始聞仏乗義
書下し
始聞仏乗義
[1]青鳧、下州より甲州に送らる。その御志、悲母の第三年に相当る御孝養なり。
[2]問う、止観明静前代未聞の心いかん。
[3]答う、円頓止観なり。
[4]問う、円頓止観の意いかん。
[5]答う、法華三昧の異名なり。
[6]問う、法華三昧の心いかん。
[7]答う、それ末代の凡夫法華経を修行する意に二あり。一には就類種の開会、二には相対種の開会なり。
[8]問う、この名はいずれより出ずるや。
[9]答う、法華経第三薬草喩品に云う種相体性の四字なり。その四字の中に第一の種の一字に二あり。一には就類種、二には相対種なり。その就類種とは、釈に云く、およそ心ある者はこれ正因の種なり。随つて一句を聞くはこれ了因の種なり。低頭挙手はこれ縁因の種なり等云云。それ相対種とは煩悩と業と苦との三道、その当体を押さえて法身と般若と解脱と称するこれなり。
[10]その中に就類種の一法は、宗は法華経にありといえども、少分また爾前の経経にも通ず。妙楽云く、別教はただ就類の種あつて相対なしと云云。この釈の別教と云うは、本の別教にはあらず。爾前の円或は他師の円なり。また法華経の迹門の中、供養舎利已下二十余行の法門も、大体就類種の開会なり。
[11]問う、その相対種の心はいかん。
[12]答う、止観に云く、いかなるか聞円の法なる。生死即法身・煩悩即般若・結業即解脱なりと聞く。三の名ありといえども、しかも三の体なし。これ一体なりといえどもしかも三の名を立つ。この三即ち一相にしてそれ実に異りある事なし。法身が究竟なれば般若も解脱もまた究竟なり。般若が清浄なれば余もまた清浄なり。解脱が自在なれば余もまた自在なり。一切の法を聞くことまたかくのごとし。皆仏法を具して減少するところなし。これを聞円と名く等云云。この釈は即ち相対種の手本なり。
[13]その意いかん。
[14]答う、生死とは我等が苦果の依身なり。いわゆる五陰・十二入・十八界なり。煩悩とは見思・塵沙・無明の三惑なり。結業とは五逆・十悪・四重等なり。法身とは法身如来、般若とは報身如来、解脱とは応身如来なり。我等衆生無始曠劫より已来この三道を具足し、今法華経に値いて三道即三徳となるなり。
[15]難じて云く、火より水は出でず、石より草は生ぜず。悪因悪果を感じ、善因善報を生ずるは仏教の定まれる習なり。しかるに我等その根本を尋ね究むれば、父母の精血赤白二渧和合して一身となる。悪の根本不浄の源なり。たとい大海を傾けてこれを洗うとも清浄なるべからず。またこの苦果の依身はその根本を探り見れば、貪瞋痴の三毒より出ずるなり。この煩悩・苦果の二道に依て業を構う。この業道即ちこれ結縛の法なり。譬えば籠に入れる鳥のごとし。いかんぞこの三道を以て三仏因と称するや。譬えば糞を集めて栴檀を造れども、終に香しからざるがごとし。
[16]答う、汝が難大に道理なり。我れこの事を弁えず、ただし付法蔵の第十三、天台大師の高祖竜樹菩薩、妙法の妙の一字を釈して、譬えば大薬師のよく毒を以て薬となすがごとし等云云。毒と云うは何物ぞ、我等が煩悩・業・苦の三道なり。薬とは何物ぞ、法身・般若・解脱なり。よく毒を以て薬となすとは何物ぞ。三道を変じて三徳となすのみ。天台云く、妙をば不可思議と名く等云云。また云く、それ一心、乃至不可思議境の意ここに在り等云云。即身成仏と申すはこれこれなり。近代の華厳・真言等この義を盗み取りて我が物となす。大偸盗天下の盗人これなり。
[17]問うて云く、凡夫の位もこの秘法の心を知るべきや。
[18]答う、私の答は詮なし、竜樹菩薩の大論〈九十三也〉に云く、今漏尽の阿羅漢還りて作仏すと言うは、ただ仏のみよく知ろしめす。論議とは正しくその事を論ずべし。測り知る事あたわず。この故に戯論すべからず。もし仏を求め得る時、いまし能く了知す。余人は信ずべし。しかもいまだ知るべからず等云云。この釈は爾前の別教の十一品の断無明、円教の四十一品の断無明の大菩薩、普賢・文殊等もいまだ法華経の意を知らず。いかにいわんや蔵・通二教の三乗をや。いかにいわんや末代の凡夫をやと云う論文なり。
[19]これを以て案ずるに、法華経の唯仏与仏乃能究尽とは爾前の灰身滅智の二乗の煩悩業苦の三道を押えて、法身・般若・解脱と説くに、二乗還りて作仏す。菩薩・凡夫もまたかくのごとしと釈するなり。故に天台の云く、二乗の根敗、これを名けて毒となす。今経に記を得る即ちこれ毒を変じて薬となす。論に云く、余経は秘密にあらず、法華はこれ秘密なり等云云。妙楽云く、論に云くとは大論なりと云云。
[20]問う、かくのごとくこれを聞いてなんの益あるか。
[21]答えて云く、始めて法華経を聞くなり。妙楽云く、もし三道即ちこれ三徳と信ぜば、なおよく二死の河を度る。いわんや三界をやと云云。末代の凡夫この法門を聞かば、ただわれ一人のみ成仏するにあらず、父母もまた即身成仏せん。これ第一の孝養なり。病身たるの故に委細ならず。またまた申すべし。
[22]建治四年〈太歳戊寅〉<日>二月二十八日日>
[23]<人>日 蓮 <花押>花押花押>人>
[24]<先>富 木 殿先>
現代語訳
始聞仏乗義
建治四年(一二七八)、五七歳、於身延、富木常忍宛、原漢文、定一四五二—一四五四頁。
[1]青鳧(銭)七結、下総から甲州の身延にお送り下された。その志は母君の第三回忌の追善にあたっての御孝養の心とみうけられる。
[2]〔問〕摩訶止観のはじめに「止観明静の法門はいまだかつて聞いたことがない」と章安大師が讃めているが、これはどういうことであるか。
[3]〔答〕天台大師の止観に漸次・不定・円頓の三種があるうちの円頓止観を讃めたことばである。
[4]〔問〕円頓止観とはどのようなものであるか。
[5]〔答〕法華三昧の異名である。
[6]〔問〕法華三昧とはどのようなものであろうか。
[7]〔答〕末代の凡夫が法華経を修行する方法には、就類種による一仏乗への帰入統一と相対種による帰入統一という二つの法門がある。
[8]〔問〕これはどこを典拠とするか。
[9]〔答〕法華経の薬草喩品第五に説示される、種・相・体・性という四字に基づくのである。その四字の中で第一の種とは成仏の種であって、就類種と相対種の二つがある。就類種とは法華玄義に「だれでも心ある者は、この心は正因の仏種であり、経文の一句なりとも聞けば、この心は了因の仏種となり、仏を礼拝し合掌してこれを拝む行為となれば、これが縁因の仏種である」と解釈されている。相対種とは、迷いの根本である煩悩と、煩悩が招いた業と、業によって受けた苦の果報である人の肉体との、煩悩・業・苦の三道の、そのままの姿をおさえてこれを価値づけ功徳として、煩悩は法身・業は般若・苦は解脱として、三道ただちに三徳でありとすることをいうのである。
[10]この二種の開会の中で、就類種の開会については、その根拠は法華経にあるが、法華経以前の諸経にも通ずる点が少々ある。妙楽大師は法華文句記に「別教には就類種はあるが相対種はない」と述べている。この解釈の中で別教というのは、一般的に四教としてあげられる蔵・通・別・円のことではなくて、法華経以前の諸経の中での円教、あるいは天台大師以外の他師が弘める円教のことである。また法華経の前半部分の迹門の中でも、方便品の偈文で人天の開会を述べている「舎利を供養する者」以下、小さな善根がみな仏道を成就したと説いてある二十行余りの法門は、だいたい就類種の開会である。
[11]〔問〕相対種の開会とはどのようなことであろうか。
[12]〔答〕摩訶止観には「円教の法門を聞くとはどのようなことであろうか。人の生死の身がそのまま法身としての常住の仏体であり、この煩悩がそのまま般若の仏智であり、この悪業がそのまま解脱の仏徳である。このように名は三つあるが体は一つである。しかも一つの体に三つの名を付けたのである。真実には三即一相であるから、異なることはない。法身が究竟しきわまれば、般若も解脱もまた究竟してきわまる。般若の智慧が清浄で清らかであるならば、法身・解脱も清浄である。解脱が自由自在であれば、法身・般若も自在である。このように三身と三悪が相即しているばかりでなくすべての法についてもまた同様である。このためすべての法にもことごとく仏法を具備しており何も欠けることはない。このように理解し体得することを、円の法を聞くというのである」と述べているが、この解釈こそ相対種開会の指針である。
[13]〔問〕その意はどのようであるか。
[14]〔答〕右の摩訶止観の中で「生死」とあるのは私たちが過去の業によって受けた苦の果報である心と身であり、いわゆる五陰・十二入・十八界の境界(によって説明される凡夫の迷いの世界の構成)である。「煩悩」とは、見思・塵沙・無明の三惑であり、結業とは五逆・十悪・四重などの重い罪業である。法身とは法身如来、般若とは報身如来、解脱とは応身如来のことであって、私たちは無始の昔から煩悩・業・苦の三道を具えるが、幸いにもこのたび法華経に出会って三道の迷いがそのまま法身・般若・解脱の三徳となるのである。
[15]〔問(難じて)〕(相対種の開会からいえば、三道は三徳であるというが)火から水は生じないし、石より草がはえることはない。仏教の因果の考え方では、悪い原因からは悪い結果を感じ、善い原因からは善い果報を招くというのは定まったことである。しかしながら、いま私たち凡夫の根本を尋ねてみれば、父母の精血の赤白二渧が和合してできた体である。そのため悪の根本であり不浄のみなもとである。たとえ大海の水を傾けて洗ったとしても清浄になりはしない。またこの苦果の依身である私たちの身心は、その根本といえば貪欲・瞋恚・愚痴の根本的な三種の煩悩からきている。この煩悩と苦果の二つが結びついて種々の業を結び生じ、この結果である業道が私たちをして三界六道の苦界にしばりつけるのである。ちょうど鳥が籠に入っているのと同じである。どうしてこのような煩悩・業・苦の三道をそのまま仏の法・報・応の三身の因などということができようか。たとえば糞を集めて栴檀の香木のように造っても、決して良い香りがしないのと同じである。
[16]〔答〕あなたの疑難は大いに道理を得ている。いま私にもこれにふさわしい答えを示す力もないが、ただし釈尊の付法蔵の第十三祖で、天台大師までもが高祖とあがめた竜樹菩薩が大智度論の中で妙法の妙の一字について解釈して、「たとえば名医が毒をも薬とするのと同じである」と述べているが、ここに毒といわれたのは何を指すのであろうか。それは私たちの煩悩・業・苦の三道のことである。薬とは何であろうか。法身・般若・解脱の三徳である。天台大師は法華玄義に「妙法蓮華経の妙とは不可思議(思いはかることのできない)ということだ」と述べ、また摩訶止観には「一心に十法界を具えるから、心には三千の諸法を具えているのであり、心と諸法とは分けて考えることはできず、この関係は言葉で表現することはできない。このため心を不可思議の境界としたのである」と述べている。即身成仏というのは、かくかくしかじかのことなのである。最近の華厳宗・真言宗では法華経の深旨を盗み取って自分のものとしている。天下の大盗人というべきはこれらの人々である。
[17]〔問〕このような不思議の法門を末代の凡夫の私たちにも会得することができるだろうか。
[18]〔答〕私の考えでは納得いかないであろうから、竜樹菩薩の大智度論の第九十三を示すと「煩悩をすべて断ち切った阿羅漢は仏になれないと決まっているのに、それがかえって成仏するというのは、ただ仏だけが知っていることである。仏法の論議者はそのことを論じていればよいが、論議では論証することはできないのである。このため無益な論争は無用である。その真実はもし本当に仏になればみずから証得することができる。その成仏したという事実は成仏した人以外はただ信ずべきであって、論証すべきことではない」と解釈されている。この解釈は法華経以前の十一品の無明を断ち切った別教の菩薩、四十一品の無明の惑を断ち切った円教の大菩薩である普賢・文殊などでも、いまだ法華経の深意(相対種の開会=即身成仏)の意はわからない。ましてやそれ以下の蔵・通の二教の三乗や末代の凡夫などはなおさらわからない、というのが竜樹の大智度論の文意である。
[19]いまこの大智度論の内容によって考えてみると、法華経の方便品に「ただ仏と仏とのみよく、その意を究めている」と説かれるのは、法華経以前の諸経において見思の惑を断ち切り、さらに灰身滅智して自分の身心まで焼き尽そうとした二乗が、法華経で煩悩・業・苦の三道がそのまま法身・般若・解脱の三徳と説かれて成仏するからである。永不成仏(永遠に成仏できない)とされていた二乗が成仏したからには、菩薩や凡夫の成仏も、もちろんであると解釈すべきである。それは天台大師が法華玄義に「二乗が身心ともに疲労しきって、なんの欲望もなくなったのを毒と名づけ、それが法華経にいたって成仏が許されたのは、ちょうどその毒が薬と変わったようなものである。このような竜樹の解釈であるが、さらに大智度論には『余経は秘密ではないが、法華経こそ真の秘密の経であると述べられた』」というように解釈している。そして妙楽大師は法華玄義釈籤に「論というのは大智度論を指している」と指摘したのである。
[20]〔問〕このような重要な法門を聞いて、末代の凡夫はどのような利益があるのだろうか。
[21]〔答〕これが「はじめて法華経を聞く」ということである(相対種開会の法門を聞いてこそ、はじめて本当に法華経を聴聞したことになるのである)。妙楽大師は摩訶止観輔行伝弘決に「もし三道がそのまま三徳であると信じれば、分段生死(迷いの世界にいる衆生が輪廻する生死)・変易生死(迷いの世界を離れた菩薩の生死)の二種の河さえ渡ることができる。ましてや三界六道の輪廻など言うまでもない」と述べている。末代の凡夫である私たちが、この法門を聞いたならば、ただ聞いた自分だけが成仏するばかりでなく、父母までも即身成仏するのである。このことこそ第一の孝養である(母君の第三回忌の追善としてこれ以上のものはない)。病気のため委しくは書けないが、また折を得て申し上げよう。
[22]建治四年〈太歳戊寅〉<日>二月二十八日日>
[23]<人>日 蓮 <花押>花押花押>人>
[24]<先>富 木 殿先>