただ菩薩だけであって声聞や縁覚を含まない。
[31]三学のうちの戒学である菩薩戒とは三聚浄戒(摂律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒)である。五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒、および梵網経の五十八戒(十重禁戒と四十八軽戒)・瓔珞経の十無尽戒・華厳経の十種戒・涅槃経の自行の五支戒と護他の十戒・大論の十戒などは、いずれも菩薩の三聚浄戒のうちの摂律儀戒である。摂善法戒とは八万四千の法門(すべての法門)を含む。饒益有情戒とは四弘誓願である。三学のうちの定学とは、観・練・熏・修の四種の禅定を修することである。三学のうち慧学とは、心生十界(十界はことごとく心より生起する)の法門である。
[32]別教の修行に五十二の位を立てる。五十二位とは第一に十信、第二に十住、第三に十行、第四に十回向、第五に十地の合計五十位と等覚(一位)・妙覚(一位)である。以上が五十二位である。
[33]
[34]この別教は大乗教である。戒・定・慧の三学を説き明かしている。三学のうち戒学は前の三蔵教や通教と異なり、未来にわたり永劫に破られることのない金剛宝戒である。
[35]この別教の菩薩は三悪道(地獄・餓鬼・畜生)を恐れない。むしろ二乗の修行を三悪道と言って恐れている。つまり、地獄・餓鬼・畜生などの三悪道は仏の種子を断たないが、二乗の修行は仏の種子を断つからである。大荘厳論には「常に地獄にいても大菩提の障害とはならないが、もし自利(自己の利益)の心を起こせば大菩提の障害となる」と説かれている。この教えの趣旨は、真の悪道とは三無為(自らの智恵で煩悩を滅して涅槃を得ようとする択滅無為・自然に法が生ずるとする非択滅無為・空理の不変を説く虚空無為、小乗の悟りの境地)の火坑(火の燃えさかる坑。二乗の灰身滅智に譬える)であり、真の悪人とは二乗のことを言うのである。したがって、たとえ悪業を作すことがあっても二乗の戒を持ってはならない、と言うのである。
[36]ゆえに大般若経には「菩薩がたとえ恒河沙劫もの長い間、妙なる五欲を起こしても、菩薩戒においては破戒とはならない。しかし、もし一念でも二乗の心を起こせば菩薩戒を犯した者とする」と説かれている。この経文に言う「妙なる五欲」とは色・声・香・味・触の五つである。色欲とは青黛(青い眉墨)・珂雪(白い顔)・白歯(白い歯)などの男女の容姿に対する愛着、声欲とは絲・竹・管・絃などの音楽や声に対する愛着、香欲とは沈香・栴檀香などの芳薫に対する愛着、味欲とは猪・鹿などの飲食美味に対する愛着、触欲とは柔軟な肌などに対する愛着である。この五欲に恒河沙劫もの長い間耽著しても菩薩戒を破ったことにはならないが、一念でも二乗の心を起こせば菩薩戒を破ることになる、という経文である。
[37]太賢の梵網経古迹記には「貪欲に心が汚されていても大菩提心(菩薩の心)はなくなることがないから戒の功徳が消滅することはない。したがって戒を破ったことにはならない」と説かれている。二乗戒に心を寄せることを菩薩の破戒と言うのである。したがって、華厳経・般若経・方等部の諸経典など法華経以前の大乗経では特に強く二乗を嫌うのである。別教の三学のうち、定学・慧学については省略する。
[38]梵網経に「戒は言わば平地であり、定は室宅であり、智慧は灯明である」と説かれている。この大乗菩薩戒は人間でも畜生でも、去勢した者でも男女両性を具えた者でも、皆同じように一種の菩薩戒を授けられる。
[39]この教の説くところは、すべての衆生が五十二位の一々の位において多倶低劫(多くの千万劫、無量の長い時間)という長い間修行をして衆生界をことごとく教化しつくし、ようやく仏に成るのである。したがって、どのような菩薩でも一人として一生のうちに仏に成る者はいないし、一つの修行で仏に成る者もいない。いずれも一切の修行を積んで仏と成るのである。あたかも微塵を積みあげて須弥山とするようなものである。華厳経・方等部の諸経・般若経・梵網経・瓔珞経などの経典にこのことは明確に説かれている。
[40]大乗菩薩戒はすべての者が受けられるが、ただ二乗だけはこの戒を受けることが許されない。妙楽大師は摩訶止観輔行伝弘決に「法華経以前のあらゆる大乗経典を調べたが、二乗作仏(二乗が仏に成る)を説く文はない」と説かれている。
円教
[41]次に円教である。円教には二種がある。一つは法華経以前の円教、二つは法華涅槃の円教である。法華経以前の円教では五十二位の修行を立て、また戒・定・慧の三学がある。
[42]法華経以前の円教とは、華厳経の「万法はただ心の造ったものである」という法門などを言う。さらに華厳経には「初めて菩提心を発した時すなわち正覚を成ずる」と説き、また、「円満の経」と説かれている。浄名経(維摩経)には「万法は因縁によって生ずるのであり、我という主体はない。主体がないので諸法は造られたものではない。したがって善悪の業報を受けることもない。しかし、善悪の業はなくなることはない」、般若経には「初めて菩提心を発したその時、ただちに仏の道場に坐している」、観無量寿経には「韋提希夫人が仏力により極楽世界を観じて悟りを得た」、梵網経には「衆生が仏の戒を受けると大覚の位と同じで、諸仏の位に入り、真に諸仏の子となる」とそれぞれ説かれている。これらの経文はすべて法華経以前の円教についての証文である。
[43]この円教の趣旨は五十二位を立てる。名称は別教の五十二位と同じである。しかし、その義意に異なりがある。すなわち、別教の五十二位には浅深があるが、円教の五十二位は一位ごとに互いに他の位を具えているので、浅深もなければ勝劣もない。凡夫も五十二の位を経なくとも成仏し、また往生する。煩悩を断じなくとも仏になることに障害はなく、一つの善や一つの戒を持つことでも仏に成ることができる。
[44]円教にはすべての法門や修行を位置づけ開会する一面がある。すなわち、浄名経(維摩経)では凡夫の成仏を認め、煩悩も仏種、悪法も仏法とすべてを開会している。ただし、それほどの開会を説きながら二乗の成仏は説かれていない。般若経のなかには二乗の学ぶ法門(四念処や三十七科の道品)を開会して大乗と同じとしているが、二乗の人たちと悪人との成仏は説かれていない。観無量寿経などに「凡夫が少しの煩悩も断じないで極楽浄土に往生する」と説くのは、すべて法華経以前の円教の教えである。
[45]法華経の円教については後に書く。以上で四教の大要の説明が終わった。
五時のうち法華経以前の四時の経
[46]次に五時である。五時とは、第一には華厳経の時で、結経は梵網経である。その内容は別教と円教を説いている。第二には阿含経の時で、結経は遺教経である。その内容は三蔵教の小乗の法門を説いている。第三には方等部の諸経の時で、宝積経・観無量寿経などの諸大乗経であるが、説時は一定ではない。結経は瓔珞経である。その内容は三蔵教・通教・別教・円教の四教をすべて並び説いている。第四には般若経の時で、結経は仁王般若経である。その内容は通教・別教・円教の後三教(四教のうちの後の三教)を説き、三蔵教は説かれていない。
[47]華厳経は仏が悟りを開かれてから後、三七日間の説法である。阿含経はその後、十二年間の説法、方等経と般若経はその後、三十年間の説法である。以上、華厳経から般若経にいたるまでの説法期間は四十二年である。比叡山の考え方は、方等経は説法の時や場所が一定していなくて般若経は三十年間にわたって説かれたと言う。三井の園城寺の考え方は、方等経は十六年間で般若経は十四年間であると言う。また、ある一派は秘蔵の大切な法門として、方等経と般若経は合わせて三十年間の説法、ただし方等経が前で般若経は後に説かれた、と言う。仏が十九歳で出家し、三十歳で悟りを開かれたということは大論に記されている。仏の御一代の説法が五十年間であるということは涅槃経に説かれている。法華経以前の説法が四十二年間であるということは無量義経に説かれている。法華経が八箇年の説法であるということは、涅槃経の「仏の御一代の説法は五十年間である」という文と無量義経の「法華経以前の説法は四十二年間である」という文の間を考えれば、八箇年となる。以上のことから、仏は十九歳出家、三十歳成道、五十年間の説法、八十歳入滅と確定することができる。
[48]これら法華経以前の四十二年間の説教は、すべて法華経へ引き入れるための方便の教えである。その理由は無量義経に「私はかつて菩提樹の下の道場に端坐すること六年間にして悟りを得た。(略)方便の力で種種の法門を説き人びとを導いてきたが、四十余年の間、いまだ真実の法門を説き顕わしていない。四十余年間の方便の教えとは、初めに阿含経を説いて四諦(苦・集・滅・道)の法を教え、次に方等十二部経(十二部とは説法の内容と形式についての分類)・大品般若経・海印三昧に住して華厳経を、それぞれ説いた」と説かれていることによって知ることができる。
[49]私見を述べるならば、仏の説法の順序に従って列ねると華厳経・阿含経・方等経・般若経・法華経・涅槃経である。これを法門の浅いものから深いものへと順に列ねると阿含経・方等経・般若経・華厳経・法華涅槃経とすべきである。したがって、法華経と涅槃経にはこのように説かれている。
[50]華厳宗と言う宗は、智儼法師・法蔵法師・澄観法師などの人師が華厳経に依って立てたものである。倶舎宗・成実宗・律宗は法宝法師・普光法師・道宣などの人師が阿含経に依って立てたものである。法相宗と言う宗は玄奘三蔵・慈恩法師などが、方等部のうちの上生経・下生経・成仏経・解深密経(深密経は略称)・瑜伽論・唯識論などの経論に依って立てたものである。三論宗と言う宗は般若経・百論・中論・十二門論・大論などの経論に依って吉蔵大師が立てたものである。
[51]華厳宗では、華厳経と法華涅槃経は同じく円教であり、他の諸経はすべて劣っているとする。法相宗では自宗が依経とする解深密経(深密経は略称)と華厳経・般若経・法華経・涅槃経は同じ程度の経典であると言う。三論宗では自宗が依経とする般若経と華厳経・法華経・涅槃経は同じ程度の経典であると言う。ただし、法相宗が依り所とする諸の小乗経は劣った経典であると法門を立てている。
[52]これらはすべて法華経以前の諸経に立脚して立てた宗である。法華経以前の円教をもっとも勝れた教えとして立てた宗ばかりである。各宗の人々の間で論争があるけれども、経典そのものに依って勝劣を判定すれば、どのようにしても法華経が勝れている。人師の解釈によって勝劣を論じてはならない。
第五時の法華経
[53]第五時の法華経は、開経として無量義経一巻、法華経八巻、結経として普賢経一巻の合計十巻がある。
[54]前に四教(三蔵教・通教・別教・円教)や四時(華厳時・阿含時・方等時・般若時)の経論を書きあげたのは、この法華経のことを知るためである。法華経を知るには法華経以前の諸経を知らなければ正しい教えの意味を体得することができない。法華経以前の諸経は、その経だけを学び他経について知らなくともさしつかえない。
[55]したがって、天台大師は法華玄義に「もし法華経以外の経を弘める場合は教相(仏のすべての教法の秩序。教法の位置づけ。一代聖教の勝劣)を明らかにしなくても義理(教えの内容。教えの本質)を傷つけることはない。しかし、もし法華経を弘める場合は教相を明らかにしないと教えの真義を欠くことがある」と解釈されている。法華経には「仏は種々の教えの道を説き示すけれども、それは真実には仏乗(一仏乗。仏の真実の教え)の世界に人びとを導き入れるためである」(方便品)と説かれている。「種種の教えの道」とは法華経以前のすべての経典である。「仏乗の世界に人びとを導き入れるため」とは法華経のために一切の諸経を説く、という経文である。
[56]問う。法華経以外の諸経は、菩薩のため、あるいは人天のため、または声聞や縁覚のためなどと、衆生の機根に応じて法門も変わり利益も変わる。この法華経はどのような人のための教えであろうか。答える。この法華経のことは、相伝(法門の相続伝授)を受けなければ知ることが難しい。この法華経は、悪人や善人、智恵のある者や智恵のない者、戒を持つ者や持たない者、男性や女性、仏法を信受する僧・尼・善男子・善女人の四衆、仏法や信仰者を守護する天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽の八部など、総じては十界の一切衆生のために説かれたのである。
[57]いわゆる、悪人とは提婆達多・妙荘厳王・阿闍世王、善人とは韋提希夫人などの人天の人、智恵のある者とは舎利弗、智恵のない者とは須利槃特、戒を持つ者とは声聞・菩薩、戒を持たない者とは竜・畜である。女性は竜女である。総じて十界の衆生が法華円教の一仏乗の教えを覚るのである。このことを知らない学者たちは、「法華経は私たち凡夫のための教えではない」と言う。これはまことに仏の本意に背いた恐れ多いことである。
[58]この法華経に「すべての菩薩の覚りは、皆この経に依る」(法師品)と説かれている。この経文の菩薩とは九界の衆生を指し、善人や悪人、女性や男性、三蔵教の声聞・縁覚・菩薩、通教の三乗(声聞・縁覚・菩薩)、別教の菩薩、法華経以前の円教の菩薩などは、皆、この法華経の力に依らなければ仏に成れない、という経文である。
[59]また、この法華経には「薬王よ、多くの在家や出家の者が菩薩の道法を修行しても、もし、この法華経を見聞し、読誦し、書写し、受持し、供養することがなければ、その人は菩薩の道を修行したことにはならない。もし、この法華経を聞くことができれば、その人は正しく菩薩の道を修行する者である」(法師品)と説かれている。この経文は明らかに、方便の教えの菩薩の三祇百劫(三蔵教)、動踰塵劫(通教)、無量阿僧祇劫(別教)にわたる長い間の六度(六波羅蜜)の修行や四弘誓願などは、この法華経に来なければ正しい菩薩の修行にはならないし、真に善根を修したことにもならない、という意味である。正しい菩薩の修行ではない以上、仏に成ることができないのは明確である。
[60]天台大師と妙楽大師が末代の凡夫に法華経の信仰を勧める文として次のものがある。天台大師の法華文句には「好堅樹は地面のなかでその芽がすでに百囲もある。頻伽鳥は殻の中にいる時から鳴き声が他の鳥よりも勝れている」とある。この文は法華経の五十展転(法華経を聞いた者が随喜し、その功徳を他に伝え、五十人目にいたる)の第五十人目の功徳を解釈されたものである。仏はていねいに五十展転の教えで、法華経以前の方便の教えによる長い間の修行や方便の教えを受持する大聖人の功徳よりも、この法華経を少しでも聞き結縁した愚人の随喜の功徳のほうが百千万億も勝れていると説かれているので、この経典の心を天台大師は譬えで表わされたのである。好堅樹と言う木は一日に百囲も生長する。頻伽鳥という鳥は幼くても他の大小の鳥よりも勝れた声で鳴く。そこで、方便の教えによる修行が長い期間にわたることを諸の草木の生長が遅いことに譬え、法華経の修行によって速かに仏に成ることを好堅樹が一日に百囲も生長することに譬えたのである。また、方便の教えを受持する大小の聖人を諸の鳥に譬え、法華経を受持するはかない凡夫を殻の中の頻伽鳥の鳴き声が他の鳥より勝れていることに譬えたのである。
[61]妙楽大師はかさねて解釈を示し、「誤って理解する者は、法華経の初心の修行者の功徳が多大であることを知らないで、功徳は上の位に多いと思いこみ、法華経の初心の修行者を蔑るので、今、法華経の修行は浅くとも功徳は深いことを示し、それによって法華経の経力を顕わすのである」(法華文句記)と説かれている。この妙楽大師の文は、末代の愚者が、「法華経は深い教理を説き尊い教えではあるが、自分たちのような劣った者には適さない」と言って、法(法華経)を称讃し機根を劣愚と定め、機根に適さないとして法華経を捨てる者について説明されたものである。
[62]また、妙楽大師は末代にこの法華経が捨てられることを歎いて、「この円頓(ただちに菩提を成ずることのできる円満具足の教え)の法華経を聞いて崇重しないのは、近頃、大乗の教えを習う者が方便の教えと真実の教え(法華経)とを混同しているためである。まして仏滅後の像法や末法の世になると衆生の機根も劣り信心も弱くなるので、たとえ偉大な円頓の教えが経蔵にあふれ、函に充ちていても、少しも思索する者はいないで、目をふさぐばかりである。人びとは仏法にふれることもなく、いたずらに生まれいたずらに死んでいく。なんと痛ましいことか。ある人が『聞いても行じなければ貴方にとって何の利益もない』と言うが、この人は、法華経は聞いただけでも功徳の因となるという久遠の利益(聞法の結縁が成仏の因となる)について深く知らないのである。善住天子経には文殊師利菩薩が舎利弗尊者に告げて、『法を聞いて、その法を誹謗して地獄に堕ちることは、多くの仏を供養する者よりも勝れている。なぜなら、たとえ法を誹謗して地獄に堕ちても、謗法を縁(逆縁)として、地獄から出た後、かえって法を聞くことができるからである』と説かれている。これは、仏を供養しても法を聞かない者とたとえ仏を供養することがなくても法を聞く者とを比較して、法を聞くことの功徳を示されたものである。法を聞いて誹謗することでさえも遠い成仏の種となる。まして法を聞いて思惟し、努めて修行する者はなおさら功徳が大きい」(摩訶止観輔行伝弘決)と記されている。
[63]また、妙楽大師は「法華経の一句でも心に沁み込めばかならず悟りの岸にいたる資けとなり、思惟したり修行したりすればかならず生死の大海を渡り悟りの岸にいたる船となる。法華経を随喜し見聞し、いつの世においても常に主となったり伴となったりして説き示しなさい。法華経を信受しても、あるいは捨てても、ひとたび聞けば仏道の縁となる。法華経に信順しても、あるいは違背しても、ついには法華経を聞いた功徳によって成仏するのである」(法華文句記、回向発願の文)と述べられている。わたしが思うに「信受しても、あるいは捨てても」「信順しても、あるいは違背しても」の文はまことに心に感じるところが大きい。
[64]釈僧肇の法華翻経後記に「羅什三蔵が姚秦の興王に申し上げるには『私は昔天竺(インド)にいた時、五天竺(全インド)をすべて回って大乗教を研鑽した。ある時、大師須梨耶蘇摩に師事して法門を受けた時、大師はわたしの頭をなでながら法華経を伝授し、仏の教えは西の国で隠滅してしまいその遺光が東北におよぼうとしている。この法華経は東北の諸国に縁のある教えである。貴方は慎んで弘めなさい、と言われた』ということである」と記されている。わたしが思うには、天竺からみるとこの日本は東北の国である。
[65]慧心の一乗要決には「日本国中の人びとは法華経の教えを信受するまでに円熟している。身分や地域の区別なくすべて法華経を信じ、僧俗の異なりや身分の違いを越えてことごとく成仏を求めている。ただし、もし一派の師などがいて、法華経を信受しなければ、それは方便として他の教えを信じているのか、真実に他の教えを信じているのか、その点を弁える必要がある。もし、方便として他の教えを信じているのなら、それは法華経を弘めるための方便であるから尊敬すべきことである。このことについて、浄名経には『諸の悪い事を知りその行いに随わないで、善い方便の智恵をもって人びとの心に応じて法を説き導いていく』と説かれている。他の教えを真実として信受しているのであれば悲しむべきことである。なぜなら法華経には『未来の世の悪人は仏の真実の教えを聞いても迷いの心を起こして信受せず、かえってその法を誹謗して悪道に堕ちる』と説かれている」と記されている。
[66]妙法蓮華経について。妙法蓮華経の妙について天台大師は法華玄義に「妙とは不可思議(言語を絶し思考を超えた絶対のもの)のことである」と言い、また「仏の秘蔵の法門であるゆえに妙と名づける」とも、「もっとも勝れた経で甘露のような究極の法であることから妙と称する」とも述べられている。法については、同じく天台大師の法華玄義に「法とは十界十如権実の法(十界の各々に十如が具わっているのが実相で、その実相を照見する時、九界の十如は迷いの世界であるから権、仏界の十如は真実の世界であるから実である。迷悟の十界は実相であるので、法体においては権実不二である)である」と言い、また「権(方便)と実(真実)とは法性として同体であるとの本質を示すゆえに法と名づける」と述べられている。蓮華については、同じく天台大師の法華玄義に「蓮華とは権(方便、迷い)と実(真実、悟り)の法を譬えたもので、華は権、蓮は実にあてはめ、蓮華として権実は一つであることを意味する」と言い、また「久遠の本果(仏の久遠の成道)を示したもので、蓮華によって権実不二の真実妙道を明らかにしたものである」と述べられている。経については、また同じく法華玄義に「仏の声が仏道を教える。これを経と名づける」(章安大師の私序の文)と述べられている。
[67]わたしが思うには、法華経以前の諸経をみると、小乗教(三蔵教)では心(迷いの心)が生ずると迷いの六界(三界六道)が生じ、心(迷いの心)が消滅すれば四界(四聖道)となる、と説く。通教もまた同じである。法華経以前の別教と円教とは心から十界が生ずる、と説く。小乗教(三蔵教)の教えは六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)四生(胎・卵・湿・化)の苦と楽は衆生の心から生ずる、と考えるのである。したがって心が消滅すれば六道の因果もなくなる。大乗教の教えは心から十界を生ずると考えている。華厳経には「心は工な画師のようにあらゆる五陰(色・受・想・行・識。あらゆる存在と意識)を造り出す。世の中において心によって造られないものはない」と説かれている。「あらゆる五陰を造り出す」とは十界の五陰(宇宙の万法)である。したがって、仏界も心法も造り出すということである。心が過去世・現在世・未来世の十方の仏となって顕われる、という教えである。華厳経には「もし、人が三世のすべての仏をことごとく知りたいと思えば次のように観察しなさい。心が諸の仏を造る、と」と説かれている。
[68]法華経以前の経典においては、強い心(上品)で十悪を犯せば地獄に堕ちる因、中庸の心(中品)で十悪を犯せば餓鬼道に生まれる因、弱い心(下品)で十悪を犯せば畜生道に生まれる因、人倫の道である五常(仁・義・礼・智・信)を行えば修羅界に生まれる因、三帰(三宝帰依)・五戒を持てば人間界に生まれる因、三帰・十善戒を持てば六欲天に生まれる因である。有漏(煩悩を断じていない初心)の坐禅は色界・無色界に生まれる因、五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒・五百戒を持ちさらに苦・空・無常・無我の理を観ずれば声聞・縁覚に生まれる因となる。五戒・八戒および三聚浄戒を持ち、さらに六度(六波羅蜜)を修行し、四弘誓願の菩提心を発せば菩薩に生まれる因なり、また仏界に生まれる因となる。三蔵教と通教には仏性について説かれていない。ただ菩薩の発心を仏性と言っているにすぎない。別教と円教は衆生に仏性があることを論じている。ただし、別教の教えでは二乗(声聞・縁覚)に仏性があるとは論じない。円教のなかでも法華経以前の円教は別教と同じく二乗に仏性があるとは説かない。このように法華経以前の教えはすべて不完全な教えであり、法華経の妙法に対して粗法(不充分な教え、方便の教え)である。
[69]妙法とは、十界が互いに具すと説くので十界にことごとく仏界を具えることになり、これを妙法と言うのである。十界互具(十界が各々十界を具える)とは十界のそれぞれの一界に他の九界を具えることにより、十界が互いに十界を具えるので百法界となる。法華玄義の巻二には「また一法界に九法界を具えればすなわち百法界である」と述べられている。十界については法華経だけが特別に説いているのではない。十界の因果は法華経以前の諸経典にも明かされている。今、特に法華経を妙法とするのは、法華経には十界の因果の互具が説かれているからである。
[70]法華経以前の諸経の教えには、菩薩は仏に成るが声聞は仏に成らない、などと説くので、菩薩は悦び、声聞は嘆き、それより以下の人天などは思いもかけない絶望を味わう、という経もある。あるいは、二乗は見惑・思惑を断じて六道の苦しみから逃れようと思い、菩薩はわざと煩悩を断じないで六道に生まれ衆生を救おうと思う、と説く経もある。あるいは、菩薩がすぐに悟って成仏すると説く経もあれば、菩薩が長い間修行をすると説く経もある。あるいは、凡夫が往生するという教えを説くと菩薩や声聞は自分たちのことではないと思うという経もある。他人の不成仏は自分の不成仏であり、他人の成仏は自分の成仏である。凡夫の往生は自分の往生であり、聖人の見思惑の断滅は私たち凡夫の見思惑の断滅である。このような十界互具の教理を知らないで、諸経では四十二年間が過ぎ去ったのである。
[71]ところが、今のこの法華経で十界互具が説かれると、自身の解脱ばかりを求めていた声聞の身に菩薩界が具わったので、六波羅蜜の修行もせず、長い修行期間も経ないで、あらゆる菩薩が苦労して修した無量の難行の功徳を、声聞は具えることになった。そこで、意外にも声聞が菩薩と言われ、人を責める獄卒や欲の深い凡夫もまた菩薩と言われる。仏もまた因行の位に立たれ菩薩界に入って、妙覚の仏でありながら等覚の位の菩薩となられる。法華経薬草喩品には声聞のことを説いて「貴方の行ずることはそのまま菩薩の道である」とある。また、私たち凡夫が六波羅蜜の修行をしなくても六波羅蜜を成就した菩薩であることを、無量義経には「いまだ六波羅蜜を修行していなくても六波羅蜜修行の功徳は自然に備わって目前にある」と説かれている。私たち凡夫が一戒も持たないのに持戒の者と言われることを、法華経見宝塔品には「これがすなわち勇猛であり精進である。このような人を戒を持ち頭陀(煩悩を除き仏道を求める)を行じる者と名づける」と説かれている。
[72]問うて言う。法華経以外の諸経にも悪人が仏に成ると説かれている。華厳経には調達(提婆達多)などの五百の悪人が未来に成仏すると説かれ、普超三昧経には悪人の阿闍世王が未来に成仏すると説かれ、大集経(正しくは方等陀羅尼経)には不善を行った波籔天子(毘瑟紐天)が未来に成仏すると説かれている。また女性が仏に成ることについては、菩薩処胎経に女人の成仏が説かれている。畜生が仏に成ることについては、阿含経に鴿雀が未来に成仏すると説かれている。二乗が仏に成ることについては、方等陀羅尼経や首楞厳経などに説かれている。菩薩の成仏については、華厳経などに説かれている。煩悩に縛られた凡夫の往生については、観無量寿経に下品下生を明かして罪悪深重の凡夫も弥陀の浄土に往生できると説かれている。女性が女人の身を転ずる(変える)ことは大無量寿経の四十八願のなかの第三十五願に、弥陀の名号を称えると女人の身を転じて男子となり、浄土に往生すると説かれている。これら諸経に説き明かされている成仏・往生は法華経の二乗(二乗作仏)・竜女(女性の変成男子の成仏)・提婆達多(悪人成仏)・菩薩の未来成仏とどのような違いがあるのか。また、たとえ法華経以外の諸経と法華経とに違いがあるとしても、諸経においても成仏することは疑いがない。どうであろうか。
[73]答えて言う。私が習い伝え受けた法門によればこの答えは明確である。この答えを聞けば、法華経が諸経より勝れ、また諸経において成仏ができるかどうかも明瞭になる。しかし、これは仏の内証を説いた秘蔵の法門であるので顕に書き記すことはできない。
[74]問うて言う。妙法を一念三千と言うのは何故か。
[75]答えて言う。天台大師はこの一念三千の法門を証得されてから後、法華玄義十巻・法華文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏(維摩経疏)・四念処・次第禅門などの多くの法門を説かれたが、この一念三千については説かれなかった。ただ十界・百界・千如の法門ばかりであった。ところが、御年五十七歳の夏四月頃、荊州の玉泉寺という所で、御弟子の章安大師と言う人に説かれた摩訶止観十巻がある。その書の初めの四巻は六即や四種三昧などの法門ばかりで一念三千については説かれなかったが、第五巻から十境十乗を論じて初めて一念三千の法門を書き記された。これを妙楽大師は末代の人びとに勧めて、「天台大師の観心法門は一念三千をもって教授相伝の基本とする。(略)教えを求める者はこれ以外に天台大師の究極の法門があると思ってはならない」(摩訶止観輔行伝弘決)と言われている。天台大師の法華仏教を網羅した六十巻三千丁にわたる書物(天台大師の法華玄義十巻・法華文句十巻・摩訶止観十巻・妙楽大師の法華玄義釈籤十巻・法華文句記十巻・摩訶止観輔行伝弘決十巻、の合計六十巻)に説かれた多くの法門も天台大師の御本懐を知るには充分ではない。ただ摩訶止観第五巻の初めの二、三行(一念三千の法門)を体得することが大切である。
[76]大切な文は摩訶止観第五巻に「一心に十法界を具え、その一法界にそれぞれ十法界を具えているので百法界である。百法界のうちの一法界にそれぞれ三十種の世間(三世間は十如であることから相乗して三十種世間となる)を具えるので、百法界は三千種の世間を具したものとなる。この三千の世間が一念の心に在る」と説かれている。妙楽大師はこの文を解釈して、「まさに知るべきである。正報(有情界)も依報(非情界)もことごとく一心に具わった三千の諸法である。したがって成仏する時はこの本理(本具の妙理)のとおり一身一念が法界に遍満する」(摩訶止観輔行伝弘決)と記されている。
[77]日本の伝教大師が比叡山を建立し根本中堂の地引をされた時、地面の中から舌の八つある鍵を掘り出された。その後、唐へ渡る時この鍵を持参された。唐では、天台大師から第七代目にあたり妙楽大師の御弟子である道邃和尚に会って天台の法門を伝授された。伝教大師は天性の秀才利発の人であったので、道邃和尚は悦んで天台大師の造られた十五の経蔵を開いて伝教大師に見せられた。ところが十四の経蔵は開いたけれども残りの一つは開かなかった。そこで伝教大師は「和尚、この経蔵を開いてください」と懇請した。道邃和尚は、「この経蔵だけは開く鍵がない。天台大師が再び世に出現されて御自分で開かれるであろう」と答えられた。その時、伝教大師が日本から身につけてきた鍵をとり出し、この経蔵を開かれると、経蔵のなかから光が発して室内を明るく照らした。その光のもとを捜し見ると摩訶止観第五巻の一念三千の文から光が放たれていた。ありがたく不思議なことである。この時道邃和尚は相伝の師でありながら反対に伝教大師を礼拝され、「天台大師の再来である」と言われた。このようにして、経蔵に納められていた天台大師の書物は残らず日本に将来されたのである。天台大師御自筆の観音経、章安大師自筆の摩訶止観が、現在、比叡山の根本中堂に収められている。
[78]
[79]外道に三種がある。第一は仏法外の外道(仏教以外の教え)で九十五種ある。第二は学仏法成の外道(仏教ではあるが小乗の教えにとどまっている)で小乗仏教がこれである。第三は附仏法の外道(大乗仏教ではあるが方便権教にとどまっている)で妙法を知らない権大乗の外道である。
[80]この法華経は自力と称しても外道の考えるような単なる自力ではない。己心に十界の一切衆生を具えているという自力である。自分の身に本来自身の仏界を具え、一切衆生の仏界も具えている。したがって、今、仏に成っても新しい仏ではない。また、他力も外道の考えるような単なる他力ではない。他仏も私たち凡夫の身に本来具わっているからである。また他仏が私たちのような凡夫の身に現出するのである。共力と無因力については省略する。
[81]法華経以前の諸経は十界互具を明かさないので仏に成るためにはかならず九界を嫌う。九界を仏界に具えないからである。したがって、かならず悪を滅し煩悩を断じてから仏に成ると説く。それは仏には凡夫の身を具える、と説かないからである。それゆえに、人・天・悪人の身を捨ててはじめて仏に成ると言う。これを妙楽大師は「厭離断九の仏」(九界の迷妄を厭い九界を断ち切って求める仏)と名づける。したがって、法華経以前の諸経を信じる人びとは、仏が九界の姿となって現われるのを見て、ただ仏の不思議の神通力であると思い、仏の身に本来九界が具わっているから現われることを知らない。
[82]したがって、克明に掘りさげて考えると、法華経以前の教えでは、仏が仮りに衆生と現われて成仏の相を現じられたまでで、凡夫そのものが真実に仏に成ったことはないのである。煩悩を断じ九界の身を嫌って仏に成ろうと願っても、真実には九界を離れて仏はいないのであるから、実際に往生した凡夫はいない。人界を離れて菩薩界もないから、法華経の仏が法華経以前の諸経では十界の姿を現じて、教化される衆生とか教化する仏とか、悪人とか善人とか、外道とか言われてきたのである。実際の悪人・善人・外道・凡夫は方便の権教を真実の教えと思い込んで過ぎてきたので、法華経に来て初めて、今までの教えは方便であり、実際は見惑・思惑・無明も断じていず、往生もしていない、と知るのである。一念三千については別に委しく書くので、ここでは省略する。
[83]この法華経には二つの妙がある。天台大師の法華玄義には「この経は二妙を論じている」と述べられている。二妙とは一には相待妙、二には絶待妙である。相待妙とは法華経以前の四時(華厳時・阿含時・方等時・般若時)の諸経と法華経とを相対して、法華経以前の諸経を爾前と称して嫌い、爾前の諸経はそれぞれの経に限った方便の教えであるのでこれを当分と言い、法華経は仏が生涯を通じて教示しようとされた御本懐を説き明かした真実の教えであるのでこれを跨節と言う。絶待妙の本旨は仏の御一代の聖教はすべて法華経である(法華経を説くためである)と開会する。また、法華経に二つのことがある。一には所開(開会されること)、二には能開(開会すること)である。法華経方便品に仏が世に出現した目的を明かされた「開示悟入」(すべての人びとに仏の知見を開かせ、仏の知見を示し、仏の知見を悟らせ、仏の知見の道に入らせる)の文、あるいは同じく方便品の「皆已成仏道」(皆すでに仏道を成じた)の文、さらには法華経の一部八巻二十八品六万九千三百八十四字の一字一字にはすべて妙の文字がある。これらはいずれも能開の妙である。このような法華経の妙用(妙の用)を知らないで学習する者は、ただ爾前経の当分の利益を得るにすぎない。
[84]法華経が阿含経を開会した文は方便品に「わがこの九部(小乗)の法は衆生の機根に随って説いたものであり、大乗の教えに入る入口である」と説かれている。華厳経を開会した文は如来寿量品に「あらゆる世間の天・人・阿修羅は、今の釈迦牟尼仏は王宮を出て伽耶城に近い道場で悟りを得た、と思っているが、真実には、成仏してから今日にいたるまで無量劫(久遠)という計り知れない時間が過ぎている」と説かれている。般若経を開会した文は安楽行品の十八空(般若経に説く空は法華経の妙理に含まれている)の文、観無量寿経などの安楽世界往生の法門を開会した文は薬王菩薩本事品に「この法華経を開いて経説の通りに修行すれば、ここにおいて命終した後安楽世界に往く」と説かれている。散善(散乱した心で修す善の行)を開会した文は方便品に「一声、南無仏と称える者はすべてすでに仏道を成じたことになる」と説かれている。一切衆生を開会した文は譬喩品に「今、この三界は皆わたしのものであり、そのなかの衆生はことごとくわたしの子である」と説かれている。外道の典籍や教えを開会した文は法師品に「もし、世間の書物や教え、政治や産業のことを説いても、それらはすべて正法(法華経)を行じたことと同じである」と説かれている。兜率天を開会された文や人・天を開会された文はあまりに多く、長くなるので書き記さない。
[85]この法華経の教えを心得ない者は、経の文字にだけとらわれて法華経を読み、「人天に生まれる」(提婆達多品)と説く文を見、あるいは「兜率天や忉利天などに生まれる」(普賢菩薩勧発品)と説く文を見、あるいは「安養浄土に往生する」(薬王菩薩本事品)と説く文を見て、穢土(娑婆世界)で法華経を修行しても、経典は勝れていても、行者が不退の地(退転することのない位)にまで進んでいないので、穢土で生死流転をくり返し、五十六億七千万年後に世に出現される弥勒仏の時を待つか、あるいは人・畜生などに生まれて生死をくり返し、その間、限りない苦しみを受けるにちがいない、などと言ったり、あるいは法華経は自力の修行であり難行道である、と言っている。
[86]これはおそらく、爾前経(法華経以前の諸経)と法華経との相違を知らないで、自ら愚癡闇鈍に迷うばかりでなく、一切衆生の仏眼を閉じてしまう人びとである。兜率天への願生(願って生まれる)を勧めているのは小乗経に多く、大乗経にも少しは説かれている。西方極楽往生を勧めているのは大乗経に多い。これらは皆、開会される経典である。法華経の教えは、兜率天も西方浄土も別のものではなく、兜率天は十方仏土の中にあり、西方浄土も十方仏土の中にあり、また、人・天の世界も十方仏土の中にある、と説く。法華経は十界互具を説くゆえに、悪人に対しては十界の悪を説き示し、同時に悪人にも五眼(肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼)が具わっていると説いて極悪人さえ救いとるのである。また、女性について述べれば、十界互具は十界に女人を具すことでもあるから、十界はすべて女人であるとも言うことができ、女人成仏が実現するのである。したがって、法華経を信じ、真実の菩提心を発す人は業(行ない)の力によって迷いの九界へ引かれることはないのである。
[87]法然上人もこのことを知っておられたのであろう。自身は専修念仏の行者でありながら、選択集という書物には、浄土教で捨てられる雑行・難行道の中に法華経や大日経などを除かれている所もある。選択集を委しく見なさい。また、慧心の往生要集でも同じく法華経を除いている。
[88]たとえ法然上人や慧心僧都が法華経を雑行・難行道とし、末代の人びとには適さないとお書きになっても、日蓮はまったく用いはしない。なぜならば、そのような考えかたは一代聖教(仏の御一代の説法)の教えや誡めに相違し、三世十方の諸仏の誠言(真実のお言葉、真実の教え)にも違背するからである。まして法然上人や慧心僧都にはそのような考えはない。ところが、後の人びとの書に、「法華経は難行道であり、経典は勝れているが末代の劣愚の機には適しない。誹謗によって罪をつくることになるかもしれないが弥陀の浄土に往生してから法華経を悟ればよいのだ」と言っている。日蓮にはこのような考えかたは誤りであると思う。それとも、このように言う日蓮の考えかたが誤りであろうか。よくよく智者に尋ね習いなさい。
[89]正嘉二年<日>二月十四日日>
[90]<人>日 蓮 撰人>