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富木入道殿御返事(治病抄)

全集 第2巻 2段 定本: #20294(定本の該当ページへ)

書下し

富木入道殿御返事ときにゆうどうどのごへんじ


[1]御消息に云く、凡そ疫病いよいよ興盛等と云云。夫れ人に二の病あり。一には身の病、いわゆる地大百一・水大百一・火大百一・風大百一。已上、四百四病なり。この病はたとい仏にあらざれどもこれを治す。いわゆる治水ちすい流水るすい耆婆*ぎばへんじやく等が方薬、これを治するにいゆてえずという事なし。二には心の病、いわゆる三毒乃至八万四千の病なり。この病は二天・三仙・六師等も治しがたし。いかにいわんや神農・黄帝等の方薬及ぶべしや。
[2]また心の病重々に浅深勝劣分れたり。六道の夫の三毒・八万四千の心病は小仏小乗含経・舎・実・宗の師・師、これを治するにゆいてえぬべし。ただしこの小乗の者等小乗を本として或は大乗を背き、或は心には背かざれども大乗の国に肩を並べなんどする、その国その人に諸病起る。小乗等をもつてこれを治すれば、諸病は増すとも治せらるる事なし。諸大乗経の行者をもつてこれを治すれば則ち平す。また厳経・密経・若経・日経等の権大乗の人々各々劣謂勝見れついしようけんを起して、我宗は或は華経と斉等、或は勝れたりなんど申す人多く出来し、或は国主等これを用いぬれば、これによて三毒・八万四千の病起る。返つて自の依経をもつて治すれどもいよ倍増す。たとい法華経をもつて行うとも験しなし。経は勝れてをはしませども行者、僻見の者なる故なり。
[3]法華経にまた二経あり。いわゆる迹門と本門となり。本迹の相違は水火天地の違目なり。例せば前と法華経との違目よりもなお相違あり。爾前と迹門とは相違ありといへども相似の辺もありぬべし。所説に八教あり。爾前の円と迹門の円は相似せり。爾前の仏と迹門の仏は劣応・勝応・報身・法身異れども始成の辺は同じきぞかし。
[4]今本門と迹門とは教主すでに久始のかわりめ、百歳のをきなと一歳の幼子のごとし。弟子また水火なり。土の先後いうばかりなし。しかるを本迹を混合すれば水火を弁えざる者なり。しかるを仏は分明に説き分け給いたれども仏の御入滅より今に二千余年が間、三国並に一浮提の内に分明に分けたる人なし。ただ、漢土の台、日本の教、この二人計りこそほぼ分け給いて候へども、本門と迹門との大事に円戒いまだ分明ならず。ずる処は天台と伝教とは内には鑒み給うといへども、一には時来らず、二には機なし、三には譲られ給はざる故なり。
[5]今末法に入りぬ。涌出現して弘通あるべき事なり。今法に入つて本門のひろまらせ給うべきには、小乗・権大乗・迹門の人々、たといとがなくとも彼々の法にてはしるしあるべからず。譬へば春の薬は秋の薬とならず。たといなれども春夏のごとくならず。いかにいわんやかの小乗・権大乗・法華経の迹門の人々、或は大小・権実に迷える上、上代の国主彼々の経々に付きて寺を立て田畠を寄進せる故に、彼の法を下せば申し延べがたき上、依怙えこすでにうせるかの故に、大瞋恚を起して、或は実経を謗じ、或は行者をあだむ。国主もまた一には多人につき、或は上代の国主の崇重の法をあらためがたき故、或は自身の愚痴の故、或は実教の行者をいやしむゆへ等の故、かの誑人等の語ををさめて実教の行者をあだめば、実教の守護神の・日月・天等その国を罰する故に、先代未聞の難起るべし。いわゆる去今年、去ぬる正嘉等の疫病等なり。
[6]疑て云く、汝が申すがごとくならば、この国華経の行者をあだむ故に善神この国を治罰する等ならば諸人の疫病なるべし。何ぞ汝が弟子等またやみ死ぬるや。
[7]答て云く、汝が不審最もそのいわれあるか。ただし一方を知て一方を知らざるか。善と悪とは無始よりの左右の法なり。権教並に諸宗の心は善悪は等覚に限る。もし爾者しからば等覚までは互に失あるべし。法華宗の心は念三千、性悪性善は妙覚の位になお備われり。元品の法性は天・釈等と顕れ、品の無明は第六天の魔王と顕れたり。善神は悪人をあだむ、悪鬼は善人をあだむ。末法に入りぬれば自然に悪鬼は国中に充満せり。瓦石・草木の並びしげきがごとし。善鬼は天下に少し。聖賢まれなる故なり。この疫病は念仏者・真言師・宗・律僧等よりも、日蓮が方にこそ多くやみ死すべきにて候か。いかにとして候やらむ、彼等よりもすくなくやみ、すくなく死に候は不思議にをぼへ候。人のすくなき故か。また御信心の強盛なるか。
[8]問て云く、日本国にこの疫病先代ありや。
[9]答て云く、日本国は神武天皇よりは十代にあたらせ給いし崇神天皇の御代みよに疫病起りて日本国やみしぬるなかばにすぐ。王始めて照太神等の神を国々に崇めしかば疫病やみぬ。故に崇神天皇と申す。これは仏法のいまだわたらざりし時の事なり。人王第三十代並に一二の三代の国主並に臣下等、疱瘡と疫病に御崩去等なりき。その時は神にいのれども叶わざりき。
[10]ぬる人王第三十代欽明天皇の御宇に、百済国より経論僧等をわたすのみならず、金銅の教主尊を渡し奉る。蘇我の宿すくね等崇むべしと申す。物部の大連おおむらじ等の諸臣並に万民等は一同にこの仏は崇むべからず、もし崇むるならば必ず我国の神、瞋りをなして国やぶれなんと申す。王は両方弁えがたくおはせしに、三災七難先代に超えて起り、万民皆疫死す。大連等便りをえて奏問せしかば、僧尼等をはぢ(恥)におよぼすのみならず、金銅の釈仏をすみををこして焼き奉る。寺また同じ。爾の時に大連やみ死しぬ。王も隠れさせ給い、仏をあがめし蘇我の宿もやみぬ。大連が子、守屋の大臣云く、この仏をあがむる故に三代の国主すでにやみかくれさせ給う。我父もやみ死しぬ。まさに知るべし、仏をあがむる徳太子・馬子等はをやのかたき、きみの御かたきなりと申せしかば、穴部あなべの王子・宅部やすべの王子等、並に諸臣已下数千人一同によりき(与力)して、仏と堂等をやきはらうのみならず、合戦すでに起りぬ。結句は守屋討たれおわんぬ。仏法渡りて三十五年が間、年々に三災七難疫病起りしが、守屋馬子に討るるのみならず、神もすでに仏にまけしかば、災難忽に止みおわんぬ。
[11]その後の代々の三災七難等は大体は仏法の内の乱れより起るなり。しかれども或は一人二人、或は一国二国、或は一類二類、或は一処二処の事なれば、神のたたりもあり、法の故もあり、民のなげきよりも起る。しかるにこの三十余年の三災七難等は一向に他事を雑えず。日本一同に日蓮をあだみて、国々郡々郷々村々人ごとに上一人より下万民にいたるまで、前代未聞の大瞋恚を起せり。見思未断の凡夫の品の無明を起す事これ始なり。神と仏と法華経にいのり奉らばいよ増長すべし。ただし法華経の本門をば華経の行者につけて除き奉る。結句は勝負を決せざらむ外はこの災難みがたかるべし。
[12]観の十境十乗の観法は天台大師説き給いて後、行ずる人なし。楽・教の御時少し行ずといへども敵人ゆわきゆへにさてすぎぬ。止観に障四魔と申すは権経を行ずる行人の障りにはあらず。今日蓮が時具さに起れり。また天台伝教等の時の三障四魔よりも、いまひとしをまさりたり。一念三千の観法に二つあり。一には理、二には事なり。天台・伝教等の御時には理なり。今は事なり。観念すでに勝る故に、大難また色まさる。彼は迹門の一念三千、これは本門の一念三千なり。天地はるかにことなりことなりと、御臨終の御時は御心へあるべく候。恐々謹言。
[13]<日>六月二十六日
[14]<人>日 蓮 <花押>花押
[15]へもん殿の便宜の御かたびらび候おわんぬ。今度の人々のかたがたの御さい(斎)ども、左衛門の尉殿の御日記のごとく給びおわんぬと申させ給候へ。田入道殿のかたのもの、ときどのの日記のごとく給び候おわんぬ。この法門のかたつらは左衛門の尉殿にかきて候。こわせ給びて御らむあるべく候。
現代語訳

富木入道殿御返事(治病抄)


弘安元年(一二七八)、五七歳、於身延、富木常忍宛、和文、定一五一七—一五二二頁。

[1]御手紙によれば「最近疫病がいよいよ盛んに流行している」とのことである。人には二通りの病があるといわれる。その一つは身の病で、私たちの肉体は地・水・火・風の四大という要素からできているが、その地大に百一、水大に百一、火大に百一、風大に百一の病がそれぞれあるので、全部で四百四の病があるわけである。ただし、この肉体の病気というものは仏の力でなくとも、世に名医とうたわれた治水・流水・耆婆・鵲などの医師が薬を調合することによって、治しない病はない。二つには心の病で、これには貪・瞋・痴の三毒をはじめとして、八万四千もの多くの病がある。この病は婆羅門の神である摩醯首羅まけいしゆら紐天びちゆうてんの二天、数論すろん外道の毘羅・勝論外道の優楼僧・苦行外道の勒沙婆ろくさばの三仙、富蘭ふらんな末伽利まつかり刪闍夜さんじやや阿耆多あぎたししや羅鳩駄からくだ尼乾陀にけんだの六師外道などでも治すことはできない。ましてや中国の上代の名君の神農・黄帝などの薬のおよぶところではない。
[2]また心の病にも浅い・深い・重い・軽い、などの種々がある。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道の凡夫の貪・瞋・痴の三毒の病をはじめとして、八万四千の心の病があるが、これらは小乗の仏、小乗の阿含経、倶舎・成実・律宗の智者・学者などが治療して治しないことはない。ただし、この小乗の人々が小乗の考え方にとらわれて、大乗の教えに背いたり、大乗に背く心はなくとも大乗の弘まっている国に肩を並べようなどとすると、その国にもその人々にも種々の病が起こるのである。小乗などの教えによってこの慢心の病を治そうとすれば、かえって病気は重くなるばかりで治すことはできない。しかし大乗経の行者ならば治すことができる。また華厳経・解深密経・般若経・大日経などの方便を交えた大乗経を信奉する人々が、それぞれ自分の信じる教えが劣っているのにもかかわらず勝っているなどという偏見を起こして、自分の宗旨は法華経と等しいとか、勝れているなどという人々が多く出て来て、もし国主が偏見だということに気づかずに、その意見を用いたならば、これによって三毒・八万四千の病が起こるのである。その病をそれぞれ自分がよりどころとする経によって治そうとすれば、かえって病は重くなるばかりである。この場合には、たとえ法華経によって治そうとしても効果はない。それは経は優れていても、それを用いる人が間違った考えを持っているからである。
[3]法華経の中にまた二経ある。迹門(前半)と本門(後半)である。本門と迹門とのちがいは、水と火と、天と地ほどにはっきりとしたものがある。たとえば爾前の諸経(法華経以前に説かれた経)と法華経とのちがいよりも、なおはっきりしている。爾前と迹門とはちがいはあるが、また似ている点もないことはない。爾前の経には化儀・化法のそれぞれ四教が説かれており八教となっているが、そこに示される円教と迹門の円教は似ている点も認められる。また爾前の仏と迹門の仏は劣応身(凡夫・二乗・位の浅い菩の見る仏身)と勝応身(すぐれた機根の者が見る仏身)、報身(修行の功徳によって成仏した円満の仏)と法身(仏の自性である真如の仏身)とのちがいはあっても、伽耶城の菩提樹下において三十歳の時に成道された仏という点は同じである。
[4]ここで本門と迹門との間には、教主は本門では久遠実成の永遠の仏であるが、迹門では始成正覚の歴史上の仏であるという違いがあって、百歳の老人と一歳の幼児のようなはっきりとした差がある(本門がはるかにすぐれている)。仏の上ばかりではない、弟子の上においてもまた水と火のちがいがある。ましてや仏国土について(寂光・実報・方便・同居の四土を説く)迹門と、(永遠の常寂光の浄土を説く)本門との違いについてはことばでは言い表わしようがない。これほどちがっている本門と迹門を混同するとすれば、水と火の区別をわきまえない者と同様である。この区別について仏は明らかに説き分けてあったけれども、仏が入滅してから今まで二千年余の間、インド・中国・日本ならびに裟婆世界の中ではっきりと区別した人はなかった。ただし中国の天台大師智と日本の伝教大師最澄との二人だけがほぼ区別されたようであるけれども、本門と迹門との重要なことの中で法華円頓の戒法がいまだはっきりとしていなかった。つまり天台大師と伝教大師とは、心の内ではよく心得ていたけれども、第一には時が来なかったこと、第二には法を聞くべき機根(能力)がなかったこと、第三には仏からその法門を布教すべきことを託されていなかったために明らかに説かれなかったのである。
[5]今はいよいよ末法に入ったから、末法の導師である地涌の上行菩等の大菩が出現して、本門が布教されなければならないのである。今、末法の時代にあっては本門の弘まるべき時であるから、小乗・権大乗・迹門の人々がそれらの教えを布教するならば、たとえその人々に過失はなくとも、これらの法では何の利益もない。ちょうど春に用いる薬は秋の薬にならないようなものであり、もし薬が役に立ったとしても春夏の頃のようには効果がない。ましてや、小乗・権大乗・法華経の迹門を信奉する人々が、大乗・小乗・権教・実教が正しいかまちがっているかを正しく判断できない上に、昔の国主などがそれらの経典を信奉して寺を建立し、田畠などを寄進しているから、いまここでそれらの法のまちがいを指摘して、その経典の教えを低く評価したならば、何とも申し開きができないばかりでなく、その信仰のよりどころを失うために、大へん腹を立てて、真実の教えである法華経を謗ったり、法華経の行者に危害を加えたり迫害したりするのである。このような時には、国主もまた人数の多い方に付き、昔の国主が崇拝した法から改めることができなかったり、また自分がおろかであるため理解できなかったり、真実の教えにもとづく行者をいやしんだりするから、真理に迷っている者のことばを聞き入れて、真実の教えを信奉する行者を迫害したりするならば、真実教の守護神である梵天・帝釈天・日天・月天・四天王などの諸天善神が、その国を罰するものであるから、いままで聞いたこともないような三災七難のあらゆる災害が起こるのである。去年や今年の疫病の流行や、正嘉の時代に流行した疫病などがその例である。
[6]〔問(疑ていう)〕あなたの主張する通りであるならば、日本国の法華経の行者を迫害したために善神が去って三災七難が起こるというならば、信じない人たちばかりが疫病にかかりそうなものである。どうしてあなたの弟子たちまでもが病にかかったり死んだりするのであろうか。
[7]〔答〕たしかにあなたの疑問はもっともである。ただし一面を知ってはいるが他の面を知らないようなものである。善と悪とはもとよりあい容れないものであり、また切りはなすことのできないものである。(この点からみてみると)法華経以外の方便をまじえた権教ならびに諸宗の主張は、(善と悪とが対立しているのは等覚という位にある菩までに限られており、等覚の上の妙覚の仏位では善のみで悪はないと説くから)等覚まではたがいに悪による過失があるはずである。しかし法華経の意では、一念三千の論理においては性悪も性善も欠けることなく具足し合っているから実相と説くのであり、私たちの心にはもともと善も悪も具わっていて、妙覚の位にもなお性悪しようあくがあるとするのである。その本来そなえている法性の性善の方面は梵天・帝釈天などと法華経の守護の善神としてあらわれ、もともとの悪性は第六天の魔王としてあらわれる。善神は悪人をにくみ、悪鬼は善人をにくむものであるから、末法に入って世の中が乱れれば、おのずから悪鬼が国の中に満ちあふれて、役に立たない瓦や石ころや草木のようにはびこって、行者を守る善神は少なくなり、聖人や賢人もほとんどいなくなってしまう。このため、近頃流行している疫病では、国中にあふれている念仏者・真言師・禅宗・律僧などのまちがった考えを持った者よりも、守護が手薄になっている日蓮の弟子の方に病んだり死んだりすべき者が多いはずである。しかし、どういうものか、まちがった考え方の者よりも病む者も少なければ、死ぬ者も少ないのは不思議である。これは人の数が少ないためであろうか。はたまた信心が強いからであろうか。
[8]〔問〕今日のような疫病が日本国の先代にもあっただろうか。
[9]〔答〕日本国では神武天皇より十代目の崇神天皇の御代に、疫病が流行して国中に病んだり死んだりする者が人口の半分以上にもなった。この時に天皇がはじめて、天照太神などの神々を国々に祭らせたので疫病がおさまった。それがために崇神天皇と申し奉るのである。これは仏法が日本に渡来する以前のでき事であった。人王第三十代敏達びたつ天皇ならびに第三十一代用明天皇、第三十二代崇峻天皇の三代の天皇は疱瘡と疫病とで御崩去となり、臣下の者も同じ病で死んだ。その時は神に祈ったけれども験はなかった。
[10]さかのぼって欽明天皇の御宇に、百済の国より経と論(解説書)と僧と同時に伝来しただけでなく、金銅の釈仏の像をも送って来た。蘇我宿稲目は崇め祭るが良いと言ったが、物部の大連などの諸臣をはじめ、当時の民衆はみな崇めてはならないとして、もし崇めたならばかならずわが国の神が瞋って国が亡びると言った。天皇はどちらとも定めかねていたが、(蘇我宿に像を与えて、彼は小懇田こはりだのやしきに安置し、さらに向原むくはらの家に移して、ここを寺とした)先代にもないほどの三災七難が起こって、民衆の多くが疫病で死んでしまった。物部の大連はこれにつけこんで「仏像を捨て去って後福ごふくを求めるべきである」と奏問して、僧尼をはずかしめたばかりか、金銅の釈像を焼いて、向原の寺を焼き払ってしまった。まもなく物部の大連も病んで死に、天皇も御崩去になり、仏を崇めた蘇我宿も病んで死んだ。(この後、蘇我宿の子の馬子は父の遺言によって仏法を奉じ、後の推古天皇である又炊屋またかしきやひめが仏法を保護したので、次第に仏法興隆の機運がみえてきたが、用明天皇の頃に再び疫病が流行したのをみて)物部の大連の子の守屋の大臣が言うには「仏を崇めたために、敏達天皇以来三代の天皇はすでに御崩去になり、私の父も病で死んだ。仏を崇める聖徳太子や馬子などは親のかたきであり、公のかたきである」と言ったものであるから、穴部の皇子、宅部の王子をはじめ、諸臣以下の数千人が一挙に徒党を組んで、仏像と寺堂を焼き払うばかりでなく、ついに合戦がおこって、結局は守屋が討たれてしまった。このように仏法が日本国に渡ってから三十五年の間、年ごとに三災七難や疫病が起こったが、守屋が馬子に討たれたばかりでなく、また神も仏法に負けたというのであろうか。災難もたちまちに止んでしまった。
[11]その後の代々の三災七難などは、仏法の中での真実の法と間違った法とが正しくわきまえられなかったために起きたものが大体である。しかしそれとても、一人か二人、一国か二国、一類か二類、一処か二処のことであったから、その中には神の<傍>たたりもあったであろうし、正法を謗ったことによるものもあり、また民衆のなげきから起こったものもあった。しかし、(建長五年四月二十八日に清澄寺で日蓮が南無妙法蓮華経を唱え始めて以来)この三十余年間に起こった三災七難は、神の<傍>たたりとか民衆のなげきなどからではなく、日本国のすべての人々が日蓮を憎んだために起きた災難である。このため国という国、郡という郡、郷という郷、村という村ごとに一人残らずすべての民衆が、前代になかったような大瞋恚のいかりという煩悩の心の迷いを起こして、迫害するのである。このように見思の惑さえ断ち切っていない凡夫が、最も根本にある無明の煩悩を起こしたことはこれがはじめてである。(このように真実と邪義の区別のつかない者が)神や仏や法華経に祈り奉るものならば、災難はいよいよ増すばかりである。ただし、法華経の本門の妙法五字の法は、(災難を除く尊い法であるが)法華経の行者に布教を直接託されているのであるから、結局は法華経の行者と対決して(公場で対論して)勝敗を決めなければ、正嘉以来の災難はおさまらないであろう。
[12]摩訶止観の十境十乗の止観の修行(法華三昧の観念修行の方法)は天台大師智が説いたものであるが、その後この法を修行した者はない。妙楽大師湛然や伝教大師最澄の頃には少しは修行した者があったが、反対者がなかったものだからそのままになってしまった。摩訶止観の十境の第五の魔事境の中に三障四魔(仏道修行を妨げる三つの障害と四種の魔の力)が起こると説いてあるのは、権経を修行する人に起こる障害ではなく、今法華経の行者の日蓮に一々に起こってきたのである。そして同じ三障四魔でも、天台大師・伝教大師の時よりも一層強い。一念三千の観念の修行の方法に二つあり、一つには理の一念三千、二つには事の一念三千である。天台大師と伝教大師の時には理であり、いま日蓮の時には事である。観念の修行の方法がまさっているために、起こり来る大難もことに盛んなのである。天台大師と伝教大師が布教したのは迹門の立場に立った理の一念三千で、いま日蓮が布教するのは、本門の事の一念三千なのである。このちがいは天と地との差があることを心得るべきである。特に御臨終の時はそのことをよく心得て、信心を強くして事の一念三千の修行方法である「唱題」を心がけることが大切である。恐々謹言。
[13]<日>六月二十六日
[14]<人>日 蓮 <花押>花押
[15]四条金吾殿の御用事につけて託された帷子かたびらたしかに頂戴した。この度の檀徒の方々からの御供養、四条金吾殿の書き付けの通り頂戴したと各位に伝えてほしい。太田入道殿からの品々も、富木殿の書き付けの通り頂戴した。この書に述べた法門の別の面については四条金吾殿に書き遣わした(「中務左衛門尉殿御返事」)から、借りて御覧になって頂きたい。