諸経与法華経難易事
書下し
諸経与法華経難易事
[1]問うて云く、法華経の第四法師品に云く、難信難解云云。いかなる事ぞや。
[2]答えて云く、この経は仏説き給いて後、二千余年にまかりなり候。月氏に一千二百余年、漢土に二百余年を経て後、日本国に渡りてすでに七百余年なり。仏滅後にこの法華経のこの句を読みたる人ただ三人なり。いわゆる月氏には竜樹菩薩。大論に云く、譬えば大薬師のよく毒を以て薬となすがごとし等云云。これは竜樹菩薩の難信難解の四字を読み給いしなり。漢土には天台智者大師と申せし人読んで云く、已今当の説最もこれ難信難解云云。日本国には伝教大師読んで云く、已説の四時の経、今説の無量義経、当説の涅槃経は易信易解なり。随他意の故に。この法華経最もこれ難信難解なり。随自意の故に等と云云。
[3]問うて云く、その意いかん。
[4]答えて云く、易信易解は随他意の故に、難信難解は随自意の故なり云云。弘法大師並びに日本国東寺の門人おもわく、法華経は顕教の内の難信難解にて、密教に相対すれば易信易解なり云云。慈覚・智証並びに門家思うよう、法華経と大日経は倶に難信難解なり。ただし大日経と法華経と相対せば、法華経は難信難解、大日経は最もこれ難信難解なり云云。この二義は日本一同なり。
[5]日蓮読んで云く、外道の経は易信易解、小乗経は難信難解。小乗経は易信易解、大日経等は難信難解。大日経等は易信易解、般若経は難信難解なり。般若と華厳と、華厳と涅槃と、涅槃と法華と、迹門と本門と重々の難易あり。
[6]問うて云く、この義を知りてなんの詮かある。
[7]答えて云く、生死の長夜を照す大灯、元品の無明を切る利剣はこの法門に過ぎざるか。随他意とは真言宗・華厳宗等は、随他意・易信易解なり。仏九界の衆生の意楽に随いて説くところの経々を随他意という。譬えば賢父が愚子に随うがごとし。仏仏界に随つて説くところの経を随自意という。譬えば聖父が愚子を随えたるがごとし。日蓮この義に付いて大日経・華厳経・涅槃経等を勘え見候に、皆随他意の経々なり。
[8]問うて云く、その随他意の証拠いかん。
[9]答えて云く、勝鬘経に云く、非法を聞くことなき衆生には、人天の善根を以てこれを成熟す。声聞を求むる者には声聞乗を授け、縁覚を求むる者には縁覚乗を授け、大乗を求むる者には、授くるに大乗を以てすと云云。易信易解の心これなり。華厳・大日・般若・涅槃等もまたかくのごとし。その時に世尊薬王菩薩に因せて八万の大士に告げたまわく、薬王汝この大衆の中の無量の諸天・竜王・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人と非人と及び比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の声聞を求むる者、辟支仏を求むる者、仏道を求むる者を見るや。かくのごとき等の類咸く仏前において妙法華経の一偈一句を聞いて、一念も随喜する者には、我皆授記を与え、まさに阿○菩提を得べし文。諸経のごとくんば人は五戒、天は十善、梵は慈悲喜捨、魔王は一無遮、比丘は二百五十、比丘尼は五百戒、声聞は四諦、縁覚は十二因縁、菩薩は六度。譬えば水の器の方円に随い、象の敵に随つて力を出すがごとし。法華経はしからず、八部四衆皆一同に法華経を演説す。譬えば定木の曲を削り、師子王の剛弱を嫌わずして大力を出すがごとし。この明鏡を以て一切経を見聞するに、大日の三部・浄土の三部等隠れなし。
[10]しかるをいかにやしけん、弘法・慈覚・智証の御義を本としける程に、この義すでに隠没して、日本国四百余年なり。珠をもつて石にかえ、栴檀を凡木にうれり。仏法ようやく顛倒しければ、世間もまた濁乱せり。仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲れば影なゝめなり。
[11]幸なるは我が一門、仏意に随つて自然に薩般若海に流入す。苦しきは世間の学者随他意を信じて苦海に沈まん。委細の旨またまた申すべく候。恐々謹言。
[12]<日>五月二十六日日>
[13]<人>日蓮 <花押>花押花押>人>
[14]<先>富木殿 御返事先>
現代語訳
諸経与法華経難易事
弘安三年(一二八〇)、五九歳、於身延、富木常忍宛、和漢混合体、定一七五〇—一七五二頁。
[1]〔問〕法華経の第四巻の法師品に「難信難解」(法華経は信じがたく理解しがたい仏陀の随自意のおしえである)と説かれているのは、どういうことであろうか。
[2]〔答〕法華経は釈尊がお説きになってから、今日まで二千余年を経ている。すなわちインドに一千二百余年、中国に二百余年を経て後に、日本国に伝来してすでに今日まで七百余年も経過している。釈尊の入滅後にこの法華経の「難信難解」の句を読んだ人はわずかに三人だけである。この三人とは、まずインドの竜樹菩薩で、その著書の大智度論には「永遠に成仏できないとされてきた二乗も成仏できるとした法華経の教えは、あたかも名医が毒を薬として治療に活用してしまったようなものである」と述べているが、これはまさに竜樹菩薩が「難信難解」の四字を読み、その真意を明らかにしていることを明らかにしている。中国では天台智者大師と称讃される智顗が、この四句について法華玄義に「已(すでに説いたところの法華経以前の爾前の諸経)今(いま説いたところの無量義経)当(これから説こうとするところの観普賢経・涅槃経)のすべての諸経を超えて、法華経は最も難信難解の経である」と述べている。さらに日本国の伝教大師最澄は法華秀句の中で「已説の華厳・阿含・方等・般若の四時の諸経、今説の無量義経、当説の涅槃経は易信易解(信じやすく理解しやすい)の法門である。すなわちそれは随他意(説法する相手の理解する能力に応じた方便をまじえた教えのこと)であるから。ところが法華経は難信難解の随自意(釈尊が自身の内証のままを直接述べた真実の教えのこと)である」と述べている。
[3]〔問〕どうして法華経が難信難解で、その他の諸経が易信易解なのであろうか。
[4]〔答〕諸経を易信易解の法門というのは釈尊が説法をする相手の理解能力に応じて説いたので、いまだその本意を示してはいない。法華経は釈尊の崇高なさとりの境界を直接的に述べたものであるから、その真実をはっきりと示している。このため凡夫には容易に信じがたく理解しがたい法門なのである。ところが弘法大師空海、その流れをうけつぐ日本国の東寺の真言宗の人々は、法華経は顕教の中では難信難解の法門であるが、密教に対すれば易信易解の法門であると考えた。また、慈覚大師円仁・智証大師円珍ならびにその門家の人々の考えでは、法華経と大日経はともに難信難解であるが、大日経と法華経とを比較してみると、法華経も難信難解の法門であるが、大日経は最も難信難解の法門であると言う。このような東密と台密の主張が日本全体に通用している。
[5]しかし、日蓮は諸経典を読んでその意味を次のように悟り、理解したい。外道(仏教以外のインドの宗教)と小乗経を比較すれば、外道は易信易解であり、小乗経は難信難解である(小乗経の方がすぐれている)。また小乗経と大日経を比較すれば、小乗経は易信易解であり、大日経は難信難解である(大日経の方が大乗経であるからすぐれている)。大日経と般若経を比較すると、大日経は易信易解、般若経は難信難解である(般若経がすぐれている)。般若経と華厳経、華厳経と涅槃経、涅槃経と法華経、法華経の中でも前半の迹門と後半の本門とを比較していけば、それぞれに易信易解と難信難解とのちがいがある(すべての諸経の中では法華経こそが難信難解の真実の法門である)。
[6]〔問〕諸経の随自意・随他意と易信易解・難信難解について判定するのは、どのような必要性によるものか。
[7]〔答〕生死の迷いの世界の長い夜のやみをてらす灯明(あかり)であり、我々の最も微細な根本の無明の惑を断ち切る利剣は、法華経がすべての諸経の中でもっともすぐれていることを示すこの法門なのである。随他意とは、真言宗・華厳宗のことで、これらの諸宗は衆生の理解する能力に応じて仏が方便をまじえて説いたので信じやすく理解しやすいが、釈尊の真実とはほど遠いものである。仏が地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩の望むところに応じて説いた経なので随他意というのであって、それはあたかも賢明な父が愚かな子の言うままになるようなものである。仏が仏のさとりの境界をはっきりと説き示したのを随自意というのであり、それはあたかも聖人たる父が愚かな子供を導くようなものである。いま日蓮が、このような見地から大日経・華厳経・涅槃経などについて検討してみると、これらの経典はみな随他意の法門であるとみることができる。
[8]〔問〕法華経以外の諸経が随他意であるとの証拠はどのようなものであろうか。
[9]〔答〕勝鬘経には「因果是非の道理を聞きわけない衆生には人界や天上界の善根である五戒・十善の法門をさずけて能力を育てる。声聞を目指す者には声聞乗の教え(四諦)を説き、縁覚を目指す者には縁覚乗の教え(十二因縁)を説き、大乗の菩薩を目指す者には菩薩の修行方法である六波羅蜜をさずける」とあるが、易信易解の立場は、まさにこの経文に当るであろう。華厳経・大日経・般若経・涅槃経などもこれと同じである。また法華経の法師品には「その時に釈尊が薬王菩薩によせて八万の菩薩に告げて言われるには、この聴聞の大衆の中の諸天・竜神・夜叉・乾闥婆(香を好む神)・阿修羅・迦楼羅(竜をえさとする鳥の形をした神)・緊那羅(美しい声で歌い舞う神)・摩睺羅伽(人身蛇首の神)などの八部衆の人と人でない霊体、および僧・尼・在俗の男女の信徒の声聞乗を求める者や、縁覚乗を求める者、さらには仏道を求める者もあるが、これらのすべての者はみな仏の<傍>み前傍>において、妙法蓮華経の一偈一句(一節)を聞いて、ほんの一念であっても法華経の教えに随喜するならば、必ず成仏できるであろうという保証をさずけよう」とある。諸経では人間界には五戒・天上界には十善、梵天王にはいつくしみあわれむ心と仏法のために喜んで施すこと、魔王には出家者に等しく施すこと、僧には二百五十戒、尼には五百戒、声聞には苦・集・滅・道の四諦、縁覚には十二因縁、菩薩には六波羅蜜というように、それぞれの能力に応じてさまざまに法が説かれているが、それはあたかも水が器の形によって姿を変えたり、象が敵の強弱に応じて力を発揮するようなものである。しかし法華経はそうではなく、ここに示した八部・四衆のすべてに法華経を説くのであって、それはあたかも定木が曲がっているところを削ってたいらにしたり、獅子が相手の強弱にかかわらず全力をつくすようなものである。この法華経という真実を照らし出す明鏡によって、諸経について考えてみると大日経・金剛頂経・蘇悉地経の真言の三部経や、無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の浄土三部経なども、みな随他意の方便の法門であることが、はっきりと照らし出されるのである。
[10]それにもかかわらず、どうしたことであろうか、弘法大師・慈覚大師・智証大師の主張をよりどころとしたために、法華経こそ随自意の真実の法門であることが隠れてしまってから日本国では四百余年を経ている。あたかも宝石を石ころと交換し、高価な香木の栴檀をふつうの木として商うようなものである。仏法の真実が次第に損なわれれば、人の心も乱れて世の中も濁ってしまうのである。仏法は肝心な本体のようなもので、世間はそれを映し出す影のようなものであるから、本体である仏法について正しく理解されなければ、影である世間もまがってしまう。
[11]しかし幸いなことには私の一門だけは釈尊の本意である法華経によっているので、自然に涅槃の海に流れ込み成仏することができるのである。その反対に今の世の中の仏法の学者たちは随他意の方便の教えを信奉しているので、苦しみの海に沈んでしまうのである。詳しくはまた申し述べたい。恐々謹言。
[12]<日>五月二十六日日>
[13]<人>日蓮 <花押>花押花押>人>
[14]<先>富木殿 御返事先>