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本尊問答抄

全集 第2巻 2段 定本: #20307(定本の該当ページへ)

書下し

本尊問答抄ほんぞんもんどうしよう


[1]問うて云く、末代悪世まつだいあくせ凡夫*ぼんぶは何物を以て尊と定むべきや。
[2]答えて云く、華経の目を以て本尊とすべし。
[3]問うて云く、いずれの経文、いずれの人師の釈にか出たるや。
[4]答う、法華経の第四師品に云く、〔王在在処処にもしは説き、もしは読み、もしは誦し、もしは書き、もしは経巻所住の処には、みなまさに七宝の塔をたてて極めて高広厳飾ごんじきならしむべし。また舎利しやりやすんずることをもちいざれ、ゆえはいかん。このうちには已に如来の全身います等云云〕槃経の第四如来性品によらいしようほんに云く、〔また次に*かしよう、諸仏の師とするところはいわゆる法なり。この故に如来は恭敬くぎよう供養す。法常なるをもつての故に諸仏もまた常なり云云〕台大師の法華三昧ざんまいに云く、〔道場の中においてき高座をき、法華経一部を安置し、またいまだ必ずしも形像ぎようぞう舎利しやり並に余の経典を安んずべからず、ただ法華経一部を置く等云云〕
[5]疑て云く、台大師の摩訶止観*まかしかんの第二四種三昧ししゆざんまいの御本尊は弥陀仏なり。不空三蔵*ふくうさんぞうの法華経の観智かんち儀軌ぎき宝を以て法華経の本尊とせり。<傍>なんじいかんぞこれらの義に相違そういするや。
[6]答て云く、これ私の義にあらず。かみに出すところの経文並に天台大師の御釈なり。ただ摩訶止観の四種三昧の本尊は阿弥陀仏とは、かれは常坐じようざ常行じようぎよう非行非坐ひぎようひざの三種の本尊は阿弥陀仏なり。文殊問経もんじゆもんきよう般舟三昧経はんじゆざんまいきよう請観音経しようかんのんきよう等による。これは爾前の諸経のうち未顕真実みけんしんじつの経なり。
[7]半行半坐三昧はんぎようはんざざんまいには二あり。一には方等経*ほうどうきようの七仏八等を本尊とす。かの経による。二には法華経の釈多宝等を引き奉れども、法華三昧を以てあんずるに法華経を本尊とすべし。不空三蔵ふくうさんぞう法華儀軌ほつけぎき宝塔品*ほうとうほんの文によれり。これは法華経の教主を本尊とす。法華経の正意しよういにはあらず。かみに挙ぐる所の本尊は釈宝・方の諸仏の御本尊、華経の行者の正意なり。
[8]問うて云く、日本国に十宗あり。いわゆる倶舎*くしや成実*じようじつ*りつ法相*ほつそう三論*さんろん華厳*けごん真言*しんごん浄土*じようど*ぜん・法華宗なり。この宗はみな本尊まちなり。いわゆる倶舎・成実・律の三宗は劣応身れつおうじん小釈しようしやかなり。法相・三論の二宗は大釈仏を本尊とす。華厳宗は台上だいじようのるさな報身ほうじんの釈如来、真言宗は大日如来*だいにちによらい、浄土宗は阿弥陀仏、禅宗にも釈を用いたり。なんぞ天台宗に法華経を本尊とするや。
[9]答う、かれらは仏を本尊とするにこれは経を本尊とす。その義あるべし。
[10]問う、その義いかん。仏と経といずれか勝れたるや。
[11]答て云く、本尊とは勝れたるを用ゆべし。例せば儒家には三皇さんこう五帝ごていを用いて本尊とするがごとく、仏家にもまた釈を以て本尊とすべし。
[12]問うて云く、しからば<傍>なんじいかんぞ釈を以て本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや。
[13]答う、かみに挙ぐるところの経釈を見給へ。私の義にはあらず。釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり。末代今の日蓮も仏と天台とのごとく、法華経を以て本尊とするなり。その故は法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目がんもくなり。釈・大日、総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に今能生を以て本尊とするなり。
[14]問う、その証拠いかん。
[15]答う、普賢経*ふげんぎように云く、〔この大乗経典だいじようきようてんは諸仏の宝蔵なり。十方三世じつぽうさんぜの諸仏の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種なり等云云。〕また云く、〔この方等経はこれ諸仏のまなこなり。諸仏はこれによつて五眼を具することを得たまえり。仏の三種の身は方等より生ず。これ大法印だいほういんにして涅槃海を印す。かくのごとき海中より能く三種の仏の清浄しようじようの身を生ず。この三種の身は人天の福田ふくでん応供おうぐの中の最なり等云云。〕これらの経文、仏は所生しよしよう・法華経は能生のうしよう、仏は身なり、法華経はたましいなり。しかればすなわち木像・画像の開眼供養はただ法華経にかぎるべし。しかるに今木画もくがの二像をまうけて、大日仏眼ぶつげんと真言とを以て開眼供養をなすは、もとも逆なり。
[16]問うて云く、法華経を本尊とすると、大日如来を本尊とすると、いずれか勝るや。
[17]答う、法大師・覚大師・証大師の御義のごとくならば、大日如来はすぐれ、法華経は劣るなり。
[18]問う、その義いかん。
[19]答う、弘法大師の秘蔵宝鑰ひぞうほうやく十住心じゆうじゆうしんに云く、第八法華、第九華厳、第十大日経等云云。これは浅きより深きに入る。慈覚大師の金剛頂経こんごうちようきようしよ蘇悉地経疏そしつちきようしよ、智証大師の大日経の旨帰しいきに云く、大日経第一、法華経第二等云云。
[20]問う、汝が意いかん。
[21]答う、釈如来・多宝仏総じて十方の諸仏の御評定ごひようじように云く、已今当*いこんとう切経の中に法華最これ第一なり云云。
[22]問う、今日本国中の天台・真言等の諸僧並に王臣・万民疑て云く、日蓮法師めは弘法・慈覚・智証大師等に勝るべきか。いかん。
[23]答う、日蓮反詰ほんきつして云く、弘法・慈覚・智証大師等は釈・多宝・十方の諸仏に勝るべきか〈是一〉。今日本国の王より民までも教主釈尊の御子なり。釈尊の最後の御遺言に云く、〔法にりて人にらざれ等云云。〕法華最第一と申すは法に依るなり。しかるに三大師等に勝るべしやとのたまう諸僧・王臣・万民・ないし所従・牛馬等にいたるまで不孝の子にあらずや〈是二〉。
[24]問う、弘法大師は法華経を見給わずや。
[25]答う、弘法大師一切経を読み給へり。その中に法華経・華厳経・大日経の浅深勝劣を読み給うに、法華経を読み給う様に云く、〔殊師利、この法華経は諸仏如来秘密の蔵なり。諸経の中において最もそのしもにあり〕また読み給う様に云く、〔薬王今なんじに告ぐ、わが所説の諸経あり、しかもこの経の中において法華最第三云云〕また慈覚・智証大師の読み給う様に云く、〔諸経の中において最もその中にあり。また最もこれ第二等云云〕釈如来・多宝仏・大日如来・一切諸仏、法華経を一切経に相対して説てのたまわく、〔法華最第一。また説て云く、法華最もそのかみにあり云云〕所、釈十方の諸仏と慈覚・弘法等の三大師といづれを本とすべきや。ただ事を日蓮によせて釈十方の諸仏には永く背きて三大師を本とすべきかいかん。
[26]問う。弘法大師は讃岐の国の人、勤操ごんぞう僧正の弟子なり。三論・法相の六宗を極む。去ぬる延暦二十三年五月、桓武天皇の勅宣を帯びて漢土に入り、順宗じゆんそう皇帝の勅に依て青竜せいりよう寺に入りて、慧果和尚けいかわじように真言の大法を相承し給へり。慧果和尚は大日如来よりは七代になり給う。人はかはれども法門はをなじ。たとえばかめの水をなお瓶にうつすがごとし。大日如来と金剛*こんごうさつた竜猛りゆうみよう竜智りゆうち金剛智*こんごうち不空*ふくう・慧果・弘法との瓶は異なれども、所伝の智水は同じ真言なり。この大師かの真言を習いて、三千の波濤をわたりて日本国に付き給うに、平城へいじよう嵯峨さが淳和じゆんなの三帝にさづけ奉る。去ぬる弘仁十四年正月十九日に東寺を建立すべき勅を給いて、真言の秘法を弘通し給う。しかれば五七道・六十六箇国、二の島にいたるまでもれいをとりしよをにぎる人たれかこの末流にあらざるや。
[27]また慈覚大師は下野しもつけの国の人、広智こうちの弟子なり。大同三年御歳十五にして伝教大師の御弟子となりて山に登りて十五年の間、六宗を習い、法華・真言の二宗を習い伝え、承和じようわ五年御入唐、漢土の会昌えしよう天子の御宇なり。法全はつせん元政げんじよう義真ぎしん法月ほうげつ宗叡しゆうえい志遠しおん等の天台・真言の碩学に値い奉りて、顕密の二道を習い極め給う。そのうえ殊に真言の秘教は十年の間、功を尽くし給う。大日如来よりは九代なり。嘉祥かじよう元年仁明にんみよう天皇の御師なり。仁寿にんじゆ斉衡さいこう金剛頂経*こんごうちようきよう蘇悉地経*そしつじきようの二経の疏を造り、叡山えいざん総持院そうじいんを建立して、第三の座主となり給う。天台の真言これよりはじまる。
[28]また智証ちしよう大師は讃岐さぬきの国の人、天長四年御年十四、叡山に登り、真和尚の御弟子となり給う。日本国にては義真・慈覚・円澄えんちよう別当べつとう等の諸徳に八宗を習い伝え、去ぬる仁寿にんじゆ元年に文徳もんとく天皇の勅を給いて漢土に入り、宣宗せんそう皇帝大中年中に法全・りょうしよ和尚等の諸大師に七年の間、顕密の二教習い極め給て、去ぬる天安二年に御帰朝、文徳もんとく清和せいわ等の皇帝の御師なり。いずれも現のため当のため、月のごとく日のごとく、代々の明主、時々の臣民信仰あまりあり、帰依おこたりなし。故に愚痴の一切、ひとえに信ずるばかりなり。誠に依法不依人*えほうふえにんの金言をそむかざるのほかはいかでか仏によらずして弘法等の人によるべきや。所その心いかん。
[29]答う、それ教主釈尊の御入滅ごにゆうめつ一千年の間、月氏がつしに仏法の弘通せし次第は先の五百年は小乗、後の五百年は大乗、小大実の諍はありしかども密の定めはかすかなりき。像法ぞうぼうに入りて十五年と申せしに漢土に仏法渡る。始は儒道と釈教と諍論じようろんして定めがたかりき。されども仏法やうやく弘通せしかば小大権実の諍論いできたる。されどもいたくの相違もなかりしに、漢土に仏法渡りて六百年、玄宗げんそう皇帝の御宇ぎよう無畏・剛智・不空の三三蔵月氏より入り給いて後、真言宗を立てしかば、華厳・法華等の諸宗はもつてのほかにくだされき。かみ一人よりしも万民に至るまで真言には法華経は雲泥なりと思いしなり。その後、徳宗とくそう皇帝の御宇に楽大師と申す人真言は法華経にあながちにをとりたりとおぼしめしゝかども、いたく立つる事もなかりしかば、法華・真言の勝劣をわきまえる人なし。
[30]日本国は人王三十代欽明きんめいの御時百済国くだらこくより仏法始めて渡りたりしかども、始は神と仏との諍論こわ(強)くして三十余年はすぎにき。三十四代推古すいこ天皇の御宇に聖徳太子始めて仏法を弘通し給う。慧観えかん観勒かんろくの二の上人、百済国よりわたりて論宗を弘め、孝徳の御宇に道昭どうしよう宗をわたす。天武の御宇に新羅国しらぎこく智鳳ちほう相宗をわたす。第四十四代元正げんしよう天皇の御宇に無畏三蔵、日経をわたす。しかるに弘まらず、聖武しようむの御宇に審祥大徳しんしようたいとく朗弁ろうべん僧正等、厳宗をわたす。人王四十六代孝謙こうけんの御宇に唐代の鑒真*がんじん和尚、宗と法華経をわたす。律をばひろめ、法華をば弘めず。
[31]第五十代桓武天皇の御宇に延暦二十三年七月、伝教*でんぎよう大師勅を給いて漢土に渡り、妙楽大師の御弟子*どうずい行満*ぎようまんに値い奉りて法華宗の定慧じようえを伝え、道宣*どうせん律師に菩戒を伝え、順暁じゆんぎよう和尚と申せし人に真言の秘教を習い伝えて、日本国に帰り給いて、真言・法華の勝劣は漢土の師のおしへに依りては定めがたしとおぼしめしければ、こゝにして大日経と法華経と、かの釈とこの釈とを引き並べて勝劣を判じ給いしに、大日経は法華経に劣りたるのみならず、大日経の疏は天台の心をとりて我宗に入れたりけりと勘え給へり。その後弘法大師真言経をおとされける事を遺恨とやおぼしめしけむ。真言宗を立てんとたばかりて、法華経は大日経に劣るのみならず華厳経に劣れりと云云。あはれ覚・証・園城おんじようにこの義をゆるさずば、法大師の僻見びやくけんは日本国にひろまらざらまし。かの両大師、華厳・法華の勝劣をばゆるさねど、法華真言の勝劣をば永く弘法大師に同心せしかば、存外にもとの伝教大師の大怨敵となる。
[32]その後日本国の諸碩徳等各智慧高くあるなれどもかの三大師にこえざれば、今四百余年の間、日本一同に真言は法華経に勝れけりと定めおわんぬ。たまたま天台宗を習へる人々も真言は法華に及ばざるの由存ぜども、天台座主ざす御室おむろ等の高貴におそれて申す事なし。あるはまたその義をもわきまへぬかのゆへに、からくして同の義をいへば、一向いつこう真言師はさる事おもひもよらずとわらふなり。
[33]しからば日本国中に数十万の寺社あり。みな真言宗なり。たま法華経を並ぶとも真言は主のごとく法華は所従のごとくなり。もしは兼学の人も心中は一同に真言なり。座主・長吏ちようり検校けんぎよう・別当、一向に真言たるうへ、上に好むところ下みなしたがふ事なれば一人ももれず真言師なり。
[34]されば日本国或は口には法華経最第一とはよめども、心は最第二最第三なり。あるいは身口意ともに最第二三なり。三業相応して最第一と読める法華経の行者は四百余年が間一人もなし。まして能持此経のうじしきようの行者はあるべしともおぼへず。如来現在猶多怨嫉況滅度後によらいげんざいゆたおんしつきようめつどごの衆生は上一人より下万民にいたるまで法華経の大怨敵なり。
[35]しかるに日蓮は東海道十五ケ国の内、第十二にあいあたる安房あわの国長狭ながさごおりの東条の郷片海ごうかたうみ海人あまが子なり。生年しようねん十二同じき郷の内清澄寺きよすみでらと申す山にまかりて、遠国おんごくなるうへ、寺とはなづけて候へども修学の人なし。しかるに随分諸国を修行して学問し候しほどに我身は不肖なり、人はおしへず、十宗の元起げんき勝劣たやすくわきまへがたきところに、たま仏菩に祈請して、一切の経論を勘えて十宗に合せたるに、倶舎*くしや宗は浅近なれども一分は小乗経に相当するに似たり。実宗は大小兼雑してみようごあり。宗は本は小乗、なかごろは権大乗ごんだいじよう、今は一向に大乗宗とおもへり。また教大師の律宗あり。別に習う事なり。法相*ほつそう宗はもと権大乗経の中の浅近の法門にてありけるが、次第に増長ぞうちようして権実と並び、結句はかの宗々を打ち破らんと存ぜり。たとえば日本国の将軍将門まさかど純友すみとも等のごとし。下に居て上を破る。三論*さんろん宗もまた権大乗の空の一分なり。これも我は実大乗とおもへり。厳宗はまた権大乗と云ひながら余宗にまされり。たとえば摂政・関白のごとし。しかるに法華経を敵となして立てる宗なる故に、臣下の身を以て大王に順ぜんとするがごとし。土宗と申すも権大乗の一分なれども、善導*ぜんどう法然*ほうねんがたばかりかしこくして、諸経をば上げ観経をばくだし、正像のをば上げ法の機をばくだして、末法の機にあい叶える念仏を取出して、機を以て経を打ち、代の聖教を失いて念仏の一門を立てたり。たとえば心かしこくして身はいやしき者が、身上げて心はかなきものを敬いて賢人をうしなふがごとし。宗と申すは一代聖教いちだいしようぎようの外に真実の法ありと云云。たとえばをやを殺して子を用い、主を殺せる所従のしかもその位につけるがごとし。言宗と申すは一向に大妄語だいもうごにて候が、深くその根源をかくして候へば浅機の人あらはしがたし。一向に誑惑おうわくせられて数年を経て候。まず天竺に真言宗と申す宗なし。しかるにありと云云。その証拠を尋ぬべきなり。所、大日経こゝにわたれり。法華経に引き向けてその勝劣をこれを見るところ、大日経は法華経より七重しちじゆう下劣の経なり。証拠かの経この経に分明なり〈ここにこれをひかず〉。しかるを或は云く、法華経に三重の主君、或は二重の主君なりと云云。もつてのほかの大僻見びやくけんなり。たとえば劉聡りゆうそうが下劣の身として愍帝びんていに馬の口をとらせ、超高ちようこうが民の身としてよこさまに帝位につきしがごとし。またかの天竺てんじく大慢婆羅門だいまんばらもんが釈尊を床として坐せしがごとし。漢土にも知る人なく、日本にもあやめずして、すでに四百余年をおくれり。
[36]かくのごとく仏法の邪正じやしよう乱れしかば王法もようやく尽きぬ。結句はこの国他国にやぶられて亡国となるべきなり。この事日蓮独り勘へ知れる故に、仏法のため王法のため、諸経の要文を集めて一巻の書を造る。よつて故最明寺入道殿*さいみようじにゆうどうどのに奉る。立正安国論りつしようあんこくろんと名づけき。その書にくはしく申したれども愚人は知りがたし。所、現証を引いて申すべし。
[37]そもそも人王八十二代隠岐の法王と申す王おわしましき。去ぬる承久三年〈太歳辛巳かのとみ〉五月十五日、伊賀太郎判官光末みつすえ打捕うちとりまします。鎌倉の義時よしときをうち給はむとての門出かどでなり。やがて五畿七道ごきしちどうつわものを召して、相州鎌倉の権の太夫義時を打ち給はんとし給うところに、還つて義時にまけ給いぬ。結句我身は隠岐おきの国にながされ、太子二人は佐渡の国・阿波の国にながされ給う。くぎよう七人はたちまち頸をはねられてき。これはいかにとしてまけ給いけるぞ。国王の身として、民のごとくなる義時を打ち給はんはたかきじをとり、猫の鼠をはむにてこそあるべけれ。これは猫のねずみにくらはれ、鷹の雉にとられたるやうなり。
[38]しかのみならず調伏の力を尽くせり。いわゆる天台の座主慈円僧正・真言の長者・仁和寺にんなじ御室おむろ園城寺おんじようじの長吏・総じて七大寺十五大寺、智慧戒行は日月のごとく、秘法は弘法・慈覚等の三大師の心中の深密の大法・十五壇の秘法なり。五月十九日より六月の十四日にいたるまで、あせ(汗)をながし、なづき(頭脳)をくだきて行いき。最後には御室、紫宸殿ししんでんにして日本国にわたりていまだ三度までも行はぬ大法、六月八日始めてこれを行なう程に、同じき十四日に関東の兵軍宇治勢多うじせたをおしわたして、洛陽みやこに打ち入りて三院を生け取り奉りて、九重ここのえに火を放ちて一時に焼失す。三院をば三国へ流罪し奉りぬ。また公七人はたちまちに頸をきる。しかのみならず御室の御所に押し入りて、最愛の弟子の小児勢多伽せいたかと申せしをせめいだして、終に頸をきりにき。御室、思いに堪えずして死に給いおわんぬ。母も死す。わらわも死す。すべてこのいのりをたのみし人、いく千万といふ事をしらず死にき。たまいき(生)たるもかひなし。御室、祈りを始め給し六月八日より同じき十四日まで、なかをかぞふれば七日に満じける日なり。この十五壇の法と申すは一字金輪いちじこんりん四天王してんのう不動ふどう大威徳だいいとく転法輪てんぽうりん如意輪によいりん愛染王あいぜんおう仏眼ぶつげん六字ろくじ金剛童子こんごうどうじ尊星王そんしようおう太元たいげん守護経しゆごきよう等の大法なり。この法のせんは国敵・王敵となる者を降伏して、いのちを召取てその魂を密厳浄土へつかはすと云う法なり。その行者の人々もまた軽からず、天台の座主慈円・東寺・御室・三井みいの常住院の僧正等の四十一人並に伴僧等三百余人なり云云。法と云ひ、行者と云ひ、また代も上代なり。いかにとしてまけ給いけるぞ。たとひかつ(勝)事こそなくとも、即時にまけおはりてかゝるはぢにあひたりける事、いかなるゆへといふ事を余人いまだしらず。国王として民を討たん事、鷹の鳥をとらんがごとし。たとひまけ給うとも、一年二年十年二十年もさゝうべきぞかし。五月十五日におこりて六月十四日にまけ給いぬ。わづかに三十余日なり。権の大夫殿はこの事を兼てしらねば祈もなし。かまへ(構)もなし。
[39]しかるに日蓮、小智を以て勘えたるにその故あり。いわゆるかの真言の邪法の故なり。僻事ひがごとは一人なれども万国のわづらひなり。一人として行ずとも一国二国やぶれぬべし。いわんや三百余人をや。国王とともに法華経の大怨敵となりぬ。いかでかほろびざらん。かゝる大悪法とし(年)をへて、やうやく関東におち下りて、諸堂の別当・供僧ぐそうとなり連々と行えり。本より辺域の武士なれば教法の邪正をば知らず。ただ三宝をばあがむべき事とばかり思ふゆへに、自然としてこれを用いきたりてやうやく年数を経る程に、今他国のせめをかうふりてこの国すでにほろびなんとす。関東八ケ国のみならず、叡山・東寺・園城・七寺等の座主・別当、みな関東の御はからひとなりぬるゆへに、隠岐の法皇のごとく、大悪法の檀と成り定まり給いぬるなり。
[40]国主となる事は大小みな王・釈・日月・天の御計らいなり。法華経の怨敵となり定まり給はばたちまちに治罰すべきよしを誓い給へり。随つて人王八十一代安徳天皇に太政入道の一門与力して、兵衛ひようえすけ頼朝を調伏せんがために、叡山を氏寺と定め山王を氏神とたのみしかども、安徳は西海に沈み、明雲みよううんは義仲に殺さる。一門みな一時にほろびおわんぬ。第二度なり。
[41]今度は第三度にあたるなり。日蓮がいさめを御用いなくて、真言の悪法を以て大蒙古を調伏せられば、日本国還つて調伏せられなむ。還著於本人げんじやくおほんにんと説けりと申すなり。しからばすなわち罰を以て利生を思うに、法華経にすぎたる仏になる大道はなかるべきなり。現世の祈は兵衛の佐殿、法華経を読誦する現証なり。
[42]この道理を存ぜる事は父母と師匠との御恩なれば、父母はすでに過去し給いおわんぬ。故道善御房どうぜんごぼうは師匠にておはしまししかども、法華経の故に地頭じとうにおそれ給いて、心中には不便ふびんとおぼしつらめども、外にはかたきのやうににくみ給いぬ。後にはすこし信じ給いたるやうにきこへしかども、臨終にはいかにやおはしけむ。おぼつかなし。地獄まではよもおはせじ。また生死をはなるゝ事はあるべしともおぼへず。中有ちゆううにやただよひましますらむとなげかし。貴辺は地頭のいかりし時、義城房*ぎじようぼうとともに清澄寺を出でておはせし人なれば、何となくともこれを法華経の御奉公とおぼしめして、生死をはなれさせ給うべし。
[43]この御尊は世尊説きおかせ給いて後、二千二百三十余年が間、閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず。漢土の天台・日本の伝教ほぼしろしめして、いさゝかひろめさせ給はず。当時こそひろまらせ給うべき時にあたりて候へ。経には行・無辺行等こそ出でてひろめさせ給うべしと見へて候へども、いまだ見へさせ給はず。日蓮はその人には候はねどもほぼこゝろえて候へば、涌の菩の出でさせ給うまでの口ずさみに、あらあら申して況滅度後のほこさき当り候なり。願くはこの功徳を以て父母と師匠と一切衆生に回向し奉らんと祈請仕り候。その旨をしらせまいらせむがために御不審を書きおくりまいらせ候に、他事をすててこの御本尊の御前にして一向に後世をもいのらせ給い候へ。またこれより申さんと存じ候。いかにも御房たちはからい申させ給へ。
[44]<人>日 蓮 <花押>花押
現代語訳

本尊問答抄


弘安元年(一二七八)、五七歳、於身延、浄顕房宛、和文、定一五七三—一五八六頁。

[1]〔問〕末代悪世に生きる凡夫の身として、なにを本尊として定むべきであろうか。
[2]〔答〕法華経の題目を本尊として崇敬すべきである。
[3]〔問〕それはどの経文、いずれの学僧の解釈によるのか。
[4]〔答〕法華経の第四巻の法師品第十には「薬王よ。この経を説き、あるいは読み、あるいは暗誦あんじゆし、あるいは書くところ、またはこの経のある所はどこであっても、七種の宝石で飾られた高く広い立派な塔を建てて供養せよ。この法華経の中には仏の全身がましますから、別に舎利を安置する必要はない」と説かれ、涅槃経の第四巻の如来性品には「葉よ。諸仏が師とするものは法である。そのために仏は法を敬い供養する。法が常住永遠であるから諸仏もまた常住なのである」と説かれ、天台大師の法華三昧懺儀ほつけさんまいせんぎには「道場の中によき高座を設けてただ法華経一部を安置せよ。仏像や舎利やその他の経典を安置する必要はなく、法華経一部だけで良い」と述べられている。
[5]〔問(疑って言う)〕天台大師の摩訶止観まかしかん第二に説かれている四種三昧のうちの御本尊は阿弥陀仏であり、不空三蔵が翻訳した法華経の観智儀軌は釈尊と多宝如来を本尊としている。どうしてこれらの意見を捨てて法華経の題目を本尊とするのか。
[6]〔答〕それは決して自分一人だけの考えではなく、前にかかげた経文および天台大師の解釈によるのである。ただし摩訶止観に示されている四種三昧の本尊が阿弥陀仏であるという疑問点については、四種三昧のうち常坐三昧じようざざんまい常行三昧じようぎようざんまい非行非坐三昧ひぎようひざざんまいの時の本尊が阿弥陀仏であるためであり、これは文殊問経、般舟三昧経や請観音経などに基づいているからである。これらの経典は、法華経が説かれる已前のものであり、(無量義経に四十余年未顕真実しじゆうよねんみけんしんじつと説かれているように)釈尊がいまだその御本意を説かなかった経典なのである。
[7]また四種三昧のうちの半行半坐三昧に二種類あり、一つは方等経の七仏八菩を本尊とする方等三昧であり、二つめは法華経の釈尊と多宝如来とを本尊とする法華三昧であるが、前に引用した法華三昧懺儀の内容から考えると、実は法華経を本尊とすべきなのである。不空三蔵の法華経の観智儀軌は宝塔品第十一の経文に基づいているのであり、法華経の教主釈尊と多宝如来とを本尊としているが、このような考え方は法華経の本意からはずれている。ただし前述した題目の御本尊は、釈尊と多宝如来をはじめ十方世界の諸仏の御本尊であって、法華経の行者の尊崇すべき本当の御本尊なのである。
[8]〔問〕日本国には倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・真言・浄土・禅・法華の十宗があるが、これらの諸宗は本尊がみなまちまちである。倶舎・成実・律の小乗の三宗は劣応身(一丈六尺の仏身、蔵教の教主)の小釈を本尊とし、法相・三論の二宗は通教の教主である勝応身(劣応身と同じ一丈六尺の仏であるが、その<傍>みめかたちもすぐれ、能力〈機根〉のすぐれた者が見ることができる)に似た大釈を本尊とし、華厳宗は蓮華台上の盧遮報身るさなほうじんの釈尊を本尊とし、真言宗は大日如来、浄土宗は阿弥陀仏、禅宗は始成正覚しじようしようがくの歴史上の釈を本尊とする。このように諸宗はみな仏を本尊としているが、どうして天台宗だけが法華経を本尊とするのか。
[9]〔答〕諸宗は仏を本尊とするのに対して、天台宗が法華経を本尊とするにはそれなりの意義がある。
[10]〔問〕その意義とは何であろうか。また仏と経とはどちらがすぐれているのであろうか。
[11]〔答〕本尊とは最もすぐれたものを用いるべきであって、たとえば儒教では三皇・五帝を本尊としているように、仏教でも釈尊を本尊としなければならない。
[12]〔問〕それならばなぜ釈尊を本尊としないで、法華経の題目を本尊とするのか。
[13]〔答〕それは前に引用した経文やその解釈を見ればわかるように、日蓮一人の勝手な考えではなく、釈尊も天台大師も法華経を本尊とされたのである。そのため末代の世にある日蓮も釈尊や天台大師と同じように、法華経を本尊とするのである。それは法華経は釈尊を生んだ父母であり、また諸仏の眼目であって、釈尊も大日如来も、十方世界のあらゆる諸仏もすべて法華経から生まれたのである。このため生みの親の法華経を本尊とするのである。
[14]〔問〕その証拠はどのようなことであるか。
[15]〔答〕法華経の結経である普賢経に「この大乗経典は諸仏の宝蔵であり、十方三世のあらゆる諸仏の眼目であり、過去・現在・未来の三世の諸仏を生む種がある」とあり、また「この大乗経典(方等経)は諸仏の眼であって、諸仏はこれによって肉眼にくげん天眼てんげん慧眼えげん法眼ほうげん仏眼ぶつげんの五眼を具えられた。仏の法身ほつしん報身ほうじん応身おうじんの三身はこの経から生まれるのである。この経は大海がすべての水をおおいつくしているように、すべての法を具えている。この大海のような経典から清浄なる仏の三身を生ずるのであり、この三種の仏身は人間や天上界の者の功徳を植える田地であり、供養を受けるべき者の中の第一である」と説かれている。これらの経文によれば、仏は生まれるもので、法華経は生むものである。仏は身で、法華経は<傍>たましいである。したがって仏の木像や絵像の開眼供養はただ法華経にかぎるのである。しかし今に一般に行なわれているように木像や絵像を造って、大日経の仏眼の印と真言とによって開眼供養をすることは、最もはなはだしい誤りである。
[16]〔問〕法華経を本尊とするのと、大日如来を本尊とするのとは、どちらがすぐれているのであろうか。
[17]〔答〕弘法大師や慈覚大師・智証大師の主張に従うならば、大日如来はすぐれ、法華経は劣るのである。
[18]〔問〕それはどういう理由からだろうか。
[19]〔答〕弘法大師の秘蔵宝鑰には十住心(真言宗の教相判釈きようそうはんじやく)を示して、「第八法華経、第九華厳経、第十大日経等」と記してある。これは教理の浅いものから深いものへの順序について示したものである。また慈覚大師の金剛頂大教王経疏、蘇悉地羯羅経略疏かつらきようりやくじよや智証大師の大日経旨帰などには「大日経第一、法華経第二」などと述べられている。
[20]〔問〕これらの意見に対するあなたの考えはどうか。
[21]〔答〕釈尊と多宝如来と十方世界の諸仏の御判定によれば、「已(法華経以前の諸経)今(法華経の開経の無量義経)当(法華経の結経の観普賢経と涅槃経)の釈尊の御生涯におけるすべての経典を超えて法華経が第一である」と説かれている(この経文によって私は法華経が最もすぐれていると確信している)。
[22]〔問〕日本国中の天台・真言等の僧侶をはじめ、王・臣や世の人々は疑問に思って「日蓮ほどでは、とても弘法・慈覚・智証の大師様がたには及ばない」と言うであろうが、この点はどうであろうか。
[23]〔答〕それならばこの日蓮に反論させて頂ければ、まず第一には弘法・慈覚・智証の大師は釈尊や多宝如来や十方世界の諸仏にまさっているのであろうか。次に第二には、今の日本国の王から民衆にいたるまでのすべての人々が教主釈尊の御子である。釈尊の最後の御遺言ともいうべき涅槃経に「法をよりどころとすべきであって、それを解釈した諸師の説は二義的なものであってよりどころとすべきではない」と述べているが、ここで「法華経が最もすぐれた第一の経典である」と言うのは、まさしくそのお言葉どおりに「法をよりどころとする」のである。このため、日蓮は弘法・慈覚・智証の三大師に及ばないと考えている僧侶や国王・臣・民衆や、それにつき従う者、牛馬までもが釈尊に対して不孝(恩知らず)の者となるのではないか。
[24]〔問〕弘法大師は法華経を読まなかったのであろうか。
[25]〔答〕弘法大師もすべてのお経(一切経)を読んだに違いないが、しかし、法華経・華厳経・大日経の教理の浅いか深いか、どの経典がすぐれているかを定めるのに、たとえば法華経の経文を「この法華経は諸仏如来の真実の法である。諸経の中にあって最もその下にある。(本来経文には、「最もその上にある」と説かれている)」と読んだり、また、「薬王よ、説いてきた経典は数多くあるが、それらの諸経の中で法華経は最も第三である(本来は「最も第一」と説かれているのに)」などと読んでしまっている。さらに慈覚大師や智証大師もまた「諸経の中にあって最もその中にあり(本来は「上」である)」「最もこれ第二(本来は第一である)」などと読みかえてしまっている。しかし釈尊・多宝如来・大日如来などのすべての諸仏は、法華経をすべての経典と比較して、「法華経が最も第一である(法華経法師品第十)」「法華経は最もその上にあり(法華経安楽行品第十四)」と説かれているのである。このように釈尊・十方世界の諸仏と慈覚大師・智証大師・弘法大師の三大師との、どちらを根本とすべきであろうか。日蓮のごときものが言うことだとして、釈尊や十方世界の諸仏に背いても、三大師の意見に従うと言うのだろうか。
[26]〔問〕弘法大師は讃岐の国の人で、勤操僧正の弟子である。三論宗・法相宗などの六宗を習い極めて、去る延暦二十三年五月には桓武天皇の勅宣をこうむって中国に渡り、順宗皇帝の勅許を得て、青竜寺の慧果和尚から真言の大法を伝えられた。慧果和尚は大日如来から七代目であって、かめから瓶へ水を移すように真言の法を承け継いでいるので、人はかわっても法門は大日如来と同じである。大日如来から金剛・竜猛菩・竜智菩・金剛智三蔵・不空三蔵・慧果和尚・弘法大師へと伝える瓶はちがっても、伝えられる水は同じ真言の法門である。弘法大師は慧果和尚から真言の法を学び、三千余里の海を渡って日本国に帰り、平城・嵯峨・淳和の三天皇に授け奉った。そして去る弘仁十四年正月十九日に東寺建立の勅許を賜わり、そこで真言の秘密の法を布教した。このため五畿(山城やましろ大和やまと河内かわち和泉いずみ摂津せつつ七道しちどう東海とうかい東山とうさん北陸ほくりく山陰さんいん山陽さんよう南海なんかい西海せいかい)および六十六国(五畿七道は六十六ケ国からなる)と壱岐いき対馬つしまの二島、すなわち日本全国における、真言の金剛鈴こんごうれいを振り、金剛杵を持つほどの人は一人たりとも弘法大師の弟子でないものはない。
[27]また慈覚大師は下野の国の人で、広智菩(下野の小野寺の僧、はじめ鑑真の弟子道忠に師事しのち最澄から天台の教義を直授し関東に布教した)の弟子である。大同三年に十五歳で比叡山に登り、十五年の間、法相宗や三論宗などの六宗を学び、また法華宗・真言宗の二宗を学んだ。承和五年に唐(中国)へ渡り、会昌年中へとかけて、法全・元政・義真・法月・宗叡・志遠などの天台宗・真言宗の徳の高い高僧に出会って顕教・密教の二教を習い極めた。中でも真言宗の研究には十年をついやし、大日如来からは九代目の祖となった。日本国に帰朝して、嘉祥元年には仁明天皇の師となり、仁寿・斉衡年間に金剛頂経疏七巻、蘇悉地経疏七巻を造り、また比叡山に総持院を建立して、第三の座主となった。日本の天台宗における真言の法門はここから始まったのである。
[28]また智証大師は讃岐の国の人で、天長四年に十四歳で比叡山に登り、義真和尚(最澄の弟子で、相模の国の人、師の入唐にもつき従った)の弟子になった。日本にては義真和尚・慈覚大師・円澄大師(比叡山第二の座主、最澄の弟子)・別当大師光定こうじよう(最澄の弟子)などに三論宗・法相宗などの六宗および、法華・真言の二宗を習ったが、去る仁寿元年に文徳天皇の勅宣によって中国に渡り、唐の第十六代宣宗皇帝の大中だいちゆう年中に法全阿闍梨・良和尚などの諸師から七年の間、顕教・密教の二教を学んだが、天安二年に日本国に帰朝して、文徳天皇・清和天皇の師となった。これらの三師を代々の天子や臣民は現世のため、後生のために太陽や月のように仰ぎ尊んで帰依したのである。このため、何もわからない一般の人々は、ただ仰いで信ずるばかりであった。涅槃経の「法をよりどころとすべきであって、人をよりどころとしてはならない」という釈尊のいましめに背くなら別であるが、背かない限りは、どうして仏にたよらず弘法大師らの人師にたよることができようか。結局、このようなことについて、どのように心得たら良いのであろうか。
[29]〔答〕釈尊が御入滅になってから一千年の間、インドに仏法が流布した順序について述べれば、はじめの五百年には小乗教、その後の五百年には大乗教が流布した。そこには小乗と大乗、権教(方便教)と実教(真実教)との論争はあったが、顕教と密教の区別はいまだ明らかではなかった。釈尊の入滅後の一千年を経て像法の時代に入って十五年目に仏法がはじめて中国に渡ったが、はじめは儒教と仏教との論争があって、その優劣が定まらなかった。そのうちに次第に仏法が流布するにつれて、小乗と大乗、権教(方便教)と実教(真実教)との論争が生じてきた。しかし、それらの諸教については、まだそれほどの違いはなかったのであるが、中国に仏法が渡って六百年ほど経つと、玄宗皇帝の代に、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の三師がインドより来たりて真言宗を立てたので、華厳宗や法華宗などはひどくくだされてしまった。このため上は天子より下は万民まで真言と法華経は天地雲泥ほどの違いがあるように思ってしまったのである。その後、徳宗皇帝の代に妙楽大師が出て、真言は法華経に比べれば、はるかに劣っていると思ったが、強いてそれを主張することもなかったので、法華と真言の優劣をよくわきまえる人もなかった。
[30]日本国へは、人皇三十代の欽明天皇の御代に、百済の国から仏法がはじめて渡ったが、最初の三十余年間は、神と仏とについての論争のうちに過ぎた。そして三十四代の推古天皇の御代に聖徳太子がはじめて仏法を流布させた。高麗こまの慧観、百済の観勒の二人の高僧が来て三論宗を布教し、孝徳天皇の御代には道昭法師が中国へ渡って日本に禅宗を伝え、天武天皇の御代には新羅の智鳳が法相宗を伝えた。第四十四代の元正天皇の御代に善無畏三蔵が大日経を渡したが、これは流布しなかった。聖武天皇の御代に審祥大徳、朗弁僧正が華厳宗を渡し、第四十六代孝謙天皇の御代には鑑真和尚が律宗と法華経を渡したけれども、律ばかり布教して、法華経は布教しなかった。
[31]その後第五十代の桓武天皇の御代の延暦二十三年七月、伝教大師が勅宣によって中国へ渡り、妙楽大師の弟子の道・行満の二師に会って法華宗の定と慧とを伝授し、南山の道宣律師の菩戒についても、これら二師から伝えられた。さらに順暁和尚から真言秘密の法を伝授して日本国に帰朝したが、真言と法華との優劣は、中国の学者の説によっては定めることができないと思ったので、御自身で、大日経と法華経についての解釈を比較してみると、大日経は法華経に劣るばかりでなく、大日経の解説(特に一行いちぎよう阿闍梨の大日経疏)は、天台の心を取って真言宗に入れたものという結論に達した。その後、弘法大師は真言宗の根本経典である大日経を下されたのを恨みに思ったのであろうか。真言宗を立てようとして人をあざむいて「法華経は大日経に劣るばかりでなく、華厳経よりも劣り、法華経は第三番目の経典である」などと述べた。しかし、慈覚大師・智証大師が真言の教えを重要視して、比叡山や園城寺に弘法大師の教義を流布させるようなことがなければ、弘法大師の間違った意見が日本国に流布することはなくて済んだであろう。慈覚大師と智証大師は華厳経が法華経よりもすぐれているとは認めなかったが、法華経と真言の大日経との優劣については、全く弘法大師の意見に賛同したので、二人は思ってもみなかったことであろうが、意外にも自分の属する天台宗の日本の開祖である伝教大師の敵となってしまったのである。
[32]その後の日本国の多くの高僧たちは、それぞれ智慧もあり徳も高かったが、弘法大師・慈覚大師・智証大師の三大師には及ばなかったので、今に至るまでの四百余年の間、日本国の人々は一同に真言(大日経)は法華経よりもすぐれていると定めてしまったのである。たまたま天台宗を学んで、真言は法華に及ばないことを知る者があっても、比叡山の座主や仁和寺にんなじの御室などの高貴な人々の権威を恐れて、それを口に出す者はいない。あるいはまた、天台宗を学んでも、真言が法華に及ばないことをよくは理解していないために、わずかに「真言と法華は同じである」と言う者があっても、真言宗の人々は「それは思いもよらない誤りだ」といってあざけり笑って全く相手にしないのである。
[33]このために、日本国中にある数十万の寺社はみな真言宗になってしまった。たまたま真言宗と法華宗を共に修行する寺があっても、真言を主君のようにして法華を家来のようにあつかったり、あるいは兼ねて両方を学ぶ人々も心の中ではみな真言の方を信じているのである。諸寺・諸山の座主、長吏、検校、別当など(一寺の主長や、諸寺を統轄する僧官)上に立つものがみな真言宗であり、上の好むように下もこれに従うから、日本国中は一人残らず真言宗である。
[34]このため日本国中の人々は、口には経文を「法華最第一」と読んでも、心には「法華最第二」「法華最第三」と思っている。さらには心ばかりでなく、口にも言うし、身にも行なっているのである。身と口とこころの三つにおいて「法華最第一」と読む法華経の行者は、伝教大師よりは以後、四百余年の間に一人もいない。まして、「よく法華経をたもつ」行者があろうとは思われない。法華経の法師品第十に「この経は釈尊の在世にすら怨が多かった。まして釈尊の入滅後はなおさらである」と説かれているように、末法の今日の衆生は、上は天子から下は万民にいたるまで、みな法華経に怨をなすかたきである。
[35]日蓮は東海道十五箇国のうち、第十二にあたる安房の国の長狭郡東条の郷の片海の海人の子である。生年十二歳にして、同じ村の清澄寺に登って修行したが、遠国であるために、寺とは言っても学問を極めた人とてなかった。そこで随分と諸国を巡って修行をして学問もしたが、自分は不肖であるし、教えてくれる人もないので、十宗の起源やそれらの優劣について容易にわきまえることができなかった。たまたま仏・菩に祈請をこめ、すべての経論について考え、それを十宗に照らし合わせてみると、倶舎宗は現象界の立場にあって教えを説く、理の浅い教えであって、小乗三蔵教に相当するようである。成実宗は小乗と大乗をまぜ合わせた教えであって誤りがある。律宗は、もとは小乗教であるが、中頃は権大乗教(方便をまじえた大乗の教え)となり、今は実大乗教(真実の大乗教)と思っている。ほかに伝教大師が道から伝えられた律宗があるが、これはここでいう律宗とは異なっている。法相宗は、はじめは権大乗教のうちでも浅い法門であったが、だんだんと進んで実大乗教と並んで、ついには天台宗のような実大乗の宗を破ろうとするにいたった。たとえば平将門や藤原純友が臣下の身でありながら天子にそむいたようなものである。三論宗もまた権大乗教の中の空を説く宗であるが、これも自分は実大乗であると思ってしまっている。華厳宗は権大乗教とは言っても、ちょうど摂政・関白のようなもので、他の諸宗よりはまさっている。しかし法華経を敵として立てた宗であるから、臣下の身分でありながら大王に反逆しようとするようなものである。浄土宗も権大乗教の一つであるが、善導や法然が巧妙につくって、浄土経典以外の諸経は内容が高度にすぎる教えであるとし、無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の浄土三部経をわかりやすい教えとし、それと同じに、正法・像法の時代は機根がさとく(衆生が仏教を理解する能力が高いこと)、末法の時代は機根が鈍いものと定めた。そして末法の劣った衆生の機根(能力)にふさわしい教えとして念仏を取り立てて、仏法の正否をもととせず、衆生の機根をもととして、諸経を論破して、ついには釈尊の御生涯におけるすべての聖典を捨てて、念仏という一門を樹立した。それはたとえるに、身分の低い者がいつわって、心がおろかなものをほめあげ、それを敬い、本当の賢人を捨ててしまうようなものである。禅宗は釈尊の御生涯におけるすべての聖典のほかに、別に真実の法があることを主張する。そのようなおろかな考えは、釈尊の教えを捨てて自分の考えを尊重することなので、たとえば親を殺してその子を用いたり、臣下が主君を殺してその位についたようなものである。真言宗はまったく真実から遠いことを語る者(大妄語)であるばかりか、深くその根源をかくしていて、あさはかな者には見破ることができないので、いままで長い間たぶらかされてきたのである。第一にインドには真言宗という宗はないのに、あるのだと言っている。その証拠はどこにあるのか。とにかく、その根本経典である大日経が日本に渡来してここにあるのだから、それを法華経に引き合わせて優劣について考えてみると、大日経は法華経よりは七重について劣っている。その証拠は大日経にも法華経にも明らかなことであるが、ここではその文を引用することは省略しておく。しかし真言宗の人々は、大日経は法華経より三重にわたってすぐれた主君であるとか二重にすぐれた主君であるなどと言うが、これはもってのほかの誤った考え方である。これはたとえば、漢の劉聡が低い身分でありながら、晋(を亡ぼして、その国の王である)愍帝に馬のくつわを取らせたり、秦の奸臣かんしんであった趙高が、謀略をめぐらして、ほしいままに帝位についたようなものである。また、インドの大慢婆羅門が、釈尊の像を高座の足に作って、その上にすわったのも同じようなことである。中国にはこのような点についてよく理解している人物もなく、日本にも(真言宗について)不審に思う者もなく、真言宗が伝来してすでに四百余年が過ぎた。
[36]このように仏法が正しいか誤っているかを判断することが乱れてしまったので、世の政道も亡び、ついには他国に侵略されて、今、日本国は亡びようとしている。このことを知っているのは日蓮一人である。そこで仏法のため、政道のために、諸経から重要な経文を集めて一巻の書を造り、立正安国論と名づけて故最明寺入道時頼殿に上呈した。その書の中で詳しく述べたのであるが、とてもおろかな人々には理解できないであろうから、直接にその証拠を引いて論じよう。
[37]人王第八十二代の後鳥羽天皇は、禅位して法皇となったが、鎌倉幕府の執権しつけんの北条義時を打倒せんとして、その門出として去る承久三年〈太歳辛巳〉五月十五日に(六波羅にあって京都守護にあたっていた)伊賀太郎判官光季みつすえを打ち捕らえた。そして五畿七道の兵を集めて相模国の鎌倉の義時を討とうとしたが、かえって義時に破られて、結局のところ、御自身は隠岐の島へ、二人の太子は佐渡の国(順徳天皇)、阿波の国(土御門つちみかど上皇)へ遷され、公七人(坊門大納言藤原忠信ぼうもんだいなごんふじわらただのぶ中納言藤原有雅ちゆうなごんふじわらありまさ按察光親あんぜちきようみつちか中納言藤原宗行ちゆうなごんふじわらむねゆき一条宰相中将信能いちじようさいしようちゆうじようのぶよし甲斐宰相中将範茂かいさいしようちゆうじようのりしげ大堅物光行だいけんもつみつゆき)は頸を刎ねられてしまった。どうしてこのように負けてしまったのであろうか。国王の御身として、臣下のようなものである義時を討つということは、鷹が雉を捕り、猫がねずみを取るようなものであるべきなのに、かえってこれは猫がねずみに食われ、鷹が雉に取られたようなものである。
[38]そればかりでなく、朝廷方は鎌倉調伏の祈に力を注いだのであった。天台の座主の慈円僧正、真言の長者、仁和寺の御室、園城寺の長吏をはじめ、奈良の七大寺十五大寺の、智慧と戒律の修行が太陽や月のごとくに備わった高僧たちが、弘法大師・慈覚大師・智証大師の三大師が真言秘密の大法としてたてられた十五壇の秘法によって、五月十九日から六月十四日まで、汗を流し頭をくだいて執り行なわれたのである。最後には、日本国では三度までは行なわれない大法を、仁和寺の御室の道助法親王どうじよほうしんのうが紫宸殿で六月八日から執り行なった。するとその月の十四日に鎌倉の軍勢が宇治・勢多の守りを押し破って京都に打ち入り、後鳥羽、土御門、順徳の三院を生け取りに奉って、禁中(皇居)に火を放って一気に焼き払った。そして、三院を三島へ流罪に遷し奉り、七人の公の頸を切った。そればかりでなく、御室の御所に押し入って、道助法親王が愛していた勢多童子を引き出して、頸を切ってしまった。御室は悲しみにたえず、思い死にに死んでしまった。このようにして勢多の母子も死ねば、この祈を頼みとした人々は、いく千万とも数えきれぬほど死んでしまい、たまたま生き残ったものがあっても、生きる甲斐もないのであった。御室が祈を始めた六月八日から十四日までの、わずか七日ばかりを過ごしたことである。この時に行なわれた十五壇の秘法というのは、一字金輪法、四天王法、不動明王法、大威徳法、転法輪法、如意輪法、愛染王法、仏眼法、六字法、金剛童子法、尊星王法、太元、守護経等の大法である。この法の目的とするところは、国の敵・王の敵となる者を調伏ちようぶくして、生命を召し取り、その魂を大日如来のいる密厳浄土へつかわすという法である。また、この祈を行なった人々もいずれも地位の軽くない高僧であって、天台の座主(比叡山の座主)慈円僧正、当時の長者親厳僧正しんごんそうじよう、仁和寺の御室道助法親王、三井常住院の良尊りようそん僧正などの四十一人、ならびに導師の供をする僧など三百余人であった。祈の法といい、行者といい、その時代といい、少しも申し分はないのに、どうして朝廷は戦いに負けたのであろうか。たとえ勝たないまでも、たちまちに負けてしまって、このような恥をさらしたのはどういう理由によるのか、誰もそれを知っている者はいない。国主として臣下を征討せいとうするのであるから、鷹が鳥を取るほどのことである。たとえ負けるとしても、一年や二年、十年や二十年は持ちこたえそうなものである。しかし五月十五日に事が起こって、六月十四日にはもう負けてしまったのであるから、わずかに三十日余りにすぎない。その一方で鎌倉の権大夫ごんのたゆう義時はもちろんそのようなこととは知らないので祈もしなければ、何の準備もしなかったのである。
[39]そこで日蓮つたなき考えをもって、その理由を検討してみるに、このような結果になったのは、つまり真言のまちがった法で祈したからである。誤りはたとえ一人で行なっても、それは万国のわざわいになるもので、一人で行なった祈でも、一国も二国も亡びてしまうものである。まして三百人の僧侶が、国主と一緒になって法華経のおおいなるかたきとなって真言の祈を行なったのであるから、どうして亡びないでいられよう。このようなわざわいを招いた大悪法が、年のつにしたがってだんだんと関東へと移り、真言の僧が諸堂の別当などになって、しきりにまちがった法を行なうようになった。関東の者は、もともと田舎武士であるから、教えが正しいか間違っているかなどは知るよしもなく、ただ仏・法・僧の三宝を崇めなければならないと思っているにすぎなかったから、自然にそのまま真言を信ずるようになった。そして年数を重ねるうちに、また真言という間違った法のために、鎌倉も他国からせめられて、この国もまさに亡びようとしている。関東八ケ国だけでなく、比叡山・東寺・園城寺・奈良七大寺などの座主や別当もすべて鎌倉幕府の支配するところとなったので、隠岐の法皇のように、北条氏もこの真言の大悪法の信者と定まったのである。
[40]国主となるということは、国の大小にかかわらず、みな梵天王・帝釈・日天・月天・四天王の<傍>おはからいによるのであるから、それらの諸天は法華経の敵となった者を、ただちに罰することを誓っている。このため太政入道平清盛の一門は、人王第八十一代の安徳天皇を奉じ、兵衛佐源頼朝よりともを討つために、比叡山を氏寺とし、日吉山王ひえさんのうを氏神として信仰したが、(法華経に背いた信仰だったので)安徳天皇はだんうらに身を沈められ、比叡山の座主の明雲僧正は木曾義仲に殺され、平家の一門は、みな一時に亡びてしまった。まちがった法を信奉したために身を亡ぼした現証は、平家の滅亡と承久じようきゆうの乱の二度である。
[41]今度の蒙古調伏もうこちようぶくは三度目である。日蓮の諫言かんげんを用いることなしに、真言の悪法によって大蒙古調伏の祈をするならば、かえって日本国が調伏されてしまうであろう。法華経の観世音菩普門品かんぜおんぼさつふもんぼん第二十五に「還著於本人」とあって、呪った者にその呪いがかえるというのはこのことである。そこで罰をうけることから利益りやくについて考えてみると、仏になる成仏への大道は法華経よりほかにはない。源頼朝が平家を破ったのは、平生へいぜいから法華経を読誦していた功徳であって、これは現世に利益を得るなによりの証拠である。
[42]日蓮がこの道理を知ることができたのは、父母と師匠との御恩であるが、父母はすでに亡くなってしまった。亡くなられた道善御房は師匠ではあったが、弟子の日蓮が法華経を布教したことから、念仏の信者の地頭の東条景信とうじようかげのぶにはばかって、心の中では日蓮を不便と思ったであろうが、表面では敵のようににくんでおられた。その後、少しは法華経を信じたように聞いたけれども、臨終の時はどうであったのだろうか。たいへんおぼつかなく心配である。よもや地獄には堕ちられまいが、生死の苦を離れたとは思われない。現世と来世の間の中有の世界にさまよいただよっているのかと思うとたいへん残念である。あなたは地頭の東条景信が(建長五年四月二十八日の立教開宗の日に)怒って日蓮を殺そうとした時に、義城房と二人で清澄寺を出て、日蓮を守ってくれたお方である。なにごとがなくとも、それを法華経への御奉公と思えば、生死を離れることができよう。
[43]この本尊は、釈尊がお説きになってから二千二百三十余年の間、一閻浮提(世界中)に、いまだかつて布教した者が一人もいない。中国の天台大師と、日本の伝教大師とは、ほぼ知っていたが、少しも布教しなかった。末法の今日こそ流布すべきことである。法華経には上行菩・無辺行菩などの本化地涌ほんげじゆの菩が世に出現して流布させるとあるが、いまだ出現されないようである。日蓮は、その人ではないが、ほぼ心得ているので、地涌の菩が出現されるまでの先駆として、だいたいこれを布教して法師品第十の「況滅度後」(釈尊の入滅後に法華経を布教する者は必ず迫害にあう)の未来を予見した経文(未来記)の鉾先ほこさきに当ったのである。この功徳を、どうか父母と師匠と世のすべての人々に回向し申し上げたいと祈念したい。この仔細しさいを知らせようと思い、御不審に思っておられることについてこの書を送るので、真言や念仏などの他事をうちすてて、この御本尊の御前でひたすら後生をお祈りなさい。また後の便で申し上げよう。どうか御房達へもよろしくお伝え下さるように。
[44]<人>日 蓮 <花押>花押